ソードアート・オンライン マザーズ・ロザリオ ボクの生きる意味 作:むこ(連載継続頑張ります)
先ほども読者の皆様から手に持ち切れないほどのお土産を頂戴致しましてこの場を借りまして厚く御礼を申し上げます。なお、読者の皆様にお知らせがございます、私の帰りの鞄にはまだ若干の余裕がございます!
てなことはないわけで、本当にありがとうございます。皆様のお力添えがなければ途中でガラスのハートが粉々になってたことは必至でした。これからも長いスパンで応援をいただければと存じます。 前書きが長くなりましたが、10話本編をどうぞ!
先ほどの告白からそれとなく時間が経過していた。アスナが導いた出会いから、キリトとユウキは親友から恋人へとその関係を深めたのだ。
爽やかで温かく、優しい夕風がアルンに流れていた。木々がその風でゆれ心地よい自然音を奏で、空は真っ赤な夕焼け空となっていて、沈みかけの夕陽がアルンの街並みを優しく照らし、二人はそれをずっと瞳に映し続けていた。
「キレイだね……」
「ああ……」
キリトのお気に入りの丘に二人は腰をおろしていた。ユウキはキリトに肩を預け、キリトはそれを支えながら右手をユウキの背中にまわし、優しく抱きとめていた。
ユウキはその体勢がすっかり気に入ったようで心から安心しているような微笑みをこぼしていた。
「ボクね、夕焼け……好きなんだ」
キリトが「そうなのか」と返すと、ユウキはキリトにさらに密着し、ゆっくりとした口調で語り始めた。
「HIVに感染してAIDSを発症して、病院暮らしになって。無菌室に移るまでの間…窓から見える風景だけがボクの癒しだった。一年間通していろんな風景になるけどさ、ボクはやっぱり毎日見れる夕焼けが好きだな……」
「そうか……俺も夕焼けは好きだけど、夕焼けから夜に変わりつつある時も好きだな。夕焼けと夜空のいいとこどりしてるみたいでさ」
「そうなんだ……。んー、ボクはやっぱりこの真っ赤な夕焼けかな……」
「…………」
「キリトとの思い出があるし、前住んでた家でも、よく見てたんだ……」
ユウキはそう言うとキリトに視線を映し満面の笑顔を見せた。夕焼け色に染まった彼女の笑顔は儚く、美しく、愛おしかった。キリトはそう思うと自分の額をユウキの額に当てた。小さく「あいたっ」と言う声が聞こえた気がした。
「いつか現実の夕焼けをまた見せてやるからな、絶対に」
「……嬉しいな……、ありがとう……キリト」
それを聞いたユウキは嬉しくなり、キリトの手を力強く握った。キリトもそれに応えるかのように握り返した。ユウキが瞳に涙をうっすらと浮かべながらキリトに礼の気持ちを伝えた。そしてユウキはあることが気になり、キリトに尋ねてみた。
「ねえキリト、一つ聞いてもいい?」
「……なんだ?」
自分から聞いておいておきながら、ユウキは急に顔を赤く染めてしまっていた。恥ずかしくなってしまうぐらい聞きづらいことなのだろうか? 中々口に出せないユウキをすぐ横で見ていたキリトは待ちきれずに、答えを急かした。
「なんだよ、言いづらいことなのか?」
「いや、そうじゃ……ないんだけど……」
ユウキは自分の左頬を左手の人差し指でぽりぽりかきながら、言い出そうかやめようかためらっていた。やがて少しだけ勇気をだして、顔を赤らめながらキリトに聞きたいことを言葉にした。
「あ、あのね。どうしてボクなんかを……好きになってくれたのかな、って……そう思ってさ……」
その言葉を表に出すと、ユウキは下を俯いて、恥ずかしながらも、少しだけ寂しそうな表情を浮かべていた。今まで人から、ましてや男の子から好きと言われたことがないユウキにとって、キリトからの好意は大変に心から嬉しいことだった。
