三周目・一話目―鬼人正邪
「ん、あー、私が初っぱなか。鬼人 正邪だ。よろしくな。
なあ阿求。あんた"思考実験"って奴知っているかい?『中国語の手紙』とか『囚人のジレンマ』とか、証明出来ない、或いは正解のない事柄について、例え話で考えてみる、私もよく分からんがそんな代物さ。
意外と楽しいぜ?特に他人が当然、正義だと思うものを突っつき回すのはな。
何故こんな話をしたかってーと、まずは私の体験を聞いてもらわにゃならん。私が逃げ回っていた頃のね・・・」
―
「大分前、私は地底に降りた。危険な場所なのは分かっていたが、地上の連中が中々立ち入らない場所でもある。適当に目を盗みながら私は旧地獄街に紛れ込んだ。
元々無法地帯だからな。中央から外れて、街の隅まで行ってしまえば、地上の奴等とは欠片も面識がない奴等ばかりだ。私もちゃっかり元から居たふりをして、路地裏に座り込んだ。
暫くはここでジッとして、ほとぼりが冷めるまで地底で待っていよう。そう思って、何日かぶりに眠りについた。
・・・どの位経ったかな。目を開けたときには、辺りは暗くなっていた。
いつまでも地べたに座り込んでいる訳にはいかない。そろそろどっかの空き家でも、夜風の凌げる場所を探そう。そう思って道に出ようとしたんだ。
そしたら、
『きゃっ』
曲がり角で誰かにぶつかった。子犬みたいな声と倒れる音がして、ついその方向に目が行った。
そこには、白い着物を着たチビな女の子が尻餅をついて唸ってた。黒の長髪で、いかにも大人しそうな子供だったよ。
そこでだ。普通なら黙って立ち去る所だが、そいつは地底にはどうにも場違いな、気弱そうな雰囲気をしていたからさ。持って生まれた性分で、嫌がらせをしてやりたくなった。
『おい、どこ見て歩いてんだい』
『ひっ・・・』
見下ろしながらドスを効かせてやったら、ソイツは立ち上がる間もなく竦みあがった。そこからが良い所さ。わざと眉にシワを作ってみせて、更に因縁をつけてやった。
『ほら、お前がぶつかったせいで腕が腫れ上がってらあ。謝ったって治らんぜ?』
『そ、そんな・・・』
赤くなった腕を近づけて見せてやったら、上半身だけひっくり返りそうな位仰け反ってイヤイヤしていたよ。いやただ単に私がさっきまで寝ていた最中、腕にずっと頬を乗っけていただけなんだがね。
今度はしゃがみこんで目線を合わせてやる。見下ろしてやると俯くが、目と鼻の先まで詰め寄ってやりゃあそうはいかねえ。
『あ・・・あぅ』
『ん?何だ?黙ってちゃ分からねえだろ。何が言いたいんだい?』
『ご・・・ごめんなさい』
やっとの思いで絞り出した声に合わせて口が開く。するとその奥にチラリと尖ったものが見えた。牙だ。
どうやらソイツは妖怪だったらしい。正直驚いたよ。そりゃ確かにただの人間が立ち入るような場所じゃあない。それにしたってここまで情けなく震え上がる様子は、野蛮な妖怪のイメージとは全くそぐわない。
さては何か隠された本性でもあるのか知らん。
そこに来て私も少々警戒し始めた。あんまりしつこくからかえば逆鱗に触れて朝日を拝めないかも知れない。地上にもまして奔放な街とくれば尚更ね。普通に考えれば、余計な事せずに立ち去るのが賢いさ。
・・・でもね、これもまた性分か、理性にも逆らいたくなった。私はどうにも理に敵った行動が嫌いらしい。
更に煽り立ててやろう。そんな欲がムラムラと沸き出てきた。
『おや、可愛い牙だね。ソイツは乳歯かい?それとも生え変わったか?
