七月七日、土曜日の夕方。七草真由美は大学主催の七夕パーティーに出席するためパーティー会場に向かっているところだった。
そこにコール音が鳴り響く。
「誰かしら? ……っ!?」
鳴り続ける情報端末を手に取り、表示されている相手を見ると真由美の顔は驚きで固まってしまった。数秒後、慌てて通話状態にすると声をあげた。
「双葉さん!?」
『やっ、まゆみん。久しぶり』
電話の相手は、驚いている真由美とは逆に陽気な声で応えた
『一年半ぶりかな。まぁつもる話もあるだろうけど、今ちょっと時間がないからね単刀直入にいくけど』
「ちょっと待ってください双葉さん。今までこっちが連絡しても出なかったのに、いきなりなんて……もしかして彼が
『やっぱり知らないよね。ま、箝口令敷かれてたんだから仕方がないのと──「箝口令? それはどういう……」──妹ちゃん達がまゆみんと紅葉が知り合いなんて思わないよね、普通は』
途中で真由美の疑問が挟まれるが双葉は気にすることなく言葉を続けた結果、
「……え?」
なぜそこで妹達の事をと真由美が思ったのも束の間、
『紅葉ね、今一高で一年生として生活してるよ。まゆみんの妹ちゃんのどちらかと同じクラスだったはず』
双葉からもたらされた言葉はどれも耳を疑う事で、
「え、……え?」
珍しく真由美の頭は追いつけていなかった。
『うーん、今まゆみんの顔が面白い事になってそうなのに近くで見られないのは残念だな』
それを電話先で感じとった双葉は声質でわかるぐらい面白がっていた。
「……双葉さん、それは本当なんですか?」
なんとか言われた事を理解し終えた真由美は、確認の為に聞き直す。
『本当も本当。なんだったら妹ちゃんに聞いて見ればいいよ、阿僧祇紅葉を知ってるか? ってね』
「二人と彼が同級生……」
それが紅葉についての次に驚いた情報だった。
香澄と泉美が第一高に入学してから三カ月経っているが、二人から聞く学校生活の内容に出てくる名前に紅葉はなかった。
よく聞くのは、なにかと香澄とトラブルになりやすい七宝琢磨と泉美がお熱になりやすい司波深雪の名前。
後々にわかった事だが、偶然にも二人は真由美の前で紅葉ことを『あいつ』や『彼』と名前ではなく名詞だけで話していたようで彼女は他の人だと勘違いしたまま話していて気づかなかったようだ。
閑話休題
「双葉さん、あの……」
『あー、ごめんまゆみん。時間来ちゃった』
真由美は聞きたい事が山ほどあった為、何から聞こうかと考えていたら、突然双葉は少し焦っていた。電話口から別の人の声がうっすらと聞こえた事から誰かに呼ばれたようだ。
「え? 双葉さん?」
『明日時間ある? あったら昔、渋谷副都心でよく行った喫茶店に来て。紅葉も連れて行くからさ。あっ、あと良かったら妹ちゃん達も連れてきて。じゃまたね!』
「え、ちょっ、まって、双葉さん!!」
真由美の制止の言葉むなしく返事を聞く間もなく双葉は電話を切ってしまった。
「……」
一方的にかかってきた電話は一方的に切られてしまった。真由美はたまらずかけ直すが電源を切られたのか機械音声で繋がりませんと告げられるだけ。
「あー、もう! あの人は!!」
人目があるにも関わらずたまらず声を上げる真由美。
途端に周囲の注目を集めた事に気付いて恥ずかしながらその場を離れた。
「紅葉くんも連れてくるなんて、そんなの行くしかないじゃない」
例え紅葉がいなくても行くという選択肢しかなかった。それだけ紅葉の身に起きた事の情報は少ない。七草の──真由美が使える──情報網をもってしても、紅葉が見つかったという情報さえ得られていなかった。
「でも、なんで二人を連れてきてなのかしら?」
最後に双葉が思い出したかのように言った言葉。なぜ双葉が香澄と泉美に会いたいのかを考えるも答えが見つからなかった。
それから数時間後。
双葉との電話によって心中穏やかじゃなくなった真由美は参加する予定だったパーティーをキャンセルして帰路についていた。
そしてあと少しで自宅が見えるといったところでよく知った二人の後ろ姿が見えた。
「(二人とも紅葉くんを知ってるのよね)」
香澄と泉美の姿を見て思い出したのは双葉の言葉。あの言い方から顔見知りではなく友達の仲ぐらいにはなっていそうだと思った。
