ソードアート・オンライン マザーズ・ロザリオ ボクの生きる意味   作:むこ(連載継続頑張ります)

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 こんばんは、大分ご無沙汰してます。まずはこの場を借りまして、ボク意味こと。
「ソードアート・オンライン マザーズ・ロザリオ ボクの生きる意味 闘病編」
をご愛読いただきまして、誠にありがとうございます。

 一ヶ月の間に数えてみれば40話というハイスペースで更新が続いてきました。木綿季を幸せにするという一心で、ここまで駆け抜けてきました。
 ここまでこれましたのはアクセスしていただいた方々、お気に入り登録をしていただいた方々、評価をつけていただいた方々、感想をいただいた方々。
 そして、この作品とユウキを愛してくれていただいた方々のお陰だと思います。心から感謝いたします、本当にありがとうございました。

 日常への生活に戻るための、木綿季の最後の闘いを、その眼で確かめていただきたいと思います。
 
 


第40話~門出~

 

 こんにちは! ボクの名前は紺野木綿季! パパとママと姉ちゃんの四人家族で暮らしてるんだ!パパたちはとってもやさしくて毎日が本当に楽しいの!

 

 姉ちゃんはたまに怒るけど、でもボクのことを誰よりも近くで可愛がってくれる。いっつも手をつないで近くで守ってくれて、ボクが誰よりも大好きな姉ちゃん。

 

 こんな素敵な家族に囲まれて毎日を過ごしてきた。でもね、パパ達は時々悲しそうな目でボクを見るんだ。何でなんだろう……?

 姉ちゃんも泣きそうな目で見るときがある、でもそれが何でかは、ボクにはわさっぱりわからなかった。

 

 ある日、病院につれてかれた。先生にボクはAIDSだって言われた。

 ボクの体は……めんえきりょく? ってのが弱ってていろんな病気にかかりやすい体になってしまったんだって。

 正直お医者さんが何を言ってるのかよくわからなかったけど、姉ちゃんたちは泣いてた。

 多分、ボクの体に良くないことが起きてしまってることだけは……理解できた。

 

 以前からボクの体にはHIVって悪いのが潜んでいたんだって。いつからかそれがクラスの皆に知られた時、周りの友達は全員ボクを敵視した。

 ぶたれたり蹴られたり、物を隠されたり机を離されたり。ひどいいじめにあった。先生も味方してくれなかった。近所の人もお家に嫌がらせをするようになったよ。

 

 それからは病院がボクのお家になった。ボクの面倒を見てくれる倉橋って人がボクの先生になってくれるんだって。

 パパとママはすっごく泣いていた。やっぱりボクに、よくないことが起こってるんだ。

 

 入院してしばらくして、ボクの体がだんだんおかしくなっていった。全身が寒いのか熱いのかよくわからない。一体ボクの体はどうなっちゃったんだろう。

 それからボクは、むきんしつっていう部屋に連れていかれた。ボクはそこから出られない体になってしまったんだって。

 

 それでも、それでもボクの傍にはいつも姉ちゃんがいたから、寂しくなかった。

 先生は元気を出してくださいって言ってくれた。ボクはいつも元気だから大丈夫ですって返した。

 

 それから何日かすると、倉橋先生がボクにメディキュボイド? っていう大きい機械を使ってみないかって提案をしてきた。

 感染症っていうのを治すために薬を使うんだって。でもそれを使うと副作用でいろんな苦しみが襲ってくるんだって。

 でもこの機械を使えばそれらが全く感じなくなるらしい。

 それどころかぶいあーる?とかいう仮想の世界で思う存分体を動かせるという。

 そしてボクがその機械を使うことによって同じ病気で苦しんでる人たちの助けになるって言ってた。

 

 パパとママは反対したけど、ボクはその機械で仮想の世界に行ってみたかった。

 ボクの体は弱り切ってまともな運動が出来なくなっていた。普通に歩いたりは出来るけど、ボールを蹴ったり、追いかけっこしたりはもう……出来なくなっていたんだ。

 

 ボクはその機械を使うことにした。最初は怖かったよ? 変なヘルメットみたいなものをかぶされて目の前が真っ暗になった。

 ここはどこなんだろう? って思ったら……すごいの!

 目の前にSF映画とかで見たようなものがいっぱい! ボクはその光景に感動した。ここが仮想世界ってやつなんだ!って。

 

 それからボクはその仮想世界に夢中になった。いろんな世界にいった。病気で入院してるという友達も出来た。その友達といろんな世界に遊びに行って、様々な冒険をしたよ! 全てが初体験で何もかもが楽しかったんだ。

 

 でも、起こるのは楽しいことばかりじゃなかった。

 

 二年前、パパとママが死んじゃった。

 ボクと姉ちゃんは泣いた。悲しかった。あんなに優しいパパとママが死んじゃうなんて信じられなかった。

 二度と会えないって思うと涙が止まらなかった、でも姉ちゃんはボクを抱き締めて元気づけてくれた。

 姉ちゃんだってボクと同じぐらい……いや、それ以上に悲しいはずなのに。

 

 そして友達も……一人ずつ、ボクたちの前からいなくなっていった。

 最初にクロービス、次にメリダ。そして一年前、ボクの姉ちゃん、ランこと……紺野藍子も。

 

 みんなボクの傍からいなくなってしまった。

 

 それから先生から聞かされた。ボクの余命はもう三ヶ月もないって。我々の医学が足りないばかりに申し訳ないって言ってた。

 でもね……ボクは不思議と死ぬのは怖くなかった。いつ死んでもいいけど、最後にとびっきりの思い出を残したいっていう気持ちの方が強かった。

 そうすればさ、死んじゃって別の世界に旅立っても、その思い出と一緒に行ける気がしたんだ。

 

 だから……残りのメンバーと一緒に助っ人を探したんだ。ボクと同じくらい強いか、それ以上の強さの人を探そうとしたの。

 それから色んな人と手合わせしたけど……てんでダメ。ボクはおろかスリーピング・ナイツのメンバーの誰にも勝てないような人たちばっかりだった。

 

 でもある日、すっごく強い人が現れた。ウンディーネの女の子とスプリガンの男の子。

 ボクはそのスプリガンの男の子を知っていた。ずっと前に偶然迷い込んでしまったあの「SAO」で出会ったんだ。

 キリトって名前でその時戦ったけどとっても強かった。HPがゼロになったら本当に死んじゃうから、お互い手加減してたけどそれでも強かった。

 

 ウンディーネの女の子はアスナって言うんだって。細剣を使うとっても強いお姉さんだった。決闘(デュエル)は途中でやめてしまったけど、その強さにボクは大興奮!

 キリトとアスナに一緒にスヴァルトアールヴヘイムを冒険して、イベントボスを討伐しよう!ってお願いをしたんだ。

 二人は快く承諾してくれた! 嬉しかったなー!

 

 あ、決闘(デュエル)は途中でやめちゃったけどほとんどボクの勝ちみたいなもんだったからね?

 

 道中邪魔もいたけど、なんとかみんなで頑張ってイベントボスを倒すことが出来た。

 キリトはボクたちの名前を黒鉄宮の戦士の碑に残すために、ボスへのトドメの直前にわざと転移結晶で離脱しちゃった。そしてそのあとすぐにボスにトドメを刺せた。

 

 二人のお陰だ、二人のお陰で……ボクたちは最高の思い出を残すことが出来た。

 これでもう、思い残すことはない……。

 ボクは嬉しさのあまりアスナに飛びついた。そして、何故かアスナのことを「姉ちゃん」って呼んでしまったんだ。

 その時ボクは気付いた、アスナと…一線を越えた関係になってしまっていたことに。

 

 それから、ボクはアスナの前から姿を消した。これ以上関わらないために。これ以上悲しませないために。

 そしてALOの最後の光景を見たくてこっそりログインしたんだ。そしたらさ、キリトに見つかっちゃった。

 でもキリトはアスナに言いつけるようなことはしなかった。ただ、もう一度君と戦いたいって、それだけ言ってくれた。

 

 ゴメンねキリト、それは多分もう無理なんだ。ボクはもうALOにログインするつもりはないからさ……。

 

 それからボクはALOから姿を消した。仮想空間のボクの部屋に引きこもった。そしたらさ、ボクを直接訪ねてきた人が現れた。

 

 キリトとアスナだった。

 

 何にも教えてなかったのに、二人はボクのところに来てくれた。倉橋先生はボクの体のことを、全部二人に教えちゃったみたい。

 それを聞いたアスナは大粒の涙を流して泣いていた。

 

 あーあ……悲しませるから、言いたくなかったのにな……。

 

 ボクは直接自分の口で伝えたくて、隣の部屋のアミュスフィアを使ってログインするように伝えた。キリトは自分のアミュスフィアでログインしてたよ。いつも持ち歩いてるのかな……キリトは?

 

 ログインしたボクは二人に直接ボクの体のことを伝えた。そして、もう二度と会わないようにしようって言った。

 

 これだけ言えば大人しく諦めてくれるかなって思ったんだ。そしたらさ、アスナはボクに決闘(デュエル)を申し込んできた。

 ぶつからなければ伝わらないことがある。以前ボクがアスナに言ったセリフをそのまま返してきたんだ。

 

 アスナはボクに伝えたいことがあるんだって。だから、闘おうって言ってきた。ボクはボクの信念を曲げるつもりはなかったから、その決闘(デュエル)を承諾した。

 

 勿論負けるつもりはなかったよ? きちんと勝って諦めてもらうつもりだった。

 

 でも、その時のアスナの強さは本物だった。

 ボクは姉ちゃん以外で決闘(デュエル)に初めて負けちゃった。技術とかもそうだけど、アスナから勝ちたい(・・・・)っていう信念が感じられた。

 

 それと同時に、アスナの気持ちが……伝わってきた。

 

 最後の瞬間までボクと一緒にいたい、もっといっぱい一緒に思い出を作ろうって。

 キリトも歩み寄ってくれた。スヴァルトアールヴヘイムにはまだたくさん行ってない場所がある。だからみんなで冒険しようって。

 

 ボクは嬉しかった。ホントに……ホントに嬉しかった。

 

 こんなボクのために、ここまで追いかけて、全力でぶつかってきてくれた。この時、ボクに初めて「友達」が出来たんだ。

それから……余命三ヶ月と言われたボクの体は、調子がよくなってきた。

 理由はよくわからないけど、HIVの活動が弱まってきたんだって。

 

 これからまだまだ生きれそうだった。いつ死ぬかは分からないけど、まだしばらくまだアスナたちといっぱい遊べそうだった。

 

 その楽しい毎日はずっと続くと思ってた。

 

 でもね、ボクの余命とは関係なしに、アスナはボクの前からいなくなってしまった。

 ボクが余計なことを言ってしまったばっかりに、アスナはお母さんと仲違いをしてしまった。そしてその関係でキリトと別れることになってしまったと。

 

 ボクがみんなの関係を壊してしまった。

 

 ボクの所為だ、ボクが……ボクが余計なことを言ってしまったばっかりに、全て台無しにしてしまった。

 

 そしてアスナは別れる前に、最後にボクにお願いごとをしてきた。

 

 「私が不甲斐なかったばっかりに悲しませてしまったキリト君のことを元気づけてあげてほしい。こんなことユウキにしか頼めないから」って。

 

 違う、違うんだアスナ。アスナの所為じゃない、ボクが……ボクがいけなかったんだ。

 ボクの心は罪悪感と後悔の念でいっぱいだった。押しつぶされてどうにかなってしまいそうだった。

 でもアスナの最後のお願いを、約束を守るために……ボクはキリトに近付いた。

 

 キリトと色んな事をした。決闘(デュエル)もしたし、キリトの泣いてる顔も見れたよ。

 たくさん食事も出来て、キリトのお家にもお邪魔したし、二人で冒険にも出掛けたよ!

 迷宮区は二人で突破できたし、いろいろあったけど29層のボスも二人だけで倒すことが出来た。

 

 最初はアスナとの約束を守るために、キリトと一緒に遊んでた。でも途中でボクからの、キリトへの感情が今までと違うってことに、少しずつ気付いていった。

 そしてボスにやられそうになってるキリトを助けることが出来て、ほっとしたときにボクは、キリトのことを好きになってしまっていたことに気が付いた。気が付いてしまった。

 

 ボクはまた逃げ出した。

 

 かつてアスナの目の前から姿を消したように、キリトの前からも姿をくらました。

 おこがましかった、ボクに誰かを好きになる資格なんてないと思っていた。

 すぐ死ぬと分かってる恋人と付き合うなんてどうかしてる、悲しませてしまうだけだ。

 ボクももうこんなことはいやだった。ボクの我儘で周りを不幸にするくらいなら、もう誰ともかからわない。

 一番理解してくれている倉橋先生だけいればいいと思った。

 

 そしたらね、キリトもボクを追いかけて来てくれた。場所は知ってるから来るとは思ってたけど。

 キリトは一生懸命ボクに訴えてた、話したいことがある、伝えたいことがあるって。

 

 でもボクは無視した、拒絶した。

 

 もう誰も悲しませたくなかったから。ずっと無視していたら、キリトがすっごく悲しそうな顔をしていた。

 それでもキリトは訴え続けてくれた。聞いてくれるだけで構わない、聞きたくないなら無視してくれて構わない。

 そして、これ以上お前を悲しませたりするぐらいなら、俺はもうお前と会わないと言った。

 

 その言葉を聞いた瞬間、ボクの心の底が抉られる思いがした。大切な何かを失ってしまう感じがした。

 その場から去ろうとするキリトを、思わず呼び止めてしまった。なんだかよくわからないけど、呼び止めて話をしないといけないような気がしたからだ。

 

 ボクはキリトとALOで顔を合わせて話そうと伝えた。キリトと決闘(デュエル)したあの緑の丘で話そうって。

 

 ボクは先にその場所について、キリトを待った。それからすぐにキリトはやってきた。

 ボクはキリトに何を言われても構わないと決めていた。

 どんなに責められてもいい、罵られてもいい。ありのままの言葉を受け入れようって思っていた。

 でもキリトは……ボクが、唯一受け入れられないことを口走った。

 

 ボクのことが好きだって……。

 

 ボクは訳が分からなかった。何でボクのことを好きになったの?絶対に先に死んじゃうのに、悲しませちゃうのに。だからキリトから逃げたのに……。

 

 ボクは涙を流しながら説得した。また拒絶しようとした。

 二度と会わないようにしようって伝えた。ほぼ一方的にボクの意見を並べた。

 これだけ言えば、もう身を引いてくれるかなって思ったよ。だって、自分の体のコトは、自分がよくわかってるから。

 

 そしたらキリトはボクを抱き締めてきた。

 

 勝手なことを言うな、死ぬだなんて許さない。俺が生きてる間は絶対に死なせない、だから諦めるなと。こう言ってくれた。

 

 何で……? 何でキリトはそんなに優しいの?

