ゼロからのシンデレラ   作:powder snow

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第四十話

 プロデューサーオフィスの一角に四人掛けの応接セットがある。重厚な革張りのソファとシックなテーブルの組み合わせは、実用性は元より、室内のインテリアとしての様相も併せもっていた。

 こちらは主に、関係者が綾霧を尋ねてきた時や、担当アイドルと個別に話をする時などに使用されているが、現在その応接セットに二人の人物が腰掛けていた。

 一人は部屋の主である綾霧で、彼は手に資料を持ったまま、対面の人物に視線を向けている。そしてもう一人の人物――安部菜々は、若干緊張した面持ちで彼の言葉を待っていた。

 

「えっと、安部菜々さん」

「はいぃ!」

 

 まるで怒られる前提で先生を前にした時の生徒のように、菜々が張り切った声で返事を返す。その様子を見てかなり固くなっていると思った綾霧が、雰囲気を緩和できるようにとフォローを入れた。

 

「もしかして緊張してますか? そんなに畏まった場でもありませんし、リラックスしてくれて結構ですよ」

「え? でも、これって面接……なんですよね? ナナがアイドルになれるかどうかの瀬戸際の……」

「いえいえ、面接というより軽い面談みたいなもので。少し安部さんからお話を窺えればと」

「……それってなにか違うんですか?」

「違うというか、本当に話をするだけですから。実は菜々さんをメジャーデビューさせようというのはもう決まっていて、その方向性について話を――」

「え!? ナナ、メジャーデビューできるんですかっ!?」

 

 綾霧の言葉を聞いていた菜々が、ぱああっと表情を輝かせて食いついてきた。彼女が話しやすいようにと、少しフランクな言葉使いにしたのも良かったのだろう。

 お互い初対面というわけでもないので、このあたりの距離感は掴めていた。

 

「今すぐにというわけじゃないですけど、調整しながら追々に。そういうのも含めてまず話してみましょうというのが今日の趣旨でして」

「な、なるほど~。あの、プロデューサーさん……って呼んでもいいんですか?」

「もちろん。安部さんのプロデュースは俺が受け持つことになりましたから」

「わぁ~嬉しいなっ! ナナも遂にアイドルデビューできるんですねぇ」

 

 感慨深そうに手を合わせながら、菜々が心底嬉しそうな表情を浮かべている。地下アイドルとしての芸暦は長いが、やはり正式にデビューできるとなると込み上げてくるものがあるのだろう。

 

「その為にも、まず安部さんがどんなアイドルを目指したいかという部分について窺いたいと思ってるんですが」

「ナナはですねぇ……っと、その前に一ついいですか、プロデューサーさん」

「なんですか、安部さん」

「えっと、その安部さんっていう呼び方なんですけど、慣れてないせいかなんだか面映ゆい感じがして……みんなナナって呼んでくれてますし、プロデューサーさんもそう呼んで貰えると嬉しいかなって」

「ああ、はい。わかりました。安部さ――菜々さんがそのほうが気楽だと言うならそれで」

「えへへ。ありがとうございます、プロデューサーさん」

 

 礼を述べながら笑う菜々を見て、綾霧は凄く良い表情をする子だなと心の中で思っていた。以前出会った島村卯月という少女の笑顔も印象的だったが、菜々もそれに負けないくらい素晴らしいものを持っている。

 卯月が輝く太陽なら、菜々は暖かい春の日差しといったところか。

 

「菜々さん。話を戻しても構いませんか?」

「はい! えっとナナはですね、歌って踊れる声優アイドルを目指してるんですっ」

「歌って、踊れる、声優、アイドル……?」

 

 いきなり独特なワードが連なって現れたため、綾霧が脳内で整理するためにそれぞれを口に出してみた。

 

「歌って踊れるはわかります。けど、声優にも挑戦したい?」

「まずはアイドルをしっかりとやっていきたいと思ってるんですけど、いつか声優にもチャレンジしたいなって。どっちもナナの夢なんです!」

「夢、ですか。そう聞いたらプロデューサーとして前向きに考えたいところですね。ただ声優に挑戦するにしても、やはりアイドルとしての基盤を築いてからになるかと」

「今はそれで十分ですよ! ずっと地下アイドルやってきましたから、メジャーデビューに憧れてて。それだけで、もう、本当に感無量で……」

 

 希望が見えてきたことが本当に嬉しいのだろう。菜々がふんわりと柔らかい笑顔を浮かべながら目尻を下げていた。

 綾霧はそんな彼女から一旦手元にある資料に目を移し、次に話すべき内容の補完を試みる。資料には履歴書を元にした菜々のプロフィールの他に、地下アイドルとしての経歴なども書かれていた。

 

「頑張りましょう、菜々さん。それであなたのキャッチコピーにある永遠の17歳についてなんですが、実年齢より随分と低いようですけれど」

「え? ナナ、17歳ですよ?」

「え?」

「え?」

 

