ソードアート・オンライン マザーズ・ロザリオ ボクの生きる意味 作:むこ(連載継続頑張ります)
こんばんは、大変お待たせして申し訳ございませんでした。ようやく日常編序盤の節目となる話が完成いたしました。この為に聖地巡礼という名の現地取材もしました。つらい思いをしながらマザロザ本編も見直しました。それぐらい今回の話には想いを詰め込みました。
文が随分と長くなってしまったので、3話一挙投稿でございます。長くなりますがお付き合いくださいませ。
西暦2026年11月1日 日曜日 午後20:45 埼玉県川越市 桐ヶ谷邸
夕刻から続いていた桐ヶ谷家の楽しい晩餐は慌ただしくも非常に楽しい時間となった。隣同士で座っている和人と木綿季による鍋の具や刺身等、目玉となる食べ物の醜い争奪戦が繰り広げたられたりしていたが、今宵の家族五人による晩餐は大いに盛り上がり、大変に充実していた。
木綿季は途中から和人と席を代わると、峰嵩と楽しく父と子の会話にいそしんでいた。今まで病気と必死に闘っていたことや和人に助けてもらったこと、友達や仲間に支えられて今がとっても充実していること等、実に楽しそうに会話のキャッチボールを交わしていた。とても初対面とは思えない自然な親子のような微笑ましさがあった。
木綿季は自分のことを楽しく話し、峰嵩もビールを片手に上機嫌で木綿季の話を聞いていた。天真爛漫、純粋無垢で元気いっぱいな木綿季との話は実に楽しく飽きない。エメラルド色をした枝豆をつまむ左手も休むことを知らず、次から次へと口へ運んでは右手のビールを胃に流し込んでいた。こうなると元噺家というだけあって、喉からどんどん声が出てくるというものだ。活発で明るい性格の木綿季もあり実に相性が良いと言える。
「わはは! そうか、そいつは良かった!」
「うん! それでねそれでね……!」
ふと気が付くとダイニングにいるのは木綿季と峰嵩、そして洗い物の後片付けをしている翠だけとなっていた。洗剤をスポンジにつけ、食器をゴシゴシと洗い傍らにカチャンという音を立てて次々に重ねていった。和人は木綿季の邪魔をしては悪いと思ったのか部屋に先に退散し、直葉もお風呂タイムへとしゃれこんでいた。
「あなた、楽しいのもお酒も結構ですけどそこまでにしたらどうです? 明日皆でお役所にいくのでしょう?」
「お? む、むう。そうだな……、うーむ、もっと話していたいが……そうだったよな……」
「あ……もうこんな時間なんだ」
翠にそろそろいい加減にしたらと諭された二人が時間を確認すると、時計は夜中の21時前を指していた。現在の時間を見た二人はまだまだ話していたい、親子としてのやり取りを続けていたいと満足いかない様子を見せていたがそうもいかない。本来の予定の上では木綿季の養子縁組届を提出しに市役所に行くことになっているし、木綿季としても明日の予定変更のことを峰嵩と翠に、そして倉橋に伝えなくてはいけない。
明日という日のためにスケジュールを組み、時間を工面してくれた人たちには大変申し訳ないが、今の自分の心の内を明かさなくてはいけない、伝えなくてはいけない。紺野と桐ヶ谷どちらの姓を名乗るか悩んでいること、以前の家族である紺野家への心残りがあること、全て話さなくてはいけない。
「お食事も済んだのですから、お風呂でも行ってらしたらどうです?」
「そうだな……ゆっくりつかりたいところだが結構飲んじまったし、湯船はやめてシャワーだけにしとくか……」
「そうしてください、明日はちゃんとしなくちゃあいけないんですからね?」
「ははは、わかってるよ、母さん」
峰嵩はそう言うとビールの注がれたグラスの中身を一気に飲み干し、テーブルの上に置き、両手をついて「よっこいしょ」と年齢相応のセリフを言いながらゆっくりと立ち上がり、背もたれに掛けてあったスーツの上着を掴んでダイニングを後にしようとした。
「あ……あの、お父さん、お母さん、ちょっと……いい……ですか?」
峰嵩がダイニングから立ち去ろうとした所で、木綿季が二人に複雑そうな顔を見せながら恐る恐る声を掛けた。木綿季の声掛けに対し、翠は洗い物をしていた手の動きを止め、峰嵩は上半身だけ振り返り、彼女の話に耳を傾けた。
「なあに? 木綿季」
翠は洗い物をして濡れていた手先を手拭いで拭くと、木綿季と向かい合う形で食卓の椅子に腰を下ろした。峰嵩も大事な話があるんだなという木綿季の気持ちを汲むと、翠の隣に同じように腰を落ち着けた。
桐ヶ谷夫妻と木綿季の位置関係はこれからお見合いでもするかのような並びとなっていた。木綿季は自分の真正面に父と母が陣取っている光景に少々緊張感を覚えていたが、これから大事な話をするために、一度気持ちを落ち着けようと大きく息を吸い、また大きく吐き、意を決して心に決めていたことを話し出した。
「あ、あの……ごめんなさい!」
ごめんなさいと謝罪をしながら勢いよく頭を下げた木綿季の様子に、翠と峰嵩は目を丸くしてお互いに視線を合わせて言葉を失っていた。この娘は何をいきなり謝ってきているのだろう、謝らなければいけないようなことをしたのだろうか?