「(でも、二人に急に紅葉くんを知ってる? なんて聞いたら、泉美ちゃんはともかく香澄ちゃんが変な誤解をしそうだし)」
真由美はどうにも香澄が自分との男性の交友関係を恋愛方面に勘違いする事が多い気がしていた。そこに自分から異性の名前を出そうものなら、スムーズに話は進めるのは難しいだろうと。
「(紅葉くんの事は伏せておきましょう)」
そう結論づけて真由美は一息吐いてから二人に声をかけた。
「あら、二人ともおかえりなさい」
七草邸を目の前に、香澄と泉美は後ろからかけられた言葉に反応して同時に振り返っていた。そこにはおとなしめなドレスを着た自分達の姉である真由美がにこやかに手を振っていた。
「お姉ちゃん!」
「お姉様」
二人は少し離れていた真由美との距離を小走りで縮める。
「お姉ちゃんも今帰ったの?」
「えぇ、そうよ」
「でも、確かお姉様、今日は大学主催のパーティーで帰りが遅くなると言っていませんでしたか?」
今朝方、一緒に朝食をとった時、真由美は確かにそう言っていた事を泉美は覚えていた。
「そうだったんだけど、ちょっと急用が出来ちゃってね」
苦笑いで答える真由美。この表情から泉美は面倒事に巻き込まれてしまったのかと思ったが、次の言葉でよくわからなくなってしまった。
「二人とも、明日お出かけしましょう」
「急用なのに?」
「お出かけですか?」
二人の困惑顔を余所に、詳しい説明はしないまま真由美は苦笑いしたまま二人の背中を押して邸宅の中へと入っていった。
七月八日の日曜日。阿僧祇紅葉は日曜日ということもあって八時を過ぎたというのに目覚める事なく眠り続けていた。しかし、それを良しとしない人が一人。
ぐーすかと眠っている紅葉の部屋に立ち入り近づく。そしてゆっくりと右足を上げ、服が捲れて丸出しのお腹めがけて踏み込んだ。
「ごぼぉ!?」
一瞬とはいえ人が発する声とは思えない呻きを上げた紅葉は痛む腹を抱えてのたうち回る。
「いってぇな姉貴!!」
まだ痛みは消えないお腹をおさえつつ、近くでこちらを見下ろしている気配はあったので睨みつける。こんな事をするのは一人しか思い当たらない。
そう思った通り、自身の姉である双葉が紅葉を見下ろしながら仁王立ちしていた。
「寝過ぎ」
「うっさいわ。日曜日なんだからいいだろ」
軽く咳き込みながら上体をおこして胡座をかく。おもむろに髪をかき欠伸を交えながら部屋に備え付けられている時計に目をやるとまだ八時半だったことにゲンナリした。
「んだよ、まだ九時にもなってねーじゃん」
「たく、私が帰る日は七時には起きてなさいよ。寝てるの見ると蹴りたくなるから」
「無茶言うなよ。いっつもいつ帰ってくるかわかんねーんだから」
双葉は一高を卒業したあと、父親の仕事を手伝っている。父親の仕事は各地を回る為、父親と双葉は共に家に帰ってくるのは一週間で一日か二日ぐらいだった。特に最近は忙しいのか一週間では帰ってこなかった。
「悪かったわね。……やっと尻尾を掴めそうなのよ」
その言葉に紅葉の顔から表情が薄れる。
双葉が手伝っている父親の仕事には表と裏がある。表はボディーガードで主に数多家の護衛をしている。
そして裏と言うのはある人物の捜索である。双葉は主にこちらを手伝っていた。
「見つけたのか?」
紅葉は無意識に左手を右腕に添える。
そのある人物は紅葉にとって、否、阿僧祇家にとって深く関わっている。
「まだ。でも、動きだしてるのは確実よ」
双葉の顔からも陽気さは消え、どこか憎しみが混じった表情になっていた。
「……」
紅葉の脳裏に思い浮かんだのは高齢の男性。より鮮明に思い出してしまったのか右腕に添えていた左手に力が入った。
それを見た双葉は何かを我慢するように目を伏せ、すぐに目を開く。
「そういう事だから、紅葉出かけるわよ」
「……今の話の流れで、どこに出かける要素があったよ?」
脈絡がない切り替わりに緊張していた空気が霧散する。
「ゴタゴタする前に終わらせた方がいいでしょ」
「だから何をさ?」
紅葉はなんとなく双葉の言わんとしている事はわかっていた。
近々忙しくなって身動きが取れなくなるからやれる事はやっておく、ということだ。ただそのやれる事にどう自分が関わるのかがわからなかった。
しかし、次の双葉の言葉で合点がいく。
「まゆみんへの報告」
「……ここでかよ」