 あまりにも自身満々に断言されるので、不安になった綾霧がプロフィールで菜々の年齢を確認する。だがそこに書かれてある数字は自身や楓よりも上で、間違いはなかった。一瞬記載ミスを疑ったりもしたが、以前彼女は居酒屋で働いていたこともあるので、17歳ではあり得ない。

 

「ああ、そうか。アイドルとしての設定ですよね?」

「……ちがい、ますよ……?」

「……」

「…………」

「……出身は千葉――」

「やだなぁプロデューサーさん。ナナの出身はウサミン星ですって。キャハッ!」

 

 菜々がウインクしながら独特のピースサインをしてポーズを決めている。それを見た綾霧が、随分と気合の入っている子だなと認識を改めた。

 アイドルの中には自身にある種の設定を課し、それに準えてアイドル活動をする者が何名かいるが、菜々くらい徹底している人物はあまり見たことがない。

 素でやってしまっている天然な子もいるけれど、菜々のそれとは明らかに違う。

 

「わかりました。ではその方向でやっていきましょうか。ウサミン星から来たウサミン。需要はあると思います」

「……あ、あの。それでもいいんですか、プロデューサーさん?」

「いいとは?」

「えっと、ほら、ナナがウサミンを……じゃなくて、ナナはウサミンだけど、それをそのまま表現してもいいのかなって……」

「もちろん。菜々さんが一番力を発揮できるスタイルがウサミンならば、それをサポートしていきたいと感じています。先ほども言いましたが、一定の需要はあるはずですし」

「……っ」

 

 まさかそのまま受け入れられると思っていなかった菜々が、若干驚いたような表情を浮かべていた。自分から方向性を改めることはないけれど、それをプロデューサーが取り入れてくれるかどうかは別問題だからだ。

 彼女が今までアイドルとして芽が出なかった要因の一つに、強烈なまでの個性がある。それはうまく扱えば武器にもなるが、裏を返せば自身を傷つける諸刃の剣になる可能性をも秘めている。

 事務所側からすれば、安定したアイドルをと求めるのが自然であろう。言葉は悪くなってしまうが、扱い難いと思われるのはマイナス要因にしかならない。

 ただ346プロダクションに限って言えば、必ずしもそうではない――かもしれない。

 

「……ナナ、頑張りたいです。やっと巡ってきたチャンスですから」

「正直言って、ライバルは多いです。他の事務所だけじゃなく、うちのプロダクション内でも競争はあるでしょう。ですが菜々さんの個性が強い武器になるとも思ってますし、努力次第でトップアイドルになることも出来るはずです」

「ナナが、トップアイドルに……」

「はい」

「……」

  

 楓や文香とは全く違う方向性。瑞樹とも早苗とも表現できる景色は違うだろう。どちらかと言えば幸子がいるカテゴリに近いかもしれないが、彼女は既にある程度の地盤を固め、人気を獲得している状態だ。

 そこへ追いつくとなると、相応の努力が求められる。

 

「一緒に力を合わせて、頑張りましょう。まずは話の続きを……事務手続きに関しての説明とか、しなきゃいけないこともありますからね」

「はい! お願いします、プロデューサーさんっ!」

 

 これから先、アイドルとして活動していく自分の姿を心の中に描きながら、菜々は深く頷いていた。

 

 

「――あ、お疲れまです、プロデューサーさん。今からお出かけですか?」

 

 菜々との面談を終えて、彼女を送り出してから綾霧が部屋を出る。ちょうどその時、廊下の向こうからやってきたちひろが彼を見つけて声をかけてきた。

 片手に小箱を抱えているので、彼女もどこかへ移動する途中なのかもしれない。

 

「お疲れさまです、千川さん。はい。今から楓さんとラジオ局に向かおうかと」

「ああ、収録ですか。確か音楽番組にゲスト出演なさるんですよね?」

「ええ。嬉しいことにメインで扱ってくださるみたいで。その分少し収録時間はかかるみたいですけど」

 

 戸口で立ち止まったままの綾霧に向かって、ちひろが歩きながら話しかけてくれる。その最中、彼女は持参していた小箱の中に手を入れると、何やら小さな子瓶を取り出した。

 

「長丁場ですか。ではこちらをどうぞ。元気、出ますからね」

「わあ、スタドリじゃないですか。ありがとうございます」

 

 彼に手渡されたのは見慣れた形状のスタミナドリンク。ちひろの言うように飲むだけで元気が出てくる気がする優れものだ。綾霧だけじゃなく、プロデューサーで愛飲している者は数多くいる。

 

「じゃあ早速頂いてっと」

 

 綾霧が蓋をきゅるっと回して取り外し、中身を一気に煽るようにして飲み干した。途端、体内のスタミナが一瞬で補充……されたような気がしてくるから不思議である。

 

「ぷはぁ~! やっぱりこの味、癖になるなぁ」

「うふふ。良い飲みっぷりですね、プロデューサーさん。――あ、空の瓶、いただきますね」

 