心当たりはない、あると言えば今日のお昼に迷子になって心配をかけたぐらいだがそのことはもう済んでる。それを除いても退院して桐ヶ谷家で暮らすようになってからはずっといい子にしてきたはずだ。
「どうして謝るの?」
「えっと……それは、ボクがわがままな子だから……です」
「わ、わがままって……、どういうことなんだい?」
「そうよ、木綿季はこの家に来てからずっといい子にしてたじゃない、それがわがままなんて……」
やはり二人とも突然の木綿季の謝罪に解せない様子だった。それもそのはず、彼女は家のことで手伝えるものは全部手伝っており、空いた時間はほとんど勉強に費やす等、生活態度面では非常にいい子だったからだ。たまに羽目を外して遊び過ぎてしまったりまだ少し世間に疎いところがあるが、この家に来てから……いや、小さい頃からずっといい子にしてきたのだ。
しかし木綿季が今回謝ったのはそんなことではない、養子縁組のことだ。桐ヶ谷夫妻や直葉は元より、証人を名乗り出てくれた木綿季の主治医の倉橋と、リハビリと食事を担当してくれた香里も明日の養子縁組届に顔を出してくれることになっていた。届の提出を延期するということは、明日の為にスケジュールを調整してくれた人たちの都合を無下にすることになる。木綿季はそのことに負い目を感じていたのだ。
「えっと、あの……、あのね……?」
「言いづらいことなのかい?」
「…………」
言えない、病気が治る前からいろいろと自分にしてくれて、支えて来てくれた人たちの気持ちを裏切るようなこと、言えるわけがない。言えるわけがないが、自分の気持ちを誤魔化すようなことも出来ずに、木綿季は葛藤を抱えていた。
下を向いて俯き、両手の指先同士をいじくりまわしてばつが悪そうにたたずんでいた。そんな木綿季の様子の異変に今日初めて顔を合わせたばかりの峰嵩は気付かなかったが、退院前からずっと木綿季を見ていた翠は気付いていた。
「木綿季、もしかして養子縁組のことで、悩んでるんじゃないの?」
「えっ……どうして……?」
「そう驚かなくても、顔に書いてあるわよ?」
「えっ!?」
翠がテーブルに肘をつきながら優しく呟くと、木綿季は自分の顔のあちこちを両手で触るような仕草をして慌てふためいていた。勿論実際に書かれているわけはなく、別に変なものがくっついているわけでもない。その木綿季の慌てている様子を見て翠はクスッと笑みをこぼしていた。
「さしづめ、どちらの姓にするかで悩んでるんじゃないかしら?」
「……そうなのかい? 木綿季」
「……えと、……はい……」
伊達に二人の子供を育ててきてわけではない翠は、木綿季の悩んでいることを難なく見破っていた。木綿季との付き合いこそ半年そこそこだが、それでもわずかな顔色や仕草から悩んでいることを見破るのはそう難しいことではなかった。大人さながらといったところだろうか。
翠に全てを見透かされていた木綿季は観念したのか意を決したのか、今自分が悩んでいることを包み隠さず翠たちに打ち明けた。姓のこと、以前の家族へのひっかかりのこと、これからの生き方のこと等全て……。
――――――
「……以上、です……」
「なるほどね……」
「ふうむ……」
「…………」
木綿季から全てを聞き出した翠たちは顔に手を当てて何やら考えているようだった。木綿季は相変わらず、ばつが悪そうに椅子に座って縮こまっていた。どうしよう、怒られるかな……困らせるようなこと言っちゃったし怒られるかもしれない。ボクって悪い子なのかな……。
翠と峰嵩はしばらく考え込んだ後、互いに視線を交わすと「フフッ」と大人の笑みを見せ、優しく木綿季に語り掛けた。
「大丈夫よ木綿季、あなたはあなたのやりたいようになさい」
「……え……?」
「言葉通りの意味だよ、何も焦る必要はないんだ。じっくり考えて、悩んで……それで納得したらその時に決断してくれればいい」
「お、お父さん……」
「この人の言う通りよ、大丈夫。どっちの姓を選んだって、木綿季は私達の子よ。それだけは変わらないわ」
「おかあ……さん……」
二人から優しい言葉をかけてもらった木綿季の眼には涙が浮かんでいた。自分のわがままで振り回しているようなものなのに、嫌な顔一つせずに好きにしていいと、温かい気持ちに心がいっぱいになっていた。良くしすぎてもらって申し訳ないと思いながらも、こんな心優しい人たちに迎え入れてもらって本当によかったと思っていた。
「ッ……、ありがとう、お父さん、お母さん……ッ」
「ああ……ほら、泣かないでくれ」
「……ッ、うん……うん……ッ」
峰嵩は上着の胸ポケットからいつも携帯している紺色のハンカチを取り出して、木綿季の涙をさっと拭った。暖かい、父親らしい微笑みを浮かべながら……。
「そうよ? 木綿季はとっても可愛いんだから、泣くより笑ってたほうが素敵よ?」
「……ッ……ッ」
二人は揃って木綿季に優しく声を掛け続けたが、優しくされればされるほど、涙は余計に流れ出てくるばかりであった。一向に泣き止まない木綿季の様子に困り果てた峰嵩たちであったが、ふと思い浮かんだことがあったのか、峰嵩は自分の掌をポンと叩いた。
「よし、それなら私が面白い噺をしてやろう! これは私が初めて高座に上がらせてもらった時にやった噺でな……」
「長いからダメです」
翠は間髪入れずに峰嵩の話をスパッと斬り捨てていた。それもそのはず、噺家が高座に上がる時間は噺の内容にもよるが短い噺で15~20分、長いと30~1時間も費やすのだ。今回峰嵩がやろうとしたものもオチをつけるまで30分ほど使う「宿屋の仇討」と呼ばれる古典落語の噺だった。
「む、むう……。あ、それならビールでも飲んでみるか? 楽しい気持ちになれるぞ! ちょっとぐらいなら……」
「あなたっ! 木綿季は未成年ですよっ!」
何とか木綿季に笑顔になってもらおうとあれこれしてる中、未成年の木綿季に酒を飲まそうとするいけない旦那の行動に目を光らせた翠が厳しく声を荒げ、鋭くギロリと睨みつけていた。勿論峰嵩は本気で飲まそうとしてるわけではない、涙を止めるための口実に過ぎない。だが、さすがに言ってることが洒落にならないと思ったのか、厳しく翠に制止させられたのであった。