 

 こんな……先がないボクのために、どうしてそこまでしてくれるの?

 ボクは涙が止まらなかった、ここまでボクに近付いてきてくれた人はいなかった。男の子から好きだなんて言われたのも初めてだった。

 

 でもそれ以上にキリトの言葉に安心出来た。キリトなら、ボクの病気を治してくれるような気がしたからだ。

 だからボクは、キリトを信じた。絶対にキリトならボクを助けてくれる。

 

 ボクもキリトに告白した。キリトのことが好き、そう伝えた。

 

 その後ボクらは口づけをした。男の子とキスをするなんて初めてだった。温かかった、安心できた、そして何より嬉しかった……。

 

 それからキリトは現実の世界で、ボクを助けるためにいろんなことをしてくれた。

 骨髄移植のこと、ドナーを集めるためのライブの計画、そして、手術本番の時もずっと一緒にいてくれた。

 退院後は学校にも一緒に通う約束もしてくれた。アスナたちが通っているあの学校に行けるというのだ。

 

 家族も出来たよ。キリト……いや、和人のお母さん、翠さんと妹のリーファこと直葉もボクに会いに来てくれた。

 そして退院後、桐ヶ谷家にいらっしゃいって言ってくれた。退院後のボクを養子として迎え入れてくれるというのだ。

 

 ボクは嬉しかった。何もかも全て失ったボクだったけど、この短い期間で失ったものを再び手にすることが出来た。

 全部和人のお陰だ。和人がボクのために動いてくれたから、ボクはまた新しい希望に向かって歩くことが出来た。

 

 そして、とうとう和人はボクの病気を本当に治してくれた。

 

 治してくれたっていえば簡単に終わったように思えるけど、ここまでくるのに和人がどれだけ裏で頑張ってくれたことか。

 周りの協力があったとはいえ、並大抵の苦労じゃないってことだけは確かだった。

 

 本当に和人には感謝の気持ちでいっぱいだ。一生捧げても感謝しきれないぐらいだった。

 病気が治ってからも学校を休んでずっと傍にいてくれた。気が付いたら和人は、ボクにとってかけがえのない存在になっていた。

 

 和人はボクの生き甲斐だった。

 

 病気が治った後は和人が食事を作ってくれた。現実世界に戻ってからの最初の食事は和人の手料理だった。

 温かくて、とても美味しかった。嬉しすぎて思わず泣いてしまった。

 

 そしてさらに和人はボクの誕生日プレゼントも買ってきてくれた。

 もう、一方的に何でもしてくれて、ボクはどうやって恩返しをしていったらいいか分からなかった。

 

 それから僕は懸命にリハビリを重ねた。和人も傍で応援してくれた。

 そして頑張った甲斐があって、たった二ヶ月で上半身が完璧に動くようになった。病院内だけだけど、車椅子での外出を許可してもらった。

 ボクは早速和人に車椅子を押してもらって現実世界の冒険に出掛けた。冒険と呼ぶにはスケールが小さかったかもしれないけど、僕にとっては大冒険だった。

 

 見るものすべてが新鮮だったよ。何をしても楽しかった。そしてボクは病院の屋上につれてってもらった。

 ALOで約束したことを和人は覚えててくれてた。「いつか現実の夕陽を見せてやる」その約束も守ってくれた。

 

 ボクは、和人にやってもらってばかりだった。でも、それももう終わる。

 この下半身のリハビリが終われば退院出来る。そうすれば和人に恩返しができる。

 そしたら……何をしてあげようかな、今から考えるのがとっても楽しみだ。

 絶対に和人が喜ぶことをしてあげよう。そのためにも今はこのリハビリを頑張る。

 

 待っててね、和人……。

 

 

――――――――

 

 

 西暦2026年9月23日(水) 午前9:55 神奈川県横浜市金沢区 横浜港北総合病院 リハビリテーションルーム

 

 

「うんしょ、うんしょ……」

 

「いいぞ木綿季、大分歩けるようになってきてるぞ」

 

「う、うん……!」

 

 車椅子での外出が許可されてから二ヶ月、木綿季は毎日毎時一回も欠かさず下半身のリハビリを重ねていった。

 今日は香里が非番の日なので自主的に下半身のトレーニングにいそしんでいる。

 正直頑張りすぎな面もあったが手すりに手をつきながらではあるが、ゆっくりと歩けるようになっていた。

 

「木綿季、ちょっと休憩しよう」

 

「あ、はーい!」

 

 和人は木綿季に両手を貸しながら、リハビリティーションルームのベンチまで誘導した。

 下半身はまだプルプルしているが、寝たきりの今までのことを考えるならば、目覚ましい成果を上げているといっていいだろう。

 

「ふう、疲れたぁ……」

 

「お疲れ様、はいこれ」

 

「ん、ありがとう和人、 いただきまーす!」

 

 和人から350mlのアルミ缶を受け取ると、木綿季はカシュッっといい音を立てて蓋を開け、ゴキュゴキュといいのど越しの音を響かせながら、スポーツドリンクを胃に流し込んだ。

 

「ぷはーっ!」

 

「しかし結構鍛えられてきたな、確か一般的なリハビリスケジュールって基本的に半年ぐらいなんだろ?」

 

「うん、治る見込みとして設けてる期間が半年ぐらいなんだって。ボクは四ヶ月でここまでこれたから、多分行けると思うよ!」

 

「あはは、フルダイブ様様だな」

 

「でも階段とかの段差があるところとかは、まだ無理だなー……」

 

「段差はまだ仕方ないさ、平地をまず確実に歩けるようにならないと」

 

「うん、でももう少しって考えたらさ、いてもたってもいられなくって」

 

「お、おいおい……気持ちはわかるけど焦るなよ? 早まって怪我でもしたらどうするんだ? 打ち所が悪かったら命だって落とすかもしれないんだぞ?」

 

「大丈夫だって! ほら……和人みて!」

 

 木綿季はそう言うと持っているアルミ缶を傍らに置き、ゆっくりとベンチから立ち上がり、両手を左右に広げてバランスを取りながら歩き始めた。

 その様子は贔屓目に見なくても、満足に歩いているとは言い難く、ちょっと指先で軽くつついただけでも転倒してしまいそうな印象を受ける。

 

「おい木綿季! 危ないぞ! こっちに戻ってこい!」

 

「大丈夫! 心配しすぎだよ和人は……あッ」

 

 木綿季の視界が、一気に天井の方を向いていた。何が起こったのかと確認する暇もなく、木綿季はそのまま足の力が抜けてしまい、床に崩れ落ちそうになってしまった。

 

「木綿季!」

 

 必死に叫びとともに、和人が床を蹴ってベンチから駆け出し、木綿季の身体が床に叩きつけられるよりも早く、滑り込むようにして彼女の上体を支え、間一髪大怪我を回避することに成功していた。

 

「あ、危ない……ぎりぎりセーフだ……」

 

「あ……ありがと……和人……」

 

 木綿季から感謝の言葉を受け取ると、和人は彼女に肩を貸して、ゆっくりベンチまで歩いて先導していった。

 そして彼女を座らせると、再び大きい息を吐き、何事もなかったことにホッと胸をなでおろしていた。

 

「まったく……もうこれっきりにしてくれよ? 神経がすり減ってかなわんぞ……」

 

「うう、ごめんなさい……」

 

 和人に迷惑をかけてしまったと思った木綿季はシュンとなってしまった。自分でも5メートルほどなら足だけで歩けると思っていただけに、落胆の気持ちも相まって、すっかり落ち込んでいた。

 

 しかし実際にはまだ満足に歩けるとは程遠い状態にある。これからも地道に繰り返し、下半身を鍛える必要があるということだ。

 

「よし今日はお終いだ、部屋に帰るぞ。おぶってやろうか?」

 

「んーん、手すりにつかまって歩いてく」

 

「……そうか、気をつけろよ?」

 

 木綿季が歩けるようになるためには、ひたすらに下半身に意図的に負荷をかけ続け、地道に鍛えていくしか方法はない。

 

 ベッドから降りる動作、寝ながら膝を曲げる運動。手すりや歩行器、誰かの肩や手を借りての歩行訓練など、課せられた訓練メニューはたくさんある。

 自ら進んでやっている、リハビリテーションルームと自分の病室間の往復の歩行も、訓練のうちの一つだ。

 

「ふう……」

 

「お疲れ様、木綿季」

 

 手すりにつかまりながら、無事に自分の病室までたどり着いた木綿季は、今度は和人の手を借りながらベッドまで歩み寄り、ゆっくり腰を下ろした。

 和人も彼女が無事に座ったことを確認すると、すぐ隣に腰かけ、二人でベッドに並んで座っている状態となった。

 

「ボクね、下半身が鍛えられてから、こうやって隣に座れるようになったのが一番嬉しいな!」

 

「そうだな、俺も木綿季がどんどん元気になってくれて、すごく嬉しい」

 

 木綿季は自分の体がまだ元気な頃に、AIDSを発症する前に戻ってきてるのを感じて、心から嬉しくなっていた。

 まだまだ鍛える必要はあるが、日常生活に戻れる一歩手前まで来ていたのだ。

 しかし、だからといって焦ってはいけない。焦ってもいい結果など生まれてこない。確実に、少しずつ鍛えていかなくては。

 

「ふあ……、ボクちょっと眠くなってきちゃった」

 

 木綿季眠たそうに大きく欠伸をすると、和人はその動作を微笑ましく見守っていた。

 近頃はかなり熱心にリハビリに取り組んでいることもあり、木綿季の身体には相当な疲労がたまっていたのだ。

 

 元々頑張り屋な性格も相まって、自分のスタミナ以上に出張って運動を続けたこともあったこともあり、今はそうとうな疲労がたまっているはずなのである。

 

「そうか、少し寝るか?」

 

「うん、そうだね……そしたらちょっとだけ、眠るね?」

 

 その言葉を聞くと和人は木綿季が眠れるように、ベッドから腰を上げ、就寝の邪魔にならないようパイプ椅子をベッドから離れた位置に設置して、改めてそこに腰を落ち着けた。

 

「早く退院したいなあ……」

 

「俺も早く木綿季と一緒に暮らしたいさ。でもここで焦ったってしょうがないだろ?」

 

「うんー……そうなんだけど、もうちょっとな気がするんだよねえ……」

 

「気持ちはわかるが、とりあえず今は休むんだ」

 

「はぁーい」

 

「おやすみ、木綿季」

 

「うん、おやすみ……和人」

 

 木綿季はもうすっかり手馴れた様子で、白いカバーに包まれた掛け布団を自分で持ち上げ、そこに下半身を滑り込ませ、そのまま被り、首から上だけを覗かせて、静かに寝息を立てて、夢の世界へと旅立っていった。

 

「…………」

 

「すぅ……すぅ……」

 

(なあに、焦る必要なんかないさ。今はゆっくりでいいんだ……)

 

 女の子らしい可愛い寝息を立てて、気持ちよさそうに眠っている木綿季の顔を見ていると、和人も自分が眠気に襲われていることに気付いていた。

 常日頃から彼女のリハビリ、そして入院生活につきっきりで同伴している彼も、かなりの疲労がたまっていたのだ。

 

「俺も……少し寝よう」

 

 和人はいつものようにパイプ椅子に体重を預け、ズボンのポケットに手を突っ込んみ、首を前方に俯かせて、深い眠りに入っていった。

 贅沢を言ってしまえばふかふかのベッドで寝たいところだが、そうはいかない。今は木綿季の体のことが最優先だし、退院して一緒に住めば、いくらでもその願いは叶う。

 

 となりには大好きな木綿季もいる。その願いが実現出来るまであと少しだ。それを成し遂げるためにも、今はこの環境で休もう。

 休んで、次に備えよう……。

 

 

――――――――――

 

 

 同日午前11:45 横浜港北総合病院 木綿季の病室

 

「ん……」

 

 先に深い眠りから先に目を覚ましたのは木綿季だった。

 眠たそうな両目を手でゴシゴシとこすりながら、大きく欠伸をし、今は何時かと病室に備え付けられた時計を見て確認する。

 

「お昼前か……、んー、それまで何してようかな」

 

 基本的に暇つぶしの道具を何一つ持ってきていない木綿季が、お昼ご飯の時間まで何をして暇を潰そうかと考えている。

 本音を言ってしまえばこの病室から外へ出て、お散歩でもしたいがそうもいかない。

 無菌室から出たばかりの頃と比べるとかなり体力はついてきたが、やはり常人と比べると遥かに劣る。

 一般人なら呼吸を乱さないような運動でも木綿季には結構な負担になる。

 負担をかけていかないと体は鍛えられないのだが、女の子ということもあってすぐにスタミナが尽きてしまうのだ。

 

「和人はまだ寝てるし……退屈だなあ……」

 

 木綿季は寝ぼけ眼をゴシゴシ擦りながら、パイプ椅子に座って寝ている和人を見ていた。和人は木綿季のベッドから2メートルほど離れたところで眠っている。

 

「器用な寝方するなあ……」

 