 処遇に困るだろうとの配慮から、ちひろが空になったスタドリの瓶を綾霧から回収する。

 

「助かります」

「いえいえ。気をつけて、いってらっしゃい」

「はい。行ってきますね」

 

 ひらひらと手を振るちひろに会釈を返して、綾霧が廊下の先にあるエレベーターへと向かって歩いて行った。

 

 

「どうですかぁ~。お家で作ってきたんですけどぉ、お口に合えば嬉しいかな~って」

「あら、カップケーキね。ふうん。ほんのりと紅茶の香りがするけれど、中に入ってたりするの、愛梨ちゃん?」

「そうですねぇ。えっとぉ、真ん中の列がプレーンで、手前にある分が紅茶入りですよぉ。あとはオーソドックスにチョコチップが入ってるのと、全部で三種類ですっ」

「本当にこのカップケーキ、凄く良い匂いがしますね。かたちも綺麗ですし、カワイイボクにぴったりです。あ、愛梨さん、ひとついただいても構いませんか?」

「どうぞ幸子ちゃん。いっぱい食べちゃってくださいっ」

「ありがとうございます」

 

 綾霧がエレベーターの到着を待っていたら、聞き覚えのある声が耳に届けられてきた。その音に興味をそそられたのか、彼が視線を彷徨わせて場所を探る。どうやら、廊下の先にある休憩スペースから聞こえてくるらしい。

 休憩スペース――自販機の近くに椅子が置いてあり、ちょっとした雑談などを行える空間が設けられているのだが、そこで集まって話しをしているのだろう。そう当たりをつけた綾霧が、そちらに向かって歩みを進めていく。その時、一応時計で時刻を確認したが、予定時間までまだ余裕があった。

 少し歩いて角を折れ、休憩スペースを覗き見る。果たしてそこには、長椅子に並んで座る愛梨と瑞樹、そして幸子の姿があった。

   

「あれ? プロデューサーさんじゃないですか。もしかして今からお出かけですか?」

 

 最初に彼の姿に気付いた幸子が声をかけてくる。外出用の鞄を持っていたので出掛けるのかと尋ねてきたのだ。それを聞いた後の二人も彼に視線を向けてくる。

 

「うん。今からラジオ局までちょっとね」

「ラジオ局……」

「そっか、プロデューサー君、楓ちゃんと待ち合せてるのね?」

「はい。エントランスロビーで落ちあう予定になってます。川島さんたちはそこで何をしてるんですか?」

「ん、今ね、愛梨ちゃんが作ってきてくれたお菓子をいただいてたところなの。とっても美味しいんだから」

 

 答えた瑞樹が、真ん中に座る愛梨に視線を向ける。その愛梨が綾霧に挨拶をした。

 

「こんにちは、楓さんのプロデューサーさん。良かったらおひとつ如何です?」

 

 歩いてきた綾霧に向かって、愛梨が持っていた箱の中身を見えるように傾けた。そこには先ほど話していた通りに三種類のカップケーキが並んで入っている。

 

「こんにちは、十時さん。そのケーキ、俺も頂いちゃってもいいんですか?」

「いっぱいありますから大丈夫ですよ」

「それじゃあ、折角なのでひとつもらいますね」

「はぁい。どうぞ。召し上がれ~」

 

 愛梨に一言断わってから、綾霧がカップケーキに手を伸ばす。

 彼は少し迷ってから、三種の中からチョコチップが入ったケーキを選び取った。それから包み紙を少し剥がすと、そのまま一気にかぶりつく。

 ――途端、スポンジのほのかな甘みさが口の中いっぱいに広がって、後からチョコの旨みが追いかけてくる。

 一言で言うと、うまい。二言で言うと、めっちゃうまい。

 

「これ、美味しいですね。まるでお店で買ってきたやつみたいだ」

 

 ここで言うお店というのは、専門店という意味だ。それが伝わったのか、愛梨が自慢げに胸を張った。 

 

「えっへんっ。私、お菓子作りだけは得意なんですよっ」

「本当にね。お菓子作りだけはプロ並みに凄いのよ、愛梨ちゃん。普段はおっとりしてて、ちょっととろい感じだから驚くわ」

「え~、私、とろくなんかないですよぉ。ちょっと人より喋るのが遅かったりするだけでぇ~。え~と、俊敏? じゃなくてぇ、頭の回転は速いほうだと思ってますし」

「その回転の速さに身体の動きがついていってないっていうか」 

「そうかなぁ~。ねぇねぇ幸子ちゃん。私、とろくないですよねー?」

「え? そこでボクに話を振るんですか!?」

 

 幸子は素直な良い子だから、嘘は苦手なのである。

 

「あはは。でも珍しい組み合わせですよね。三人で集まって何の話をしてたんですか?」

「ほら、私と愛梨ちゃんが司会するクイズ番組があるじゃない? そこへ幸子ちゃんがゲストに来た回あったでしょ? その時のパフォーマンスについて私たちの意見を聞きたいって、彼女がね」