「わ、わかってるさ……、冗談が通じない奴だなお前は……」
「あなたが馬鹿なことを言うからです!」
「……クスッ」
夫婦漫才とも言えるようなかしましい二人のやりとりがおかしく見えたのか、先ほどまで涙が出続けてどうしようもなくなってた木綿季の表情は明るく、笑顔になっていた。涙の跡が残っていて赤くなってはいたが、クスクスと笑い声が漏れていた。
「……やっと笑ってくれたね」
「木綿季はやっぱり笑ったほうが可愛いわ……」
二人のおかげで漸く涙が引っ込んだ木綿季は、両腕の袖で目の周りをゴシゴシとこすって拭うと、精一杯の笑顔を見せて翠たちに感謝の気持ちを改めて伝えようとした。ボクのわがままを聞いてくれてありがとう、可愛がってくれてありがとう、そして……こんなに暖かい家庭に迎え入れてくれてありがとう……と。
「本当にありがとう、お父さん、お母さん」
「気にしないの、私たちは家族なんだから……」
「そうだぞ、これからもよろしく頼むな、木綿季」
「う……うん!」
三人の親子の間に笑顔が交わされ、養子縁組の先延ばしの話はとりあえずまとまり、残るは倉橋に連絡を入れるだけとなった。
峰嵩は今度こそスーツを翻してダイニングを後にし、シャワーを浴びるために寝室に着替えを取りに行った。翠は両腕の袖を捲り上げて、洗い物を再開した。木綿季は「ボクもお手伝いする」と流しに立ったのだが、翠は「今日はもう休んでいいわよ」と一人で残った家事を引き受けた。
お世話になってる身としては出来るだけ役に立ちたかった木綿季であったが、頑なに翠が気持ちを譲らないのと、明日の予定のこともあり、心残りがありながらも口を尖らせながら渋々ダイニングを後にした。
ダイニングを出て階段に足をつこうとした所で、一階の奥から真っ赤なパジャマを身に纏い、バスタオルで髪の毛をゴシゴシとこすりながらこちらにやってくる直葉の姿が目に入った。今しがた丁度風呂から上がってきたようだった。
「あ、直葉……お風呂あがったんだ」
「あ、うん、一番風呂いただいたよー!」
直葉は自分で沸かした風呂を自分が一番早く堪能出来たことで、すっかりご機嫌になっていた。体からは石鹸やシャンプーの香り、そしてほんのりまだ湯気が立ち上っており、かなりいい湯加減でバスタイムを満喫出来た様子が伺えた。
「木綿季も入れば? 今いい感じの湯加減だよ!」
「あ、次はお父さんが入るんだって。だからボクはその次かな?」
「あ、そうなんだ」
木綿季と話をしながら直葉はバスタオルで髪の毛を力強くババっと両手で一気に水分を拭き取っていった。腰まで伸びた長い木綿季の髪と違い、首元までの短めのヘアスタイルのおかげもあり、難なく濡れた髪を拭き取れていた。拭い終わった直葉は「ふぅ」と声を漏らしながら自分の部屋に行くために階段へと足を運んだ。
「あ、直葉……ちょっとだけいいかな……?」
「ん、なあにー?」
「あのね、明日のことで聞いてほしいことがあるんだけど……」
「明日? 明日って養子縁組のこと……かな?」
「う、うん。そのことでちょっと話が……」
明日の養子縁組の為に、わざわざ学校を休んでくれた直葉に申し訳ない気持ちが出てきたのか、微妙に歯切れが悪い口調で木綿季は直葉に話しかけていた。この場で話を続けるのもなんだと思った直葉は、落ち着いて話をする為に自分の部屋に行こうと提案を持ち出した。
「それならあたしの部屋にいこっ、ここじゃ話しづらいじゃない?」
「あ、うん、ごめんね……」
「んーん、あたしはだいじょーぶだよ。ほら、いこ?」
「う、うん」
直葉は一旦キッチンに足を運び冷蔵庫からいつも飲んでるあ・ろ・はすの500mlボトルを二本取り出し、木綿季と一緒にとてとてと階段を登り、そのまま一直線に自分の部屋へと入っていった。
――――――
同日 午後20:55 桐ヶ谷邸 直葉の部屋。
「適当にかけてねー」
「あ、うん。お言葉に甘えるね」
直葉がそう言うと、木綿季は彼女のベッドに腰かけ、部屋の中のいたるところにある大量のぬいぐるみに目をやっていた。ヒヨコ、ペンギン、ブタさんなど、様々な種類の可愛らしいぬいぐるみが、直葉の部屋の女の子らしさを醸し出していた。実に可愛らしいのだが、やはり天井に貼られた「リーファ」の特大POPだけはこの中でも異色を放っており、その点だけは首をかしげるところであった。
「やっぱり目立つ……よね、あはは……」
「んーボクは別に気にならないけどなー、ボクもこういうの作ってみようかな?」
「あはは、それもいいかもね!」
「それにしても……ぬいぐるみまた増えてない?」
木綿季が部屋を見渡すと、この前詩乃と一緒にお邪魔したときと比べて、ぬいぐるみの数が二倍近くに増えていた。ゲームセンターの景品なのか、それとも店で買ったのかは定かではないが大小さまざまなサイズのぬいぐるみが所狭しと並ばされていた。さしづめ、ぬいぐるみ大家族といったところか。
「ちょくちょくクレーンゲームとかで遊んでたの、んで気が付いたらこんなことになっちゃってさ……あははは……」
「へえー……そうなんだ……」
二人一緒に一番大きなブタさんのぬいぐるみを見つめていたが、直葉はそんな世間話をしにきたわけではないとハッとなり、木綿季に持ってきた飲み物を手渡し、木綿季の隣に腰かけて自分に話したかったことについて聞こうとした。
「それで、聞いてほしいことってなに?」
「あ、うんとね……」
ベッドに腰かけながら、木綿季は先ほど翠たちに話した時と同じ内容を直葉に話して聞かせていた。直葉はペットボトルの飲み口に、ずっと口をつけたまま黙って話を聞いていた。そしてしばらく考え込んだ後、ボトルに蓋をして、今自分が思っていることをゆっくりと語り出した。
「なるほどねえ……、うーん、あたしは木綿季の好きにすればいいと思うけどなあ」
「え……?」
