ゼロからのシンデレラ   作:powder snow

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第三十九話

 ベッドに腰掛けたままの状態で、綾霧が壁掛け時計に視線を走らせた。しかし先ほど見た時から二分も進んでいないことに気付き軽く頭を振る。

 膝の上に置いた手を開いたり、握ったりと、あまり落ち着いている様子はみられない。ただそうやってじっと待っているという手持ち無沙汰を紛らわせるためか、一度消したテレビをつけようと彼がベッドから腰を上げた。そしてテーブルまで移動してその上に置いてあるリモコンを手に取るが、少し悩んだ後でテレビを点けることなくリモコンを元の位置まで戻してしまった。

 

「……」

 

 彼はその場に立ったまま、視線を部屋の向こう側へと通じる扉へと向けた。微かに耳まで届いてくる水音が、否応なしに彼の心の中にある期待感を膨らませてしまう。

 生唾を飲み込んで、緊張感を緩和させる。

 再び目で捉えた壁掛け時計の針は、やはり先ほどからほとんど進んでいない。結局彼は、元居た場所まで戻ってくると、そのままベッドに座り直すことにした。

 

 少し時間を遡ろう。

  

「やば。楓さん、めっちゃ美味しいですよ、このカレー」

「本当ですか、プロデューサー?」

「ええ。野菜の旨みが染み込んでて、ご飯とカレーがベストマッチングしてる感じがして。いくらでも入りそう」

「ふふっ。気に入っていただけたようで嬉しいです。沢山作りましたから、おかわり大丈夫ですよ」

 

 テーブルの上に、楓が調理してくれた料理が二人分用意されていた。

 メインは綾霧がリクエストした通りのカレーで、大皿にご飯を盛り、その上にルーをかけるというオーソドックスなスタイル。ただ一口にカレーと言っても、野菜の切り方や、入れるお肉の種類など、家庭によって作り方は異なってしまう。

 楓が用意したカレーは、野菜を少し小さめに切って火の通りを良くするタイプのもので、お肉は牛肉を使用していた。そのカレー以外にも溶き卵が入ったコンソメースープ、そしてサラダが用意されていて、夕食として申し分ない一品に仕上がっている。

 ちなみに席順は対面同士ではなく、テーブルを直角に挟んで綾霧と楓が隣同士に座っている格好だ。

 

「このスープも口当たりが良くてまろやかで、うまいです。卵が入ってるからかな?」

「カレーの刺激を和らげる効果があるみたいですね。ちょっと前に文香ちゃんと本屋さんに行ったんですけど、その時に買ったお料理の本に書いてありました」

「へえ、鷺沢さんと本屋に?」

「ええ。最近、文香ちゃんにお化粧の仕方を教えたりしていて。そのお礼じゃないですけど、良い本屋さんがありますよって連れて行ってもらったんです」

 

 楓から料理の本を探していると聞いた文香が、蔵書の多いお店を紹介したという流れである。さすがに本屋を巡るのが趣味というだけあって、彼女のそういう方面の知識はズバ抜けていた。

 

「文香ちゃんと一緒に本屋さんに行くの、楽しいですね。色々と教えてもらえるので」

「なんていうか、持っている知識の量が凄いですよね。なにを質問してもすぐ答えが返ってくるし。――そうだ。今度部署のみんなで本屋さん巡りでもしてみましょうか」

「あら、とっても楽しそう。折を見て、声をかけてみますね」

 

 良い提案をもらったとばかりに、楓が手を合わせながら頷いている。

 そんな感じで、お喋りしながら食事を進める二人。

 カレーを食べて、スープを飲んで。時折サラダに手を伸ばして。満足そうに笑っている綾霧を見て、楓も嬉しそうに目を細めていた。

 

「本当、うまい。もしかして、カレーに何か隠し味とか入れたんですか?」

「いいえ。そういうことをするにはまだ腕が未熟だと思いますから。レシピ通りに作ったんですよ」

「そうなんだ。でもめっちゃ美味しいけどなぁ。あれかな? 楓さんが作ってくれたからそう感じるのかも」

「もう、プロデューサーったら。そういうことは……もっと言ってください」

 

 照れ隠しなのか、楓が可愛く喉を鳴らしながら、手をぱたぱたと振っている。

 料理のレパートリーを増やすため。そして彼に美味しいと言ってもらえるようにと日々頑張ってきたのだ。こうやって素直に褒められれば頬も緩むというもである。

 

「プロデューサー、お水、入れましょうか?」

「あ、すみません、楓さん」

「いーえー」

 

 綾霧のグラスの中身が減っていることに気付いた楓が、テーブ上にあるウォーターカラフェを手にする。それを見た綾霧が彼女に向かってグラスを差し出した。

 温度を一定に保つために氷の入った中身が、グラスへと注がれていく。その時にガラスと氷とがぶつかってカランとした軽やかな音を立てていた。

 