「へえ、幸子ちゃんが主催ですか」

「……なにか言いたげですね、プロデューサーさん」

「別に、なにも。ただ勉強熱心だなって思って」 

「…………まあ、一口にクイズ番組といっても色々あるじゃないですか。でもゲストのパフォーマンスによって面白さってかなり変わると思うんですよね。ボクが出るだけでお茶の間の皆さんは大満足でしょうけど、上を目指せるなら目指したいですし」

「なるほど」 

「そのためにもお二人の意見を窺って、今後の糧にしたいなって……って、さっきからなんですかプロデューサーさん。ニヤニヤしてっ」

「だって嬉しかったからね」

 

 断言した通り、綾霧は傍目に見てもわかるくらいニコニコとしていた。はっきり言ってしまうと頑張る幸子が可愛くて仕方ないのだ。褒めてやって、頭をぐりぐりと撫でてやりたい心境である。

 それは隣に座る瑞樹も同様のようで、クスクスと可笑しそうに笑っていた。

 

「……う、嬉しいの意味がわかりませんっ。ボクが頑張るとプロデューサーさんは嬉しくなっちゃうんですか!?」

「うん」

「……ぐぬ、ぬ」

 

 冗談ぽく言ったのに、素直に肯定された幸子が言葉に詰まる。その後は照れ隠しなのか、少しだけそっぽを向いてしまった。 

 

「……ま……まあ、いいです。取りあえず次に出演する機会があれば色々と活かしたいなって思ってまして。まあアイドルとして当然の心構えですよ」

「それ、すぐ次に活かせるかもしれないよ、幸子ちゃん」

「へ?」

 

 綾霧の答えを受けて、幸子の顔にハテナマークが浮かんでいた。 

 

「近々特番があるらしくって、そこでまた出演する話になってるから。今度は他の部署のアイドルも加えて三人でだけどね」

「三人で……? ボクの他にあと二人ですか?」

「そう。一人は小早川紗枝さん。京都出身の上品な女の子で幸子ちゃんと気が合うんじゃないかな。もう一人が姫川友紀さん。野球が好きな女の子で、あとビールも大好きとかいう噂が」

「それはまた早苗ちゃんと気が合いそうな子ね」

「まあ姫川さんは成人してますから、一緒に飲みに行く機会とかあるかもしれませんね」

 

 瑞樹に答えてから、改めて幸子に目を向ける。

 

「面白い番組、期待してるからね、幸子ちゃん」

「フ、フフーンっ! 誰と組むことになってもボクはカワイイですからねっ。プロデューサーさんの期待には応えてみせますよっ」

 

 実際この後、幸子と紗枝、そして友紀の三人は“カワイイボクと野球どすえチーム”として、クイズ番組の準レギュラーとして活躍することになるのだが、それはもう少し先の話である。 

 

 

 愛梨にケーキのお礼を述べてから三人と別れ、綾霧がエレベーターに跳び乗った。そして下に降りるや、再び珍しいアイドルの組み合わせを発見してしまう。

 それは佐久間まゆと片桐早苗。

 二人は向かい合いながら、なにやら身振り手振りを交えて会話していた。

 

「あららぁ? そこに立ってるのってプロデューサー君じゃない? どうしたの? 今からお出かけ?」

「……まあ、そんなところです」

 

 話しに熱中している様子なので、声をかけると邪魔になるかもしれない。そう考えていたら、早苗のほうで彼を見つけて声をかけてきた。

 その行為で会話の途切れた二人が、顔を見合わせてから綾霧のところまで歩いてくる。

 

「うふふ。こんにちは、楓さんのプロデューサーさん」

「こんにちは、佐久間さん」

 

 二歩くらい手前で歩みを止めたまゆが、微笑みながら挨拶してくれる。綾霧はそれに答えた後で、隣にいる早苗になにをしていたのかを尋ねてみた。

 

「二人で立ち話なんて珍しいですね。急用かなにかですか?」

「そんなんじゃないんだけど」

 

 そう言った早苗がまゆに視線を移す。

 

「実はね、まゆちゃんに軽く護身術を教えてたところなのよ」

「は? 護身術!?」

 

 あまりにも予想外の答えだったためか、綾霧が素っ頓狂な声を上げて驚いている。

 確かに早苗は元警察官であり、空手や合気道、柔道など格闘技の有段者だ。その経験はアイドルになった今でも受け継がれていて、一般人よりもかなり“強い”のは間違いない。ただそれと佐久間まゆというアイドルが線で結びつかないのである。どちらかと言えば、まゆはおっとりしたほうだし、荒事に不向きなイメージしかない。

 

「それって本当ですか佐久間さん? もしかして、片桐さんがなにかご迷惑をかけてるんじゃ?」

「ちょっと、プロデューサー君。あたしのことを歩くトラブルメーカーみたいに言わないで欲しいわ」

「でも前科が」

「そんなのないでしょ!?」 

「早苗さんの言ったことは本当ですよ。まゆ、護身術を習ってたんです」

 