「あたしはお兄ちゃんや木綿季と違って、お父さんもお母さんもいるから二人の悲しみを全部は理解出来ない。でもね……前の家族をどれだけ大切にしてたかってのはわかる気がするんだ」
「…………」
「あたしたちのことも大切に想ってくれてる、だから木綿季は悩んでるんでしょ?」
「……うん……」
翠や峰嵩と同じように、自分に温かい言葉を掛けてくれる直葉の気持ちに、木綿季はまた胸がいっぱいになっていた。少しさばさばとしてはいるが、直葉は直葉なりに妹である木綿季のことを心配していたのだ。
直葉はボトルを傍らに置くと隣で座っている木綿季に寄り、優しく包み込むようにして抱き締めた。まだお風呂からあがったばかりの火照った体温が、木綿季の身体にも伝わっていった。抱き締められた木綿季は直葉の抱擁を目閉じてそのまま受け入れた。
「すぐ……は……」
「大丈夫、お父さんもお母さんもお兄ちゃんも、明日奈さんもみんな木綿季の味方だから。もっともっと、頼ってもいいんだよ?」
「……うんッ……うんッ」
両親のような気の利いた言葉は見つからないが、直葉は直葉なりに木綿季を元気づけようとしていた。姉として、家族として、木綿季を傍で見守る一人の人間として、彼女を支えようとしていた。木綿季も直葉からの愛を体全体で受け止め、心が再び温かくなっていくのを感じ取っていた。
「一緒にがんばろ? あたしも応援するからさ……」
「うん……、ありがと……直葉……」
「……まったく、世話の焼ける妹ですなあ……」
「ごめんね……お姉ちゃん……」
直葉は自分のことを「お姉ちゃん」と呼ばれたことに顔を赤らめながらも、木綿季の頭に掌を当てて、優しく撫でまわし、自分の妹を元気づけていた。生まれた場所も年月も生い立ちも違う二人であったが、今この場で互いに感じている温もりだけは、家族の温かさそのものであった。
――――――
「それじゃあ、ボク部屋に戻るね。……聞いてくれてありがとう」
「んーん、また悩んでることがあったら言ってね? お兄ちゃんに話せないようなこととか聞けると思うし」
「うん、ほんとにありがとう……直葉」
「平気だよ、明日……頑張ってね?」
「……うん、それじゃあ……」
木綿季はベッドからゆっくり立ち上がり、直葉の部屋のドアノブに手を掛けた。部屋から出る前に直葉と笑顔で互いにアイコンタクトを交わしてから部屋を出た。廊下を通じて和人がいる自分たちの部屋の前に足を運びいつものようにノックをし、和人の「いいぞー」の返事とともにドアノブを捻って中に入った。
先に部屋にいた和人はPCに向かい調べ物をしているようだった。口にチューブ型のアイスを咥えながら、何やら真剣な表情でディスプレイとにらめっこをしていた。木綿季は和人が何をしているのかが気になり、彼の背後から画面をのぞき込むようにして顔を覗かせ、和人の首を両手で挟み込み、体重を預けていた。
「なあにしてるの? 和人」
「ん? ああ……、今ルートを調べてるんだよ。バイクで行くんだから道中の休憩ポイントとか、有料道路を通るのかとか……な」
「ふーん……」
「それで、父さんたちとは話したのか?」
「うん、さっき直葉にも話してきたよ。みんな頑張れって……ボクのこと応援してくれた」
「……そうか、よかったな」
「うん……」
木綿季は和人と返事を交わすと体を離し、ベッドへと足を運び、脚をパタパタとさせながら和人の調べ物を見守っていた。部屋には和人がキーボードをカタカタと打ち込む音と、マウスをカチカチとクリックする音だけが響いていた。数分たった後、和人はキリがいいところまできたのか「ふう」という声を漏らし、椅子の背もたれに体重を預けていた。
「終わったの? 調べ物」
「ああ、一通り終わったよ。それよか木綿季、先生に連絡はしたのか?」
「あ、ううん、まだしてない……」
「ならすぐに連絡入れよう、ちょっと待っててな」
和人はキーボードの近くに置いてある自分のスマホを手に取り、さささっと左手で操作すると通話アプリを起動させ、倉橋の番号を指定して電話を掛けた。スピーカーからはプルルルという音が聞こえ、3回ほどコールが鳴ったところでガチャという音とともに、男性の声ではなく、女性の声が聞こえた。
『はぁいもしもし、こちらは倉橋の携帯です!』
「……へ?」
『……あれ、おっかしいな……もしもーし?』
「聞こえてますよ、何してるんですか香里さん……」
倉橋が出るはずの携帯電話からは、倉橋ではなく、木綿季のリハビリを担当した香里であった。何故本人ではなく香里さんが電話に出たのは疑問ではあるが、和人はまず電話をかけた目的を伝えようと通話を続けた。本当なら今すぐプツンと切ってしまいたいところだが。
「えっと、先生はいないんですか?」
『え? いるよ? ちょっとまってねー!』
「……は、はぁ……」
相も変わらずフリーダムな行動っぷりに呆れて溜め息しか出ない和人であった。そもそも本人を差し置いて勝手に人の携帯に出るのもどうかと思う、相手が知り合いだったからよかったものの、これが仕事の電話だったら大事だ。和人はやがて不手際で仕事をクビにならないことを祈りながら、倉橋に電話が渡るのを待った。
『……もしもし、和人君ですか? すみませんお騒がせして……』
「い、いえ……別に大丈夫ですけど、それにしても何で香里さんがいるんですか」
『ああそのことですか、明日そちらにいくことへなってるでしょう? なので今晩はうちに泊めてあげてるんですよ』
『でもご飯は私が作った方が上手ですけどねー!』
「……えと、本題に移っていいすか?」
『あ、はい。彼女のことは気にしないでください。で、和人君。用って何ですか?』
「はい、それは木綿季の口から説明させます。……おい木綿季、先生だ」
「あ、う……、うん!」
和人は耳元からスマホを離すとそれをそのまま木綿季に手渡した。途中でスピーカーから『ちょっとー! 私を無視しないでよー!』と香里の叫びが聞こえたような気がしたが、気にすることなく木綿季は自分の耳にスマホを当てた。
「も、もしもし……倉橋先生、ですか……?」
『木綿季君……、久しぶりですね……』
