346プロダクション本館。その正面玄関を抜けた先は、二階まで吹き抜けとなっているエントランスロビーが広がっていた。建物の大きさを表すように、大勢の人が利用するロビーは、夕刻を過ぎた時間になっても人の絶える気配はない。
そんなロビーの片隅で、人待ち顔で佇む一人の男性の姿があった。
「……あ、プロデューサー」
エレベーターから降りてきた彼女は、定位置にいる彼の姿を見つけると、その場まで駆けて行こう足を踏み出した。だがその途上でなにやら思いついたように瞬きをするや、ぴたっと歩みを止めてしまう。
視線を彷徨わせ、ルートを探る。そして最適の道筋を見つけた彼女は、ほくそ笑むように口端を上げると、彼の背中を取るように移動を開始した。
忍び足という言葉があるが、足音を立てないようにそっと歩く彼女。別にそこまでしなくても、靴音程度は雑音に紛れて消えてしまうのだが、これは気分の問題なのだろう。
柱の影や自販機などを利用して身を隠す。そして、そろり、そろりと気配を殺して近寄って行き、彼の真後ろまで来るや、ほっぺの近くで掌をを広げてメガホンを形作った。
そして肺の中一杯に空気を吸い込むと、大きな声で――
「わっ!」
「うわああああっ!?」
いきなり背後から、それも至近距離で声をかけられた綾霧が、一瞬身体をビクっと震わせててから後ろへ振り返った。
そこにいたのは、メガホンポーズを取ったままの楓で、クスクスと実に楽しそうに笑っていた。
「か、楓さんっ!?」
「お待たせしました、プロデューサー。ふふっ。少し驚いちゃいましたか?」
「そりゃ後ろから“わっ!”ってされたら驚きますよ」
「ごめんなさい。ちょっと悪戯心が出てしまって。プロデューサーの後ろ姿を見ていたら、ついやってみたくなっちゃったんです」
首元に手を添えた楓が、茶目っ気たっぷりに片目を瞑ってみせる。その姿があまりにも可愛かったので、綾霧は怒るのも忘れて見入ってしまった。
「……別に構いませんけど、こういうの俺以外にはやらないでくださいね」
「大丈夫ですよ。こんなこと貴方以外には絶対しませんから」
そう断言した楓が綾霧の隣に身を置いた。
「それじゃ、行きましょうか。プロデューサー」
目指すは正面玄関を越えた先。
今日一日の業務を終えて、今から二人で帰るところなのだ。身支度にかかる時間の関係で、最近はもっぱら綾霧が先に降りて楓を待つというスタイルが定着していた。
「ああ、お疲れさまです高垣さん、綾霧さん。今日はもう上がりですか?」
「はい、お先に失礼します。今日もお疲れさまでした」
「お疲れさまです。お仕事、頑張ってくださいね」
玄関に向かう道すがら、すれ違った人に挨拶を返しながら歩みを進める二人。そして建物の外に出て暫し歩いてから、どちらからともなく手を繋ぎ合わせた。
素肌を通して感じる相手の温もりが、仕事で疲れた身体に心地良い。
「楓さん。今日はなにを食べましょうか?」
「そうですねぇ。昨日は洋食を頂きましたから、和食なんかどうです?」
「和食……お寿司とか天ぷらとか?」
「お蕎麦とかおうどんとか。あ、ラーメンもいいですね」
「ん? ラーメンって和食でしたっけ?」
「違いました? 川島さんがそのようなことを仰っていたので」
「へえ。川島さんが言うならそうなのかも。気になってきたし、今度調べとこう」
「ふふっ。わかったら教えてくださいね、プロデューサー」
そんな風に二人で雑談をしながら、大通りを目指して歩いて行く。仕事柄、どうしてもスケジュールの合わない日というものが出てくるが、そうでない時はこうやって待ち合わせて一緒に帰っているのだ。
退社する時間が遅い時もあるので、二人で外食という選択肢を取ることも多かった。その後で改めて飲みに行く、あるいはもう最初から居酒屋に繰り出して行くなどは茶飯事である。
「そうだ、プロデューサー。今週末なんですけど」
「どうかしました、楓さん?」
「お部屋に窺っても構いませんか?」
「え?」
「ほら、最近外食することが多いじゃないですか。ですからまたお料理作ってあげたいなって。……駄目?」