 真っ直ぐ目を見て話すまゆの様子からは、嘘を言っているようには見受けられない。なら、どうしてそんなことをしているのかという新たな疑問が沸いてくる。

 

「どうして護身術を?」

「別に深い意味があるわけじゃなくて。ただ、まゆ、最近ずっとアイドルとして自分に足りなかったものはなんなのかなって考えていたんですよね。そしたら色々候補が浮かび上がってしまって」

「そのひとつが護身術だった?」

「はい。アイドルとして輝くためになにが役に立つかわかりませんから。それにこういう技術を身につけていたら、いざという時でもプロデューサーさんを守ってあげられるかなって」

「え?」

「まゆが、プロデューサーさんを守ってあげるんです。ふふふ。そう思ったら居ても立ってもいられなくなってしまって。こうして早苗さんに教わりにきちゃったんですよ」

 

 ここでまゆが言っているプロデューサーは綾霧ではなく、まゆのプロデューサーのことだ。彼に何かしてあげたい。したい。そういう強い想いが彼女を能動的に動かしたのかもしれない。

 シンデレラガールになれなかったという思いも起因しているのだろう。

 ただ例えまゆが護身術を身につけたとしても、実際に守られるのは彼女のほうになってしまうんじゃないかと綾霧は感じていた。だって自分がその立場だったら、担当アイドルに守られるよりも、守ってあげたいと思うだろうから。

 そんなことを考えて沈黙している綾霧を見て、早苗は彼が懸念しているんじゃないかと思い、そこにフォローを入れる。

 

「心配いらないわよプロデューサー君。こういうのって口で言って伝わるってものじゃないからね。実際に身体を動かさないと。だからちょっとした心構えみたいなものを話してたところなの」

「心構えですか?」

「なにかあった時に焦らないようにって。ただまゆちゃんがそれだけじゃ納得してくれなくてねー」

「稽古はまた日を改めてつけてもらおうかなって、早苗さんにお願いしてたところなんです」

「……それって結構本格的ですよね」

「まゆ、本気ですから」

「興味本位なら諭して諦めてもらおうかなって考えてたんだけど、結構やる気みたいだし。なんか一度決めたらてこでも動かないみたいなところ、楓ちゃんに似てるかも」

「それは愛の力ですよ、きっと。うふふ」

「ほらねぇ」

 

 言っても無駄でしょ? みたいなジェスチャーをしてみせる早苗。きっと色々問答をした後の結果なのだろう。そう思った綾霧が、一言釘だけ刺してから頷いた。

 

「わかりました。でも無理だけはしないでくださいね、片桐さん」

「大丈夫。早苗さんに任せなさいって」

 

 匙加減は弁えてる人だから、早苗の言う通り任せてしまっても大丈夫だろう。

 そう判断した彼は、最後にまゆに声をかけることにした。

 

「なにかあったら、すっぐに俺を呼んでください。片桐さんにお灸を据えますから」

「だからあたしを信用しなさいってっ」

「ふふ。心配しなくても大丈夫ですから。あと、楓さんによろしくお伝えください」

 

 

 そういうやり取りの後で二人と別れた綾霧が、目的の場所へと向かって歩みを進める。その道中で今日はよく人に出くわす日だと彼が思った時、視界の隅に見知った顔を見つけた。

 エントランス脇に置いてあるチェアーに腰掛けながら本を読んでいる黒髪の少女。彼女はじっと手の中にある文庫本に目線を落としていたが、やおら気配を感じたかのように顔を上げてきた。

 

「……あ、プロデューサーさん」

 

 前髪が目線にかかるくらいの俯き加減ではあるが、しっかりとその瞳が綾霧を捉えていた。

 鷺沢文香である。

 

「こんにちは、鷺沢さん。今読んでるの、それ新刊ですか?」

 

 文香に向かって歩み寄りながら、綾霧が声をかける。それを受けて、文香がチェアーから腰を上げた。

 

「……はい。昨日買ったばかりなんですけど、少しだけ読み進めようとしたら、止まらなくなってしまって」

「そういうの、面白い本だとあるあるですね」

「本当に、よく……あります」

「でもここだと雑音とか気になったりしませんか?」

「それが一度読み始めると物語に集中してしまって、没頭というのでしょうか。周りの音とか気にならなくなってしまうんです」

「そっか。でもそういうの鷺沢さんらしいですね」

「お恥ずかしい……限りで……。あの、プロデューサーさんは、もう読まれましたか?」

 

 そう言った文香が本のタイトルを綾霧に告げた。

 

「まだ買ってないんですよ。面白そうだから、本屋に寄った時に買おうかなとは思ってるんですけど」

「あ……よろしければ、お貸ししましょうか?」

「いいんですか?」

「構いません……。読んでいただけたら、私も嬉しいですから。それで……あの、読み終えたらまた感想などを聞かせてくれると……」

「いいですよ。鷺沢さんさと感想を言い合うのって楽しいですからね」

「あ…………」

 