 木綿季はきっと和人は普段から寝相が良いのだろうなと考えていた。一緒のベッドで寝ても、これなら安心かもしれないなどとも思っていた。

 その光景を思い浮かべると恥ずかしい気持ちがこみ上げてくるが、同時に嬉しいといった気持ちも感じていた。

 

「あ……ここからなら、もしかしていけるかな……?」

 

 何を思ったのか、木綿季は掛け布団をまくり、自分の体をベッドの外にだし、スリッパを履くとゆっくりと、支え無しで和人の座っているパイプ椅子へと足を運び始めた。

 置きたばかりともあって、その脚はリハビリを行っていた時よりもおぼつかなかった。細かく震え、膝が笑ってしまっている。

 このままではいつ転んでしまってもおかしくない、そんな印象を与えるような不安になる歩き方だった。

 

「よいしょ、んしょ……っと……」

 

「ん……、ふぁ……あ?」

 

 木綿季が和人のいるパイプ椅子まで残り1メートル、といった地点までたどり着いたところで、眠りについていた和人の意識が戻ってきた。

 目の前にある何者かの気配、それを無意識に感じ取り、うとうとしながらも目の前の光景を確認しようと、視界の焦点を合わせようと目をこする。

 

「え……なっ、ゆ、木綿季……!?」

 

「あ、和人……起きちゃった」

 

 和人が驚きの表情を見せたその瞬間、おぼついていた木綿季の脚から急に力が失われた。

 自分の体重を支え切れるだけの持続力がないうえに、先ほどまで寝ていた状態だったために、2メートルの距離すらも歩けなかった。

 木綿季はそのままバランスを崩し、前方の和人の座っているパイプ椅子目掛けて倒れこんでしまった。

 

「ゆ、木綿季ッ!!」

 

 和人は咄嗟に木綿季に怪我をさせまいと、倒れてきた受け止めようとしたが、一瞬反応が遅れてしまった所為で、木綿季を庇う形で座っていたパイプ椅子ごと一緒に床に倒れてしまった。

 その際、壁に立てかけられていたパイプ椅子を派手に巻き込んでしまい、派手な金属音が部屋中に鳴り響き、それはそれは阿鼻叫喚な絵図となった。

 

「あ……いっ、てて……」

 

「か、かずと大丈夫!?」

 

 幸い和人も木綿季も怪我はなかったようだ。あんなに派手に倒れて怪我をしないのは運がいいと言うべきだろうか。木綿季は和人が庇ってくれたおかげで擦り傷一つ負ってなかった。

 

 木綿季は自分を庇って倒れた和人のことを心配していたが、和人は無言で木綿季を抱きかかえてベッドに戻すと、そそくさとパイプ椅子を片付け始めた。

 

 その表情は決して穏やかとは言えるものではなかった。

 

「かずと……?」

 

 木綿季が和人の名前を呼んだ瞬間、和人は鬼の形相で振り向き木綿季に向かって声を荒げた。そして右手で木綿季の顔をはたいていた。

 

「この……ッ馬鹿野郎ッ!」

 

 罵声を浴びせられ、はたかれるとは思わなかった木綿季はびっくりしてしまい、はたかれた場所を手で押さえながら目を丸くしていた。

 和人は興奮したまま鋭く睨みつけながら、木綿季に向かって声を荒げ続けた。

 

「お前、俺がさっき言った事……ちっともわかってないじゃないか! 言っただろう! 打ち所が悪かったら命を落とす可能性だってあるって! だから俺は無茶をするなと言ったんだ! わかるか!?」

 

「あ……え、えっと……」

 

 木綿季は既に泣きそうになっていた。和人が木綿季に対して初めて怒った瞬間だった。

 誰にでも優しく接している和人が、この時ばかりは珍しく高ぶった感情をあらわにしていた。それも一番愛している木綿季に対してだ。

 

「だ、だってボク、和人をびっくりさせたかったから……」

 

「び、びっくりだと……、ふざけてるのかッ!」

 

 反省するそぶりを見せなかった木綿季に対して、和人は更に声を荒げた。木綿季の目からは涙が流れ続け、細くちぎれてしまいそうな声でひたすら謝っていた。

 

「ごめんなさい……ごめんなさい……、ごめん……なさいッ」

 

 少しだけ時間が流れ、涙を流し続ける木綿季を見て和人はハッとなった。

 そして冷静に、今自分が木綿季に対してしでかした行為について、罪悪感を覚えてしまっていた。

 

 今俺は何をした? 木綿季を殴った……? 男である俺が、か弱い女の子を、まだ体が上手く動かない木綿季を、殴ったってのか?

 和人は自分のしたことが信じられなかった。それぐらい自分は怒ったっていうのか、冷静でいられなくなっていたのか。

 

「あ……、お、俺……」

 

 和人は木綿季をはたいてしまった右手と頬を押さえながら泣いている木綿季を交互に見ていた。

 やってしまった、木綿季に、女の子に手を上げてしまった。

 恋人として、いや……男として最低だ。そう考えた和人は更に自己嫌悪に陥っていた。

 

「ごめんなさい……ごめん、なさい……!」

 

 木綿季も泣き止む気配はなかった。和人はこの状況をどうしたらいいのかわからなかった。

 木綿季はひたすらに謝りながら泣き続け、その細い声を聞くたびに、和人の心が潰れそうになっていった。

 

 どうしたらいいんだ、俺は今泣いている木綿季に対して何をしてやるべきなんだ。

 い、いや……何も出来ない、しちゃいけない。木綿季を殴った俺に、そんな資格が……あるわけがない……。

 

「……ごめん、俺ちょっと……頭冷やしてくる……」

 

 和人はその場から逃げ出すように木綿季の病室を後にした。

 病室のドアを乱暴に開け、部屋を出るとそのまま勢いに任せてバタンという音を立てて乱暴に閉めた。

 早歩きで床を蹴りながら廊下を進みエレベーターに乗り、一人だけで屋上へと向かった。

 

「あれは……和人君? 木綿季君は一緒じゃないみたいですね……」

 

 その場を偶然通りかかった倉橋が、その時遠目に和人の姿を目視していた。木綿季がいないのが少し気になったが、飲み物でも買いに行ったのかぐらいに思っていた。

 

 

――――――

 

 

「ごめんなさい……ごめんなさい、ごめん……なさい!」

 

 一方で、木綿季は和人が病室を出ていった後も、ひたすら謝り続けていた。その姿ははたから見ていて、大変にいたたまれなくなる光景であった。

 

 それからもしばらく木綿季は謝り続け、涙を流し続けて少し落ち着いてきたのか、和人がいないことに気付き、謝るのをやめていた。

 

 木綿季の涙はすっかり止まっていて、はたかれた場所も痛みがひき、赤くなっていた肌も元の色に戻っていた。

 

「…………」

 

 綿季は自分のやってしまった行為を反省していた。

 あれだけ和人がボクのことを心配していたのに、ボクは全然話を聞いていなかった。

 

 もし、打ち所が悪かったら……その時は本当に命を落としていたかもしれない。

 和人はただボクのことを大事に思ってくれていただけなんだ。ボクはその気持ちを全然考えてなかった。

 

「和人に……謝らないと」

 

 一度気持ちを整理した木綿季であったが、この時の彼女は冷静でなかった。頭の中は、とにかく和人に謝りたい想いでいっぱいであり、是が非でも和人に会いたい、それだけであった。

 

「頭冷やすって言ってたから、屋上とかかな……」

 

 木綿季はベッドの脇に置かれていた車椅子に手を伸ばし、自分自身で開いていく。

 色々と正しい手順を踏まないと開くことが出来ない車椅子だが、今ではすっかり自分だけで使用できるようになっていた。

 外出も病棟内限定で予め倉橋に連絡を入れることで一人で出掛けることを許可されていた。

 車椅子に自分の体を移し終えると方向転換をして車輪を回し、自分の病室を後にして木綿季は和人を探し始めた。

 

 

――――――――

 

 

『木綿季君、いますか?』

 

 病室の扉をコンコンと叩き、倉橋が木綿季の病室を訪ねてきていた。

 先ほどの和人の様子がどうにも引っかかっていたため、念のため木綿季の様子を見に来ていたのだ。

 訪ねていつもどおりならば、ただの思いすごしですむ。ちょっと心配しすぎなだけだろう。そう思いながら倉橋は扉の取っ手を掴み、横にスライドさせていった。

 

『木綿季君……?』

 

 倉橋は木綿季の病室のドアを開けて、中の様子を確認した。しかし病室の中は蛻の殻だった。

 木綿季が一人で外出するときは自分まで必ず連絡が来るはず、なのに来ないということは、連絡を忘れるほど大変なことが起きたのかもしれない。と倉橋は考えた。

 

 先ほどの和人君の様子も、よく思い返してみたら少しばかり変だった。そのタイミングで木綿季君がいなくなった。

 

「こ、これは……まずいことになったかもしれない!」

 

 

――――――――

 

 

「……はぁ……」

 

 一方で和人は屋上に来ていた。

 八階建ての横浜港北総合病院の屋上から見る風景はなかなかに絶景であった。ここから見る夕暮れは最高だ。天候の良い日は夜空も大変にきれいな空模様を描くことだろう。

 

 そんな快晴の昼間の青空の下で、和人は一人で自己嫌悪に陥っていた。女の子に手を上げることは初めてであった。

 仮想世界で決闘(デュエル)をしたことはあるが、現実世界で女の子に直接暴力を振るってしまったことで、罪悪感に見舞われていた。

 

「俺、最低だ……」

 

 どうしよう、木綿季に合わせる顔がない。顔を合わして謝ってすむものなのだろうか。思い返してみろ、木綿季はあんなにも泣いていた。ごめんの一言で済むような問題じゃない。

 

 初めての事態にこれからどうやって木綿季と接していけばいいか、和人はわからなかった。

 

 和人は青空を眺めていた。眺めているだけで今のこの自分の中の突っかかっているものが取れるような気がしていた。

 時々大きなため息を吐きながら和人はこれからどうすればいいかを考えていた。

 

「……やっぱり、ちゃんと正面から謝るしかないよな……」

 

 正直言って、顔を合わせづらい。どんな顔をして木綿季の前に立てばいいのか。謝っても許してくれるだろうか、木綿季は一回機嫌を悪くしたらなかなか直らないから、苦労するかもしれないな。

 

 そんな考えを巡らせていると、突如和人のスマートフォンがピロピロとサウンドを響かせて、着信が入った。

 そもそも病院で携帯を使うのはご法度なのだが、和人はうっかり電源を切るのを忘れていたようだった。

 

「ん、携帯の電源切るの忘れてたか……誰だ?」

 

 和人はポケットからスマホを取り出すと、ディスプレイの発信者の名前に目をやった。目線の先には「倉橋先生」とかかれた文字が表示されており、彼からの着信だということを表していた。

 

 何だ? 何かよくない感じがする。妙な胸騒ぎがして仕方ない。

 

「はい、桐ヶ谷です!」

 

『和人君ですか!? 今、どこにいますか!?』

 

「ど、どこって……今は病院の屋上ですけど……」

 

 和人が電話に出ると、倉橋はいきなり声を荒げて和人に尋ねてきた。やっぱり何か嫌な予感がする。

 和人の心臓の鼓動が早くなっていた。倉橋の口から良くないことを聞かされる気がして仕方がない。

 

 次に倉橋から聞かされる事実が怖くて仕方ない。しかし、聞かなくてはいけない。この不自然なタイミングでの倉橋からの電話。

 それを物語っている意味とは。それを確かめるためにも和人は黙って話を聞き続けた。

 

『落ち着いて聞いてください。木綿季君が……病室からいなくなりました!』

 

 

 ……は? 今何て言った……? 先生は何て言ったんだ……?

 

 

「いなくなったって……ど、どういうことなんですか!?」

 

『言葉通りです! 彼女の病室が蛻の殻になっていて、木綿季君がどこにもいないんです!!』

 

 和人は背中に氷柱を突っ込まれたような気分になった。全身の血が引いていく感覚に襲われた。

 こうしてはいられない、木綿季を、木綿季を探さなくては。

 

『和人君! 心当たりはありませんか!?』

 

「あ、えと……実はさっき木綿季と喧嘩をしてしまって、外の空気を吸ってくるって言い残して、俺は屋上に来てたんですけど……」

 

『……最悪だ……!』

 

「え……最悪って……?」

 

『恐らく木綿季君は和人君を探しています。和人君の言ったことを頼りに…、上に向かってるんだと思います』

 

「え……、でもそれだとしたら……エレベーターを使ってるんじゃ?」

 

『いいですか……今、エレベーターは点検中なんです、つまり木綿季君は…階段を登っている(・・・・・・・・)ことになる!』

 

「な……ッ」

 

『和人君急いでください! 私もすぐにそちらに向かいます!』

 

「わ……わかりました!!」

 

 和人は通話を切るとすぐさまポケットにスマホを仕舞い、走り出していた。倉橋が言っていることが事実だとすると、早く木綿季を探し出さないととりかえしのつかないことになる。

 今の木綿季に階段を登る力はない、上れたとしても途中で体が限界を迎える。

 

 も、もしそうなったら……!