「だ、駄目じゃないです! もちろんOKですよっ。いやあ、楓さんの手料理が食べられるなら大歓迎ですから」
「良かった。あれから作れる料理のレパートリー、随分と増えたんですよ」
以前綾霧を見舞って楓が彼の部屋を訪れたことがある。その時に楓自ら料理を振舞ったのだ。
「あの味噌煮込みうどん、めっちゃ美味しかったからなぁ。今から週末が楽しみです」
「うふふ。プロデューサーの好きなもの、作ってあげますからね。食べたいもの、決めておいてください」
相手に選択肢を委ねるということは、本当にレパートリーが増えたのだろう。楓が普通の家庭料理なら大抵のものが作れるようになりましたからと付け加える。
「それと、ですね、プロデューサー……」
「なんですか?」
「えっと……その……」
少し言い出し難い内容なのか、単純に恥ずかしいのか。楓が少し俯き加減になりながら口篭ってしまった。ただ離れないように、ぎゅっと繋いでいる彼の手を握り込んでる。
そんな仕草から楓の緊張感が綾霧にも伝わってきた。
「楓さん?」
「……プロデューサー。次の日、オフを合わせたじゃないですか」
「はい」
「ですから……」
「……あ」
楓が何を言いたいのか察した綾霧が、つと視線を逸らした。
今度は彼が緊張感に支配される側になる。繋いだ手が汗ばんでいないか気になるほどに、心臓の鼓動が早くなっていた。それでもやはりここは自分から言い出すべきだろう。そう思った綾霧は、照れ隠しに空いた手で頬をかきながら楓にこう伝えた。
「……週末、泊まって、いきますか?」
「――。はい」
短い言葉の中に嬉しさが滲み出るような楓の返事。それは先ほどと同じように、繋いだ手からも伝わってきていた。
そんなこんなで週末を迎え、二人は揃ってスーパーに買い出しに来ていた。
スーパーといっても大型店ではなく、綾霧の住んでいるマンションの近くにある大衆的なものだ。ここで食材などを買ってから部屋に戻り、楓が夕飯を作るという流れになっている。
二人は買い物カートを押しながら、通路を並んで歩いていた。
「楓さんって眼鏡も似合いますよね。ていうか、何を着ても付けても似合ってる気がする」
「えー、それって褒めてるんですか、プロデューサー?」
「褒めてますって。今掛けてる眼鏡も雰囲気にぴったりだと思うし」
綾霧の言うように楓は眼鏡を掛けていて、普段とは少しだけ雰囲気が違って見えた。とはいってもこれは変装の意味合いが強く、行き交う人に彼女がアイドル高垣楓であると悟らせないための装いだ。
やはり人気が出るにつれて、明るいうちは眼鏡を掛けたり帽子を被ったりと、アイドルという素性を隠す必要性に迫られていた。
その楓がやや含むような笑みを浮かべながら、隣の綾霧を見やる。
「もしかして、プロデューサーって眼鏡属性があるんですか?」
「なんですかそれは……?」
「知りません? 眼鏡を掛けている女の子が好きな人を指す言葉ですよ? この間、川島さんから聞いたんです」
正確には瑞樹も仕事を通じて知り合ったある眼鏡マ……もとい、アイドルから伝え聞いたのだが、ここではその詳細は割愛する。
「眼鏡、お好きですか?」
「嫌いじゃありませんけど」
「けど?」
「んー、眼鏡が好きっていうより、眼鏡を掛けている楓さんが好きなだけで……あ、眼鏡を掛けてなくても好きですからね」
勘違いされると困ると思ったのか、綾霧が慌てて一言付け加えた。あくまで楓が好きなんだということを強調する。それを聞いた楓が、頬を桜色に染めつつも、最近つと感じていたことを口に出してみる。
「……プロデューサー。最近、私にストレートに好きって言ってくれますよね?」
「そうかな? もしかして、こういうの嫌だったりします?」
「いえ全然っ! むしろ嬉しくて、もっと言って欲しいなって思いますけど……やっぱり照れちゃいます。なんて言ったらいいのかしら。素直に表現したいのに恥ずかしいみたいな……あーん、ちょっと支離滅裂ですね」