「んー、少し辛かったかしら?」

「そんなことないですよ。俺的にはちょうど良い辛さで満足してますし」

「それを聞いてほっとしました。プロデューサーの好みがわからなくて。辛めが好きなのか甘めが好きなのか、事前に聞いておけば良かったですね」

「辛いのはあまり得意じゃなくて。でも甘すぎるのもあれだし……うーん、やっぱ普通かな?」

「普通ですか? えっと……中辛?」

「そうそう中辛。あれってルーによって全然辛さが違いますよね」

「同じ中辛なのに甘めや辛口なんかもありました」

「あはは。種類、多すぎでしょ」

「一口にカレーと言っても、色々と難しいんですね」

「まあ俺は楓さんが作ったものなら、なんでも美味しくいただけますよ」

「それはそれで張り合いが……」

 

 そんな風に和やかな雰囲気で二人きりの夕食が進んでいく。

 お店で食べる時とは違った、楽しいひととき。これが家庭料理の醍醐味であろう。

 

「プロデューサー。デザートも用意してありますから、食べ終わったらコーヒーを淹れて頂きましょうか」 

 

 自分で作ったカレーをスプーンで救い、口へと運ぶ。

 全く同じ料理でも、隣に彼がいるだけで格段に美味しく感じてしまうんだなと、楓は心の中で思っていた。

 

 

 食後のコーヒーを飲み終えた綾霧と楓が、壁際にあるソファに並んで腰掛けていた。

 配置的にはテーブルを挟んで正面にテレビが設置されているので、二人でそれを見ている格好になる。とはいっても、映像は映っているが、ほとんどBGM変わりに点けているといった感じなので真剣に見入っているという様子ではない。

 二人とも目線は画面にいっているのだが、意識の大部分は隣に座っている人物に向けられているのだ。

 

「……」

「……」

 

 綾霧がテレビに視線をやりながら、少しだけ顔を横に向けて楓の姿を盗み見る。お互いの肩が触れあうくらいの至近距離に身を置いているため、間近で彼女の横顔を眺めることができた。

 長い睫に泣きぼくろ。近くで見ないとわかり難いが、左右で瞳の色が違うオッドアイ。そういう特徴を持ちながら、それらが霞んでしまうくらいの魅力に溢れている。

 日常という生活の中にあっても、失われることのない輝き。それは出会った頃から変わらない楓の持つ力の一つであろう。

 人によっては神秘的だと捉える人もいる。

 人によっては近寄り難いとも。でもそれは彼女が持っている気品や所作、佇まいの美しさからくるもので、外から見た時に感じる壁のようなものに過ぎない。少し垣根を越えてしまえば、想像していたよりもずっと雰囲気の柔らかい人物だと知ることができるはずだ。

 お酒が好きで、居酒屋が好きで。駄洒落が大好きで。

 そしてちょっぴり悪戯好きで。ふとした拍子にみせる幼さ、子供っぽさは、外見とのギャップも相まって彼女の内面の可愛さを遺憾なく発揮していると言える。

 そういうところが、綾霧はたまらなく好きだった。

 

「あの、楓さん」

「なんですか、プロデューサー?」

 

 名前を呼んだ時、返してくれるその声が好きだ。彼女が笑いかけてくれるだけで、心が暖かいもので満たされる。言ってしまえば、拗ねた表情だって好みなのだ。

 ふんわりとした綺麗な髪や、柔らかい唇。もう彼女を構成する全ての要素が愛おしい。こんなにも誰かのことを好きになれるんだって、綾霧は楓と出会って始めて知ることができた。

 それくらい彼女に参ってしまっている。

 

「なにか映画でも観ましょうか? 少し前のやつなら幾つかありますから」

「映画ですか?」

「あまり面白そうな番組もやってないし、ニュースだと味気ない気がするし」

「そうですね。構いませんけれど、一本観るとなったら結構時間がかかっちゃうんじゃありません?」

「あ、そうか。二時間弱はかかるから、観終わったら深夜になっちゃうな」

「なら、またの機会にしましょう?」

「……ですね」

 

 場を持たせるために提案したものの、後のことまで気が回っていなかったことを楓の指摘で気付かされる。やはり緊張しているのが大きく思考に影響を及ぼしているのだろう。

 

「……」

 

 楓が作ってくれた夕食は頂いたし、その後でコーヒーを飲みながらの歓談もした。ゆったりとした時間が流れる中で、今はこうしてソファで身を寄せ合っている。

 もう夜の中でも遅めの時間帯だが、明日は二人でオフを合わせていて――今日は楓が泊まっていくことになっている――ので彼女を送っていく必要もない。

 

「ん……」 

 

 楓が身体をもぞもぞと動かして位置を調整し、綾霧の肩へと頭を預けた。僅かに感じる重みと、ほのかに漂ってくる優しい香り。それが彼女がそこにいる証として、綾霧に強い印象を与える。

 

「……楓さん、もしかして眠くなっちゃいました?」

「そういうわけじゃないんですけど、こうしてると安心するんです。迷惑だったら言ってくださいね?」

「そんなことは全然。むしろ嬉しいくらいで」

「ふふっ。良かった」 

「けどもし眠くなったら言ってください。ベッド、使ってもらっていいですから」

「……はい。ありがとうございます」 

 