 

「間に合ってくれ……!!」

 

 

――――――

 

 

「はぁ……はぁ……」

 

 一方その頃、木綿季はおぼつかない足取りで手すりにつかまりながら一人で階段を昇っていた。

 一段一段確実に踏みしめるように、手すりを掴む手の力を緩めないように昇り続けていた。

 

 エレベーターで車椅子ごと屋上に行けると思っていた。しかしこんな時に限って点検中だった。一刻も早く和人と顔を合わせて、謝りたいと思っていた木綿季は、気持ちの高ぶりを抑えられず、危険を承知で階段を昇っていたのだ……。

 

「これなら、いけるかも……」

 

 木綿季は息を切らしがら、ゆっくりとした速度で階段を登っていた。本人はこの調子なら辿り着けると思っていた。

 しかし全身を震わせながら昇っているその様子は誰が見ても、非常に危なっかしいものだった。

 

「和人に……謝らないと……」

 

 和人と同じよう、木綿季も彼に謝ろうとしていた。

 ボクの無茶であんなことになってしまった。おとなしく和人の言うことを守ってれば、自分の体を軽率に扱わなければ。慢心の気持ちがなければ、こんなことにはならなかった。

 

 とにかく和人に謝りたかった。木綿季はただひたすらそれだけしか考えていなかった。

 全部ボクが、ボクが悪かったんだ。これ以上和人に迷惑をかけたくない、自分の力で……謝らないと。

 

 調子よく登っているように見えていた木綿季であったが、本人に自覚がないだけで、既に彼女の体力は限界に近付いていた。

 和人に謝りたいという気力だけで昇り続けていた木綿季の脚には、もう力が入らなかった。

 

 階段の一番上の段に足を掛けようとした瞬間、木綿季の体が引っ張られるように後ろに傾いた。

 踏み込んだ足がもつれ、バランスを崩し、重力に引っ張られて後ろに体が浮いてしまっていた。

 

 

 あれ……? ボク、どうしちゃったんだろ……?

 

 

 体が浮いてる……? ボク、落ちてる……?

 

 

 ボ、ボク……階段から落っこちてる……!?

 

 

 あ……だ、だめ……だ……手すりに手が届かない……。

 

 

 ボク、このまま死んじゃうの……かな。

 

 

 折角和人に病気を治してもらったのに……受け身も取れずに死んじゃうのかな……。

 

 

 い、いやだ……死にたくない……。

 

 

 でも……今回ばかりは、だめ……みたい……。

 

 

 ごめんね和人……折角助けてもらったのに、こんなつまらない形でお別れしちゃうなんて……。

 

 

 結局……仲直り、出来ないままだったな……。

 

 

 時間がゆっくりに感じる……、これが走馬燈ってやつなのかな……。

 

 

 ああ……もう床が見える……、ボク……死んじゃうんだ。

 

 

 せめて最後に……和人に抱きしめてもらいたかったな……。

 

 

 和菓子を作ってあげるって約束も、守れなかったな……。

 

 

 ごめんね和人……バイバイ……。

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

 ……え? かず、と……?

 

 

 木綿季は生きていた。階段を踏み外した刹那に現れた和人が助けに入り、間に合ったのだ。

 和人は木綿季の姿を見るなり、考えるよりも先に体が動き、木綿季を抱き留めて、自分を下敷きにしてそのまま床に叩きつけられた。

 

「ぐううッ!!」

 

 床に叩きつけられた和人は慣性でそのまま壁にも激突した。

右肩と背中を激しく打ち付け、痛みが走る。その痛みで思わず悲鳴が口からこぼれた。

 

「ぐ、あ……あぁ……」

 

「和人!!」

 

 幸いにも木綿季に怪我はなかった。和人は木綿季を抱き留めた後、木綿季の体を包み込むようにして守っていたのだ。つまり、木綿季の体重も和人に合わさる形で和人に衝撃が走っていた。

 

「和人! 和人! しっかりして!!」

 

「があ……ゆ、ゆうき……無事か?」

 

「ボクは大丈夫! でも和人が……和人が!!」

 

「俺なら大丈夫だ……、それより木綿季が無事でよかった……」

 

 和人に先ほどまで激昂していた様子はどこにもなく、ひたすら木綿季の身を案じていた。いつもの心優しい、和人らしい顔をしていた。

 

「和人……ごめんなさい、ごめんなさい! ボク……ボク!」

 

 木綿季は大粒の涙を流し、和人の手を取り和人に謝罪をしていた。

 思いあがってごめんなさい、天狗になってごめんなさい、和人に心配をかけてごめんなさい。

 

 しかし和人は右手で木綿季の涙を手で拭い、叩いてしまった頬をさすっていた。もういいんだ、木綿季が無事ならそれでいいと、和人の笑顔そう訴えているようだった。

 

「ごめんな……叩いちまって、痛かったよな……」

 

「そ、そんな……そんなことッ、か、和人のほうが……!」

 

「いいんだ……俺も早く歩けるようになりたいっていう、木綿季の気持ちを……汲んでやることが出来なかった……」

 

 自分が床に叩きつけられても尚、木綿季の体の心配と、自分がいたらないばかりにごめんと、謝ってきた和人の態度に、木綿季はいてもたってもいられなくなっていた。

 そもそもボクの所為なのに、なんで和人はここまでして、ボクのためにしてくれるの、じ、自分の身を犠牲にしてまで……!

 

「もう歩けなくてもいい! 和人が傍にいてくれればそれだけでいい! もう我儘言わないから……謝るから……死なないで! 和人ォ!」

 

「だ、大丈夫だよ……、ちょっと肩と背中を打ち付けただけだ……そ、それに多分すぐに先生が来てくれる……」

 

 それを言うと、和人の意識は暗闇に飲まれていき、木綿季の顔に添えていた手も力を失い、重力に引っ張られて床に落ちていった。

 

「かずと……? や……やだ! 和人! かずとおぉぉっ!!」

 

 

――――――――――

 

 

 それから騒ぎを知った医療スタッフが和人らを見つけ、和人は集中治療室に運ばれていった。

 不幸中の幸いか頭を打ち付けていなかったものの、背中を激しく打ち付けていたことによって、軽い呼吸困難に陥っていた。

 最悪の場合、もしかすると骨にまで影響が出ているかもしれない。

 木綿季は車椅子に座ったまま、和人が集中治療室から出てくるのを待った。

 

「…………」

 

 木綿季は両手を組み、俯き、目を閉じて神に祈りながら、治療中の和人の身を案じていた。

 

(和人……お願い、無事でいて……!!)

 

 木綿季は自分はどこまでも身勝手な人間なんだろうと思っていた。自分の思い上がりで和人に怪我を負わせてしまった。

 何度目だ? 自分の所為で和人が倒れるのは。いい加減にしろ、何で和人にばかり負担をかけてしまうんだ。

 木綿季はひたすら自分で自分を責め立てていた。

 

 ひたすらに沈黙が流れ続けた。

 そして20分ほど経過すると、集中治療室のランプの灯りが消え、扉が開くと中から倉橋と医療スタッフが何名か出てきた。

 

 途端に木綿季は車椅子の車輪を回し、倉橋に近寄り、和人の容態について必死に尋ねていた。

 

「倉橋先生! 和人は……和人は無事なんですか!!」

 

 自分の白衣の裾を必死に涙目で掴んでくる木綿季を、倉橋は彼らしい優しい笑顔で答えた。自分の娘を安心させるように、心配かけ内容に、笑いながら丁寧に説明を始めた。

 

「木綿季君、安心してください。命に別状はありません」

 

 「命に別状はありません」その言葉を聞いた瞬間、木綿季は全身から力が抜け、車椅子の背もたれにもたれかかってしまった。

 自分の最愛の人の命が助かったことに、心から安心していた。しかしその手は小刻みに震えたままであった。

 

「和人……よかった……ッ」

 

「和人君の怪我は打撲です。骨に異常は見られません。肩と背中の筋肉を激しく打ち付けています。不幸中の幸いだったのは、頭を打たなかったことですね……」

 

「は、はい……ッ」

 

 木綿季の目には涙が浮かんでいた。和人が助かってよかったと感じる嬉しさと、自分の所為でこんなことになってしまったことに対しての反省の涙だった。

 溢れ出る涙は止まることを知らず、彼女の頬をつたい、自身の患者着の袖を濡らし続けた。

 

 何がどうしてこうなってしまったのかということを、大体察している倉橋は、身をかがめて木綿季の目線の高さにまで腰を落とし、少し険しい顔になりながら、彼女を問いただしていった。

 

「木綿季君、どうしてこんなことになったか分かりますか?」

 

「はい……ボクの思い上がりの所為です……」

 

「……いいですか木綿季君。キミの体はもうキミだけのものではないんです」

 

「……はい」

 

「君を助けてくれた和人君はもちろん、君を好きでいてくれているみんなのものなんです」

 

「はい……はい……ッ」

 

「だから、もう二度とこんな馬鹿な真似はやめてくださいね? みんな木綿季君に何かあったら……悲しみますから」

 

「はい……ごめんなさい……ごめんなさい……ッ」

 

 木綿季は顔を両手で覆い隠し、先程よりも多く涙を流していた。倉橋は涙を流して反省している木綿季の様子を見ると「しょうがない娘だな」といった優しい表情を浮かべ、そっと彼女の頭に手を優しく乗せ、そのまま撫ではじめた。

 

「その様子だと、もう大丈夫そうですね。和人君、出てきてもいいですよ」

 

「……え……え?」

 

 倉橋がそう言うと、木綿季は目を点にして集中治療室の方に視線をやった。しばらく見つめていると、そこに自分の愛する少年が、おぼつかない足取りで姿を現した。

 

「……やあ、木綿季」

 

「……かず、と……?」

 

「和人君は10分ほど前に目を覚ましました。問題なく歩行も出来ますが、一応念には念を入れて、経過観察として一日か二日は安静にしてもらいます」

 

 倉橋が現在の容態について説明をし終わると、和人は上半身を小刻みに震わせながら、優しく微笑みながら、木綿季に言葉を投げかけた。

 

「木綿季、ごめんな……心配かけて……」

 

「そんな……だって、だってボク!」

 

「もういいんだ、もういいんだよ……木綿季……」

 

 和人は木綿季にゆっくり近づくと、優しく抱き締めた。一歩ずつ足を動かすたびに少し背中と肩が痛むが、我慢できないほどではなかった。

 

「和人……ごめんなさい……本当にごめんなさい、ボク……また和人に迷惑を掛けて……!」

 

「ううん、もう大丈夫だ。俺の方こそ……ごめんな……」

 

「ボク……もう我儘言わない、言うことも聞くから……どこにもいかないで……!」

 

「ああ、俺だって……もう二度と、お前の傍から離れないからな……」

 

 固く抱き合った二人のやり取りを、倉橋は微笑ましく見守っていた。

 この二人なら退院後も安心だなと感じていた。事実、木綿季の脚の回復は順調だ。このままいけばあと一ヶ月ほど経てば歩けるようになるだろう。

 木綿季君が病院からいなくなって、少しだけ寂しい気もするが、仕方のないことだ。

 

(私は木綿季君が幸せならそれで構わない。和人君になら木綿季君をまかせても安心だ)

 

 

――――――

 

 

 それから木綿季の様子は変わり、今まで以上に真剣にリハビリに取り組むようになっていた。

 そして以前のような無茶はしなくなり、どうやれば効果的に足を鍛えられるか? どのようにすればバランスを保ちやすくなるかなど、自分自身で考えて研究も重ねていった。

 

 一方、和人の怪我は思ってたほど大したことなく、背中と肩が腫れあがっていたがほどなくして回復していった。

 二人の間はと言うと仲直りした直後は少しだけ気まずかったらしいが、それも時間の問題で程なくして二人とも以前の仲睦まじい関係に戻っていった。

 

 

 西暦2026年10月23日(金)午後17:00 横浜港北総合病院 リハビリテーションルーム

 

 

「…………」

 

 この日、木綿季はリハビリテーションルームにて足を動かしていた。その場には、主治医の倉橋と、作業療法士の香里も同伴していた。

 

 そう、この二人が同伴しているということは、今日は木綿季のリハビリの最終確認の日であることを意味していた。

 つまり、これをクリアすれば、木綿季は晴れて退院となるのだ。

 HIVが治ってから実に五ヶ月、ほぼ半年間にも及ぶ木綿季の努力が、実ろうとしていたのだ。

 

「木綿季……頑張れ!」

 

 和人が声援を木綿季に送る。応援には和人の母親の翠と妹の直葉。

そして親友の明日奈とこの病院のお見舞いに来る馴染みのメンバーが集まっていた。

 

「木綿季! あとちょっとだよ! 頑張ろう!」

 

 明日奈も和人に続いて声援を送る。木綿季はその声援に答えるように一瞬視線を合わせ、アイコンタクトを送り、再び視線を目の前に戻すと、自身の足を動かし続けた。

 

「……ッ! ……ッ!」

 

 木綿季の足取りは以前のような危なげを感じさせなかった。常人と同じ……いや、常人よりも鋭く足を踏み込ませることが出来ていた。

 上半身に二ヶ月、下半身に三ヶ月の期間を掛けて、木綿季は着実に自分の体を鍛え続けていた。しかし、大変なのは何も身体のトレーニングだけではなかった。

 木綿季は小学生のころから病院生活を送っている。病気にならなければ本来なら既に高校生になっている年齢だ。

 

 当然、小学校六年生から中学三年生までの間、勉強は全くしていない。しかし、来年度から木綿季はSAO被害者の通っている学校の生徒になる手筈となっているのだ。

 

 その学校を卒業すれば高校卒業の資格がもらえ、その後の進路の幅が広がるのだ。

 しかし、木綿季は長い間勉強というものから離れ過ぎていた。プローブを使って、授業に参加などはしていたが、本格的な授業ともなるとこれまで以上に頭の方も鍛えねばならない。

 

 そこで明日奈や誌乃といった優等生に、勉強を見てもらっていたのだ。

 中でも一人からは、特に苦手な数学を教えてもらっていた。入院前まで数学ではなく、算数を習っていた木綿季にとっては、それはそれはあまりにもハードルが高かった。

 逆に得意なのは国語だと豪語している。これでも木綿季は読書家……らしい。

 

「……これで……お終いだよっ!」

 

 気合の入った声とともに、木綿季は香里から課せられたノルマを全てクリアした。

 今回は前回のような意地悪はなく、真っ向勝負の試験内容だった。木綿季が試験の直前に念を入れまくって聞いていたのだ。

 今回は意地悪な項目はないですよね? 今言ってくれた内容で全部ですよね? 裏はないですよね? と、何回も何回も……。

 

「……うん、文句なし! スタミナも持ってるし合格よ! 木綿季ちゃん!」

 