 自分の行為が素直に相手を喜ばせるということに慣れていないのか、文香が言葉に詰まったように口篭ってしまった。

 アイドルとして少しは人前に出る事などには耐性がついてきたが、やはり親しい人に面と向かって言われるのとでは羞恥の度合いが違うのだろう。

 それでも文香は、ちょっと嬉しそうに表情を綻ばせていた。

 

「誰かー! その子を捕まえてー!」

 

 ちょうどその時である。聞き覚えのある声があたりに響き渡ったのは。すぐさま綾霧は声のしたほうへと身体を向けて、状況の把握に勤めた。

 

「あっ!」 

 

 事を説明するのは簡単である。

 金髪ツインテールの少女――恐らく染めている――が走って来ている後ろから、城ヶ崎美嘉が追いかけてきているのだ。その状況から、ツインテールの少女を捕まえればいいのだと理解した綾霧は、隣にいる文香に助力を仰ぐ。

 

「鷺沢さんはそちら側をお願いします。俺はこっちを受け持ちますから」

「と、通せん坊ですね……」

 

 頷いた文香が、ぎゅっと両目を瞑ってばっと両手を広げて、ツインテールの少女の行く手を遮った。もちろん一人では塞ぎきれないので足りない部分は綾霧が補う。

 結局ツインテ-ルの少女は、文香の胸にぽふっという擬音は発生するくらいの緩さで飛び込んで行った。

 

「あ~あ。捕まっちゃった」

「り~か~っ!」

「あ、おねーちゃん」

「あ、お姉ちゃん。じゃないでしょ。この子はもう勝手に走り回って」

「だってぇ見たかったんだもん。こんな大きな建物なんだよ? 探検したくなっちゃうよ」

「だからって勝手に走り回っていいわけないでしょ」

 

 文香に抱かれる格好になっていた少女の首根っこを、美嘉が掴み取る。それから彼女に向かって片目を瞑ってみせた。

 

「ごめんねぇ文香ちゃん。怪我とかしなかった?」

「それは……はい。大丈夫です」

「ああ、良かった。そっちのプロデューサーもごめんね?」

「俺は全然。えっと城ヶ崎さん。こちらの方はもしかして……」

「うん、アタシの妹の莉嘉。実はシンデレラプロジェクトのオーディションに受かっちゃってさ。今日はこっちに見学にきたってわけ」

「なるほど。妹さんですか。どうりで似てるはずだ」 

 

 年齢は少し離れているようだが、纏っている雰囲気というのか、系統というべきか。それが美嘉と莉嘉は似通っているのだ。どちらかの人物を良く知る人ならば、二人を見て姉妹だとピンとくるだろう。

  

「えへへ。アタシはカリスマJCの城ヶ崎莉嘉だよー! おねーちゃんみたいなアイドルになるのが夢なんだ。よろしくねっ!」

 

 決めのギャルピースも姉譲りなのか、仕草のひとつ取っても本当に良く似ていた。美嘉のようなアイドルになりたいと口にしたところからみて、意識的に似せているのだろう。

 

「でさ、この人たちっておねーちゃんの知り合い?」

「もう、この子は……」

 

 気さくな莉嘉の接し方に、美嘉が軽く頭を抱える。彼女もフランクというか、人との距離感が近いほうではあるが、目上の人や初対面での接し方みたいなものは心得ている。

 

「あのね、こちらの綺麗な人が鷺沢文香ちゃん。アタシの後輩に当たるアイドルで、莉嘉にとっては先輩アイドルになるのかな」

「あ、よろしく……お願いします」

「うん、よろしくね!」

「で、こちらが……うーんと、楓さんの担当プロデューサーって言ったほうが莉嘉にはわかりやすいかも」

「えっ!? 楓さんってあの楓さん!? 凄いんだ!?」

 

 楓の名前を聞いた途端、莉嘉が目を見開いて驚きだした。その様子があまりにも大仰なので、綾霧が注釈を入れる。

 

「……それって俺が凄いって意味じゃなくて、楓さんが凄いってことだよね。いやまあ、実際そうなんだけど」

 

 こういう反応には慣れているのか、綾霧はさして気分を害した様子もなく莉嘉を見つめている。その隣で、文香が可笑しいことがあったとばかりに小さな声でクスクスと笑いだした。

 その様子が気になったのか、美嘉がそのことについて尋ねてくる。

 

「どうかした、文香ちゃん?」

「……いえ。私も、プロデューサーさんがこちらの事務所に所属していると知った時に、似たような反応をしたことがありましたから。それを……思いだしていたんです」

「あー、本屋でバッティングして、俺が名刺を渡した時ですか?」

「はい。あの時もあなたは……凄いのは自分じゃない、みたいに仰っていました。けれどそれが謙遜であることが、今ならはっきりとわかります」

「そう……かな?」

「そうです。私が曲がりなりにもアイドルとしてやっていけているのは、全てプロデューサーさんのおかげですから。プロデューサーさんがいたから、この場に立っていられるのです。それは楓さんや川島さん、早苗さんに聞いても同じ言葉が返ってくるはずですよ」