「は、はい! ていっても一週間ぶりぐらいですよ? ……でも先生とまた話せて嬉しいです……!」
『それは私もですよ、生活の方は……どうですか?』
「……おかげ様で毎日がすっごく楽しいです! でも最近食べ過ぎだって皆に言われちゃってて……」
『あははは、それは結構です。体の調子もよさそうで安心しましたよ』
一週間ぶりに聞いた倉橋の声は温かかった。入院中ずっと聞いていた声だったが、退院して病院を離れてからはその声が聞くことが出来ず、少しだけ寂しかった木綿季だが、電話越しとは言え彼の声を聞くことが出来て、心に安心感を覚えていた。実の家族を除けば、彼が一番木綿季と付き合いが長かっただけに、患者と先生というよりも、父と子のような関係になっていたのだ。
「倉橋先生、ありがとうございます……。先生のおかげで今のボクは生きていられてます。それだけじゃない、ずっとずっとボクを傍で診てくれてて……」
『……私は自分の仕事をしただけですよ、それに……君が助かったのは和人君を始め、君の仲間が協力してくれたからです。それに比べたら私の技術なんて……』
「そ、そんなことないです! 先生が……、
『ゆ、木綿季君……』
退院した日は上手く話せなかったが、木綿季はここぞとばかりに倉橋に感謝の気持ちを伝え続けた。自分以外の家族の面倒をずっと見続けてくれたこと、メディキュボイドを薦めてくれたこと、移植手術のためにドナーを必死に探してくれたこと、手術を成功させてくれたこと、そして……自分をずっと傍で支えてきてくれたことへの感謝の気持ちを伝えた。
倉橋への気持ちは、正直いってこの場で言葉にして伝えるには全然足りなかったが、一言一言木綿季の口から伝わるたびに、倉橋は胸がいっぱいになり、目じりを濡らしていた。木綿季の病気が治り、日常生活を送れるようになることは、倉橋の長年の願いでもあったからだ。そしてそれが念願叶い、当人からも感謝の気持ちを伝えてくれた、元患者としてではなく、倉橋を慕う一人の娘としてだ。
一しきり倉橋に想いをぶつけた木綿季は満足そうな笑みを浮かべていた。本来なら病院にいる間に伝えたかったが別にいい、今こうしてちゃんと気持ちを伝えられたのだから。
「木綿季、水を差すようで悪いけどそろそろ本題を話さないと……」
「あ、ごめん……そうだった……」
『どうかしましたか? 木綿季君』
「あ、いえ! 何でもないです、それより先生……明日のことなんですけど……」
『明日……桐ヶ谷さん達との養子縁組、の件ですね……?』
「は、はい。その……ちょっと延期してもらえないかなって思って……」
『ず、随分急ですね……、一体どうしたんです?』
「は、はい……じ、実は……」
木綿季は倉橋にも、桐ヶ谷家の人間全員に話したことと同じ内容を事細かに説明した。以前の家族である紺野家のことをを引きずっていること、どちらの姓を名乗るか悩んでいること、そしてその迷いを吹っ切るために、けじめをつけるために、
『……あの家に一度帰るのですね……』
「……はい、そこで何か感じるものがあるかもしれないって思って……」
『そうですか……、わかりました。それならばことが終わったらで構いませんので、その後一度病院の方まで来てもらえますか?』
「え、病院って……ボクが入院してた……?」
『ええ、本当は明日そちらに出向いたときに伝えようと思ったんですが、こちらに来てもらえるのであればその方が都合がよくて』
「わ、わかりました。時間はいつになるかわからないですけど……必ず行きます」
『はい、そうしてくれれば藍子君たちも喜びます』
「姉ちゃんたち……?」
『詳しくは明日直接お話します、それでは……和人君にもよろしく伝えてください』
「え、あ……は、はい! ありがとうございました、倉橋先生……!」
『いいえ、それではまた明日……』
最後の最後に意味深なセリフを残した倉橋の言葉がひっかかりつつも、これで養子縁組に関わる全ての人に通達を終えた木綿季はほっと息を吐き、胸を撫でおろしていた。結果は誰一人、木綿季の都合に嫌な顔をせずに彼女の気持ちを汲んでくれていた。
そう、木綿季は自分の心の中のモヤモヤを消すために、以前の家族である紺野家と暮らした家がある、神奈川県横浜市保土ヶ谷区月見台に行こうとしていたのだ。過ごした期間こそ一年ほどであったが、家族四人で楽しく過ごした思い出のある実家に直接足を運び、気持ちの整理をつけようということだった。
はたしてそれが良いことなのか悪いことなのかは木綿季本人にもわからなかった。上手くいけばしっかりけじめをつけ、新たな心持ちで気持ちよく第二の人生を歩めるかもしれない。しかし一歩間違えれば以前の家族のことが忘れられずに、心に深い傷を負ってしまうかもしれない。正直いってこれは賭けに等しかった、しかしだからといってこのまま悩みを放置するわけにもいかない。何よりも木綿季がそうしたくなかったのだ。
翠も峰高も、直葉も倉橋も、そして恋人の和人も、そんな木綿季の気持ちがわかっていたからこそ、嫌な顔一つせずに木綿季からの提案を飲んだのだ。そして木綿季なら、きっとこの過去との蟠りを乗り越えられると信じていたからだった。
木綿季は倉橋との通話を終えるとスマホをそのまま和人に返した。和人はその際、木綿季の手がわずかに震えてることに気がついた。過去と向かい合うのが怖いのか、心に傷を負うのが怖いのかはわからない。ただ、木綿季が何かに怯えているのだけは確かだった。
和人はスマホをデスクに置き、震えている木綿季の手をがっちりと両手で握りしめ、安心させようとした。手を握られた木綿季はハッとなり、目の前の和人から真剣な眼差しを向けられていることに気がついた。大丈夫だ、俺がいる、お前を守ってやると、まるで眼だけで語りかけているような安心感があった。
「かず……と……」
「……怖いか? 過去と向き合うのが……」
「…………」
和人に問いかけられると木綿季は視線を落とし、俯いてしまっていた。木綿季は答えなかったが、その態度から怖がってるというのは明らかだった。和人は椅子から立ち上がり、彼女を安心させるために優しく両手で包み込み、そっと抱き締めた。