「ごう……かく?」

 

 「合格(・・)」そう告げられると、木綿季はその言葉が信じられなかったのか、一瞬言葉を喉でつまらせたが、そんな木綿季を見守る周りからの視線に気付くと、改めて今、自分が全てを成し遂げたことを実感していた。

 

「やったあぁー! 合格だって! 和人! 明日奈! ボクやったよー!」

 

 木綿季はそう言うと、走って和人に近付いてそのままジャンプして飛びつき、喜びを表した。

 過去にALOでよくやっていた行動に、和人は一瞬ぐらいついたが、しっかりと木綿季を受け止め、ともに喜んでいた。

 

「ああ……やったな! とうとうやったんだ!」

 

「おめでとう! 木綿季!」

 

「これで一緒に暮らせるね!」

 

 和人に続いて明日奈、直葉も合格した木綿季を祝福した。翠は倉橋に感謝の気持ちを述べていた。

 しかしこれから木綿季と暮らせるという喜びで気持ちが昂り、うまく言葉を伝えれないでいた。

 立派な大人の翠でさえ、心が躍るほど嬉しくなる出来事だったからだ。

 

「先生、その……なんと言葉を述べていいか……」

 

「いえ、お好きなようで構いませんよ、私たち病院側はちょっと手伝っただけですから。ほとんど全ては……木綿季君本人の頑張りのたまものですよ」

 

「……ええ、本当にあの子はよく頑張りました……」

 

 倉橋と翠は、微笑ましそうに四人のやり取りを見ていた。そして、倉橋が寂しそうな目で木綿季を見つめていることにも気づいていた。

 

「やっぱり寂しいですか? 木綿季ちゃんと別れるのは……」

 

 寂しくないわけがない。

 

 倉橋にとって木綿季は今まで診てきた患者の中でも一番付き合いが長い患者だ。

 当然、特別な感情も持っていた。しかし医師としては全ての患者に平等でいなければならない。

 一人の患者だけを贔屓したりするのは本来許されないことだ。

 

 その木綿季が、長いこと一緒にいた木綿季が、この病院を離れていく。新しいステージで新しい生活をスタートさせていく。

 それはとても喜ばしいことだ、倉橋にとっても嬉しいことに違いない。だが、心にぽっかりと穴が開きそうになることを、倉橋は感じていた。

 

「そうですね……寂しくないと言えば嘘になってしまいます。木綿季君とは付き合いが長いですから……」

 

「……そうですか」

 

「でも、桐ヶ谷さんのところでなら、私も安心です。桐ヶ谷さんも直葉さんも、和人君もみんないい人ばかりだ。きっと木綿季君は素晴らしい将来を見つけてくれると思います」

 

「……倉橋先生……」

 

 倉橋は翠と香里から見えない角度で涙を拭うと、メガネの位置を直して翠に改めて挨拶をした。

 

「桐ヶ谷さん……いえ、翠さん。木綿季君を……娘を、どうかよろしくお願いします」

 

 倉橋は深々と頭を下げた。これ以上なく丁寧に、これ以上ない誠意を込めて。木綿季君とどうか幸せにしてあげてくださいと、それだけの想いを込めて。

 

「あたしからもお願いします、あの子は……もうあたしの妹みたいなものですから……」

 

 香里も倉橋に続き、頭を下げた。かつて亡くしてしまった妹の姿を木綿季に重ねていた香里にとって、木綿季の今後が、他人事のようには思えなかったからだ。

 

「はい、任せてください。必ず……私たちが幸せにいたしますわ……!」

 

 力強い翠からの返事を聞いて、倉橋と香里に笑顔が零れる。

 

 二度と会えなくなるわけじゃあない。その気になれば様子を見に会いに行けるし、木綿季の方から遊びに来てくれるかもしれない。

 そうだ、全然寂しくなんかない。いつでも会えるんだから。

 

「翠さん、一つお願いがあるのですが……」

 

「はい、何でしょうか?」

 

「木綿季君を……桐ヶ谷家の養子縁組に迎えるとき、私を証人にしていただけませんか?」

 

「そ、それは……、むしろこちらからお願いしたいぐらいです! 是非……お願いします」

 

「は……はい、ありがとうございます……!」

 

「倉橋先生、桐ヶ谷さん。あたしも……証人にさせてください!」

 

 養子縁組。

 

 親や身寄りのない子供を、子供を産むことが出来ない夫婦などが手続きを踏み、本当の子供として迎え入れ、育てることが出来る権利を得ることである。

 養子側は十五歳以上であれば、養子縁組を頼まれた場合拒否することが出来る。

 

 今回の木綿季の場合、両親姉共に家族は全て他界。一応親戚はいるが木綿季に対して辛辣な態度を取っていたため、木綿季はあちらから頼まれた場合でも断るだろう。既に木綿季も桐ヶ谷家に行くつもりだ。

 

 養子縁組を組むためには、手順を踏む必要がある。

 義親、養子が共に役所などで養子縁組届に必要な項目を書き込み、捺印を押して提出する。これだけである。

 ただし当人たちの署名だけではなく、成人している人間二人が証人となる必要がある。

 今回の場合は倉橋と香里がそれに名乗りを上げたというわけだ。

 

 証人となる者は上記の養子縁組届の証人記入欄に必要な項目を書き込み、押印をするだけである。

 成人していれば誰であろうと構わないが、倉橋と香里ほど今回の証人にふさわしい人物はいないだろう。

 

 ちなみに木綿季はまだ未成年なのでこれらの養子縁組届を提出する前に家庭裁判所に養子縁組許可をもらわなければならない。申請をだし、家庭裁判所が養子の生活先となるところの経済力等を調査する。

 

 問題なしと判断されれば許可が下されるというわけである。

まあ余程のことがなければ普通は許可が下りるものだと思ってもらっていいだろう。

 なのでその許可が下りて、届出が受理されるまでは木綿季は家族というよりも「居候」ということになる。

 そして養子になったあと、元の苗字の名乗るか新しい苗字を名乗るかは養子本人の自由となっている。

 

「そうだ、木綿季の着るお洋服を買わなくちゃ!」

 

「へ……お洋服……?」

 

 明日奈の口から放たれたお洋服という単語を聞いて、木綿季はキョトンとなる。入院前に着ていた服はもう入らない。着ていた服と言えば患者着と和人に買ってきてもらったダボダボの寝巻ぐらいだった。

 当然このまま病院を出るわけにはいかない。表を歩いても恥ずかしくないよう、衣服はこしらえる必要がある。

 

「うん! 女の子なんだからお洒落しなくちゃ!」

 

「えっと……でもボク、お洒落なんてしたことないよ……」

 

「大丈夫! 私が木綿季に似合うとびっきりのを買ってきてあげる!」

 

「しまったな、それなら例のプローブ持ってきておくんだったな。それなら遠隔でどんな服か確認出来たのに……」

 

「そしたらキリト君のスマホでテレビ通話しながらでいいんじゃないかしら?」

 

「……なるほどそうだな……! 流石学年成績トップ! 応用力が違いますなっ」

 

「アハハ! そうだね、ボクこの患者着とパジャマしかもってないから、どの道外出許可もらっても恥ずかしくて外歩けないや」

 

「よし! んじゃあそうと決まれば早速買いに行きましょう! 直葉ちゃん! 付き合ってもらっていいかしら!」

 

「はい! むしろ喜んで!」

 

 明日奈と直葉はそう言うと、ノリノリでリハビリテーションルームを後にした。

 あの二人はどんな服をチョイスするんだろう。女の子らしい可愛い服だろうか、それとも木綿季の元気なイメージにあう服なんだろうか、どちらにせよ大変楽しみである。

 

「木綿季君、ちょっといいですか?」

 

 木綿季たちとは離れた場所で話をしていた倉橋が、翠を連れてこちら側に歩いてきた。

 

「あ、はいっ」

 

「まずはリハビリの合格、改めておめでとうございます」

 

「あ、ありあがとうございます……!」

 

「それで……退院日なのですが、色々手続きがありますので……明後日の日曜日にしようと思います」

 

「明後日……、わかりました!」

 

「了解です、こちらでそのように進めておきます。それで、それとは別件で、木綿季君に対して政府から報奨が出ているのですが……」

 

「……へ? ほうしょう……?」

 

「ええ、木綿季君はメディキュボイドの被験者となっていました。あの臨床試験は、医学界に大変な貢献をもたらしてくれたのです。ですから、木綿季君が報奨を受け取るのは当然の権利なのですよ」

 

「は……はぁ……?」

 

 いきなり現実味のない話を持ち掛けられて木綿季の頭の上には?マークが浮かんでいた。

 先生の言ってることは分からないこともないが実感がない。むしろボクはメディキュボイドのお陰で、ここまで生きてこれたのだ。  

 

 そのお陰で明日奈に会うことが出来たし、和人という恋人も出来たし家族も出来た。

 むしろ報奨は既にもらっている。これ以上何をくれるというのだろう。

 

「これを……受け取ってください」

 

 倉橋はそう言いながら、懐から何やら通帳のようなものを取り出し、木綿季に両手で手渡した。

 木綿季はその通帳を首をかしげながら覗き込む。しかし覗き込んだ途端に、たちまち木綿季は顔面蒼白となっていった。

 

 何故なら、通帳の最後の履歴に、木綿季の口座に多額のお金が振り込まれているのが確認出来たからだ。

 倉橋が木綿季のHIVが治ったときから、予め国に報奨金の申請を出していたものの数字だ。

 

「こここここれ、ぼぼぼぼボクが受け取っても、いいいいいんですか!?」

 

「ええ、当然の権利です。まあ……これだけあるとちょっとした家が建ってしまいますね……」

 

「え……そんなにすごい金額なのか…?」

 

 通帳の中身が気になる和人が通帳を覗き込む、それに釣られるように翠も覗き込む。そして、やはり覗き込んだ瞬間に和人と翠も顔面蒼白となった。

 ぽっとでで手に入ることがない巨額のお金の数字を見て、口は空いたままになり、本当に驚いているといった様子が見て取れる。

 

「ゆ、木綿季……まさかこれいきなり全額使ったりとかしないよな!?」

 

「なななな、ナニいってんの!? ボクお金の使い道なんて全然わからないよ! お小遣いだって月500円だったんだから!」

 

「そ、それなら……これは私が預かっておいた方がよさそうね……」

 

「それがよろしいでしょう、木綿季君が本当にそのお金が必要になったときに、渡してあげてください」

 

「えっと、みどりさ……じゃない、お母さん……よろしくお願いします」

 

 木綿季は頭を下げて両手で翠に通帳を手渡した。翠は笑顔で軽く会釈をした後通帳を受け取った。流石にこんなに巨額のお金を、十五歳の木綿季に使えとっても無理というものだ。

 素直に親である翠が預かっていたほうが賢明だ。

 

「よろしくお願いされました」

 

 倉橋はそれだけ伝えると「では、私たちはこれで」とだけ言い残し、香里と共にその場から退室していった。

 その場には和人、木綿季、翠の、親子三人が残された。

 

「さてと、それじゃあ私も仕事に戻るわね」

 

「あ、ああ……わかったよ」

 

 翠は上着と荷物をまとめると仕事に戻ろうとしていた。そして支度を済ませると木綿季の方を向き、これから家族になる娘に向かい、優しい笑顔で語りかける。

 

「木綿季ちゃん……、いえ、木綿季……本当におめでとう」

 

「あ……はい!…… じゃない、うん! ありがとうお母さん!」

 

「それじゃあまた明後日、迎えに来るからね?」

 

「了解! 紺野木綿季、首を長くして待ってます!」

 

 木綿季は右手で敬礼のポーズをとりながら、元気に翠に返事を返した。

 本当に元HIVキャリアとは思えない活発っぷりだ。翠はその様子を笑顔で見守った後、退室し仕事に戻っていった。

 

 出来ることならもう少しここにいたいところだが、そうもいかない。翠は一家の母親であると同時に、社会に出て働いている身なのだ。

 二人きりになったリハビリテーションルームのベンチから、ゆっくりと腰を上げると大きくのびをして、木綿季の方をみると「部屋に戻ろうぜ」と促し、優しく右手で木綿季の手をとった。

 

「あ……」

 

「ん? どうした?」

 

「えっと、ううん……何でもない♪」

 

「そっか」

 

 木綿季はALOでキリトと手を繋いでいたときのことを思い出していた。

 あの時は、現実で同じことが出来るだなんて考えたこともなかった。キリトを信じていなかったわけではなかったが、こうしていざ現実世界で一緒に手をつなげることを考えると、いろいろと感慨深いものがある。

 

 絶対に長生きなんて出来ないと思ったのに、この男の子が自分の命を救ってくれた。それだけじゃない、そのあとの道もちゃんと指し示してくれた……。

 

「えへへ……♪」

 

「なんだかご機嫌だな? 木綿季。まあ退院が決まったから……そら嬉しいよな」

 

「うん、退院はやっぱり嬉しいけど、今は……違う理由かな?」

 

「……ん? 何か言ったか?」

 

「んーん! なんでもない!」

 

 相変わらず、肝心なところに鈍い和人であったが、木綿季はそんなことは気にしなかった。これから先、そのことで腹を立てる時もくるだろうが、それも含めて和人のことが好きだ。

 

 

 いつもこうして仲良くくっついているだけ、とは限らないけど、精一杯、和人の隣で一緒に今後を頑張って生きていこう。

 だって、今のボクには……時間がたっくさんあるから。和人が、ボクの時間を作ってくれたから。

 大好きだよ和人、ずっと……ずっと一緒にいようね……。

 

 

 その後二人は病室のベッドに腰かけながら、これからのことを話し合っていた。

 病気が治ってから何度も何度も話し合ってた内容だったが、毎度毎度心が躍っていたので、何度この話題を振られても飽きることがなかった。

 むしろやりたいことが毎回増えていっていた。

 行きたいとこ、やってみたいこと、語っても語ってもキリがない。そんな明るい未来の話に、二人は暗くなるまで花を咲かせ続けていた。

 

