「カロリーナ、次はいつなのじゃ!」
置かれた椅子に姿勢よく座りながらも若干顔を前に出し、口をとがらせてサビーネが叫んでいる。
子供用の鏡台の前に座っているのだが、もちろん返事の来ようはずもない鏡に向かって独り言を言っているのではない。
必要な時に鏡からヴィジフォンに切り替わる鏡台に向かっているのだ。
「お別れして今領地までたどり着いたばかりですわ、サビーネ様。次にオーディンに参るのは、日取りもまだ決まっておりません。申し訳なきことですが」
こちらはヴィジフォンを通し、少女サビーネへ丁寧に返事を返す。
もちろん、サビーネの質問が正確な日付を知りたいなどというものではなく、また一緒に遊びたいという欲求を訴えるものと知りながらのことだ。
今はそういった甘えを受け止めてあげるのもよいのだと思う。
「カロリーナの菓子は、カロリーナが作ったほうがよいのじゃ。屋敷のパティシエの作ったものは味わいが足りぬ」
「レシピがあっても何回も作らなければ美味しくできませんわ。お屋敷のパティシエ達は一流ですもの。そのうち私めのものより美味しく作りますわ」
サビーネが食いしん坊ではあるけれども、今は食べ物の話をしたいのではないということを知りつつ、そう返さざるをえない。
今回二週間ばかりオーディンにいたのだが、わたしとサビーネは3日と開けず会っては一緒に菓子を食べていた。新作菓子のお披露目を兼ねての訪問だった。
そして外交と領地経営の目的を充分達すれば、わたしは急ぎ領地に帰らねばならない。
貴族の中には領地へ何十年も帰らず、ただオーディンで怠惰な日々を送る者も少なくない。大貴族になればなるほどその傾向は顕著であった。そういったことができないほどランズベルク伯爵家は決して貧乏貴族ではない。しかしわたしも兄アルフレットも、ランズベルク領惑星の穏やかな雰囲気が大好きだったのである。
しかもやることがある。今、領地経営に情熱を注がねばならないのだ。
菓子販売がきっかけだった。もちろん菓子の利益などたかがしれているのだが、ランズベルク伯爵家が斬新なアイデアで領地経営に熱心になったという噂は、確かに融資などの面で好影響を与えた。
そのため、鉱山開発とか農地機械化といった案件が一気に進んだのである。
再び目を戻すと、ヴィジフォンの画面には贅を極めた部屋が映っている。
中央にいかにも貴族然とした容貌のサビーネ、その斜め後ろに侍女らしきものが三人もいる。
それでもなお空間にはゆとりが有り余る広い部屋であった。
視線を脇にずらすと、壁に掛けられた何枚もの立派な絵画が見える。天井は高く、上下に長い窓にはドレープの襞が幾重にも重なる厚いカーテンが掛けられている。さすがにリッテンハイム侯爵家だ。
そしてサビーネの丁寧に結い上げられた明るい茶色の髪と、薄いが密な最上の布地で仕立て上げられたドレス、それらに対してシンプルなメイド服を着る侍女の際立った違いがそのまま隔絶した身分の差を現している。
「今度はお屋敷の柊が雪に隠れる前には参ります。それと、また新しいお菓子も完成させて持っていきます。サビーネ様が驚かれるようなお菓子になりますわ」
「新しい菓子か。それは良いな! 今回カロリーナの作ってくれたミソオデンより美味いものじゃな。きっとじゃ」
サビーネは寂しくともそれ以上の我儘は言わなかった。
尊大ではあるが11歳という年齢に見合った分別は持ち合わせていたのである。
ヴィジフォンが切れた後もこちらは苦笑を続けている。
「あーあ、当分は新しいお菓子のネタがあるからいいけど。でも難易度上がってっちゃうんだよね」
わたしは肉体年齢13歳の少女に似合いの澄んだ明るい声で独り言を追加し、そのままベッドに倒れ込んだ。
こちら側の部屋は巡航艦の客人用居住室である。今回、輸送船団の護衛に就いていた巡航艦に同乗して領地に戻ることにしたからだ。
ここは艦長室についで上等な部屋である。
しかし宇宙艦内の部屋であることには間違いなく、わたしはその低い天井を見やった。先ほどヴィジフォン画面に映っていた黄色に輝くシャンデリアを見ていたためか、ここの照明が逆にやや青みがかって見えている。
首を曲げて小さな窓を見た。
航路はまもなく終わり、窓の中はもう到着予定地のランズベルク伯爵領惑星でいっぱい、そして宇宙港までもかすかに見え始めていた。
再びヴィジフォンから呼び出し音がかかったが、これは艦内通信である。
用件もはっきりわかっている。
「カロリーナ様。またリッテンハイム侯のお嬢様を宥められましたか。本艦は間もなく逆制動をかけて大気圏に突入しますので揺れに備えて下さい」