抱き締めた木綿季の体はやはり震えており、自分の家族と向き合うのが……いや、正確には過去と向き合うことで、今の生活が変わってしまうことを恐れていた。桐ヶ谷家との距離が、今の幸せがなくなってしまうのではないかと恐れていたのだ。
「大丈夫だ……」
「……え?」
「木綿季なら大丈夫だ、お前は強い、ご両親やお姉さんとだってちゃんと向き合える」
「…………」
「心細いなら俺が傍にいる、怖くて立てなくなったら俺が支えてやる。踏み込む勇気がないなら俺が背中を押してやる」
「……かずと……」
「安心しろ、俺がずっと傍にいる。どんな結果になったって、例え周りが蔑んだとしても、俺だけはお前の味方でいてやるからな……」
「……かずと……かずとぉ……ッ」
木綿季は本日何度目かわからない涙を流していた。退院して新しいことに触れるたび、周りの人たちから愛情を受け取るたびに、たまらず胸がいっぱいになっていた。しかしこれこそが木綿季の本来の姿なのかもしれない。
本来は剣を握らなければか弱い女の子、おしゃれをして美味しいものも食べて、家族にも囲まれて幸せな人生を送るはずだった。病気に冒されたことによって全てが狂わされてしまっただけなのだ。
だからこそ現実に帰還し、日常に復帰した今のこの生活が何よりも楽しかった。自分を偽って強がりを見せていた以前の自分ではなく、全てを全力で楽しみ、無邪気に心の底から笑っている今の姿が、本当の木綿季そのものだったのだ。もう独りで頑張る必要はない、周りの人を頼って生きていけば良いのだ。
「明日、頑張ろうな……」
「うん、ありがとう……和人」
「大丈夫だ、気にするな……」
「……うん」
木綿季は最愛の人の体温を感じながら、感謝の気持ちを伝えていた。和人は木綿季が安心し、落ち着くまで彼女を抱き締め続けた。その夜はそれから特に何事もなく時間が過ぎていき、二人は風呂を済ませ、ベッドに横たわり深い眠りについていた。朝から慌ただしかった濃い一日が、漸く幕を閉じていた。
――――――
翌朝 西暦2026年11月2日 月曜日 午前9:45 桐ヶ谷邸 玄関前
昨夜の晩餐から一夜明け、桐ヶ谷家は平日の朝を迎えていた。この日の天候は関東全域に渡って快晴で、当分雨は降らないだろうという予報が出ていた。和人達の済む川越も、木綿季の実家がある横浜も本日は太陽が眩しい爽やかな秋空となっていた。雨に打たれる心配はなさそうだ。
「それじゃあ……行ってくるよ」
「ええ、木綿季も気をつけてね」
「気持ちを持って、しっかりな」
「はい、お父さん、お母さん」
「木綿季、気をつけてね?」
「うん、ありがと、直葉」
桐ヶ谷邸の玄関前には翠、峰嵩、直葉らが和人達を見送るために集まっていた。今回の二人の目的地は横浜市保土ヶ谷区の月見台。以前足を運んだ病院がある市内東部の金沢区よりは近いが、なんやかんやで一都一県を駆け抜けることになるので、少し余裕を持って出ることにしたのであった。和人も木綿季も、まさかこんなにも早く横浜にとんぼ返りすることになるとは思わなかっただろう。それも定期検査ではなく、一身上の都合でだ。
和人は昨日のうちに必要な荷物をまとめたカバンをシートに仕舞い、メットを二つ取り出し一つを自分でかぶり、もう一つを木綿季に手渡した。先に木綿季を後部座席に座らせて、後から自分も一週間ぶりに世話になる祖父の形見である相棒に跨り、タンク部分にポンポンと手をあて「久しぶりに頼むぞ」といい働きに期待をかけた。
キーを挿し込み、90度ほど捻るとブルルルンというエンジン音が辺りに鳴り響いた。ガソリン残量も充分、今日も相変わらず可もなく不可もなく走れ回れるぞとバイクが訴えてるかのようであった。
「よし、じゃあ行ってくる。帰りは何時になるかはわからないけど連絡はいれるよ」
「行ってきます、お父さん、お母さん、直葉……」
和人は行ってきますの挨拶を済ますとメットのアイシールドを下ろし、バイクのサイドスタンドを蹴り、アクセルを入れて発進して桐ヶ谷邸を後にした。木綿季は後部座席で和人の体に密着し、両手でがっちりとしがみ付いていた。桐ヶ谷邸の門柱の外に出たところで、直葉がそれを追うように敷地外に走り出て、どんどん家から離れていく二人に手を振っていた。
「おにいちゃあーん! ゆうきぃー! いってらっしゃあーい!」
直葉の声が届いたのか和人は後方からでも確認出来るよう、左手で親指をグッと立て、サインで直葉に返事を返した。直葉はそんな二人を、胸に手をあてて見えなくなるまでじっと見守っていた。あの二人だけで大丈夫か、あたし達もついていったほうがよかったのではないかと。
「お母さん、木綿季……大丈夫かな……?」
「……大丈夫よ、信じましょう……」
直葉の心配をよそに、翠はあの二人なら大丈夫と促しながら、和人たちが走り去っていった方角を見つめていた。距離が離れていくと共に、バイクのエンジン音もだんだんと小さくなっていき、やがては全く聞こえなくなっていった。
「大丈夫さ、木綿季なら……」
「お父さん……」
峰嵩も門柱の外に出ると直葉の頭に掌をポンと当て、上着の胸ポケットから煙草を一本取り出してライターで火を点け、一服し始めた。口に咥えて息を一気に吸い込むと、ジリジリという音を立てながら火が煙草に燃え広がり、先端から灰になっていった。峰嵩は吸い込んだ煙草を一気に煙と共に外に吐き出し、空を見上げていた。
「私は一晩しかあの子と一緒にいなかったが……それでもいくつかわかったことがある。あの娘は……木綿季は強い、壮絶な過去を持ってることもそうだが、何よりも人より「覚悟」が違う。だから大丈夫だよ」
「か、覚悟って……」
「それにな、私達がぞろぞろついていっても、当人がやりにくくなるだけだよ。今はあのバカ息子に任せるとしよう……」
「……お兄ちゃん……、木綿季……」
直葉は和人たちが走り去っていった方角を見つめながら、胸に手を当てて祈っていた。神様お願いします、お兄ちゃんに、木綿季に何もありませんように、またこれからも一緒に笑顔でいられるよう、二人を守ってください……。