 そして、倉橋の言った退院の日までの二日はあっという間に経過し、待ちに待った木綿季退院の当日が、とうとうやってきた。

 

 

 西暦2026年10月25日 (日)午前10:05 神奈川県横浜市金沢区 横浜港北総合病院 木綿季の病室

 

 

「似合う! すっごく似合うよ木綿季!」

 

「うう、ちょっと恥ずかしいよ明日奈ー……」

 

 木綿季の退院日の朝から、明日奈は大変にご機嫌であった。

 というのも、木綿季が明日奈に選んで買ってきてもらった服を着ていたからだ。

 

 明日奈の見立てどおり、木綿季の活発で元気な性格を体現したような、ボーイッシュな服は、非常に彼女にあっている。

 上は紺色のジャケットに白のブラウスを着こみ、下は紺色の短パンのジーンズに、ブラックの二―ソックスというチョイスだ。

 

 ALOの装備を除けば、三年間患者着と寝巻きしか着ていなかった木綿季からしたら、この普段着的な服装も、結構恥ずかしい思いがする。

 

「うん! すっごく似合ってる! いやあ……我が妹ながらお兄ちゃんの嫁にもしたくないぐらい可愛いですなあ~」

 

 明日奈と直葉は可愛らしい服装になった木綿季に大変ご満悦の様子だ。その眼差しは、言ってしまえば夏のビーチで水着の女性をじっと見つめるような、いやらしい視線のようなものだった。

 

「そ、そんなにジロジロみられると恥ずかしいよ……」

 

「えー、いいじゃない女の子同士なんだから」

 

「んじゃあさ、お兄ちゃんには見られたくないってわけ~?」

 

 和人にこの姿を見られる。そう考えただけで、木綿季の顔は徐々に赤くなっていった。いずれすぐに見せることになるのだろうが、心の準備が出来ていないのか、顔の温度はどんどん上昇する一方だ。

 

「あ……う、そ、そうじゃあ……ないんだけど……」

 

「へぇーそうなんだ♪ ……キリトくーん! 木綿季がもう見ていいってーっ!」

 

「ふぇ!? ちょっとあすなぁ!」

 

 明日奈の不意打ちに、木綿季は両手を上下にぱたぱたさせながら焦り果てていた。

 まだ心の準備が出来ていない、お願い明日奈、もう少しだけ待って!

 そんな心境だったが、無慈悲にも病室の扉は横にスライドされていき、やがて半分ほど開かれると、黒い服を身にまとった少年がひょこっと姿を現した。

 

「わーわー!和人待って! ちょっとタンマだよー!」

 

「……もう遅いぞ……」

 

「いらっしゃい、キリト君♪」

 

 

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「おお、それこの前明日奈たちが買ってきたやつか?」

 

「うんうん、どうかな? 木綿季のイメージにぴったりだと思うんだけど」

 

「あ……う……」

 

 和人は部屋に入るなり、木綿季の服装を上から下までなめるように見つめていた。端から見たらただの変質者のような視線で、じっくりと恋人の隅から隅までチェックを施していた。

 

「うん、すごくいいと思う。短パンが木綿季の活発で元気なイメージがぴったりというか、いや……しかしスカートもありだな……」

 

「お兄ちゃん、なんか気持ち悪いよ……?」

 

「むっ、失礼な」

 

 過去こんなに褒めちぎられたことのない木綿季は、和人の感想にただただ頬を赤らめていた。

 

 辻決闘(デュエル)をやるようになり、名が売れてきた時から、可愛い可愛いと言われることはあったが、その頃には感じなかった、羞恥心的なものが、ふつふつと心の底からこみ上げてきた。

 

 その後しばらく、木綿季のコーディネートのことで話題は絶えず、次はあの服にしよう、いっそコスプレなんかもいいんじゃないと、脱線気味になりながらも、彼女のおしゃれについての話題には事欠かさなかった。

 

「木綿季、お金はいらないからね? 退院祝いってことで受け取って!」

 

「え……、えと、それは嬉しいけど……いいの?」

 

「うん! 私は木綿季が元気でいてくれてるだけで、本当に嬉しいから!」

 

 木綿季は明日奈の心の広さに頭が上がらなかった。

 彼女からしてみれば、かつての恋人を取られたようなものだ。その相手が一番の親友だったとしても、その心は複雑なものに違いなかった。

 

 だが、明日奈は木綿季を心から支え続ける覚悟があった。始めて剣を交えたあの日から、一緒に冒険をしたその日から、現実で会ったその日から、木綿季の力に鳴り続ける。

 そう誓っていたのだ。

 

「……うん、ありがと……明日奈……」

 

「気にしないでね、もし木綿季が何かお返ししたいって考えてるなら、またその時に考えてくれればいいから」

 

「うん……!」

 

 ボクは……和人や明日奈にたくさんやってもらってばかりだ。

 でも今は違う! もう体も動く! 走れる! 色んなことが出来るようになった!

 絶対に皆に恩返しする! 何が出来るかはわからないけど、ボクに出来ることで精一杯気持ちを返していきたい。

 

 今すぐは無理かもしれない、でも、これからたくさんのことをやって、少しずつでいいから、明日奈や和人が、ううん、お世話になった人たち全員が喜んでくれるようなことを、していきたいな……!

 

 これまで懸命に自分を支えてくれた人たちへの感謝の気持ちを忘れない、そしてその気持ちをいつか絶対形にして返す。

 木綿季はそう固く心に誓った。

 

 そして四人が仲良くやり取りをしていると、病室のドアが「コンコン」とノックされた。

 木綿季が元気に「どうぞー!」と言うと「失礼します」という声と共に扉が開けられた。顔を出したのは翠と倉橋、そして香里だった。

 

「あ! 倉橋先生!」

 

「おはようございます木綿季君、いよいよ……ですね……」

 

「はい! 今まで本当にお世話になりました!」

 

 木綿季が倉橋に対して深々と頭を下げる。

 この元気な姿が見られるのも、また当分先になるのだろうなと、倉橋は思っていた。

 

「いいえ、退院出来たのは木綿季君の頑張りの成果です。私たちはちょっとだけ、お手伝いをしただけですから」

 

「……先生……」

 

「…………」

 

「母さん、スグ、明日奈、香里さん、俺たちは外で待っていよう」

 

「え……? あ……うん。木綿季、あたしたち、先に外で待ってるね?」

 

 そう言うと和人は、翠達四人を連れて先に病室を出ていき、部屋には倉橋と木綿季だけが残される形となった。

 この木綿季と倉橋、一番付き合いが長い者同士、互いに想うこと伝えたいことがたくさんあるに違いない。

 

 退院するこの日、今回を逃してしまえば、次はいつ会えるかわからない。だからたくさんお話したい。

 しかし、いざ二人きりの空間になってしまうと、倉橋は何から話していいかわからず、頭をぽりぽりとかきながら困り果てていた。

 

「……えっと、何から話しましょうか……」

 

「うんと……そうですね……、先生とはいっぱい思い出がありすぎて、ボクも何から話していいか……」

 

「そうですね……、私たちの付き合いも随分長かったですから……」

 

「……はい……」

 

 お互い、言いたいことがなかなか言えないでいた。

 何を話したらいいか分からなかった。今の気持ちをどう相手に伝えたらいいか分からなかった。

 その模様はまるで、悩みを抱える年頃の娘と、そのお父さんのような光景だった。

 

 しばらくお互いにクトを開くことができず、長い長い沈黙が続いたが、倉橋がようやくその重たい口を開いた。

 

「桐ヶ谷さんのお家では、うまくやれそうですか?」

 

「あ……えっと、まだわからないですけど、多分大丈夫だと思います。和人も直葉も、お母さんも……みんないい人ですから」

 

「ははは、そうですか……」

 

 一生懸命ひねり出して口を開いた会話は、すぐに終了してしまった。二人は再び黙りこくり、少しだけ気まずくなってしまった。

 

 二度と会えなくなるわけではないとはいえ、中々会うことが出来ないのも事実、そのことを悟っていたからこそ、最後に色々話したかったのだが、いざ改まると何を喋っていいかわからず、会話が中々発展しなかった。

 

「えっと……行きましょうか、あまり和人たちを待たせちゃうと…」

 

 特に気の利いた言葉が見つからない木綿季が、先に行こうと切り出してきた。倉橋は静かな口調で「そうですね、そうしましょう」とだけ返事を返した。

 

 本当はもっと話したい、もっと伝えたい、そう思っているはずなのに。しかし不器用な性格のせいか、中々切り出せない。

 患者と医師として話すときはぺらぺら話せたのに、親子として接するとなると、倉橋は何もすることができなかった。

 

 木綿季は明日奈達に買ってきてもらったカバンに少ない荷物をまとめて、忘れ物の確認をして、病室のドアに手を掛けた。

 

「あ…………」

 

 その時、倉橋の目には木綿季の背中がとても小さく見えてしまった。

 とても小さく、すぐに光の中に消えてしまいそうに見えていた。今話しかけなくては、今呼び止めなくては。

 そう感じた倉橋はいてもたってもいられず、咄嗟に木綿季のことを呼び止めた。

 

「……ッ、木綿季君!」

 

 突如背後で大声を発した倉橋に驚いた木綿季は、両手で荷物を抱えたまま目を丸くして、彼の方向を見つめなおした。

 先生は一体どうしたんだろう? まだ何かあるのかなと、首をかしげ、倉橋の反応を待った。

 

「せ、先生……?」

 

 

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「せ、せん……せい……?」

 

 倉橋の目には涙が浮かんでいた。大事な一人娘を嫁に出すような心境だ。

 不器用な彼には木綿季を抱き締めることでしか、今の気持ちを表現することが出来なかった。もっと気の利いた言葉があったはずだ、もっと気持ちよく彼女を送り出せたはずだ。

 しかし、これが彼の今の精一杯であった。

 

 それからしばらく、倉橋は声を殺して、木綿季を抱き締めながら涙を流し続けた。

 木綿季はそれを拒絶することなく受け入れて、倉橋のぬくもりを体全体で感じ取っていた。医師と患者としでではなく、父親と娘として。

 

 程なくして倉橋は感情が収まってくると、倉橋は抱擁を解いて、半歩分だけ後ろに距離を置いた。

 右手でメガネを外すと、左手で白衣からハンカチを取り出し、自身の涙をぬぐい、精一杯の笑顔を作りながら、にっこりと木綿季に語りかけた。

 

「気をつけて、元気で暮らすんですよ……」

 

 倉橋は再び流れ出た涙を交じえ、父親らしい暖かい笑顔を見せながら、木綿季のこれからの新しい生活を応援するように背中を押した。

 木綿季の目にも涙が浮かんでいた。そして、今まで注いでもらった愛情に応えるように、精一杯の返事を返した。

 

 

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「……うん、行ってきます、お父さん(・・・・)

 

「……はい、いってらっしゃい、木綿季(・・・)

 

 

――――――――

 

 

 同日同時刻 横浜港北総合病院 一階受付ロビー

 

 

「あ、きた」

 

 直葉が先に倉橋と木綿季に気付く。

 和人もそれに気付き、木綿季に歩み寄り質問を投げかける。最後の親子のやりとりを交わした木綿季と倉橋は、二人で足並みをそろえて受付まで足を運んでいた。

 

「……もういいのか?」

 

「……うん、ありがとね、和人」

 

 和人の意図に気付いていた木綿季は、彼に駆け寄り、微笑みながら感謝の気持ちを伝えた。

 和人が爽やかな笑顔という形で返事を返すと、今度はその場にいる医療スタッフや看護師等、自分が入院している間お世話になっていた人々全てに挨拶をして回る。

 

「えっと、みなさん……今日まで本当にお世話になりました。ボクを支えてくれて本当にありがとうございました」

 

 木綿季が一階ロビーにいる人たち、全てに聞こえるように、はきはきと、礼儀正しく、きちっとした姿勢で声を発すると、自然と職員たちの手が止まり、木綿季に注目が集まりだした。

 

「ボクは今日から、新しい世界で新しいスタートを切ります。本当にありがとうございました!」

 

 木綿季の真摯な態度に、職員たちは温かい笑顔で送り出そうと、優しい言葉を木綿季にかけた。

 「頑張ってね」「寂しくなるな」「退院おめでとう」等と木綿季との別れを惜しむ返事もあれば、退院を祝福する声も聞こえた。

 

「和人君、翠さん、直葉さん、明日奈さん、木綿季君を……よろしくお願いします」

 

 倉橋が頭を下げ、改めて木綿季の今後をお願いする。

 頼まれた四人は「頼まれましたっ!」と頼もしい返事を返した。まかせて大丈夫だと分かっていても、やはり直接返事を聞けるとより安心するものだ。

 

「それじゃあ、いつまでもいるのもあれだし行くとするか」

 

 和人がロビーを背中に回し、みんなに帰ろうと促す。それに続くように残りの四人も後を追う。

 

 いよいよ木綿季が病院の外に出る。入口の自動ドアまで残り10メートル程。

 この病院に来たときは、絶望の淵に立たされる思いだった。いつ死に襲われても不思議じゃない毎日だった。怯えたことも、生きるのを諦めたこともあった。

 しかし、木綿季はその絶望から必死の思いで這い上がり、見事病気を克服した。非常に清々しい、晴れやかな気持ちで入口までの一歩一歩を進めていった。

 

 自動ドアまで残り3メートルほどといったところで、ドアのセンサーが反応し「ガガガ」というスライド音を立てて、ゆっくりと開いていった。

 外は快晴で、屋内と屋外の明度差で、イマイチ外の様子がみえづらい。そして、日光が眩しく照らしている外の風景に、何やら様子がおかしいことに気づく。

 

 その光景を目にした木綿季は、目の前の光景が信じられなかった。

 

「え……な、なんで……?」

 

 

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 そこには木綿季のよく知るALOの仲間たちと、百余人にも及ぶALOプレイヤーだと思われる人たちの集団の姿があった。

