目の前に、人が落ちてくる。
見目麗しい男だ。支えを失って、派手に頭や肩をぶつけて無様に回転しながら倒れ込み、滑り落ちてくる。
割れるような悲鳴と歓声の中でも衣擦れの音がはっきりと聞こえ、滑落するその姿をはっきりと目に捉えた。その光景は、どこか遠い世界の出来事のようにも思えるほど、時の流れが遅い。
目を焼くような眩しい豪奢な白の衣装を、胸の中心から溢れ出している赤色の液体がじっくりと侵していく。
男は、見覚えのある顔をしていた。
人殺しの顔だった。
以前見たときにはもっと冷たい印象を受ける表情をしていたはずだが、今目の前に横たわるその顔には、不思議と穏やかな色しかない。
痛くないのだろうかと、間の抜けたことを思った。そして、美しいとも。
ぴちゃり、と。
抜けるような青空の下なのに、頬を打つ雫があった。おや、と目の前の美しい誰かから視線を外して、見上げる。
仮面だ――黒い仮面の男がいた。
その右手には鍔が華美に飾り立てられた装飾剣が握られている。その剣で、この人の胸を刺し貫いたのだ。その瞬間も間違いなく見ていたはずなのだが、記憶が曖昧になっているのかもしれない。こんなときに呆けていたのだろうかと、どこか他人事のように呆れながら頬を拭うと、指先が赤く濡れた。
再び視線を横たわる男に戻す。先程までよりも、胸の赤色は更に大きくなっていた。指先に擦りつけたのと同じ色だ。
「お兄様」
騒々しい中でも嫌にはっきりと響いたので、誰の声だ、と思ったが、何の事はない。自分の声だった。
口をついて出たらしい言葉に首を傾げる。
すらりと伸びた肢体は投げ出され、黒い髪は乱れている。かろうじて開いているだけの瞼の奥に、濃い紫色が見えた。生気のない顔にはどういうわけか安らかな笑みが浮かんでいる。
「お兄様……?」
出来の悪い夢だ。
この男がなぜここに倒れているのか、まるで理解できない。
唯一皇帝ルルーシュ・ヴィ・ブリタニア。
覇王となった彼は、圧倒的な知力と武力で、高みから民を睥睨し支配する存在のはずだ。今は、その権威を示すパレードの真っ最中で、怨嗟の声で喝采を叫ぶ民草に対し、彼は笑んで手を振っていたのに。
なぜその男が、今目の前で血を流して倒れているのか。
「あ……?」
震えている手を目の前に横たわる身体に伸ばす。
まず、その胸元。手のひらにべっとりと生暖かい液体がまとわりついた。このまま指先に少し力を込めれば、その細い体の奥深くまで沈めてしまえるだろう。吐息と鼓動が耳障りなほどにうるさい。濡れた手で拳を作ると、指の隙間から赤い色が溢れ出して、ぐちゅりと不愉快な生々しい音とともに零れ落ちる。
次に衣服。溢れて広がり続ける湿り気で、もはや上半身の半分以上がその色を変えていた。この細い体にもこれだけの液体が詰まっているのだと思うと、不思議な気持ちになる。よく見れば、剣の刺突は男の背中まで串刺しにしていた様子で、背中側からも溢れて豪奢な衣装を濡らし、水溜りのように床面を濡らして広がりつつあった。
そして、力なく垂れ下がった手に目が行く。
この手だ。この手が、ダモクレスの鍵を奪ったのだ。世界を平和にするため、何もかもを捨てる決心までしていたというのに、全て打ち砕いていった手だ。白く綺麗に見えても、この手はあまりにも多くの人の血に染まった手なのだ。
躊躇いはあったが、赤く染まった手でその細い手首に触れる。最初はほんの指先だけ。そこに体温を感じた瞬間に、しっかりと手のひらを触れさせた。
「……え」
何かが流れ込んでくるとしか表現できない不可思議な感覚だった。
直後、頭のなかに途切れ途切れの様々な映像が浮かび上がっては消えていく。
この世のものとは思えない砕かれた場所に、知っている顔が1つと知らない顔が2つ。その全員の声を知っている。
次に見えたのは、暗く広い玉座の間で向かい合う2人の男。手渡される仮面、忌まわしい力に救いを願いながら、交わされる呪いの約束。
更に遡り過去へ、過去へ、過去へ。最後に見えたのは、小さく暗い土蔵にあった確かに幸せな世界。
「あ、あ――ああぁぁあああああ!!」
誰かが叫んでいた。
誰もが叫んでいた。
その中心で、更に1つの叫び声が上がったとしても、それは誰の耳にも届かない。
