深いまどろみの中からゆっくりと意識が覚醒していく。
寝起きはそれほど悪いほうではないので、綾霧はすぐに自室のベッドの中に身を置いていることを思いだした。それと同時に、窓から射し込んでくる日の光が、朝を迎えたことを彼に教えてくれた。
夜眠りについて、朝になったら起きる。
毎日繰り返す当たり前の日常だが、最近はそこにアクセントが加わることも珍しくない。
今も起きて真っ先に目に入ってきたのは、隣で寝ている楓の姿だった。といっても彼女も既に目覚めているようで、バッチリ目線が合ってしまったのだが。
「おはようございます、プロデューサー」
「あ、おはようございます、楓さん。もう起きてたんですか?」
「ええ。少し前に目が覚めてしまって。やることもないので、じーっと貴方の寝顔を見ていたところです」
「え?」
「ふふっ。なんだか可愛いなって」
そう言った楓が、横向きに寝ている綾霧に向かって腕を伸ばし、彼のほっぺに人差し指を添えてきた。そしてちょんちょんと悪戯するように軽く突っついてくる。
「……あの、楓さん。なにしてるんですか?」
「プロデューサーのほっぺたを突っついてます」
「それは見ればわかりますけど……」
「えい、えい」
「…………あの」
「ふふっ。クスクス」
彼の頬の弾力を楽しむように、ぷにぷにと人差し指を柔らかく刺し込む楓。その行為が楽しくなってきたのか、彼女は次の段階へ移るとばかりに、綾霧のほっぺを摘むとむにゅーと上に引っ張りだした。
「…………かえでひゃん?」
「あら大変。プロデューサー。とっても面白い顔になってますよ?」
「誰のしぇいですか誰のー」
「誰のせいでしょうねー」
別に痛くはないのだが、こうやって頬を引っ張られていると少し呂律は妖しくなってくる。それがまた面白いのか、楓が口元をほころばせて楽しそうに笑い出した。
「あと、ここ寝癖立ってますね。私が直してあげます」
「わー! わー!」
「うふふ。あはは」
そして最後には、綾霧の頭に手を伸ばして彼の髪の毛をわしゃわしゃー!っと撫で回し始めた。それまではされるがままだった彼も、こうも侵略されては黙ってはいられない。
いざ反撃開始! そう思った矢先、楓は手の動きを止めると、すっと頭を引っ込めて彼の胸元に顔を埋めてしまった。こうされると、彼としても反撃手段が限られてしまう。それがわかっているのか、楓が楽しそうにくつくつと含み笑いを洩らしている。
「楓さーん」
「ふふ。聞こえませんよー」
「しっかり聞こえてるじゃないですか。あの、ちょっと顔上げてもらっていいですか?」
「仕返しに悪戯したりしません?」
「……今は、しません」
綾霧がそう言ったのを受けて、楓が顔をあげる。これで目を合わせることも出来るし、話しもしやすくなった。
「あの」
「なあに?」
「いえ、付き合ってから思ったんですけど、楓さんって結構甘えたがりですよね?」
「ふふっ。そうですよ。今頃気付いたんですか?」
弾んだ声で返事をする楓。
実際彼女は、かなりお茶目な性格をしていて、甘えん坊な一面を積極的に彼に見せるようになっていた。その片鱗はお酒を飲んだ時とかに見られていたが(酔うと幼い感じになることがある)その傾向がより顕著になりつつあった。
そこがまたたまらなく可愛いのではあるが。
「結構前から思ってはいました。でもこんなに甘えたがりだとは……」
「あら。もしかしてイメージ崩れちゃいました?」
「ちょっとだけ。でももっと魅力的になったって思ってますよ。楓さんの色んな一面が見れて俺は嬉しいです」
「……プロデューサー」
「ただ、ひとつだけ言いたいっていうか、楓さんにお願いがあるっていうか………………あー、やっぱ、いいや」
途中で言葉を差し控えた綾霧を見つめながら、楓が続きを催促する。
「なんですか? そこまで言いかけてやめられると気になっちゃいます。なんでも言ってください」
「そんな大したことじゃないんですけど……」
「なら尚更言って欲しいです。私に遠慮なんていりませんから。ね?」
「……」
「聞かせてください、プロデューサー」
「…………実は、その、俺もちょっとだけ楓さんに甘えたいなって思ってたりしてて…………わあっ!?」