 皆、必死で病気と闘い続けた木綿季の退院と新たな門出を祝福するために、この場に集まってくれたのだ。

 

「す、すごい……人があんなにたくさん……」

 

「ごめんね? 木綿季は……嫌がるかもって思ったんだけど……」

 

「嫌だなんて、そんなコトないよ……。でも……何で? 何でこんなにたくさん……? 夢見てるのかな…?」

 

「だって……だって木綿季、アナタは……あの世界(ALO)に現れた最強の剣士。あなたほどの剣士は……もう二度と現れない」

 

「明日……」

 

「そんな人を寂しく見送るなんて……出来ないよ……」

 

 木綿季は嬉し涙を浮かべてアスナの話を聞いていた。木綿季の新たな第一歩を、素敵な一歩にしよう。そう考えていた明日奈のサプライズだったのだ。

 自分は絶対泣かないと決めていたのにもかかわらず、明日奈の目には涙が浮かび上がっていた。

 

「みんな祈ってるんだよ。木綿季の新しい生活が、仮想世界(あっち)と同じぐらい、素敵なものになりますようにって……」

 

「明日奈の言うとおりだ、お前のひたむきでまっすぐな行動に、みんな感動し、元気をもらっていたんだ。これは……皆からの、ほんのお返しなんだ」

 

「和人……」

 

 和人はそう言うと、木綿季の手をぎゅっと握り締めた。お前の居場所はここにあるんだ、みんなが応援してくれるここが、お前の居場所なんだと。

 手の暖かさだけで安心できるように、優しく、そして力強く握り続けた。

 

「ボク嬉しい……すっごく嬉しいよ……。みんなありがとう、ホントにありがとう……!」

 

 木綿季が笑顔を見せると、木綿季の退院祝いに駆け付けた百余人のプレイヤーは、全員一斉に祝福の言葉を捧げた。

 

 

 ――木綿季! 退院おめでとう!――

 

 

 その言葉をもらった木綿季は嬉しすぎて涙が止まらなかった。

 ボクは今、世界一幸せなのかもしれない。こんなにみんなから想われてすっごい幸せ者だ。

 あはは……困ったなあ……、また皆に恩返ししないといけないじゃないか……、一生かかっても出来るかわからないな……。

 

 傍から見たらなんの集まりだと思われるに違いない。短時間だけ集まることを条件に、病院側から許可をもらっているとは言え、あまり居座り続けると第三者に迷惑がかかる。

 

 程なくして四方八方から拍手が鳴り響き、木綿季に盛大に祝福を捧げると。駆け付けてきた人たちは周りへの迷惑のことを考慮して、台風一過の如く一斉にお開きとなった。

 

 木綿季と親しいALOの仲間たちも、一人ずつ木綿季に祝福の言葉を贈ると、エギルの車に乗ってそそくさと帰路についていった。退院祝いなどはまた今度日程を決めてやるそうだ。

 セブン一行は事務所の車で仕事に戻っていった。忙しいのに本当にありがたい。

 

 超のつくほど大人数でがやがやしていた病院のロータリーは、あっという間に静かになり、近くを通る車の走行音、電線に止まっている小鳥のさえずり等の、雑音だけが耳に入っていた。

 

「さ、俺たちも帰るか、()に……」

 

「あ……うん、帰ろ……!」

 

「それじゃあ私たちはタクシーで帰るから、和人は木綿季と一緒に帰ってらっしゃい」

 

「木綿季、私たち先に帰ってるね! またあとで!」

 

「うん! えっと、また……お家で!」

 

 木綿季とアイコンタクトを交わすと、翠と直葉はタクシーで帰宅していった。

 一応桐ヶ谷家にはマイカーがあるのだが、父親の桐ヶ谷峰嵩が出張で乗り回しているため今は自宅にはなかった。

 

 木綿季の養子縁組の話も峰高が戻ってきてから進むことになっている。

 ちなみに峰嵩は木綿季の養子縁組に、肯定的な返事をくれていた。

 本人曰く「今更子供が一人増えようが変わらないだろう」とのことだった。

 

 更に木綿季が可愛い女の子だということを知ると、尚更内心ワクワクして出張を早く終わらせようと粋がってたぐらいだった。

 まったく現金な父親である。

 

 和人は木綿季を連れて駐輪場まで行くと、これまで何度もお世話になった愛車のシートから、ヘルメットを二つ取り出して木綿季に一つ手渡した。

 

「つけれるか?」

 

「うん、大丈夫」

 

 木綿季がヘルメットを着けている間に、和人は愛車のタンクににもつをまとめ、シートにまたがってキーを差し込み、エンジンを起動した。

 

 バイク特有のブオオンという音とともにバイクが息を吹き返す。和人の愛車は今日もご機嫌だ。

 祖父の形見なので少しばかり古い型だが、現在でもばりばり現役のマシンだ。

 

「俺の後ろ、乗れるか?」

 

「あ……うん。ボク、和人のバイク初めて乗る」

 

「というより、バイク自体も初めてだろ?」

 

「あはは! そうだね」

 

 木綿季は笑顔を振りまきながら、小さい体を一生懸命動かしてバイクに乗ろうとしていた。

 しかし和人より一回りも二回りも小さい木綿季には、中々一発でバイクのシートにまたがるのは難しい仕事のようだった。

 それを見かねた和人は木綿季に向かって手を差し伸べる。

 差し伸べられた手を木綿季はしっかりと掴み、和人に引っ張ってもらい、和人の背後につく形でなんとか乗り込むことができた。

 

「はふ……なんとか乗れたよ」

 

「よし、なら一応注意点だけ話しておくな? 安全運転を心がけるけど、カーブで俺が重心を傾けても決して反対方向に重心を移動させないでくれ。それぞれ重心がバラバラになると事故につながる可能性があるからな」

 

「うん、わかった!」

 

「あとはひたすら俺にしがみついててくれ、両手を俺の背中から腹に回すようにして、何があっても絶対に手を離すなよ?」

 

「うん……頑張る!」

 

 元気に返事を返すと、木綿季は和人の背中に身体を密着させて、言われたとおりに和人の背中からお腹に手が回るようにしがみつき、がっちりと固定させた。

 

「OKだな。んじゃゆっくりいくぞ。徐々に速度上げていくからな? 慣性が働くからしっかり掴まってろよ?」

 

「ラジャ! ううー……ちょっとドキドキするけど楽しみ!」

 

「ははは……、よし……出すぞ!」

 

 右ハンドルにつけられたウインカーを点灯させ、周りに注意を促す。そして掛け声とともに和人はサイドスタンドを勢いよく蹴り、そのままアクセルを吹かして加速し始めた。

 

「わ……動いた!」

 

「大丈夫だ、すぐに慣れる。ゆっくりいくから安心しろ」

 

「う、うん! わかった!」

 

 二人の乗るオートバイは少しずつ速度を上げていき、やがて法定速度に達した。

 木綿季は最初こそ必死に和人にしがみついていたが、慣れてくると周りの風景を横目で見る余裕が出てきた。

 

「わあ……! みんなすごい速さで後ろに去っていくよ!」

 

「楽しいのはいいけど手は離すなよ?」

 

「あ……うん!」

 

 

――――――

 

 

 木綿季の入院してた病院がある神奈川県横浜市から、和人たちが生活している埼玉県川越市までは、車で片道二時間かかる。

 今回は法定速度以下の安全運転で走っていたので多分その予定時間よりもかかることだろう。

 

 そして二輪というのは後部座席で乗っているだけでも疲れがたまる。リハビリを終え、退院したばかりの木綿季には体力的な問題もある為、和人はこまめに休憩を挟んでいた。

 

 しかし、三年ぶりに見る外の世界は何もかもが新鮮だった。通り過ぎる看板、道路標識、道行く人々、何もかもが見ているだけで楽しい。

 

 首から上だけを動かし、様々なものを視界に入れて楽しんでいた木綿季であったが、とあるものが目に入った途端に、そこに視線が止まってしまった。

 

「あ……」

 

「……ん? どうした木綿季」

 

 木綿季がヘルメット越しの篭った声を発すると、それが気になった和人が声をかける。

 木綿季の視線の先に写っていたのは、仲良さそうな一般家庭の四人家族の、仲良くしている光景であった。

 

「えっと、あそこの家族、楽しそうだなって……」

 

 ちょうど信号待ちになり、バイクを停止させた和人も、木綿季の指さした方向に視線をやる。するとそこには父親、母親、そして娘二人の四人家族が、楽しそうにレストランに入っていくやりとりが見て取れた。

 

「……いいなって思って……」

 

「…………」

 

「ボクも、あんなふうになれるかな……」

 

「……なれるよ、木綿季なら」

 

「……ありがと……」

 

「信号変わった、出すぞ……」

 

「……うん♪」

 

 地面についていた片足を上げ、和人はまたアクセルを蒸しだした。木綿季は先程よりもより力を込めて、和人にしがみつき、背中越しに和人の暖かさを感じとっていた。

 

 やがて二人は一般道路と有料道路を経由し、道中休憩を何回も挟み、桐ヶ谷家の自宅がある川越市に近付いていた。時刻は既に13時。お昼どきを大きく過ぎていた。

 

「木綿季! 腹減ってないか?」

 

 バイクに固定されたスマホのナビの時計に目をやった和人が、木綿季の空腹状態を尋ねる。

 

「ペコペコだよー! どこかでお昼にしようよ!」

 

「そうだな! 何か食べたいものあるか?」

 

「そうだねー!……あ! ボク、ハンバーガー食べたい!」

 

「いきなりジャンクフードか……OK、んじゃあ俺のよく行ってたところに行くぞ」

 

「やったー! わーい!」

 

 

――――――――

 

 

 同日13:25 埼玉県川越市アクドナルドハンバーガー川越店

 

 

 二人はハンバーガーチェーン店アクドナルドに立ち寄っていた。

全国的にも世界的にもファストフード店で一番有名なハンバーガーチェーン店だ。

 和人は敷地内の駐輪場にバイクを停め、先に自分がバイクから降りると、手を差し伸べて木綿季が安全に降りれるように配慮する。

 

 木綿季はそんな彼の手を掴み、ぴょんと可愛らしく跳び、地に足を下ろす。そして二人で仲良く、アクドナルドの店内へと足を運んでいった。

 

 お昼の時間を割と過ぎていたので店内の客足はそれほど多くはなかった。全体的に黄色とオレンジを基調とした内装は、見ているだけで食欲を掻き立てる見た目になっている。

 それと同時に、わくわくするような、楽しくなるように配慮もなされていた。

 

 久しぶりに外の世界の飲食店に足を運んだ木綿季はというと、目をきらきらとさせながら、カウンターに展示されているメニューの豪華さに大興奮していた。

 

 ハンバーガーはもちろん、豊富な数多くのサイドメニューに感動を覚え、今のハンバーガーはこんなふうになっているのかと、軽くカルチャーショックを受けている様子だ。

 とても来年度から高校生になるとは思えないリアクションであった。

 

「和人! すごいよ! 今のハンバーガーってこんなに種類があるんだねー!」

 

「まあ、定番物から奇抜なものまでいろいろだ。俺はここだと辛い物がメニューにないから……少しだけ不満なんだけどな」

 

「へー、和人って辛い食べ物が好きなんだ」

 

「ああ、でもスグたちは俺の味覚はおかしいっていうんだよ。辛い物の魅力がわからないとはな……勿体ない」

 

「あはは……、あ、ねね、とりあえず頼んじゃおうよ」

 

「そうだな……木綿季は何にする?」

 

「えっと……そうだねー……、んじゃあ和人と一緒のでいい!」

 

「ふふ、あいよ、ちょっとまっててな」

 

 和人は木綿季からメニューを聞き届けると、レジまで足を運び、てりやきバーガーのセットを二つ注文した。

 バーガーとポテトとコーラセットの二人分だ。

 

 注文を受けた店員が会計を済ませると、奥の方で調理が始まり、鉄板の上でパティがジュウジュウと焼かれる音、ポテトがいい音を立てて油で揚がる音、紙のカップに氷とコーラが注がれる音が鳴り響く。

 三分ほど経過し、木綿季が目をキラキラさせながら待っていると程なくしてメニューがお盆に乗って運ばれてきた。

 

「おまたせ、ほいこっち木綿季のな」

 

「やった! ありがと!」

 

「ふふ、折角だから窓際に座るか」

 

「うん!」

 

 二人はお盆に載っているバーガーセットを運びながら窓際に一番近い席に陣取った。

 外の風景がよく見える。海沿いや山沿いのいい景色とはいかないが、木綿季にとっては、ずっと憧れていた一般家屋が立ち並んだごく普通の景色だ。

 

「いただきます!」

 

「いただきます」

 

 木綿季はてりやきバーガーが包まれている紙を剥がして、大きな口でかぶりついた。あつあつのバンズとレタス、そして肉汁たっぷりのパティ、そして極めつけは秘伝のてりやきソースとマヨネーズの濃厚な味が、口全体に広がる。

 しかし、そんなソースが他のバーガーよりも多く使われているので、バーガーからはみ出したソースが木綿季の手を汚してしまった。

 

「あ……木綿季、手が汚れてるぞ。ちょっと貸してみろ」

 

「うにゃ?」

 

「……よし、OKだ」

 

 汚れてしまったことに気がつかない木綿季の手を、和人はテーブルに備え付けられている使い捨て濡れタオルで丁寧に拭う。

 

「ありがと、和人!」

 

「そのバーガー、ソースが多いから気をつけろよ? 言うの遅かったけど」

 

「うん! でもこれ美味しい! 病院の食事とはまた全然違う味だねー!」

 

「まあ、これがジャンクフードってやつだよ。自分たちで作った方が体にはいいが、たまーに食べたくなるんだよな」

 

「だね! なんかちょっと癖になるかもしれないね、この味!」

 