だから、叫んだ。
わずかでもいい。その目が閉ざされてしまう前に、伝えなくては。本当の気持ちを、本当の思いを。
何もかも遅いことは、どこかで分かっていたように思う。両手でしっかりと掴んだその手には、もう何の力も感じない。それどころか、温もりさえ急速に失われていく。
――いやだ。いやだ、いやだいやだいやだ。
こんなものはおかしい。間違っている。ありえない。あってはいけない。
夢なら覚めてほしい。
こんなことを誰が望んだ。こんな結末を誰が欲した。
あなたが叶えるべき願いは、こんな悲劇ではない。
もっと小さい世界で、もっと温かくて、もっとささやかなものだったはすなのに。
熱が消えていく。
命が流れ出ていく。
そうだ。
こうして、ルルーシュ・ヴィ・ブリタニアは、唯一最愛の彼は――
Another
「……頭が痛い」
時間停止、絶対遵守――身近であったいずれのギアスにもかかったことはない。前者は使用者に作用しないものであるから、後者はその機会がなかったから。使われたことを覚えていないとは考えない――考える必要がない。だから、この頭痛がギアスの後遺症なのかどうか、判断がつかない。
めまいに耐えかねて視界を閉ざし、そのまま膝をついてしまった。眉間に指を押し当てて揉んでいるうちに耳鳴りは収まってくる。大きく深呼吸をして、左手の指から順番に動かして感覚を確かめていく。
「嚮団の訓練で耐性は付けていたつもりなのに……」
悪いのは、あの性悪の元皇女殿下だ。
めまいが落ち着いたところで、ゆっくりと立ち上がる。手足に震えはない。目を開ければ、太陽の光に一瞬だけ白く視界を灼かれてから、少しずつ色がついていく。そうして、身を包む服装にも目が行くと、見慣れた黒い制服であることに気がついた。
あたりを見回して再認識する。
「アッシュフォード学園、ね。幻覚か、催眠か……何にせよ、本当にギアスなのか」
手足の感覚ははっきりとしたもので、自由に動かすことができた。全身で陽光を感じ、髪を揺らす風もはっきりと感じられる。
首筋に鈍痛を感じ、手を当ててみると少し腫れている。痛みの質から考えても、明らかな打撃の痕跡。
「覚えがある場面だけど、ということは咲世子は……」
血溜まりを広げるメイドの女。痛々しい切創が切り破られた服から覗いている。
うめき声が漏れているが、意識はないらしい。頑丈な女だが、肩口から腰まで切り裂かれては命にかかわることは明らかだ。懐から携帯端末を取り出して、直ちに指示を飛ばす。
「すぐに医療班を。重傷者1名、肩口から腰にかけて大きな刀傷です。出血がひどいので、急いでください」
通信を切り、空を見上げる。
抜けるような、あるいは吸い込まれそうな青色。こんなに晴れていたのだったか。絶好のデート日和というやつだろうから、あの女はさぞ楽しい思いをしているに違いない。
端末を操作し、今度は機情に指示を出してヘリを用意させる。
例え無駄足であることを知っていたとしても、兄の元に一刻も早く向かわねばならない。ロロがロロ・ランペルージであるために、その選択は絶対だ。
目前では、駆けつけた医療班が負傷者の対応に当たり始めた。咲世子もまた応急処置を済ませられ、搬送されていくのを見送る。あれほどの重傷から僅か数日で復帰するのだから、東洋の武術もバカにしたものではない。
「ロロ様、ヘリの用意を急がせております。こちらへ」
「分かりました。対応は僕1人でしますから、戦闘員の同行は不要ですよ」
差し出された拳銃と防弾ベスト、ヘッドセットを受け取り、局員に続いて踵を返す。
この襲撃では、少ないながらも犠牲者が出た。襲撃者は、実直で忠義に厚い男だが、加減というものを知らない。人資源は丁寧に使ってもらいたいものだった。
ルルーシュ・ヴィ・ブリタニアはこの日、駒を手に入れる。そして、1つ日常を失って歯車が狂い、タガが外れていく。
兄を殺したのはーー最悪のシナリオを選ばせた決定打がナナリーの死だったことは、間違いない。
しかし、その下地は長い時間をかけてじっくりと形成されてきたのだろう。中でもとある少女の死が、ルルーシュにとって、二度目にして取り返しのつかない喪失となった。