恒星間通信が終わるのを待っていたのであろう。艦橋から連絡があった。むろんプライバシーを考慮して今は音声だけである。
それは我らが伯爵家のオテンバ令嬢、カロリーナに対する節度ある親愛を感じさせる柔らかな声であった。
「わかりました。30分後に艦橋へ参ります」
わたしがそう返事をすると、わずかな間をおいて声がした。
「お待ちしております。カロリーナ様。お申しつけの際は何なりと」
「ありがとうございます」
なぜ間があったのかも分かる。
貴族なら旅の終わりの手荷物整理となれば、侍従または侍女を使うのが当たり前である。
何よりも到着後、居室に艦長自らの訪問を受け、その恭しい挨拶を聞いてからおもむろに出るのが慣例だ。おまけに、「退屈であった」「部屋が狭い」などと腹いせに文句の一つも言う貴族は少なくない。
今のように一人で身支度をして艦橋へ出てくる貴族は通常ではない。
そういったことが頭をかすめたのであろう。
さあ、あともう30分、寝てられないわね、とつぶやきながら目を閉じる。
疲れを感じるのは旅のせいではない。
先のリッテンハイム侯爵家の一人娘サビーネのことを考える。
出会いはカロリーナの誕生舞踏会の場だった。
まだ小さな子、そう見えた。実はカロリーナと肉体年齢はあまり違わなかったのだが。
疲れている様子を見てお菓子を持って行ったのが始まりだ。
勘弁してよ、と言いたくなるくらい尊大で上から目線の子供だった。
でも今は別の感情がある。
友誼を重ねるうちにわかってきた。
サビーネの周りには利害関係で集まってきたお友達ごっこをする取り巻きたちがいる。
かしずいて命令を待つ侍女たちも、貴族としての心得から決して出ることのない母クリスティーネ・フォン・リッテンハイムもいる。
しかし、真に心の内を話せる人間、暖かなまなざしを向けてくれる人間、そのどちらもが欠けていた。
サビーネの尊大さは孤独感から来ていた。その裏返しでさっきの会話のように甘えてくることも最近多くなった。
心根は決して悪くはない。頭脳も明晰といえる。
よく考えたら、年齢以上に大人なしゃべり方をする。
わたしは意識せずとも、この2年近くの交流はサビーネの心を解きほぐし、均整のとれた成長をするのに多大な貢献をしていたのだ。
であればこそ帝国でも最有力の大貴族リッテンハイム侯爵家がたかが辺境貴族令嬢であるカロリーナ・フォン・ランズベルクに度々屋敷に出入りするのを許しているのである。
だからこそ心苦しい!
避けられない未来を知っているということで。
今からわずか5年後、そのサビーネがガイエスブルグ要塞で最期を遂げることを。大貴族令嬢であるがゆえに逃げる道が初めから閉ざされていることを。
わたしは他の貴族令嬢たちとも、礼儀上必要な程度だけであるが付き合いはある。
正直言って彼女らは確かに流行の髪型とドレスと、見目麗しい殿方のことしか話題もなくうわさ話だけで何日も過ごせる人たちであった。頭がからっぽといっても間違いない。
ただしそれはガイエスブルグ要塞の奥底で陰惨な最期を遂げる理由になるだろうか。
それほど重い罰を受ける必要があるだろうか。
積み重ねられた先祖の罪をなぜ彼女らがその身に受けねばならないのか。
先祖の罪まで問うとしたら、鉄槌を下す側のラインハルトもまた貴族の側ではないのか。
今は貧乏な下級貴族であり平民と何ら変わりないかもしれない。しかしミューゼル家の先祖が平民に苦しみを与えていなかった保証はない、のである!
2年前ならばわたしの考えは単純であった。きたるリップシュタット戦役で負ける側からひたすら逃げ出すことを考えればいい。
貴族連合に巻き込まれぬように立ち回る。できればラインハルト陣営に加わる。
ヒルデガルト・フォン・マリーンドルフ嬢ほど才幹を発揮しなくてもいい。
無名でよいから嵐をやりすごせばいい、と考えていた。自分の命とランズベルク家を守るために。
今は、それだけでよいのか本当に自信がない。
だからといって、貴族側に立てるわけがない。帝国は変わらなくてはならない。いや、もっとはっきり言えばラインハルトと戦うことになったら勝てるわけがない。相手はあまりに戦いの天才なのだ。
…… 後の歴史家が「奇跡の四夫人」と書き記す。
間違いなく人類社会の未来を拓き、展望を拓いた四人がいる。
この四人には名前ではなく、それぞれ端的に功績を現した呼び方がある。
「
「
「
と呼ばれる三人、そこへ「
ついでにいえば彼女だけはもう一つ別の呼称を持っていた。一部の人間にとってはこちらの方こそ重要な功績に思われた。
曰く「
物語は、いまだ始まったばかりである。