「スタート!」
紅葉の合図と同時に彩愛が操舵するボートが水上を走り出した。彼女と香澄が乗っていたのは幅が広くと喫水の浅いボートだった。
「(香澄にしちゃ安定性重視だったな)」
紅葉の予想では負けず嫌いな香澄のことだから、先に試走を終わらせた好成績組に負けじと良い成績を出そうとしてスピード重視にするだろうと思っていた。しかし、二人が乗っているのは幅が広くて射撃の安定性が高く、なおかつ水の抵抗が少ない喫水の浅いボート。
「(笠井が香澄を抑えたのか、それともボートから落ちるのを嫌がったか)」
二人より先に試走を終えている本戦女子ペアと新人戦男子ペアが落水していた。
それを見たからかは定かではないが、そのボートを選ぶと言うことは転覆する確率を下げることになるため二人の目標が完走することになったんだろうと結論付け、彼女たちの出走を見送った紅葉は一息ついた。
まだ、香澄達のタイムを計っている最中の為、完全に気を抜きはしないが無駄に気を使っていた分は解放したかった。
「(たく、久我原のせいで余計疲れた)」
すでに試走を終えている黄泉は現在、蒼真と試走結果についてあれこれ話し合っている。二人とも良い成績でゴールしていた。そんな彼女としてはその話し合いに紅葉も混ぜたかったようだが、紅葉は無視していた。
そちらをチラリと見ながら心の中で毒づく。
「(ちっとは抑えやがれっての)」
紅葉は復学祝いパーティー以降、必要最低限な三年生としか交流していなかった。
それはパーティーの時に言った目立ちたくないと言う理由もあるが、それ以外の理由もあった。
復学した目的の一つである、九校戦を
現時点から一年生と二年生に年上だとバレてしまえば、後日控えているモノリス・コード選定戦やその他競技の参加選手またはサポートメンバーに何かしらの悪影響を与えてしまい自分が楽しむどころの話でなくなると考えていた。
ただでさえ今年は紅葉にとって、あずさや服部達と一緒に参加できる大事な年でもある。出来るだけ不安要素は省いておきたかった。
そのため、紅葉は今まで校内では、必要最低限なメンバー──服部、あずさ、五十里、花音──以外の三年生と出会っても会釈または無視の二択の対応しかしていなかった。そして黄泉は高確率で無視を選択していたのだが。
「(無視しすぎたかね。まぁあいつの場合仕方がねぇっちゃ仕方がねぇ訳だが。しゃーない面倒だが予定を繰り上げるか)」
このまま黄泉のようなこちらの事などをまったく気にしない三年生を放置していると予定よりも早く一、二年生達に年上だという事を知られそうだと思った紅葉は復学する時に立てたスケジュールを変更する事にした。
当初は九校戦後に服部達以外の三年生との交流を増やしていくつもりだったが、それを九校戦中に前倒しすることにした。
「(あとで柊に伝えて、柊から久我原に言ってもらうか)」
直接、黄泉に伝えてしまうとその場から遠慮なしに来ると確信している為、話のわかる蒼真に話を預けておくことにする。
「さて、そろそろか」
そして紅葉は、黄泉達に向けていた意識をゴールへ向かってくる香澄達に向けなおし、手に持っているストップウォッチのストップボタンに指をかけ、二人を乗せたボートがゴールに向かってくるのを待つのだった。
「むー」
目標通り、かはわからないが落水することなくゴールした香澄と彩愛なのだが、なぜか香澄の顔は見事なまでに不満げに染まっていた。その理由を本人に聞くのは憚られた紅葉は彼女の隣で苦笑している彩愛を手招きして呼び寄せていた。
「なぁ、なんであいつ、あんな顰めっ面してんだ?」
「実はね香澄、的全部撃ち落とす気だったみたい」
香澄はスタートする前に黄泉や蒼真が好成績だった事に対抗心が湧いたか、もしくは落水しないかわりに的をパーフェクトにしたかったのだろうと紅葉は予想。
「あいつらしいちゃ、あいつらしいわな。で、何個撃ち漏らしたんだ?」
香澄を落水させない為にかなり速度を落として走行していたのだから、片手程の数を撃ち漏らしたのだろうと思っていると、彩愛は指二本を立ててVの字を作った。
「二個だよ」
なんともおしい結果だったらしい。
「あー……」
それは俺でも悔しがると同情の念も抱きながら、
「最後の方で変わったタイミングの的があってね。それを外しちゃったんだ」