間違いを犯したとは、ロロは今をもってなお考えていない。
殺人は日常だ。敵意も悪意も殺意も、そんなものは空気と何も変わらない。常に共にあり寄り添ってきた、何よりも親しんだ隣人だ。
命令があれば殺す。速やかに殺す。
だから、ロロを殺しかねなかったのは、むしろ学園の方だった。殺人ではない、監視役という中途半端な任務で飛び出した日向の世界は、日陰者には劇薬でしかない。
緩みきった空気に肌がひりついた。
賑やかな笑い声で脳が揺られた。
同年代らしい彼らが戯れる姿に目が焼かれた。
日々の授業や、放課後の生徒会活動は、体に染み付いた技術を抑え付けた。
『――ロロ?』
そして、この男が、ロロを後戻りできないほどに壊してしまった。
『どうした、何があった? おい、ロロ』
「……兄さん、気をつけて。咲世子がやられた。狙いは兄さんだ。僕もすぐ向かうけど、なんとか時間を稼いで」
『咲世子が……? どういうことだ、説明しろ』
愛おしいと思う。
この電話の先にいる兄が自分を愛していないのだとしても、この気持は変わらない。
言葉を選びながら事情を説明していたつもりが、伝えられたのは初めてのときと変わらない内容だった。用をなさないとは分かっている警告を発して、通話は終了する。
「――大丈夫、安心して。何度だって、兄さんは、僕が守るよ」
思いが本当に届いたのが自らの最期だけだったことは、分かっている。そして、それでかまわないと思っていた。ルルーシュに思いが届くことは既にそうして証明されているのだから。
/
ロロ・ランペルージは絶句した。
停止したエスカレーターを駆け下り、煙幕が残って視界が不明瞭なフロアに辿り着くまでは経験済み。
相対するは、似合わない拳銃を震える手に携えた一人の女。華やかな美しさはないが、年相応の純粋な可愛らしさを備えた生徒会のメンバー。先日のとあるイベントで、晴れて兄の恋人ーー無論、ロロは認めないーーと相成った純真の少女。
ーーの、はずだった。
「私ね、やっぱりルルが好き」
シャーリー・フェネットは、確かにそこにいた。
手足には細かい擦り傷や切り傷が目立ち、衣服は埃や土で汚れている。頭髪は乱れ、興奮して上気した頬を汗が伝い、メイクも崩れかけているが、視線はロロを捉えて離さない。
「今の私の気持ちはそれで、全部なんだ。私はルルが好き。私は、ルルを、あ、あ、愛してる……!」
「……。そうですか。僕も兄さんが好きです、たった1人の兄弟ですから」
本来ならば、この場で、ロロは彼女の言葉など無視してギアスを使う。シャーリー自身が持ち込んだ拳銃で、腹を撃ち抜いて殺してしまうだけだった。その後は、ジェレミアを配下に取り込んだルルーシュと合流する。
ルルーシュが嚮団を壊滅させるとの方針を語ったときには面食らったが、急な方針の変更の原因はシャーリー・フェネットの死にあったのだろう。
「ロロは、ルルと一緒になって何をしてるの? 何を、どうしたいの?」
考える時間は、いくらでもあった。
ロロにとって、変わらないはずのものを変えた存在が、ルルーシュだった。初めてできた「家族」の絆が、今なおロロを虜にさせている。
ルルーシュにとって、シャーリー・フェネットは特別な存在だったのだろう。
彼女から向けられる恋慕の情に対して、ルルーシュがどう向き合っていたか、ロロは知らない。
しかし、知らなくても、考えることはできた。知らなかった感情を、今ならロロは理解している。
「なぜ、僕があなたにそんなことを話さなければならないんです」
「必要なことだから。ちゃんと、間違えないようにしたいから」
ロロの一挙手一投足も見逃すまいと、シャーリーは一瞬たりとも目を離してくれない。
無論、ロロのギアスを前にすれば、そんなものはささやかな抵抗ですらない。体感時間が止まってしまえば、見るも動くもなく、無力に停止するだけだ。動かない案山子を相手に撃ち損じる距離ではない。
「私はね、ルルに幸せになってほしい。だから、一緒にいたい。たくさんの大事なもので、ルルを幸せにして、守ってあげたい。だから、ナナちゃんも一緒に――」
頭に血が上っていることを、ロロは自覚していた。それでいて、しかし止まることはなかった。