双葉の言う『まゆみん』は一人しかいない。紅葉自身の一歳上の先輩で十師族である七草家直系の七草真由美である。
本来なら真っ先に知らされてもおかしくないのだが、彼女が十師族直系であることから報告が後回しにされていた。紅葉自身、もしかしたら
「あの娘だけ仲間外れにはしたくなかったのよ。十師族としてじゃなくあんたの先輩として心配してくれてたんだから」
「それは、まぁ」
それは紅葉もわかっている。あの人は誰に対しても優しくて面倒見の良い先輩だったと。
「まぁ、まゆみんには口をかたーくしてもらうけどね」
それはそうだろうと紅葉は思う。間違っても現七草家当主である七草弘一や他の十師族当主に知られてはいけない。
それ程までに紅葉の身に起こった事はやってはならない事だった。
「そんな訳で行くわよ」
紅葉としては出かける理由がはっきりとしてしまっては拒む理由はなかった。とは言えこの姉のことだから拒否したところで無理やり連れ出すんだろうなと思いながら「了解」と言って重い腰を上げるのだった。
紅葉にとって早い時間に起こされたのだからてっきり真由美と会うのも早い時間かと思いきやそうでもなかった。
「あ? 何時か決めてない?」
九時半に家を出て渋谷副都心に向かう為、キャビネットに乗った紅葉は隣に座る双葉のテヘペロした顔を
「いやー、昨日急いでたから場所だけ言って終わっちゃったんだよね」
本当は来る来ないの有無さえ確認していないのだが、双葉の頭に来ないという選択肢はなかった。
そのあっけらかんとした物言いに紅葉はため息ひとつ。
「はー、んじゃどーすんだよ。その喫茶店でコーヒー一杯で何時間も待つつもりかよ」
姉の無計画さに呆れながら、取れる行動を聞き返す。
「んー、お昼過ぎ頃に行けばいいと思うしそれまでは久しぶりにショッピングでもしようか。ちょっと夏物が欲しいと思ってたところだし」
「さいですか」
紅葉は、こりゃ都合のいい荷物持ちにさせられるなと早々に抵抗する事を諦めて窓の外を眺めながらため息をついた。
その様子を見た双葉は優しく微笑む。赤の他人が紅葉を見れば、表情や態度から『荷物持ちなんて面倒だ』と言っているように思えるかもしれないが、彼女には逆に嬉しそうに見えていた。
「(こうやって紅葉と出かけるのはいつぶりかな)」
今年はこれが初、昨年はそれどころではなく
「(……うん、まゆみんに会う目的だったけど、その前にちょっと紅葉と楽しもう)」
思いの外、間があったことにそんな前かと驚いた双葉は少しだけ今日の趣旨を変更することにした。
「うーん、もうちょっと明るめがいいかな」
十時頃、副都心に着いた二人は最近できたと言われているファッションビルの中を巡って、
「ちょうどいいんじゃね? 着てみたらどうよ」
カジュアル服売り場の夏物エリアで気に入った服を見つけたところだった。
「そうね。ちょっと着てみる」
このビルは各テナントが別々に営業しているのではなくフロアごとに共同で商売をしているらしく、テナント同士の仕切がない。その為、紅葉達のいるエリアの隣が下着売り場になっていたりして、男性がうっかり歩き回ると居心地の悪い思いをするレイアウトになっている。
しかし、紅葉は昔から双葉とこういった買い物に来ていた事もあって抵抗なくこの場に居た。
それが今回仇となる。
双葉が何点かの服を手に取り試着室へ向かうのを付いていこうと歩き出した時だ。
「阿僧祇さん?」
聞き慣れた声で呼び掛けられるとは少しも思わなかった紅葉はピタリと足が止まった。そのまま首だけギギギと擬音が聞こえそうなぐらいゆっくりと回して後ろを見ると私服姿の泉美が立っていた。
「泉美、お前、なんでここに」
「それはこちらのセリフなのですが。ここ女性物のフロアですよ」
紅葉としては、『なぜ、この場にいるのか』を問いたのだが泉美の解は『男性がいる場所ではないですよ』と欲しい答えになってなくて「まぁ、そうなんだが」と苦笑するしかなかった。
しかしその苦笑もすぐに焦り顔に変わる。紅葉が一人ならば──一人だったらこの場所に来る事もないが──適当な理由を付けてそそくさと退散するが、残念なことに一人ではない。
すぐさま前を向き姉の意識が泉美に向かないようにしようとするが、すでに遅かった。
「紅葉、どちら様かな?」
そこには面白いものを発見したような目をした双葉がにこやかに立っていた。