しかし、病気を治してやると決心していたとしても、すぐ死んでしまう可能性がある人を好きになるということは、並大抵の覚悟で出来ることではない。そこが気になり、ユウキはキリトにこの質問をぶつけたのだ。
「なんだ、そんなことか……」
キリトは半分呆れ顔で、もう半分ほっとしたような安堵の表情を浮かべた。深く息を吐くと、柔らかい表情を浮かべながらユウキの体をこちら側に向かせて、優しく、そして温かくユウキを抱き締めた。
「キリト……?」
ユウキは頭に?マークを浮かべながら、キリトの抱擁を受け入れていた。ボクを抱き締めてくれるのがその答えなの? ボクには難しくてよくわからないなと思いながらも、キリトの優しさと温かさに酔いしれていた。
しばらく抱き合っていると、やがてキリトはユウキを抱き締めたまま、先ほどの質問に対する答えを、ユウキの耳元でささやきだした。
「大切な人を……誰一人失いたくなかったからだ」
「え……?」
そう言うとキリトは抱擁を解き、ユウキと向かい合う形になるぐらいまで、半歩分の距離を置くとその話の続きを語り始めた。ユウキはきょとんとした表情で、キリトの話を聞き入れ続けた。
「……うじうじしてた俺に俺にぶつかってきてくれて、元気づけてくれて、触れ合ってくれて。本当に俺のぽっかり空いた穴に、ユウキはいろいろなもので埋めてくれた」
「…………」
「その時には、多分もうユウキの事を好きになってた。そしてユウキが自分の弱い部分を俺に見せたときに、守ってやりたい、一生傍にいてやりたい、助けてやりたいって、そう思ったんだ……」
「……そう、だったんだ……」
ユウキはキリトからの答えを聞くと、嬉しそうに、そして安心したようにキリトの胸に頭を埋めていた。仮想世界のアバターでもその心臓の鼓動、体の温かさが芯まで伝わってきている気がした。
「俺はユウキを……お前を失いたくない、絶対に助ける。お前に俺の……一生を捧げる」
「い、一生を……」
事実上のプロポーズともとれるその恥ずかしいセリフを聞いた瞬間に、ユウキはさらに顔を真っ赤にしてしまっていた。
嬉しい、確かに嬉しいが、真正面から真顔でそんなことを言われてしまってどうしたらいいかわからず、ユウキは困り果てていた。そして十数秒の間の後、ユウキはキリトからの気持ちに応えるように、自分の心からの想いを改めて口にした。
「ボクもね、多分……キリトと一緒に遊んでるうちに、キリトのこと好きになっちゃってたんだ。病気のこともあるから、無意識にその気持ちを抑え込んでいたんだけど……」
「……そうか」
「あのね、ボク……男の子から好きって言ってもらうの、初めてなんだ……。男の子のことを好きになるのも、初めてなの……」
キリトの胸に体を預けながら、ユウキはキリトへの想いを語り続けた。自分の初恋、そしてやがて命の恩人になるであろう、一番大好きな男の子の胸を借りながら、キリトへの想いを語った。
キリトはそんなユウキを優しく抱き留めて、その想いを心に受け止めていた。
「んじゃあ俺はユウキにとって……初恋の相手、なんだな…」
「……うん」
「嬉しいな……」
「……ボクも初めて好きになった人が、キリトで良かった……」
ユウキは自分の初恋がキリトであることに心から嬉しさを感じると同時に、安堵していた。叶わぬ恋でなくてよかった、ボクの一方通行じゃなくて良かったと、心から安心していた。
ユウキの気持ちを受け取ったキリトは再びユウキを抱く手に力を込め、ユウキを体いっぱいに感じていた。ユウキも大好きな人からの愛情を、温かさを、同じように体全体で感じ取っていた。
「あとさ、あの時ボクを元気付けてくれたのは……やっぱりキリトだったんだね……」
「ん? あの時……?」
「うん、ボクが悲しい夢を見たって言った時さ、キリトがボクに独りじゃないって言ってくれたコト……あれ、やっぱり夢じゃなかったんだ……」
「どうしてそう思うんだ?」