なあ、尻から指突っ込んで奥歯ガタガタ言わせてやろうか?その拍子に抜けるかもしれないぜ?』
『こ、これは・・・もう、永久歯で・・・』
『あらま、そりゃそうか。あんな酷くぶつかっても平気だもんなあ。痛かったなあ。
抜けてるのはアンタ自身かあ。こりゃ一生そのままだね。歯医者はもう良いから、頭の医者に行ったらどうだい?』
『・・・・・・』
見方によれば漫才みたいに聞こえたかもしれない。
でも居合わせてみりゃ分かると思うけど、こういう時絡まれた側は本気で怯えるんだよ。貼り付けた笑顔がいつ豹変するか、恐怖で金縛りになるんだ。
『医者っていえば、私も念のため怪我を診てもらいたいなー。でもお金ないんだよなー。初診って高いのにー』
ここまでくると、まともな返事を期待してない事に相手も気付いたろうね。状況から逃れる方法はただ一つ、言いなりになる、すなわち"折れる"ことだ。
私もそれを待っていた。お金を差し出したりして来るだろうが、そっちは正直興味無かったんだよな。
私が欲しかったのは、奴が怯える心そのもの。天邪鬼を天邪鬼たらしめるのは、負の感情への渇望だ。奴が完全に恐怖に呑まれ、蛇に見込まれた蛙みたいになった時点で、目的は達せられたんだ。
奴がしょげて肩を小さくしたのを見た瞬間、私の全身にハッカ飴が如く清涼感が迸る・・・っ
・・・と思ったんだけどね。
『・・・あれ?』
何にも感じないんだよ。よもや演技か、と一瞬疑ったけど、眉をしかめる私を見て、女の子はポカンとするばかり。涙目で見上げるその表情、とても嘘には見えやしない。
おかしいな、そろそろ"怖い怖い"ってオーラが感じ取れて良い筈・・・って考えていると、女の子が不安そうに覗き込んできた。
咄嗟に咳払いで誤魔化したが、さあ弱った。ここまでやってハイさよなら、なんて間抜け過ぎる。かといってまだ追い詰めて、本当に何の収穫もなければ更に無駄骨だ。
そこで、私は別の利益を考えた。
『なあ、アンタの家を見せてくれないかな』
『・・・家?』
女の子はキョトンとした顔で首を傾げた。私も調子が狂ったもんだから間抜けな顔を見合わせたが、なんとか訳を話す。
『いやあ、実は私、宿無しでね。寝床を貸してもらえたら、助かるんだけど』
女の子は眉をしかめたけど、相変わらず心の動きを感じ取れない。私は動揺を悟られないよう、更に早口で捲し立てた。
『理由は・・・言えないんだ。なあ、察しておくれよ。別に畳の上でなくても、土間や納屋でも構わないんだ!』
私は最初の威勢も忘れて頭を下げていた。こうなると女の子は私が何を考えているのか分からない、といった様子で戸惑っていた。
そりゃそうだろう。当の私が思い通りの収穫がなく、頭の中クルクルパーだったんだから。
『お願い!』
手を合わせて子供みたいにねだると、女の子は暫し考え込んだ後に、ようやく頷いてくれた。
『・・・分かりました』
私はその子に連れられて、地底の片隅の小さな家に通された。土間でも納屋でも、なんて言ったけど、女の子は客間を貸してくれたよ。"どうせ一人暮らしですから"っつってな。夕飯もキチンと二人分作ってくれた。どうにも私を切羽詰まった浮浪者か何かだと思ったらしい。必死になって良かったんだか、悪かったんだか。
・・・しかしだ。そうして散々世話になって寝床に入った訳だが、私は素直に感謝したりはしない。隣に寝ている女の子を見ながら、私は早くも次の嫌がらせを考えた。
起こさないようにこっそり布団を剥いでやって、いかにも寝相の悪い風を装って片足をお腹の上に乗っける。
『うぅ・・・ん』
苦しそうに呻いたが、そんなの関係ない。これで朝まで耐えて貰おう、寝起きの顔が楽しみだ。そうほくそ笑んで私はそのまま目を閉じた。
・・・翌朝、目を開けて天井が目に入った。しかし、女の子に乗っけていた筈の足は畳に投げ出されている。あれ、と思って隣を見たら、既に隣は誰もいなくて、布団も片方片付けられていた。
『あ、起きました?』
足元から声がして振り向くと、女の子が見下ろしていた。顔には微かな呆れの色。
『全く、寝相も寝起きも悪いんですね。もう八時ですよ。』
小言を言う間も、心の動きを感じ取れなかった。今度の嫌がらせもまた失敗した訳だ。