彩愛のこの言葉で紅葉の頭の中である事がよぎり、彼女から顔を逸らしていた。
「(そういえば的の出るタイミングに達也が関わってたな)」
現在練習に使われている的は五十里によって調整されているが、その出るタイミングなどは事前に五十里と達也によって話し合われていた。
「阿僧祇くん?」
「いや、それは残念だったな(こりゃ、香澄には言え……)」
訝しむ彩愛に適当な返事を返す紅葉。
達也が関わっているなどと彼に反抗心を抱いている香澄に言えばどうなるか、火を見るより明らかなのは想像に難しくない。
ただでさえ、今の香澄は──勘違いであるが─紅葉に対してだけ不機嫌を露わにしている。先ほどから何を言っても睨まれている為、紅葉としてはこれ以上、彼女の機嫌が悪くなるのを避けたいと思う手前でふと思った。
「(なんで俺があいつの機嫌を気にしてんだ?)」
別に香澄に嫌われてもさして問題があるわけでもない。元から紅葉は一年生と仲良くなる予定ではなかったのだから。
むしろこのまま嫌われていた方が都合はいいのだが、紅葉の胸にモヤモヤとした気持ちが広がっていく。
「(……たく、これ以上は望むなっつーの)」
それが自身の我が儘な気持ちだと自覚している。同時にこれ以上は望んではいけないとも。
「(どのみち今、香澄に言う事じゃねーな。どうせ後で泉美からバレるだろうし)」
勝手な予想ではあるが、香澄は泉美に撃ち漏らした事を愚痴り、泉美がそれはとネタばらししそうだと思っていた。その予想は数時間後的中することとなる。
さらに言ってしまえば泉美が
「阿僧祇さんも知っていたはずですよ」
と余計な一言を追加するのだが、紅葉はそこまでは予想できなかった。
時は過ぎ午後七時。
各競技の試運転に参加していた代表選手やサポートしていた生徒達は六時頃に解散となった。
香澄は泉美と一緒に帰路について最寄り駅についた頃、二人の会話はもちろん練習内容で、ちょうど今泉美が余計な一言を言った時だった。
「あいつは、ホントに……」
結局香澄は、紅葉に対してモヤモヤとしたものが晴れないままだった。そこに泉美からもたらされた情報にムカムカとした気持ちが追加され、彼女の心は非常に穏やかではなくなっていた。
「香澄ちゃん?」
そんな様子を見た泉美は香澄からいつもとは違う感情が見えて首を傾げる。
確かに最近の香澄は紅葉に対して、他の異性と比べて感情をあらわにする事は多くなっていた。その時は喜と怒が半々だったのだが、今の香澄からは怒と哀を感じられる。
「阿僧祇さんと何かありましたか?」
このまま香澄を気にせずにいるのは無理だと思った泉美は直球で聞くことにした。
「……」
泉美は香澄がすぐに言葉を返してくるものだと思っていたのだが、香澄は泉美を横目に見ながら口をへの字から少し開けてまたへの字へと繰り返していた。
ジッと香澄からの様子を見続ける泉美。
「……あ、」
その視線に耐えきれなくなったのか香澄の口から言葉が漏れる。
「阿僧祇って会長と付き合ってるのかな?」
「……はい?」
彼女の言葉に泉美は思考と共に足まで止まっていた。さすがにその言葉は予想外だったようだ。
「……」
二人は並んで歩いていたが泉美の足が止まってしまい香澄は数歩先に出てから泉美に向き直った。その顔は少し恥ずかしいのか赤くなっている。
対して泉美は香澄がなんと言ったのか頭の中で反芻していた。
「(阿僧祇さんが会長と付き合ってる?)」
毎日の生徒会業務で二人を見ている泉美は、
「(それはないような?)」
二人の姿から彼氏彼女といった関係には見えなかった。
「(いえ、見えないだけでプライベートでは?)」
しかし泉美が知っているのは学校の中でだけ。二人のプライベートまでは知らない。
そう思うとチクリと泉美は胸が痛んだように感じた。
「(完全には否定できませんね。でも……)」
そんな黙ってしまった泉美を香澄は訝しげに首を傾げながら声をかける。
「……泉美?」
声をかけられた事により思考の渦から抜けた泉美は疑問に思った事を口にしていた。
「香澄ちゃん、誰がそのような事を?」
そう、香澄からもたらされた紅葉とあずさの付き合っている疑惑だが、香澄は疑問系で泉美に聞いていた。