「……だって温かかったから……」
温かかったからというユウキの答えにキリトは無言で返事を返した。ユウキは何も言ってくれないキリトに少しだけムスッとしたがすぐに機嫌を直していた。
今抱きしめてもらっている温かさと、あの時感じた温かさは、紛れもなく同じだったからだ。
温かい、恋って……こんなに温かいものなんだ。全然知らなかったな。自分には決して許されることじゃないって今までずっと思ってた。
でもそうじゃないんだね、ボクも……誰かを好きになっていいんだね、恋に堕ちていいんだね、一緒に傍にいて……いいんだね……。
「あ、そうだ。すっかり忘れてた」
キリトが突如、何かを思い出したかのようにユウキを抱き締めていた左手の抱擁を解き、やにわにメニューを表示しアイテムストレージを開きだした。
メニューを開くため急に姿勢を変えたお陰でユウキがキリトの体からずり落ちてしまった。「せっかくいい雰囲気だったのに…」と若干不機嫌気味に小さい声で愚痴をこぼしたユウキの前に、キリトがあるものをストレージから出しオブジェクト化した。
ユウキが投げ捨てた愛剣のマクアフィテルであった。
「あ! ボクの剣だ!」
ログアウト前に投げ捨てた剣のことを、ユウキはすっかり忘れていた。キリトに「ありがとう!」と礼を言うと剣を受け取り鞘に納め、「ごめんよごめんよ」と剣を撫でた。その様子はまるで小動物を可愛がる光景みたいで、何だか少しだけ微笑ましかった。
「あと、ほらこれ」
キリトはストレージからもう一つアイテムを取り出すとユウキの手に直接握らせた。ユウキが「ほえ?」と口走る。握らせたユウキの手からキリトが自分の手をどけると、そこには真っ黒でありながらも紫色に輝く宝石のついたネックレスが夕日に照らされ輝いていた。
ユウキの手には29層のフロアボスを倒した時に出たラストアタックボーナスのドロップアイテムが握られていた。
"ブラックアメジストネックレス"
STR+15、AGI+30とユウキの戦闘スタイルにぴったりの装飾品だ。効果も、そして見た目も。ユウキは手のひらのネックレスを見つめた後、キリトに視線を移し「どうしてこれを?」といった表情でキリトの顔を見た。
「え、キリトこれって……」
「元々お前のモンだぞ、知らなかっただろうが今日倒したボスのドロップアイテムだ。ユウキ、リザルトしないまま落ちたろ? だからストレージに入らないまま外に弾き出されてたんだよ」
「そうだったんだ、拾っておいてくれてたんだ……! ありがとう! キリトー!」
そう言い放つとユウキはネックレスを握りしめたまま、キリトに飛びついた。キリトも飛びつかれるとは思わなかったのでそのまま押し倒されるように仰向けの体勢になった。
先ほどの切ない様子とは打って変わって、今度は元気いっぱい活発なユウキがそこにはいた。
「わーいキリトがベッドだー!」
ユウキは無邪気な子供みたいにキリトにのしかかった体勢のままはしゃいでいた。しかしいくら女の子が軽いといえど、体に乗っかられた上に暴れられると苦しくなってくる。
「ちょ……、ユウキさん苦し……痛いですって! あと重た――」
――シュンッ
言葉の途中で何かが空を切る音が聞こえたかと思うと、キリトの喉元にマクアフィテルの剣先が向けられていた。PK保護圏内なのでHPが減る心配はないのだがそれとは別の意味でキリトは命の危機を感じていた。
馬乗りに乗られて体の自由を奪われ、エモノを喉元に突きつけられたらもう殺される自信しかない。
「ボクが……何? よく聞こえなかったんだけど……? キリト……?」
キリトは冷や汗をかき、息を飲んだ。もしかしたらユウキより先に俺が死んでしまうのではないかと戦慄が走った。ユウキの周りには気のせいじゃなければドス黒いオーラが漂ってる…気がした。