綾霧の吐露を聞いた楓は、数回目を瞬くや、彼の首裏に腕を伸ばすとやや強引に頭を自身の胸元へと抱き込んでいった。
これでちょうど先ほどと体勢が入れ替わったかたちになる。
「ふふっ。構いませんよ。好きなだけ甘えてください、プロデューサー」
「……」
よしよしするように、楓が抱いた彼の頭を優しく撫でる。
甘い匂いと人肌の温もりが、彼を再び眠りに誘うように強い誘惑をかけてきた。彼はそれに必死に耐えながら、しばらく彼女の胸の中に顔を埋めていた。
「朝ごはん、作ってしまいますね。少しだけ待っていてください」
ベッドを抜け出した楓が、朝食を作るべくキッチンに立つ。
彼の家に泊まった翌朝は、こうやって楓が料理を作るのが日課になっていた。
今日のメニューはパンを中心とした簡単なもので、スープとハムエッグ、そしてサラダが添えられていた。綾霧がコーヒー好きなのもあって、朝食はこうやってパンを頂くことが多い。
「……随分と増えてきましたね」
「え? なんですか、プロデューサー?」
「いえ、楓さんの荷物、結構増えたなぁって思って」
テーブルに料理を置いて対面で座る二人。そうやって食事を進めながら、なんの気なしに部屋を見回した綾霧がぽつりと呟いた。
「そうですねぇ。色々と置かせてもらってますし。もしかしてご迷惑だったりします?」
「俺は全然。ただそんなに広い部屋じゃないから、楓さんが不便かなって」
付き合うようになってから、土日などを含めて週の半分くらいは楓が綾霧の部屋を訪れるようになっていた。すると当然彼女の私物が室内に置かれるようになってくる。
邪魔になるという量ではないが、元々綾霧が一人暮らしをしている部屋なので、有効に使える空きスペースは限られていた。
「私は不便なんて感じませんけど……なんでしたら少し減らしましょうか?」
「大丈夫ですよ。まだ余裕ありますから」
「ありがとうございます、プロデューサー」
答えながら、楓も室内を見回してみた。
確かに当初に比べて自分の私物が多く見え隠れするようになり、部屋の様相がかなり変化しているのは感じていた。見る人が見れば同棲しているんじゃないかと勘ぐられるかもしれない。
そこまで考えて、楓があるワードを切欠に、なにか思いついたというように目をぱちくりとさせた。
「本当に一緒に住んじゃいましょうか?」
「え?」
「二人で住む部屋を探して。家具を一式揃えて。もう少し広い部屋に。同棲……になっちゃいますけど……」
「同――棲」
楓と二人で一緒に暮らす。それはとても魅力的な提案である。
今でも出来得る限り一緒にいるようにしているが、それでも飽き足りないくらいで、もっと彼女と一緒の時間が過ごせるのなら、彼としても願ったり叶ったりではあった。
彼女もそう思ってくれてるのなら嬉しい限りではあるが、綾霧は素直に頷くことが出来ない。
何故なら――
「……駄目、ですか?」
口篭る綾霧を見て、楓がほんの少しだけ眉根を寄せた。
「駄目とか、そんなんじゃないです。俺も楓さんと一緒に暮らしたいですよ。ただ……」
そこまで述べてから、綾霧が一旦言葉を切った。
単純にこの先を告げるのは恥ずかしいという感情と、まだ早いという考えがあって言えなかったのだ。
そんな彼の先を楓が促した。
「ただ、なんです?」
「……その、一緒に住むのは……結婚してからのほうがいいかなって考えてて……」
「っ!?」
綾霧の言葉を聞いた楓が、はっと息を飲む。そして続けざまにテーブルの対面から綾霧の横まで自身の身体の位置をずらしてきた。
こうすることで彼の耳元で囁くことが出来るし、相手の言葉を確実に拾うことができる。
「今のって」
「あ……いやっ」
「もしかしてプロポーズだったりします?」
「ちがっ……じゃなくて、そういうのは、正式に、申し込みますから……今のは話の流れで言っちゃったっていうか……」
物理的にも心理的にも色々と準備しなくちゃいけないし、仕事上の関係もある。
それにこういうのは雰囲気作りが大切だ。
彼にその“意思”があるとしても、今彼女にそれを告げるのはまだ“早い”。
「もう少し――」
「――はい。その日が来るのを、お待ちしていますね、プロデューサー」
綾霧の言葉を先読みして、楓は柔和に微笑む。そんな彼女の笑顔を見つめながら、彼は照れたように顔を赤くするのだった。