 綾霧は一人暮らしなので、この部屋に寝具は一組しかない。予備の毛布やソファがあるので、楓にベッドを与えても寝る場所に困るということはないが、それとは全く別の問題を彼は抱えている最中だった。というより、楓が自分の部屋に泊まると決まった時から、そのことばかり脳裏に過ぎって仕方がない。

 

「……」

「……」

 

 彼女はこの状況をどう思っているのだろう。恋人の部屋に泊まるということは、そういうことだと理解しているのだろうか。そう感じていも、口に出すことができない。

 繰り返すが、彼も緊張しているのだ。

 不安な気持ちもあるし、それ以上の期待感みたいなものもある。こうして密着していると、ふとした拍子に思いが溢れそうになってしまい、それを宥めるのに苦労する。なのにすぐに気持ちが昂ぶってしまって――でも、それをどう相手に切り出せば良いのかがわからない。

 自然な流れに身を任せて、なんてのは経験した後だから言えることだと彼は思う。

 楓のことが好きだ。だからこそ、彼女を傷つけるようなことは絶対にしたくないと綾霧は思っていた。

 

(楓さん……) 

 

 彼女と初めて出会った日のことは鮮明に思い出せる。

 アイドルになってから一緒に駆け抜けた日々も、色褪せない大切な記憶だ。その道行き、楓が隣にいてくれたからこそ、プロデューサーとして歩んでいけた。

 もっと彼女の笑った顔がみたい。もっと、ずっと一緒にいたい。彼女が愛おしくて、溜まらない。

 

(俺は――)

  

 こうして密着していても、まだ遠い。もっと近くに。もっと親密に。彼女に想いを伝えながら、今すぐにでも抱き締めたい衝動に駆られる。

 愛してると囁きながら、キスを交わしたい。

 そして、その先へ――

 

「あ……」

 

 そう思った矢先だった。膝の上に置いていた彼の手に、楓の手がそっと被せられたのは。

 彼女は優しく、優しく、慈しむように、指の腹で彼の指を撫でる。

 

「あの、プロデューサー。私……経験がなくて。こういう時、どうしたらいいのかわからないんです」

「楓……さん?」

「なにか話さなくっちゃって思っていても言葉が出てこなくて。気ばかり逸ってしまって……」

 

 楓が綾霧の肩に預けていた頭を持ち上げながら、身体を半身に置き変えた。こうすることで、彼と目線を合わせることができるのだ。

 

「でも――」

 

 刹那の間、楓の言葉が途切れる。しかし折角振り絞った勇気が消え去ってしまう前に、彼女は残りの言葉を彼に告げた。

 

「――でも、好きな人と結ばれたいって思うのは、自然なことですよね?」

「っ!」

 

 恥らうように、楓が頬を朱色に染める。それから重ねていた彼の手を取って、胸の高さまで持ち上げた。

 

「ほら、わかりますか、プロデューサー? 心臓の鼓動が高鳴っているのが。私、とってもドキドキしているんですよ?」

 

 持ち上げた彼の手を、楓が自身の胸元へと誘う。そうしながら掌でそっと蓋をした。こうすることで、相手に直接心臓の音を届けることができる。

 

「……私だって緊張してるんです。不安なのは貴方だけじゃありませんから」

 

 ドキドキ、ドキドキと脈打っているこの音は、綾霧のものか、それとも楓のものか。

 彼女はきっと自分も同じなんだと彼に伝えたかったのだろう。その試みは成功していて、綾霧の枷を外させる手助けとなった。

 

「楓さん――」

 

 綾霧が彼女の胸元にある手を使って、蓋をしていた楓の手を掴み取る。それから少しだけ自身に向かって引き寄せた。その過程で向かい合わせで指を絡め合う。

 

「プロデューサー」

 

 楓もそれに応え、もう一方の手を差し出して、こちらも正面から指を絡めた。そのまま両手を下げれば、自然と二人の距離を近づけることができる。

 それは口付けを交わせる距離でもあった。

 

「…………もしかして、俺が緊張してるのってバレてました?」

「ずっと見てましたから、わかりますよ。それに私もそうでしたし」

「あはは。俺たちって似たようなこと思ったり、考えてたりすることって多いですよね」

「ええ、本当に」

 

 二人で見つめ合いながら、笑い合う。もう多くを語らなくても、互いに求めていることは伝わっているはずだ。

 だから綾霧は、核心をつく言葉を短い台詞で楓に伝えた。

 

「……俺、先にシャワー浴びてきます」

「はい。その後でお借りしますね」

 

 そういう経緯があって、綾霧の後で楓がバスルームへと入って行ったのである。

 

 耳に届いていたシャワーの音が途切れた。それは即ち、もうすぐ楓がここに帰ってくるという合図である。

 程なく、扉が開かれて――この日は、二人が始めて結ばれた記念すべき日となった。

 

 

 


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