「鷺沢さん」

「あ……」 

 

 自身に注目が集まっていることに気付いた文香が、ぱっと顔を赤くして俯いてしまった。自分が語りだしたせいで場が静かになったことも影響しているのだろう。 

 

「出すぎたことを申しました。ですが……プロデューサーさんが凄くないと思われるのは、釈然としませんでしたから」

「ま、楓さんもアンタのこと褒めてたし、もっと自信持っていいと思うよ?」

「え?」

「あ、ごめーん。これ、内緒だった」 

 

 失言したとばかりに舌を出してから、美嘉が莉嘉の腕を掴み取りながら踵を返した。

 

「邪魔してごめんね。莉嘉を捕まえてくれてありがと」

「おねーちゃん、そんなに引っ張ると痛いってば」

「ちょっとくらい我慢しなさいっ」

 

 そんな言葉を残して去って行く城ヶ崎姉妹を見送ってから、文香が綾霧に向かってひらひらと手を振りだした。

 

「あの……いってらっしゃい、プロデューサーさん」

 

 彼がどこかへ向かう途中なのは見て取れたから、場の解散の意味も込めて送り出そうと言うのだ。

 

「……はい、行って来ます」

 

 それに答えてから、綾霧がしっかりとした足取りで歩みを進めて行った。

 

 

 エントランスロビーの出入り口付近。その近くに立つ彼女の姿を見つけた。

 その様子や服装に普段と変わったところは見られない。でも窓の外に視線を向けて佇む彼女の姿に、綾霧はその場に立ったままで、しばらく見惚れてしまっていた。

 雰囲気や佇まいが綺麗だとでも表現するべきなのだろうか。例えば扉が開いて風が建物の中に吹き込んだ時に、そっと髪の毛を押さえる仕草ですら絵になっている。

 一々の所作が美しい。

 恋人の身贔屓だと言われても仕方ないが、綾霧は今でも時々、こうして彼女の立ち姿に心を奪われてしまうことがある。

 

「楓さん」

 

 だがいつまでもここで眺めているわけにはいかない。そう思った綾霧は、再び歩きだしながら優しい声音で彼女の名前を読んだ。その声を聞いた楓が、嬉しそうな表情を浮かべながら振り向いた。

 

「ああ、やっときてくれましたね、プロデューサー」

「すみません。待たせちゃいましたか?」

「少し、ですけど」

「ごめんなさい。到着が遅れそうだと、連絡すれば良かったですね」

「時間的には間に合ってますし、大丈夫ですよ。それに退屈はしませんでしたから」

「え?」

 

 待たせたと言うわりに、楓から機嫌が悪いような感じは見受けられない。それどころか上機嫌な部類に見える。

 

「貴方が来たらなにを話そうか。そんなことを考えていたら、あっという間でした。ふふっ」

「なんだ。お得意のダジャレを考えてたわけじゃないんですね、楓さん」

「もちろん、ダジャレも考えてましたよ。後で早速披露しますから、期待しててください」

 

 そう言って微笑んだ楓が、綾霧の目の前まで歩いてくる。

 

「今日はラジオ局まで行くんですよね? 移動には車を?」

「いえ、電車で行こうかと。直帰になると思いますし、あまり遅くなるようだったらタクシーを拾えばいいかなって」

「なら向かう先は駐車場じゃなくて、駅ですね。終わったら飲みに行きましょうか、プロデューサー?」

「いいですね。でも楓さんなら、そういうと思った」  

 

 思わず吹き出して笑い合う二人。

 それが雑談を終える合図になったのか、楓が綾霧の横に移動しながら、扉のほうへと視線を向けた。

 

「じゃあ行きましょうか、プロデューサー」

 

 二人で並んで扉を潜り、外へ出る。

 目的地の駅は二人もよく利用している場所にあるので、道を確認する必要すらない。いつものように隣同士で歩調を合わせて歩いていくだけだ。

 その最中、楓は綾霧の手を取ろうとして、途中で手を止めた。恋人モードになるのは就業時間を過ぎてから。それが二人の間での約束事だったから。

 

「……」

 

 いけないとばかりに楓が心の中で戒める。それもあって、歩きながら話そうと思っていた話題を、仕事の関係に絞ることにした。

 

「プロデューサー。最近、私、やる気が満ち満ちている感じがしてて、この気力をお仕事で生かせればなって思ってるんです」

「毎日が充実してるって感じですか?」

「それもありますけど、今日のお仕事も、実はすごく楽しみにしてて。私の中にあるこの熱い思いをファンの皆さんにも届けられたらなって」

 

 歩きながら話す楓に、綾霧が相槌を打つ。相手が話し易いように、適度に話の腰を折らず返事するのは、プロデューサーたる彼の得意分野だ。

  