「なっ何でもございません……何も申しておりません!」
「ならよし♪」
過去に見たことがないある意味最高の笑顔を作りながらユウキはマクアフィテルを腰の鞘に戻し、キリトの体から降りた。それと同時にユウキの笑顔は「二度目はないからね?」とでも言いたげな意味も込められているようにも見えた。
(俺、もし結婚したら尻に敷かれるのかな……)
将来はユウキと結婚、そんな考えが頭の中を巡っていた。しかしそんな未来もいささか悪くないかなと思った。それを現実にするために、これから戦っていかなくてはと改めて決心したのだった。
「あ――――っ!!」
急にユウキが大声をあげた。顔が近い位置で叫んだのでキリトはついつい片目をつぶり、耳を押さえた。少しばかり鼓膜にダメージを貰ったようだ。ユウキは慌てた様子でキリトに現在の時刻を尋ねていた。
「キリト! 今何時!?」
「え、何時って……今は19時前だな、何か予定でもあるのか?」
ユウキはキリトから時間を聞くと、「やっちまったなあ……」といった顔をしながら右手で頭をポリポリかいた。
「しまったなぁ、19時から検診が始まるんだよ。今日ボク一回心臓止まりかけたみたいでさ、ちょっといつもより長い検診かも……」
「一度心臓が止まりかけた」さりげなくとんでもなく恐ろしいことをサラリとさもいつもの出来事かのように言う奴である。事実なのだから致し方ないが。
「そ、そうか……じゃあ、今日はここまでだな」
「……そうだね、もうちょっと一緒にいたかったな」
「また会いに来るさ、何なら毎日見舞いに来てやるぞ」
「ホント!? じゃあお言葉に甘えちゃおっかな〜?」
二人がそんな微笑ましいやりとりをしているうちに、お別れの時間がやってきてしまった。もっともっと一緒にいたいが、そういうわけにもいかなかった。
キリトは自宅へ帰らなければいけないし、ユウキはログアウトして、倉橋の検診を受けなければいけなかった。
ユウキは寂しそうな表情を浮かべながらキリトの顔を見つめていた。そんなユウキを元気づけるかのようにキリトは優しい表情でユウキを見つめ返していた。ユウキを安心させるように、心配させないように。
「キリト……」
「何だ?」
「あの、ぎゅってしてほしいな……」
少しの笑みを見せた後、キリトはユウキの体をこちら側に向かせ自分の胸元にユウキを抱き寄せた。今度はほどほどの力を込め、優しく包み込むように。ユウキに自分の気持ち、想い、温かさ全て伝えるように……。
「大丈夫だ、絶対助けてやる。だから…待っててくれ」
「うん。ボク、キリトを……ううん、和人を信じてるよ……待ってるね……」
互いの体温を精一杯感じた二人はゆっくり抱擁を解くと、左手でメニューを開きログアウト欄を表示した。そして手を握り合い、視線を合わせると、笑顔を見せながら同時にログアウトした。
――――――
同日同時刻 神奈川県横浜市金沢区 横浜港北総合病院
「ん……ここは……」
和人は現実世界に戻ると見慣れぬ天井を見上げていた。いつもの自分の部屋ではない、白くてきれいな壁、見慣れないデスク、そして慣れない硬さのベッド。今いる部屋の周りを見渡すとここでアミュスフィアをかぶっていたことを思い出した。
「そうだ、木綿季の病院に来てたんだ……」
和人は寝ている自分の体の上体を起こし、アミュスフィアをデスクに仕舞うと、後始末を終わらせ部屋を出て家路に着いた。その途中、木綿季の部屋を横切ることになり、その途中で和人は立ち止まった。
無菌室のガラス越しに、メディキュボイドに体を包まれた現実の木綿季がベッドに横たわる光景が見えた。木綿季をずっと見ていると、突然どこからか和人の好きな声が聞こえてきた。
『かーずとッ!!』
その声はスピーカーから聞こえてきた。メディキュボイドの仮想空間から木綿季が和人に向かって名前を呼んだのだ。その声を聞いた和人に自然と笑顔がこぼれていた。