困ったように眉根を寄せた楓が、カートを押している彼の手に自身の手を上から被せた。
それから真っ直ぐ相手の眼を見て
「私も貴方のこと、大好きですよ」
と笑顔で口にした。
「……」
目の前で実践されて、ああ、こういうことかと綾霧が納得する。素直に嬉しいし、けど想像以上に恥ずかしい。そんな複雑な気持ちを一言で表すなら、やはり照れるというところになるだろうか。
人目がある空間なのも関係しているのかもしれないが、二人きりの時とは受ける印象が変わってくる。
そんな感情を誤魔化すためか、彼はスーパーの野菜売り場に目を移しながら話題を変えた。
「……野菜、色々ありますね。タマネギ、人参、レタス、じゃがいも」
「あとは大根とか。これだけあると大混乱になっちゃいそうです。ふふっ」
お決まりのダジャレを披露してから、楓が綾霧を伴って野菜コーナーへ歩いて行く。
「プロデューサー。食べたいメニューは決めてきてくれました?」
「それなんですけど、やっぱりハンバーグかカレーにしようかなって」
「あら、まあ」
綾霧の答えを聞いた楓が、口元に手を添えてころころと笑いだした。
「……なんで笑うんです?」
「いえ、プロデューサーも男の子なんだなぁって思ってしまって。カレーとかハンバーグって男の子が大好きな定番メニューっていうイメージがありますから」
「まあ、嫌いな人は少ないんじゃないですか?」
「うふふ。いいですよ。作りましょう。どっちにします?」
「そうですね。……じゃあカレーで。一人暮らしをはじめてから、家であんまり食べてなかったから」
「わかりました。カレーですね。任せてください!」
楓が腕まくりするジャスチャーを添えてから、胸を張る。実際、カレーは作り易い部類に入るので、失敗することはないだろうと安堵した。
そんな彼女が早速カレーに使う品を選ぼうと、野菜コーナーに視線を走らせる。そうしながらさっきの流れで会話を続けた。
「今はあまりということは、一人暮らしをする前は結構食べてたんですか?」
「実家にいる時は毎週金曜日はカレーみたいな感じでしたから。でもそれだけ食べても食べ飽きないって凄くないですか?」
「カレーってそういうところありますよね。……そういえば、プロデューサーの実家ってこちらでしたっけ?」
「帰ろうと思えばすぐに帰れるくらいには近いですよ」
「家族に連絡とか取ってます?」
「どうかな。こっちからはあまり。向こうからはちょくちょく電話がかかってきたりしますけど」
「そうなんですね。うちも似たような感じで、母から連絡がよくきます」
じゃがいものパックに手を伸ばしながら、楓がチラっと綾霧に視線を向ける。
「……私のこと、話したりしました?」
実家の家族に恋人ができたと伝えたかという問い掛けである。それは綾霧もわかっていて、率直に答えた。
「いえ、まだ伝えてないです。でも話したらめちゃくちゃ驚くでしょうね。――こんな美人を連れてくるなんて! とか、そのうえ気立てもいいとか、そもそもアイドルの高垣楓じゃん! とか。大騒ぎになるのが目に浮かびます」
「うふふ。なんだか楽しそうな家族なんですね」
「普通だと思いますけど。楓さんは話したんですか?」
「ええ。母には伝えましたよ。そしたら似たような反応を返されました。――あの楓にも遂に彼氏ができたのかって」
それはもう大はしゃぎで、話した楓のほうが面を喰らったくらいである。
「それで一度会ってみたいから、今度連れてきて欲しいって頼まれちゃいました」
「……楓さんの実家って和歌山ですよね?」
「そうですよ。――貴方に見てもらいたい景色もありますし、誘ったらついてきてくれますか?」
深緑に満ち溢れた古の道。もし想いが伝わって恋が実ったのなら、そこへ綾霧を誘ってみたい。
そう楓は思っていた。
そんな彼女の思いを知っていたわけではないだろうが、綾霧は悩む素振りさえ見せずに即答する。
「もちろん。今度、休暇を合わせて行ってみましょうか」
「はい。お願いします、プロデューサー」
嬉しそうに微笑みながら、楓が彼に身を寄せていった。