「歌う以外にも色々と表現する方法があって、今日はラジオの収録ですけど、例えばトークを通じて私を知ってもらえれば、嬉しいかなって」

「ラジオだけに、とーくの地方の人にも届けられますからね」

「あら、先に言われちゃいました」

「あはは。でもそういうの、いいと思いますよ。俺は楓さんのプロデューサーですからね。あなたが望むならどんな舞台だって用意してみせますよ」

 

 楓はアイドルなのだから、表現する方法を広げていくというのは、新しいファンの獲得するという意味でも大切な行為だ。彼女がそのために頑張りたいというのなら、綾霧は輝く舞台を整えるだけだ。

 

「じゃあ、ひとつ、お願いしたいことがあるんですけど。聞いてもらえますか?」

「早速ですね」

「いきなりは、駄目?」

「いえいえ。楓さんのお願いなら大抵のことは叶えてあげたいって思いますよ。まあ実現可能かどうかは、聞いてみてからじゃないと判断できなってだけで」

「ふふっ。そんなに大きなことじゃありませんよ」

 

 微笑を浮かべながら、楓がお願いを口にする。

 

「プロデューサー。私がアイドルとして初めて歌った時のことを覚えてますか?」

「もちろん。俺にとっても初めてのライブでしたから」

「ふふっ。あの時の私は歌うのが怖くて、震えていていましたよね。壇上で一人になるのが心細くて。でもプロデューサーがくれたアドバイスのおかげで、無事乗り切ることができました」

「楓さんが頑張ったからですよ。俺の力なんて――」

「いいえ。貴方がいなければ、ライブを成功に導けたとは思えません。それくらい当時の私は未熟でしたから」

「……楓さん」

「プロデューサー。私をもう一度、あの舞台に立たせてもらえませんか? あそこで、もう一度、歌ってみたいんです。それが私のお願いです」

 

 楓の話す口振りから、思い出話をしようという雰囲気じゃないのはわかっていた。だが彼女のお願いの内容が完全に予想外だったので、一瞬返事するのが遅れてしまう。

 

「……」

「お願いします、プロデューサー」

「でも特別に会場を設えても、そんなに観客は入りませんよ? 今の楓さんなら、もっと大きな場所でも――」

「いいえ。あの場所で、歌いたいんです」

 

 綾霧の言葉に対し、楓が首を振った。

 

「あの時に表現できなかったものを、今なら魅せられる気がして。当時来てくださったファンの方が、もう一度訪れてくれるとは限りません。ですが、成長した私を届けたいんです。こんなにも楓は大きくなりましたよって」

「それは楓さんがアイドルだから?」

「はい。アイドルだから。それに人との距離が近いと、相手の表情がよく見えるんですよ。微笑んでいたり、私の歌に聴き入ってくれていたり。だから会場が小さくても悪いことばかりじゃありません」

「……」

 

 はっきり言って、今のアイドル高垣楓の人気を鑑みれば、あの場所では狭すぎる。キャパシティが絶望的に足りないし、下手をすれば大混乱を招く危険性すらあった。

 でも彼女の真摯な気持ちを聞いて、首を横に振るなんてことは出来はしない。足りない部分があるなら、それを補って、彼女が少しでも気持ち良く歌えるように舞台を設えるのが、プロデューサーである綾霧の仕事だろう。

 そう思った彼は、楓が安心するようにと優しい笑顔を浮かべた。

 

「わかりました。今すぐにというのは無理ですけど、近いうちに必ずライブできるようにしてみせます」

「本当に?」

「冗談でこんなことは言いませんから」

「……ありがとうございます、プロデューサー」

「お礼なんていいですよ。さっきも言ったけど、楓さんのお願いなら何でも叶えてあげたいですし。それに俺はあなたのプロデューサーですからね」

「私――だけの?」

「それは……ただ、俺の担当アイドルに、悲しい顔はさせません。絶対に」

「――っ」

 

 胸を張って宣言する綾霧の姿を見て、楓が目を見張る。その一瞬後で、彼女はすっと彼に身体を寄せると、綾霧の耳元に自身の唇を近づけていった。

 

「今、きゅんっときちゃいました。もしここが人前じゃなかったら、キスしていたところですよ」

 

 囁く声音は蠱惑的に甘くて、彼の脳裏にこびりつく。

 

「か……からかってるんですか、楓さんっ」

「さぁて、どうでしょう。ふふっ。気になるなら当ててみてください」

 

 すっと身体を離して、元の位置に楓が戻る。あまりくっついていると我慢できなくなってしまうからだ。

 

「行きましょう、プロデューサー。電車に乗り遅れたら大変ですから」

「あ、待ってください、楓さん。時間、まだ大丈夫ですよ!」

 

 小走りに駆けだした楓を綾霧が追いかける。

 その先に広がっているのは、幸せに満ちた輝く世界だ。だって彼の隣には楓がいて、楓の隣には彼がいる。それは時計の針が十二時を過ぎても変わることはない。

 ゼロから始まった二人の物語は、まだこれからも紡がれていく。  

 

 

 

                ~fin~

 

 

 

 


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