『またね和人! バイバイ!』
「ああ! またな! 木綿季!」
部屋を出る最後まで、カメラのレンズに視線を合わせながら和人は退出していった。これから忙しくなる、和人と木綿季の、文字通り本当に命を賭けた戦いの幕が切って落とされた。
――――――
「……ん、あの人は……」
和人が帰路につくためにいそいそと病棟の廊下を早歩きで進んでいると、向こう側から見知った顔がこちら側に向かって歩いてくるのが確認出来た。
向こうも和人が歩いてきていることに気付き、読んでいた書類から目線を和人に映し、アイコンタクトを交わしていた。
「おや……和人君、木綿季君との面会の方は……もういいのですか?」
「はい、木綿季に俺の気持ちは……伝えました」
「……そうですか、それで……木綿季君は?」
「その事なんですけど……」
和人が改まった態度を取ると、倉橋は腑に落ちないような表情を見せていた。互いに自分の気持ちを無事に伝えられたのではないかと、そう思っていた。
確かにそれは成就された。木綿季と和人は互いに想いを伝え、恋人の関係になった。しかし、和人が倉橋に伝えたかったのはそのことではない。
それよりももっと、大事なこと、木綿季の身体のことについてだ。
「先生、単刀直入に聞きます。木綿季の病気の治る可能性は……あるんですか?」
和人から直球の質問を投げかけられた倉橋は、咄嗟に顔をこわばらせていた。この質問に答えるのはそう難しいことではない、しかし、その現実を受け入れるかどうかは、また別の問題だ。
倉橋は自分の顔にかかっている眼鏡の位置を直すと、医師の顔になり、今の木綿季の身体の現実を和人に説明した。
「では……正直に申し上げます。現在の木綿季君の容態ですが、ウィルスの活動が弱まっているとはいえ、AIDSの末期症状を迎えているという事実は変わりません」
「…………」
「HIVが弱まっても、体の免疫力が急激に戻るというわけではないのです。病気の根源を、HIVを……完全に駆逐しなくてはなりません」
倉橋の口からは、医師として淡々とした口調で木綿季の現状が語られた。和人も覚悟はしていたが、聞こえてくる残酷な現実に打ちひしがれそうになっていた。
倉橋も、木綿季の病気は無事に治ると告げることが出来れば、どんなに樂だろうか。しかし、HIVは……AIDSは、そんな簡単に片付けられる病気ではない。
免疫力というものは、それだけ人間がこの表社会で生きていくために必要なものなのだ。
「HIVウィルスを退治することは出来ないんですか……?」
「…………」
倉橋は黙りこくってしまった。当然だ、そんなことが出来ていたら、とっくに木綿季は治っている。木綿季の他にもAIDSで苦しんでいる患者が出ることも無い。
「私は医師です、藁をも掴む思いで現実的ではない手段を選ぼうとは思いません」
「…………」
「もしも……アレが手に入れば……」
倉橋は和人に聞こえるか聞こえないかぐらいの小さい声量で何かを呟いていた。彼の中にまだ木綿季を治すための算段があるとでもいうのだろうか。
「……いや、やめておきましょう。医師は軽率に話をするものではない……」
「……そう、ですか……」
「……他に、聞きたいことはありますか?」
「いえ、特には……」
「……わかりました」
和人は直接の主治医である倉橋から現実を聞かされると、両手で握りこぶしを作り、ぷるぷると震わせていた。
この世界は残酷だ、たった一人の少女を救えないぐらいに残酷に満ち溢れている。
普通に毎日を暮らせるていることが、どれだけの幸運の上に成り立っているかというのが、身にしみてわかる。
しかし今はそんなことはどうでもいい、俺は約束したんだ。病気を治してやるって約束したんだ。病気を治して、一緒に外を歩くって、約束したんだ!