――――――
同日 同時刻 埼玉県川越市 国道16号線
和人と木綿季を乗せたバイクは桐ヶ谷邸を出発し、木綿季の地元の月見台に近い相鉄線星川駅を目指していた。川越から月見台へはここから60キロほどの距離にある。円滑に進めば一般道と有料道路を経由して一時間半ほどで到着する計算だ。
しかし病み上がりの木綿季を二輪の後部座席に乗せていることもあり、途中途中で休憩を挟んでいくため、それ以上にかかるだろう。何しろ退院してまだ一週間しか経っていないのだから、普通の人より気を遣わなければならない。
「木綿季、これから高速に入るからな、休憩したかったらすぐに言ってくれ」
「う……うん!」
「それじゃ、しっかり捕まっていてくれよ!」
――――――
和人たちは一般道から関越自動車道に入り、ちょくちょく道中のサービスエリアで小まめに休憩を挟みながら星川駅を目指していた。少しずつ、だが確実に木綿季の地元へと近づいていった。二人乗りでの高速道路での走行は初だったこともあり、和人も速度を出しつつも、慎重な運転を心がけながらバイクを走らせていた。
15分ほど関越自動車道を南下していき、練馬ICから高速を降りて一般道に入り、東京23区のうちの練馬区、杉並区、世田谷区を通り過ぎ、玉川ICから有料道路である第三京浜道路に入り、川幅日本一を誇る多摩川の上を経過して神奈川県へと入っていった。
速度を上げ一気に多摩川を通り抜け、川崎市を縦断し、ひたすら南へ南へをバイクを走らせた。やがて20分ほど南下していき、気が付くと二人は既に横浜市へと足を踏み入れていた。保土ヶ谷ICで一般道へ降り、横浜新道を経由して徐々に徐々に木綿季の地元へと近づいていった。
しばらくの間安全運転で一般道を走り続け、保土ヶ谷交差点の赤信号につかまったところで、木綿季がこの辺りの風景に見覚えがあるのか、何やら周囲をきょろきょろとせわしなく見回していた。
「この辺り……見覚えある……」
「本当か?」
「うん、パパとママと通ったことあるよ」
「そうなのか、と言うことはもうかなり近づいてきてるな」
「うん、ここの近くにホームセンターがあるの。そこで本棚を作る材料を買いに行ったことがあるんだ」
「へぇ……木綿季のパパさん、日曜大工が出来るのか」
「うん! お家の庭で一緒に作ったんだ! 楽しかったなあ……」
「日曜大工か……楽しそうじゃないか」
「……うん、本当に……楽しかった……」
生前の父との思い出を語った瞬間、木綿季は黙りこくってしまった。ヘルメット越しでもわかる、昔の思い出をただ懐かしんでいるだけではない、改めて自分の家族が全員いなくなってしまったんだと、今になって実感が湧いてきたのだ。和人は木綿季のことが気になって声をかけてやりたかったが今は運転中だ、もう間もなく赤信号が青に変わろうとしている。目的地はもう近い、バイクを降りてからでも遅くはないだろう……。
「出すぞ、しっかり捕まってろよ」
「……うん」
交差点の信号が青に変わったところで、和人は再びバイクを走らせた。八王子街道の近くを流れる帷子川にかかっている橋を通過し、相鉄線の踏切を越え、更に一般道を10分ほど走り続けると、和人たちは漸く目的地である星川駅付近へと辿り着いていた。時刻は午後12:10、概ね計算通りの走行時間での到着となった。
和人は車道の路肩にハザードを点灯させながらバイクを一時停車させ、メットのアイシールドを上げ、立体交差が特徴の綺麗な星川駅を見上げていた。木綿季が生まれる前の2007年から始まり、12年の歳月を費やして2019年に終わった工事で完成した長い長い立体交差だった。
「前に……明日奈に連れて来てもらった駅だよ」
「ここが……そうなのか」
「うん、また直接ここに来れるなんて……」
「……とりあえず、近くの駐輪場にバイク停めちまうな」
「あ、うん」
和人は現在位置から一番近い駐輪場にバイクを停め、木綿季の家に行く前にどこか飯屋で何か腹ごしらえでもしようと提案を持ち掛けた。木綿季はそれに了承し、現在位置から一番近いアクドナルドで昼食をとろうということで話がまとまった。一週間前に退院して川越に帰ってきた時と同じく、気軽に食べられるジャンクフードを選択したというわけだ。
――――――
同日 午後12:20 神奈川県横浜市保土ヶ谷区 アクドナルドハンバーガー星川駅前店
「んじゃ先に頼んでくるから、席に座っててくれ。……何が食べたい?」
「ん、和人にまかせる」
「……あいよ」
木綿季は和人に注文をまかせると、一足先に窓際の席へと腰を落ち着けていた。店内はお昼時にもかかわらず平日だということもあり、さほど混雑はしていなかった。木綿季が座っている窓側の席は星川駅の立体交差と、あちこちに山や高台がある星川町と月見台の街並みを見渡せるいい位置となっていた。
太陽が眩しい快晴の秋空と、澄んだ空気のおかげも相まって非常にきれいな光景に見えていた。以前に明日奈にプローブ越しに連れてきてもらった時に見た夕刻の光景とは、また違った景色だった。
「…………」
来てしまった、とうとうここまで来てしまった。もう後戻りはできない。正直言って怖い、明日奈と一緒に来た時とは状況が違い過ぎる。あの時は死ぬ前に自分の家をもう一度目に焼き付けておきたかったから、連れて来てもらったんだ。最後の最後の思い出にしたかったから、だけど今は……今は違う。死んだ家族と向き合うために、過去とのけじめをつけるためにここにきた。楽しかった思い出に浸るために来たんじゃない。
怖い、怖い、あのお家に行くのが怖くてたまらない。楽しかったはずの思い出が、今度は逆にボクの心を抉ることになるのかもしれない。どうしてこんなことになってしまったんだろう、ボクはただ普通に暮らしていたかっただけなのに。何にも悪いことしていないのに、何がいけなかったの? 何でボクらだけがあんな目にあわなければならなかったの……? 何で? 何で何で何で何で……!?