ギアスを発動させた。一瞬の出来事だ。身に余る決意を滔々と語ってくれた、幸せで可哀想な普通の女には、知覚すらできなかったことだろう。
これでは、まさしく二の舞いだ。何も変わっていない。後は拳銃を奪い取って、きちんと臓器を破壊するように腹部を撃って、もう一度彼女に握らせるだけ。そっくりそのままの再現。どうせ、そうなるだろうと思っていたのだ。
「――きっと一緒にいなくちゃいけないの!」
体感時間停止のギアスは使った。だから、彼女の時は止まらなければいけない。捻じ曲げたとはいえ、それが道理。後は、始末をつけるだけのはずだった。
「僕は、兄さんの傍にいたい……。なのに、あなたは僕の邪魔をしようとしている。だから、仕方ないんですよ」
「違う! 違うよ、ロロ。私は、ロロにも……!」
しかし、できなかった。
『どうせ、そうなるだろう』と、ロロは思っていた。きっと、シャーリー・フェネットを殺すことになると。
違う道を通れば、姿を見せなければ、別の言葉を交わせば、無視すれば、殺さない選択肢を選び得ても、きっとそうする。彼女を殺す。それで良しとしていた。
「だったら、何なの、それは――その手は……!」
だが、こう考えることはできなかっただろうか。
『どうせそうなるだろう』と考える人間が、もう1人いると。シャーリー・フェネットは、今日この場でロロ・ランペルージに殺されると、そう考える人間はまだ他にもいるのではと。
「え、あっ。いや、こ、これはねっ……」
無理だ。
だってそんなものはいないはずだった。人生に二度目はないはずだ。やり直しは効かないはずだ。
あの性悪皇女は、こんなことは一言も言っていなかった。
「――なぜ、兄さんがここにいるんだ!」
真っ赤になった顔であたふたするシャーリー・フェネットの隣で、彼女の手を取り、厳しい視線をこちらに送る男。
愛しい兄、ルルーシュ・ヴィ・ブリタニアが、今もう一度ロロの目の前に立っている。
/
泣いている。
人目も気にせず、目の前の女は泣いていた。過ぎ去った出来事を嘆き悲しんで。好いた男を思って。
初めて見る、しかし、知った顔の女であった。
派手な容姿ではないが、水泳で健康的に引き締まった身体、すらりと伸びた長い手足に白のドレスがよく似合っている。生徒会長の発案で度々行われた催しでも様々な衣装を着こなしていたようだが、なるほど、競泳水着以外のコスチュームを着せてみたくなる気持ちも分かろうというものだった。
「自殺です」
暗転して中身を失った額縁が溶けるように消えたのと同時に、女はその場に崩れ落ちた。視線は額縁のあった虚空に固定されたまま、意味をなさないか細い声が半開きの口から漏れている。
ナナリーは、ベンチに腰掛けたまま彼女ーーシャーリー・フェネットを見ていた。
懐かしき生徒会の写真に収められたのと変わらない容姿は、彼女が既に時を止めた者であることを示している。妹のように可愛がってくれたシャーリーの年齢を、ナナリーはもう追い抜いてしまったのだ。
ナナリーは、シャーリーを好ましく思っていた。
明朗で、誰にでも平等に接する彼女は、足が不自由な盲目の少女にもとても親切にしてくれ、名誉ブリタニア人の学園編入の折には、学園に馴染むきっかけにもなってくれた。
同時に彼女に対しては、もどかしいという思いが同居していたようにも思う。
親しい友人で、彼女がルルーシュに向ける好意に気付かない者などいなかっただろう。当の本人でさえ、おそらくは。
当時のナナリーにも、生活の多くを自分のために捧げるルルーシュに人並みの青春時代を送ってほしいという思いがいくらかはあった。しかし当然ながら、有象無象を兄のパートナーと認めるわけにはいかない。お相手候補の多くが妹とメイドによる厳格な審査で振るい落とされた中、数少ない有力候補だったシャーリーは、しかし乙女に過ぎた。
端的に言って、奥手過ぎた。
年頃の少女だ。ナナリーにもその気持ちが分からないわけではなかったのだが、シャーリーにはとりわけ夢見る少女のような面があった。アプローチが足りなかった上に、いつからか始まった『他人ごっこ』のせいでーーごっこなどという生易しい事態でなかったことをナナリーは後に知ったのだがーーついぞ彼女の恋心は成就することがなかったとナナリーは記憶している。