出来るかどうかなんて知ったことか、やるしかないんだ……!
「先生、俺は木綿季の病気のこと……、諦めたわけじゃないですから……!」
「…………はい」
「……また来ます」
「わかりました、お気をつけてお帰りください……」
「……失礼します」
和人はそう言うと、厳しい雰囲気を出したまま、木綿季の入院している病棟を後にした。その背中を、倉橋は複雑そうな表情で見送っていた。
倉橋自身もわかっている、木綿季の病気は現実的に見て治るはずがない。自分だって治せるものなら治してやりたい。
しかし、出来ない。いくら医学が発達したとしても、治せないものは治せない。それは痛いほど今まで経験してきた。
今まで何人もの患者が自分の無力さゆえに目の前で死んでいった。悔しさに涙を流したこともあった。
そうならないよう、日々勉強した。医療に限界などない、そう思って毎日過ごしてきた。
現実を見ろ。
医学が万能? 笑わせるな、この世の全ての病気や怪我を治せるようになってから言え。
日々進歩してる? ならばこの目の前の少女を治してみせろ。出来るか? 出来るわけがない。
「木綿季君……、私は……」
――――――
和人は病院のフロントで来院のパスを返却すると、そのまま自動ドアを出て駐輪場に向かい、自分のオートバイに跨った。
いつものようにメットを被ってエンジンを起動、サイドスタンドを蹴ってそのまま自宅に向かってバイクを走らせていた。そして和人は帰路につきながら、これからどうすればいいか考えていた。
倉橋はああ言ったが、木綿季の病気は本当に治るのか? 一度整理してみよう……。
木綿季の病状は末期だ。体の調子がいいと言っても、いつ死んでしまってもおかしくない。さらに厄介なのが木綿季の感染したHIVが“薬剤耐性型”だということにある。
現存する抗HIV薬では木綿季の体に感染しているHIVの活動を抑えられない。これが非常に難儀である。
HIVの活動を抑えられればAIDSの発症を長期的に渡って抑えられ、人並みに生きられる。薬と付き合う一生が続くが普通に暮らせるのだ。
しかし木綿季はそれすらも叶わない。刻々とHIVウィルスは木綿季の身体を蝕んでいった。ああ、神はなんて残酷過ぎる運命を紺野家にもたらしたのだろうか。
木綿季の母親が無事に出産を終えられていれば、帝王切開時の輸血用血液が違うところから用意されたものであれば、最悪、感染したHIVウィルスが薬剤耐性型でなければ……。
運命の歯車があまりにも狂いすぎてしまい、一気に少女にのし掛かっていた。何か一つでも違うことがおこれば、木綿季はここまで苦しい思いをしなくてすんだのに……。
違う! 弱気になってどうする! 感染してしまったものは仕方がない! 木綿季に罪はない! もう後には引けない、引いちゃいけない! 何が何でも絶対に……助けないといけないんだ……!
和人はオートバイのアクセルを握り、スピードを上げ夜のハイウェイを突っ切っていった。何から始めていいのか全くわからない、しかしやらねばならない。やらなければ最愛の少女が死ぬ。ならばやるしかない、俺が木綿季を助けるんだ、この命に代えても。
ご観覧ありがとうございます。これから和人は大奮闘します。使える手は全て使い、利用出来るものは全部利用する。犠牲も厭いません。それがいい結果になるか悪い結果になるかは、皆様の目で直接見守ってください。また次回でお会い致しましょう。
愛読、感想、評価、お気に入り、本当にありがとうございました!