そうなるとそれは噂の域を出ていない可能性が高い。もっといってしまえばこの双子の姉は少々思い込んでしまう節がある。
だから泉美は誰が最初にそんな事を言ったのかが知りたかった。
「……(誰がって……私?)」
質問の答えが自分であると気づいた香澄はどうにも悔しさやら恥ずかしさが混ざってしまい素直に言うことが出来なかったため明後日の方へと顔を背けていた。
その行動だけで泉美は確信を得る。この疑惑は噂ではなく香澄の思い込みであると。
だから質問を、
「どうしてそう思ったのですか?」
より直球な聞き方に変えた。
「ぐっ……」
泉美に噂─にもなっていない─の出所が自分であると気づかれた香澄から呻き声が漏れゆっくりと明後日の方に向けていた視線を少し泉美の方へ向けた。
そこには「ジトー」と効果音が付きそうな泉美の目線がある。
それを受け止めることはせずに香澄はまた明後日の方へと視線を逃がした。だが、逃がしたところで泉美の目線が香澄から外れる事はなくロックオンされたまま。
「あーもー! わかったよ!」
これは逃げられないと悟った香澄は半ば逆ギレのように声を上げた。
「あいつが三年生と仲が良いのは会長と付き合ってるのかなって思ったからよ!」
「(ああ、そういうことですか。それにしても)」
香澄の答えに、泉美は納得した。
予想通り、香澄の思い込みだったと。
「香澄ちゃん、さすがにそれは飛躍しすぎでは?」
そして、思った事を口にしていた。
それはそうだろう、仲が良い=付き合っているでは大多数の生徒が付き合っている事になってしまう。
「うっ、そうかもしれないけど、あいつ二年生の人達よりも三年生と喋ってる事が多いじゃん」
それは香澄本人も自覚しているようだが、紅葉の友人関係は少し変わっているとしか思えなかった。それこそ特別な関係じゃなければ有り得ないのではと。
「それは……」
と、口にするも泉美は続きを「阿僧祇さんは留年していて」と言えなかった。紅葉との約束でもあるが、これは自分が言っていい事ではないからだ。
「それは?」
「いえ、なんでもありません。他にそう思ってしまった理由はあるんですか?」
「あとは……」
泉美は止まっていた足を動かして香澄の隣に付くと、香澄もゆっくり歩き始めた。
「那由多に行った時のこと覚えてる?」
「はい」
三カ月前の事ではあるが、あの日は普段では見られない香澄を見れた事で泉美はしっかりと覚えていた。
「あの時、那由多に行く前に会長が『阿僧祇は日曜日にアルバイトしてる』って言ってみんなで行く事になったでしょ?」
「そうですね」
「あの時、入学してからひと月も経ってないぐらいだったのになんで会長は阿僧祇がそこで働いてる事を知ってたのかなって」
「それは……」
確かにそういったプライベートな事は親しい仲でないと知り得ない事なのだが、事情を知っている泉美は本当の事は言えない為、別の可能性を示す事にした。
「もしかしたら阿僧祇さんはご兄弟がいるのではないでしょうか?」
「兄弟?」
「はい、お姉様と同い年か、もしくはお姉様より上の年齢の兄弟がいたのなら、阿僧祇さんのプライベートについてその兄弟の方から聞かされていた、という可能性もありませんか?」
泉美の言うお姉様とは自身の姉である真由美のことである。もちろん香澄はそれを理解して聞いていた。
「それなら……まぁ、知っててもおかしくないかな?」
泉美の苦し紛れな可能性に香澄は特におかしな点はないように感じられた。
「それでは月曜日に阿僧祇さんに聞いておきますね」
言うが早いか、香澄がそうなのかそうじゃないのかと頭を悩ませている隙を付いて泉美はこの問題を早く終わらす為に動くことにした。
「え? それは……」
ここで香澄が言いよどんだのは泉美が聞くと言ったのが『紅葉とあずさが付き合っている』事に対してなのかと思って焦ったってしまった。だが、泉美はすぐに香澄が焦った理由を察して言葉をなおした。
「大丈夫ですよ香澄ちゃん。聞くのは阿僧祇さんにご兄弟がいるかどうかです」
「あ、そうなんだ」
泉美の言葉に安心したのか香澄はホッと息を吐いた。その様子を見た泉美はクスリと微笑を浮かべる。
「あら、二人ともおかえりなさい」
そして自宅にもう少しで着くといった時、後ろからよく知った声が二人の耳に届いたのだった。