泉美が固まって数秒。言葉の意味が理解できたのか、質問を返してきた。
「阿僧祇さんが二歳上なら、留年しているということですか?」
「ああ、その通りだ。本当は会長とかと同じ年に入学してる」
「どうして留年しているのでっ」
泉美は慌てて手で口を抑えた。聞いてしまうのは失礼だと思ったのだろう。
しかし、こういった話の流れ上で、理由を尋ねてしまうのは普通の反応である。それを咄嗟に止めたのは泉美は根っからの良い子なのだと窺える。逆に香澄はズバズバ聞いてきそうだなと思って、紅葉は思わず軽い笑みを漏らしていた。それが自分に対する笑いだと勘違いしたらしく、泉美は上目遣いで睨んでくる。
「何かおかしいですか?」
「悪い悪い。お前に対して笑ったわけじゃない。ちょっとした思い出し笑いだよ」
「そうですか」
憮然とした表情だが、睨みが薄らいだので良しとした。
「それでなんだっけ。留年した理由だったか」
「いえ、それは」
「気にすんな。聞かれて困るものでもないしな」
しれっと嘘をつく。本当は聞かれると困ってしまう。しかしこれは必要な嘘。言わなければずっと気になって要らぬ妄想を生む原因にもなる。本当の留年理由を知られない為にも嘘の理由を言う必要があった。嘘具合は真実四割、嘘六割。
「一年の。あ、二年前のな。一年の半ばで事故にあってな、長いこと入院するはめになったんだよ。あまりにも長かったから、休学することにしたんだ」
真実は『入院』した事。
嘘は『事故』と『長い入院』
この説明は数日前、宗一郎にした説明同じであるが強調した点が違う。宗一郎の時は何も強調しなかったが、泉美への説明ではある部分を強調して言っていた。紅葉は彼女と出会ってまだ一日だが、そのある部分を気にかけるだろうと思っていた。気にかけなかったらどうしようかとも思ったが
「事故ですか? 体は大丈夫なのですか?」
狙った通り泉美は『事故』に食いついてくれた。しかし長い入院と相まってか、相当悲惨な事故にあったのでは?とでも想像したかのように沈痛な面もちになっている。その表情はさすがに予想していなかったので、出来るだけ軽い様相で言葉を返すことにした。
「問題なしだ。つか、大丈夫じゃなかったら復学してないさ」
「確かにそうですね」
少し表情が和らいでくれて、少しホッとする紅葉。
「そんで、今年の二月に復学申請出して、晴れて復学したってわけさ」
「そうだったのですか」
これが留年までの流れ。理由の大部分が間違っているが、流れは間違っていない。
「そんで、こっからがさっきの貸し借りの話だ」
彼女の顔が少し強張る。泉美的には忘れていてほしかったのだろうがこんな大事な貸しを忘れる訳がない。
「俺が留年してるってのを、誰に対しても内緒にしてほしい」
普通に考えれば、人の秘密を勝手に洩らすのはやってはいけない事で、わざわざ口止めする事でもない。
「……それだけですか?」
だから、泉美が肩すかしを受けても仕方ない。
自分が口の軽い人間に見えますかと抗議の目を向けてくるが、それを気にする事もなくスルーして言葉を続けた。
「ああ、それだけ。それさえしてくれりゃ、貸しはチャラだ」
「わかりました。阿僧祇さんの事は内緒にしておきます」
何か裏があるのでは?と疑った表情だったが、小さく息を吐いて了承してくれた。
実はこの貸し借りのやり取り自体が重要だった。約束事を強く印象付ける為に一連の流れを組んでいた。効果としては、約束を破りそうになったらこの『貸し』が頭をよぎって、ストップをかけることになる。いくばくかは口約束よりかは固い約束になる。
「よろしく。それと、接し方は今と変える必要はないからな」
ついでに毎度のお願い事をしておく。ただ、今回に限っては必要なかったかもしれない。
「よろしいのですか?」
「よろしいも何も、お前の口調は元から丁寧語だし、態度も丁寧だ。これ以上敬われたら逆におかしくなるだろ」
「そうですか」
「そうなんだよ。まあ、これで貸し借りなしだな」
ひとまず終わらせることができたと、息を深く吐いてひと背伸びする。立ちっぱなしだったこともあって少しばかり背中が張っていた。それをほぐす意味も込めて体をぶらつかせてる。時計を見ると、もうすぐで十一時半になろうとしていた。思ったよりも時間が経過している。
「(これで説明すべき奴には一通り説明することが出来たな。二年生連中と泉美は予定外だったが、どちらも物わかりが良くて助かった。さて、用事は済ませたし、この後どうするか)」
そう考えていると、泉美から質問が飛んできた。
「阿僧祇さん。阿僧祇さんの留年を知っている方は他に何人程いるのでしょうか?」
留年の説明をする事だけ考えていたので、他の事を失念していた。
「悪い、確かに知っておいた方がいいな。えっと、まず教師全員は知ってる」
「それは当然ですね」
「そりゃそうだ。知らなかったら大問題になる。次に生徒会。今日でお前も知ったから、全員知ってる事になるな」
紅葉は説明しながら、そう言えば泉美に言ったら報告しろと言われていた事を思い出した。その事を頭の片隅に置いておく。
「もしかして昨日、私が帰った後に?」
「いや、お前が居た時点で知られていたんだが、その確認で残ったんだよ」
「そうだったのですか」
「後は、部活連の服部会頭と……風紀委員の千代田委員長だな」
言葉に間があいたのは、部活連に所属している数人の三年生を言おうとして、あとでその他三年に一括りしてしまえと思ったからだ。同じ理由で風紀委員の沢木も後回しにした。
「会頭、それに委員長とお知り合いなのですか」
二人の名前が出てくるとは思わなかったのか、泉美は驚いている。
「会頭とは、入学当初からの友人だからな。委員長は五十里繋がりだ」
彼女は五十里繋がりと聞いて納得していた。数字付きの間では、五十理啓と千代田花音の許婚関係は有名な話だからだ。
「あとは、数人の三年生だな。みょーに仲の良いやりとりをしていたら、知ってると思ってくれていい」
ざっくりとした決め方だが、泉美と一緒にいて元クラスメイトと会う機会は少ないと思っている。会ったとしても部活連執行部か風紀委員関係の数人ぐらい。
「このぐらいか」
「有り難う御座います。一年生では私だけなのですね」
「クラスと生徒会が同じじゃなかったら、一年は誰も知らないままだったからな」
そもそも、紅葉は復学を決めた時から一年生には誰にも明かすつもりはなかった。今の三年生が卒業したら、終わりなのだから。
「さてと。まぁ、色々説明したが、三年間よろしくな泉美」
「よろしくお願いします阿僧祇さん」
紅葉は今日だけで何回嘘をつくのやらと自嘲してしまう。その笑みの意味を泉美は知る事もなく二人は屋上を後にするのだった。
次回、初仕事。