「……き、……き!」
「…………」
「木綿季!」
「あ……」
「木綿季! 大丈夫か!?」
和人が上の空で様子がおかしい木綿季に気が付くと、慌てて席に駆け寄りテーブルにお盆を置き、木綿季の肩に両手を当てて前後に揺さぶり、必死に声を掛けていた。木綿季も和人に揺さぶられたことで我に返り、自分が上の空になってしまってたことを自覚していた。
「あれ……、かずと……」
「しっかりしろ! 大丈夫か!?」
「う、うん……だいじょうぶ。ごめんね、ちょっと考え事してた……」
「……それならいいんだが……、お願いだからあまり心配かけないでくれ……」
「あ、うん……ごめん、和人……」
木綿季が我に帰ると、和人はほっと胸を撫でおろし、彼女と向かい合う形で椅子に腰を落ち着けた。テーブルの上には、既にお盆に乗っけられたテリヤキバーガーセットが二人分置かれていた。普段は食欲旺盛な木綿季であったが、今日はハンバーガーに手をつけず、頭を垂れて縮こまってしまっていた。
「なあ木綿季、食べないのか?」
「……いらない、ちょっと今は……食欲ないから……」
「お、おい……本当に大丈夫か?」
「……大丈夫だよ」
「…………」
一方で和人も食事に手をつけず、テーブルに肘をついて木綿季を見つめていた。食べることが大好きな木綿季が好物のハンバーガーに、手をつけられないほどの事態に対面してるのだろうと考えていた。覚悟を持ってここまで来たとしても、ためらわれることがあるのだろう。
「……やっぱり、怖いか?」
「え……?」
「お姉さんたちと向き合うのが、怖いか?」
「……わかんない」
「……そうか」
「…………」
和人が声を掛けても、木綿季は無言を貫いていた。和人の顔を見るわけでも、置かれた食事に手を出すわけでもなく、ただひたすらに下を向いてうなだれていた。その様子を黙って見守っていた和人だったが、あまりにも見かねたのか小さく溜め息を吐いた後、思い切って木綿季に問いただし始めた。
「逃げるのか……?」
「えっ……?」
「怖いからって、つらいからって逃げるのか? ご両親と……お姉さんと向き合うんじゃなかったのか!?」
「あ……う……ボ、ボクは……」
「お前らしくないぞ……、何にでもぶつかるのがお前じゃなかったのかよ!」
「……ボク……は……」
和人は弱気な木綿季に喝を入れるべく、声を荒げて諭しだした。かつてALOで自分が腐ってたときに木綿季がしてくれたように、今度は和人が木綿季に思いの丈をぶつけていた。こんなのいつもの木綿季じゃない、何事にも全力でぶつかるのが木綿季じゃないか、ならこれから起こることから目を背けるな、そう訴えていた。
「帰りたいなら帰ったって構わないぞ。お前がそう望むなら、今からでも引き返そう」
「い、嫌だ……嫌だよ……、ここまで来て今更引き返せない……」
「なら、どうする?」
「……ボク、あのお家に行きたい、いや、行かなきゃだめなの……」
木綿季の心の迷いをあと少しで吹っ切れさせられそうと感じた和人は、彼女の決心を固めさせるべく、敢えて厳しい言葉を並べ続けた。優しい和人にとっては、その行動は少し胸を痛めるような言葉であった。しかしその甲斐もあってか、木綿季の決意は固まったようだった。
嫌だ、ここまで来て帰るなんて絶対に嫌だ。来る前に決めたじゃないか、けじめをつけるって。パパやママ、姉ちゃんと向き合うって、そう決めたじゃないか。今更引き返すなんてこと、出来るわけがない。やるんだ、これはボクにしか出来ないことだ、逃げるな、逃げるな! やるんだ! 全力で姉ちゃん達に……いや、「ボク自身」にぶつかるんだ……!
「逃げるなんて嫌だ……折角ここまで来たのに、逃げるなんて……絶対に嫌だ!」
「…………」
「お願い和人、ボクを連れていってほしいの……、あのお家まで……!」
木綿季はテーブルに手をつきながら和人に真剣な眼差しを送り、自分の家まで連れていってくれと訴えていた。和人も最初は本人がつらいのなら今からでも引き返そうかとも考えていたが、それで本当に木綿季のためになるかと思うと、そうではない気がした。少々きつい言い方になってしまったかもしれないが、和人は出来る範囲で木綿季の背中を押したのだった。
「お願い和人、ボクをあそこまで……連れていって……」
「……わかってる、大丈夫だ」
「え……?」
「木綿季はこれぐらいで逃げるようなやつじゃない、わかってるよ。少しキツい言い方になっちまってごめんな……」
「え、あ……そんな……ち、違うの、ボクがちょっと弱気になってただけだから……、ボクの方こそごめんなさい……」
「……いいんだよ。……でも無理はするなよ? ……ホラ、飯……食べちゃおうぜ」
「う……うん」
和人はそう言うと木綿季のお盆に乗っているテリヤキバーガーを左手で掴み、木綿季の目の前まで持っていき、早く食べないと冷めちまうぞと言わんばかりにチラつかせていた。木綿季は先程までの暗い表情から一変キョトンとした顔でテリヤキバーガーを見つめていた。
「早く食べないと冷めるぞ、いらないなら俺が食っちまうが」
「え……だ、ダメだよー! ボクのハンバーガーだもん!」
木綿季はそう言いながら、目の前のテリヤキバーガーを和人から両手でムンズと強引に奪い取ると、顔をムスッとさせながら包み紙を剥がし始めた。和人はそんなムキになった木綿季を、微笑ましく見つめていた。
「いただきます」
「もう……、いただきます!」
弱気な自分を振り切り、改めて胸の内に覚悟を決めた木綿季は声のトーンを上げ、気分を変えるべく漸く昼食に手をつけていた。包み紙を剥がしたハンバーガーに大きな口でかぶりついていた。和人もそれにつられるように自分のハンバーガーを口に運んでいた。
「ん、美味しい♪」
「そっか、よかったな」
「うん! ねね、これってお家で作れないのかな?」
「え、これをか? う、うーん……どうなんだろう……」
「これがいつでもお家で食べられるなら楽しいと思うんだよねー♪」
「パティは挽き肉から作ればいいし、レタスやバンズ、マヨネーズはスーパーで手に入る。となると問題は……このテリヤキソースだな」
「何が入ってるんだろうねー?」
「……わからない……」
和人は右手で握っているテリヤキバーガーをじっと見つめていた。テリヤキバーガーは中心に薄めのパティ、その上に黒に近いブラウンのテリヤキソースとほんのり黄色いマヨネーズがかけられたレタス、それをバンズで挟んだシンプルな構造となっていた。和人自身もこんなにまじまじとハンバーガーを観察したことなどなかっただろう。
「ねえ和人、作れないかな?」
「うーん、ソースの秘密がわかれば作れないこともないと思うけど……」
「ホント!? それじゃあ今度作ってよ! ボクお家で食べたい!」
「……仕方ないな、ただしお前も手伝えよ?」
「わかってるよー! えへへ、やったねー♪」
木綿季は先ほどまでの暗い姿からは打って変わって、すっかり明るい表情になっていた。心に改めて決意を固めたのか、和人が声をかけてくれたおかげなのか、はたまたただ単に無理して強がっているだけなのかはわからない。
だが、木綿季の意思は変わらなかった。今更逃げたって何も変わらない。ぶつかるんだ、支えてくれた友達や仲間の気持ちを裏切らないために、暖かい家庭に迎え入れてくれた桐ヶ谷家の人達のために、ずっと傍にいてくれた和人ために。
そして何より「ボク自身」のために……!
さあ、和人と木綿季はとうとう木綿季の地元である星川駅、月見台にやってきました。この行動が吉と出るか凶と出るか? それは次で明らかになるでしょう。木綿季は再び試練に挑みます。