 何のことないごく普通の会話を二人は交わしていた。

 ちょっと前まではこのような会話すら出来ない状態にあったことを考えると、いろいろと思うことがある光景だった。

 和人はこれからも毎日こうしていけるように、木綿季を守っていこうと、そう思っていた。

 

「えへへ……美味しいね、和人!」

 

「そうか……よかったな、木綿季」

 

「うん!」

 

 木綿季はすごく楽しそうだった。病院から出て少し寂しい気がするかと思ったが、外の世界の何もかもが刺激的過ぎて、楽しいと感じてくれていた。

 これからもっと色んなことを二人でやっていけると思うと、毎日が楽しくてしょうがないだろう。

 

 他愛のない会話を続けてるうちに、二人はバーガーセットを完食していた。木綿季にいたってはカップに入っている氷も一つ残らずバリボリと噛み砕いて全部食べてしまっていた。

 

「美味しかったー! ご馳走様!」

 

「ああ、ご馳走様」

 

 食事を終えた二人は、少しだけそのまま休憩し、そろそろ行こうかとお盆と紙ごみを片付けて、退店した。

 

 実に数年ぶりにジャンクフードを口にした木綿季は、テリヤキバーガーとポテトの味が忘れられないのか、味の余韻がまだ口の中に残っているようだった。

 

「はぁ……美味しかった♪」

 

 外に出ると和人はスマホを取り出し、自宅にもうすぐ家に着くということを知らせた。

 

「もう、お家近いの?」

 

「ああ、多分あと十分ぐらいで着くぞ」

 

「そうなんだ、もうお家が……近いんだ」

 

 木綿季はいよいよ辿り着く自分の家にワクワクを隠しきれなかった。AIDSを患ってからずっと病院暮らしだった木綿季が、ごく普通の家に帰れる。

 

 横浜にある家ではないが、帰りを待ってくれる人がいる家に帰れるのだ。いよいよそのことが間近に迫ってきた木綿季は、気持ちが高ぶっているのを感じていた。

 

「よし、帰るぞ」

 

「……うん」

 

 

―――――

 

 

 同日午後14:10 埼玉県川越市 桐ヶ谷邸

 

 

 二人を乗せたバイクは片道三時間、休憩も含めると四時間を費やし、漸く桐ヶ谷邸へと辿り着いていた。

 和人はいつも停めている自宅敷地内の位置にバイクを停車させて、エンジンを切り、サイドスタンドを立てて停車させる。

 バイクを停めた和人は先にバイクから降りて、木綿季に手を差し伸べて降りられるように手を貸した。

 

「ん、ありがと!」

 

 和人の手を借り、木綿季はシートからピョンと跳ねるようにして降りた。今日だけで何回も同じ動作を繰り返したおかげで、すっかりもう慣れた様子だ。

 バイクから降りた木綿季は疲れた体をほぐすような伸びをして、これから自分が暮らす事になる桐ヶ谷邸を見上げていた。

 

「わあ……ここが和人の、ボクのお家なんだ……」

 

 木綿季は桐ヶ谷邸の大きさに驚いているのもそうだが、ここがこれからボクの家になるんだという、少しだけ複雑な気持ちも抱いていた。

 

 始めて訪れるこの家が、自分の家。そう考えるだけでいろいろなものがこみ上げてくる。

 どうやって暮らしていけばいいか、新しい生活に慣れるかどうか。どう家族と付き合っていけばいいか。

 いろいろ思うことはある。しかし、隣には和人がいてくれる。それだけで、なんだって出来る気がした。

 桐ヶ谷家の人間としてだって、きっとうまくやっていけるはずだ。

 

「ああ、今日から一緒に暮らすんだぞ」

 

「……うん」

 

 木綿季は和人の手を握った。それに気付いた和人も木綿季の手を優しくぎゅっと握り返す。

 お互いの体温を感じていると玄関の扉が横にスライドして開いていき、中から翠と直葉が待ってましたと言わんばかりに姿を現した。

 

「おーそーいー! 片道二時間って言ったじゃなーい!」

 

 直葉は顔を見せるなりいきなり和人に対してクレームを出してきた。聞いてた時間と全然違うじゃない、一体どういうことなのよ、と顔から不機嫌さマックスで和人に食ってかかる。

 

「しょうがないだろ……法定速度以下で走ってて休憩も小刻みに挟んでたんだから……」

 

「まあまあ直葉? 木綿季に怪我させたら元も子もないのだから、仕方ないじゃない?」

 

 お冠の直葉に翠が間に仲裁に入る。自分の母親に諭された直葉は「まあ……しょうがないなあ」と納得し、改めて木綿季が桐ヶ谷家の敷居を跨ぐことに、歓迎の姿勢を見せていた。

 そして、家の中から二人が出てきたことによって、ここが本当にボクの家なんだなと木綿季は改めて実感し始めていた。

 

 すると和人、直葉、翠の三人が玄関の前に横一直線に並ぶ形で整列し、一斉に木綿季の方を振り向き、温かい笑顔を見せた。

 木綿季はその光景を不思議そうな顔をして眺めていた。頭の上には?マークが浮かんでいる。

 何だろう? 何が始まるんだろう? と思っていた木綿季を出迎えたのは、彼女が予想していない言葉であった。

 

 

「おかえり、木綿季」

「おかえり、木綿季」

「おかえり、木綿季」

 

 

 三人の口から同時にその言葉が放たれた。

 木綿季はそれを耳にした瞬間、口を押さえて涙を流し、胸の奥からいろいろなものがこみ上げてきた。

 しばらく感情の高ぶりを抑えることが出来なかったが、少しずつ落ち着いてくると涙を拭いながら、長い年月、現実世界で口にしていなかった、あの言葉を……口にした。

 

 

「ただいま……」

 

 

 涙を拭いながら玄関に歩み寄ってきた木綿季を、和人、直葉、翠の三人は抱擁をして歓迎した。

 ようこそ桐ヶ谷家に、よく帰ってきてくれたと、温かい言葉で木綿季を迎え入れてくれた。

 来たばかりでまだ慣れないかもしれないが、やがて少しずつ馴染んでいき、完全に家族の一員になることだろう。

 

「ねね! 記念写真撮ろうよ! 木綿季が家族になった記念に!」

 

 直葉がここで写真を撮ろうと提案を持ち出してきた。和人が「いい案だな」と言うと、すぐさま直葉が家の奥から三脚付きのデジカメを持ってきた。

 

「お、おい……これ父さんのじゃないか、勝手に使って大丈夫なのか?」

 

「へーきへーき、使ったらデータだけ吸い出しちゃえばわかんないって!」

 

 こういう時だけ悪知恵が働く直葉であった。父親のものを勝手に使ってしまったら、怒られるのは当然なのだが、今回ばかりは和人はしょうがないなと考えていた。

 なにせ、今日は特別だ。木綿季が自分たちの家族になるんだから、これくらいのことは許されるはずだ。

 

「え、えっと……お兄ちゃんこれどうやるのー? スマホと全然違うよー!」

 

「……まったく、しょうがないな……」

 

 デジカメの操作方法がイマイチわからない直葉であったが和人に助けを求め、代わりに操作をしてもらう。

 タイマー付きのシャッターをスタンバイさせて「みんな、カウント始まるから並ぶんだ」と言い放ち、全員がフレーム内に収まるのを確認して、シャッターボタンを押した。

 押した和人はそそくさとフレームインする位置に並びカウントが終わるのを待った。

 

「もうシャッターが切られるぞ! ……3! 2! 1!」

 

 ――カシャッ――

 

 

【挿絵表示】

 

 

 和人は撮影した画像データを早速父親のプリンターで取り込み、プリントアウトすると木綿季に手渡した。

 木綿季にとって現実世界に帰還してからの、初めての家族の思い出の品であった。

 

「ありがとう……ボク、大事にする……!」

 

「うふふ、あとでラミネート加工してあげるからね」

 

 写真を撮り終わった一行は玄関をくぐり、家の中へと上がった。

 上がり框に腰を下ろし、履いてきた靴を脱ぎ、持ってきた荷物を手に取り、和人と木綿季は和人の部屋へ、直葉はデジカメを戻しに両親の寝室に、翠は既に夜ご飯の下ごしらえをしに、台所へと足を運んでいった。

 

 玄関に上がって正面に見える階段を上り、木綿季は和人とともに彼の自室へと進んでいく。

 部屋の前までたどり着くと、和人がドアノブに手を伸ばし、ひねって開き、先に入ると木綿季の方を向き、ハンドサインで「木綿季も入れよ」と合図する。

 

「えっと、お邪魔しまあ……す?」

 

「別にお邪魔しますってのは変じゃないか? 今はまだお前の部屋でもあるんだからな」

 

「あ……うん、そう……なんだけど……」

 

 木綿季が緊張するのも無理もない。

 初めて上がる家の、初めて入る他人の部屋が、自分の部屋でもあると聞かされて落ち着くわけがない。

 

 落ち着かないが、でも不思議と安心出来ていた。見慣れないものが多いが、ここが和人の部屋だということが、彼女を安心させているのだろう。

 

「まあ、直に慣れるさ」

 

「あはは、そうだね……」

 

 和人は持ち出していた荷物を床に降ろし、ベッドに腰を落ち着かせた。ぼーっとドア付近でいつまでも突っ立ってる木綿季に対し、自分の横をぱんぱんと手で叩き、無言でここに座れと合図を送っていた。

 

「えと……んじゃ失礼して……」

 

 木綿季はお言葉に甘えて和人のすぐ隣に腰を下ろした。するとベッドのマットが少しだけ上下に揺れると、優しく彼女を受け入れた。

 それと同時に安心したのか心が落ち着いたのか、木綿季は大きく息を吸い、そして大きく吐き出した。

 

「疲れたな……」

 

「うん、ちょっとクタクタになっちゃった」

 

 和人はそのまま上体を後ろに倒し、完全にリラックスモードになっていた。木綿季もその様子みると、同じように真似て上体を後ろに倒し、和人と川の字になって寝転んでいる形となった。

 

「……終わったんだな、全部」

 

「うん、終わったんだね……」

 

 和人と木綿季はようやく終わったんだと、達成感を感じながら天井を見上げていた。今の今まで、激動の毎日が続き、こうやって静かに休まる余裕がなかった。

 しばらくしてぼーっと佇んでいると、二人の顔の位置が非常に近くなっていた。少しだけ意識してしまうとお互いに顔を赤くしたまま固まってしまっていた。

 やがて気まずくなったのか、木綿季は視線を逸らして天井付近を見つめていた。

 

「あのね? 和人……」

 

「……何だ?」

 

「ボクね、ずっとずっと考えてたことがあったんだ」

 

「……考えてたこと?」

 

「うん……、あのね、ボク、何のために生まれてきたんだろうって、今までずっと考えてたの」

 

「何の……ために……?」

 

「うん……。死ぬために生まれたボクが、この世界に存在する意味は何だろうって。何も生み出すことも、与えることもせず、たくさんの薬や機械を無駄遣いして、周りの人達を困らせて……、自分も悩み……苦しんで……」

 

「…………」

 

「その果てにただ消えるだけなら、今この瞬間にいなくなった方がいい。何度も何度も……そう思った……」

 

 木綿季は仰向けの状態で天井を見つめながら、その瞳に涙を浮かべていた。やがてあふれた涙は木綿季の頬を伝い、重力に引っ張られて和人のベッドを濡らした。

 

「何でボクは生きてるんだろうって……ずっと……」

 

「木綿季……」

 

「でも……でもね? ようやく……答えが見つかった気がするよ……」

 

 そう言うと木綿季はむくりと上半身を起こして、和人の方を向き言葉を続けた。

 

和人と出会えたこと(・・・・・・・・・)、それがボクの生きる意味(・・・・・)だったんだ……」

 

 その言葉を聞いた瞬間、和人は上体を起こし、力強く木綿季を抱き締めた。抱きしめずにはいられなかった。今抱きしめないと、またこの少女がどこか遠くへいってしまうような、そんな感覚を覚えた。

 

「和人と出会えて……いっぱい愛を注いでもらって、ボクに生きる意味をくれた和人が、ボクの人生そのものだったんだ。和人は……ボク(・・)だったんだ……」

 

「俺もな、木綿季と出会えて、色んなものを受け取った。これまでの人生で一番大切なものを贈ってもらった。木綿季も俺の人生そのものなんだ……」

 

 互いのおかげで今の自分が、こうしてここにいる。いることができる。その想いを伝え合うと、二人はまた、心の底からこみ上げてくるものを感じていた。

 

 いろいろもっと伝えたいことはあるが、まず初めに伝えないといけないことがある。

 二人は大きく息を吸い込むと、一旦気分を落ち着かせて、静かに口を開き、想っていることを、互いに伝えあった。

 

「木綿季……生きててくれて、ありがとう……!」

 

「和人……ボクを愛してくれて、ありがとう……」

 

 

【挿絵表示】

 

 

 




 
 ここまでご愛読いただき、誠にありがとうございました。これにてボク意味闘病編は無事完結となります。これまでの応援声援本当に感謝しきれません。

 お陰様を持ちまして、木綿季は五体満足のまま日常へと復帰を果たすことが出来ました。何の変哲もないごく普通の日常ですが、それこそが木綿季が憧れていた世界です。

 その世界にしっかりと木綿季を返すことが出来て、私は感無量でございます。これまでに登場人物にも私自身にも様々なドラマがありました。

 たった一ヶ月でここまで駆け抜けてこれたのも、皆様のお陰です。くどいようですがもう一度言わせていただきます。

 この作品とユウキを愛してくれてありがとうございました。

 全40話に渡って走り抜けてた闘病編は一旦幕を閉じます。しかし、前回でも述べた通りボク意味自体は終わりません。
 まだ日常編が残っていますから(笑)
 これまでと違ったドラマを展開できると思います。


 これまでボク意味に付き合っていただいた方に改めて私から気持ちを伝えさせていただきます。それではまた次回作、次回編でお会いいたしましょう。

 ご愛読、ありがとうございました!
 

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