すると、
『・・・すまん』
謝っていたんだ。この私がだぜ?相手が怒っているのが喜べなかったなんて初めてだからか、つい口に出たんだ。すると相手はニッコリ笑った。
『顔洗ってきて下さい。ご飯出来ていますよ』
そう言ってトテトテと廊下を戻る。その背中に、恐る恐る声をかけた。
『怒らないのか?』
『しょっちゅう怒ってなんかいたら、ここで暮らしていけませんよ』
その顔はどこか疲れた笑顔だった。心を感じるのは無理だったが、こんな表情もするのか、って驚いたよ。
・・・もしかしたら、アイツはヘラヘラと媚びて生き延びる道を選んだ、弱い妖怪なのかもしれない。
そんな考えが浮かんで、私は最初にアイツに言いがかりをつけた事を、少し後悔した。
・・・それから暫く、私はソイツの家に居座った。他に行く場所が無かった、て理由がまず一つ。それと最初は"いいカモだ"と思っていたが、それは次第に無くなっていった。
奴の心は相変わらず読めなかったし、張り合いが無いんで嫌がらせも止めちまったよ。
代わりに、心の中が分からないと、奴の怒った顔が嫌でさ、掃除や洗濯を進んでやるようになった。そうして奴が喜んでも、何故だか私は何とも無かったしね。
・・・そのまま何ヵ月か過ごしたあと、私はある場所に行く事にした。
地霊殿だ。もっと言えばサトリ妖怪、心を読む奴の所さ。奴ならあの女の子の心が分かるかも知れない。そうでなくとも何かしら知っている事があるだろう。
・・・そうしたら、もしかしたら、女の子となら上手くやれる方法が分かるかも知れない。彼女に関してはそう思えたんだ。少なくとも嫌がらせも親切も、私に影響を及ぼさないアイツとなら。
戸惑う女の子の腕を引っ張って、館の周りの奴等を無視し、真っ直ぐ主の部屋に押し掛けた。
『おい、いるかサトリ妖怪!』
『・・・・・・・・・』
ドアを開けて開口一番に叫ぶと、サトリ妖怪は迷惑そうに私を睨んだ。でも私は何も言わない。心を読むアイツには、黙っていても要件は伝わる。
『・・・その黒髪の方を別室へ』
女の子はお付きの妖怪に連れられて出ていった。まあ、目の前で自分の事をベラベラ喋られても気分悪いだろうし、やっぱサトリ妖怪は気が利くな。
・・・なんて思っていたら、サトリ妖怪が私を見た。いつになく真剣で、悲しそうな目。
『・・・なんだよ?』
私が聞くと、サトリ妖怪はため息をついてこう尋ねてきた。
『・・・貴方、"哲学的ゾンビ"って知っていますか?』
・・・―哲学的ゾンビ。
そいつは一見、普通の人間と同じように喜怒哀楽を感じるように見える。笑い、怒り、泣き、疲れたら眠る。しかし、心は"無い"。実際は嬉しいとも悲しいとも感じていない。そう見えるだけだ。
本来は"もしも"で考え出された概念上の存在だ。
けど、その時は嫌な予感がよぎった。
『・・・まさか』
『ええ、あの子はまさに"そう"なのです。全く違和感のない仕草、言動の全てがうわべだけ・・・悪意すら欠片もない。そんな子です』
『そんなバカな!』
『表向きはただの人間です。見破れるとしたら、私や貴方のような、感情に敏感な一部の妖怪だけ』
嘘を言っているようには見えなかった。それに、信じられる材料も確かにある。確かに人間らしからぬ牙が生えていたし、何より感情は一度たりとも感じられなかった・・・
私は暫く何も言えずに突っ立っていた。茫然としていた時間は長くはなかった筈だけど、私には何時間にも感じられた。
『あの・・・お話もう終わりました?』
あの子の声で我に返った。振り返ると戸口から顔を出して、私をポカンと見ていたよ。今までと変わらない穏やかな表情。何度も笑い、怒るのを見てきた。
・・・でも、でもね。その時ばかりは不気味に見えたんだ。心の奥では何の感情も抱いていない、私を何とも思っていない、その顔が・・・
・・・それからどうしたかは覚えていない。いつの間にか地上へ抜けて、腑抜けみたいに元の生活に戻った。アイツには、あれから一度も会っていない・・・。
・・・なあ、阿求は私の話を信じるかい?
私は逆に聞きたい事があるんだ。
・・・この際私の話の真偽はいい。
アンタは一度でも、他人が『自分と同じようにモノを感じ、考えている』と確かめた事があるかい?」