「うそ……。スザクくんが、ゼロで……ゼロが、ルルを……」
「だから、自殺なのです」
劇場型犯罪という言葉が頭に浮かんだ。ルルーシュ・ヴィ・ブリタニアの末路は、劇場型殺人であり自殺だったといえる。
まさしく、あのパレードは最高の舞台だった。
主役は救世の英雄ゼロと、悪逆の覇王ルルーシュ・ヴィ・ブリタニア。
長い時間をかけて準備された演目だった。演者は、居並ぶ群衆や詰めかけたマスメディアを入念に、そして大いに煽り、興奮させ、楽しませた。たった1人の死が世界を一変させる瞬間を、誰もが目撃していたのだ。彼ら彼女らさえ、脇役として演目に取り込まれ、脚本家のしたためた物語の中で踊っていたのかもしれない。
「ゼロ……ゼロが……」
「手伝ってください、シャーリーさん。私たちで、お兄様を守るのです」
そんな中でも、僅かばかり何名かはその影で舞台を降ろされてしまった。
降りてしまった。
空前絶後の大舞台に立ち、台詞を謳い上げた、最後の最後。ほんの数秒、穏やかな表情で微笑んだ悪役を見てしまい、気付いてしまった数人は哀れにも劇場から弾き出されたのだ。優しい幕引き、希望が残る演目を見届けること叶わなかった無粋な彼ら。
ナナリーはそのうちの1人だった。
「ナナちゃん……」
止まらない涙をそのままにこちらを向いた表情と言葉に、近寄ろうとしていたナナリーの足が止まる。
彼女にとって、自分がまだ「ナナちゃん」であること。
悲壮な涙の、なんて美しいこと。
何よりも、ギアスに翻弄され、その生命まで奪われてなお、シャーリーの瞳は純粋な光に満ちていた。その命を奪った力を再び彼女に使おうとしているナナリーを、じっと見ている。
辛かったはずだ。苦しかったはずだ。痛かったはずだ。怖かったはずだ。悔しかったはずだ。
そんな何もかもを微塵も感じさせない。
そこにあるのは、ただ愛した男の末路に捧げる悲しみだけ。
「……お兄様を、守りたいんです。自殺なんて許さない。生きていてほしいんです」
そんな風に、ナナリーは綺麗ではいられなかった。必死に生きてきた10年間を、汚れたとは思わない。兄がいない世界で足掻いた時間を、積み上げた成果を誇れる。
「私一人ではできません。ロロさんだけにも任せておけません」
それでも、清水を湛えた泉と、泥濘に澱んだ沼だ。
きっと混じり合うことはないだろう。ナナリーが彼女を応援できたのは、もう10年も前の話だ。
「でも、もうルルは……私だって……」
「そのために、私がいるのです。私のギアスが、あなたと私をもう一度繋いでくれた。私たちをもう一度、あの頃と繋いでくれる」
「……っ」
女はゆっくりと、しかし力強く立ち上がった。乱暴に目元を拭い、自らナナリーに歩み寄ってくる。
向かい合って立つと、互いの視線は同じくらいの高さになっていた。髪を撫でようとするシャーリーの手をナナリーは受け入れる。時を止めた冷たさではない。今そこにある温かさに触れた。
「おっきくなったね、ナナちゃん」
「もう25になりました。シャーリーさんのように、スタイルも良くなりましたよ」
「うーん……。だめだよ、ちょっと痩せすぎ」
目を閉じても、照れて笑う彼女の声を耳が覚えていた。
「よくがんばったね、ナナちゃん」
「……はい」
温かい。
本気で兄を任せてもいいかもしれないと思った女性。
「お願い。私も、仲間に入れて」
――ああ、やっぱり。
この人なら。
髪を撫でる手に、ナナリーも手を重ねた。
兄と同じギアスでなくてよかった。
「私もルルを守りたい。ルルの幸せを取り戻してあげたい。だから、自殺なんか絶対許さない。私とナナちゃんで、縛り付けてでもルルを繋ぎ止めよう?」
写真の中で笑っている彼女の顔を何度も見た。
でも、今目の前にいる彼女の笑顔は、そのどれよりも魅力的で、綺麗だ。
「だってね、これは、運命だもん。ちょっとズルしちゃったのかもしれないけど、やっぱり私はルルのことが好きだから。これからもきっと、もっともっと好きになるから。絶対、運命なんだよ」
曰く、恋はパワー。
どうかそれが、彼に届くものでありますように。
間が空きすぎました。
すみませんでした。
読んでいただけたなら、幸いです。