――歌姫という言葉がある。
文字通り歌うことで他人を魅了する力を持ち、聞く者の感情を揺さぶることの出来る人物の総称だ。
綾霧は初めて楓の歌声を聞いた時に、自然とその単語が脳裏を過ぎることに一切疑問を持たなかった。
「どうでしょうか。とりあえず歌ってみたのですが……」
楓のボイストレーニングを実践するために外部スタジオへと出向いたのだが、まず軽く歌ってみて欲しいというリクエストに彼女が応えた結果、室内にある種類の戦慄が走った。
それは驚愕と感動。
その場にいる誰もが楓の歌声を聞いて、セイレーンに魅入られた船乗りのように硬直してしまったほどだ。
「アイドルとしてやっていける素養は……あったでしょうか?」
「いやはや、あったもなにも、これは凄い逸材を見つけてきたもんだわ!」
満足そうに腕組みしながらしきりに頷いていた少女――もとい、事務所の社長が傍にいた綾霧の背中をバンッと叩く。年齢的には三十路を越えているのだが、身長がかなり低いために随分と幼い印象を受ける。
本来は彼の肩を叩きたかったのだが、距離的に届かないため背中を叩いたのだ。
「あの……」
楓が目線で綾霧に助けを求める。それを受けて、彼は率直に感じたことを彼女へと伝えた。
「高垣さんの歌、素晴らしかったです。もっと聞いていたい。素直にそう思いました」
「本当ですか、プロデューサー?」
「もちろん。自信を持ってください、高垣さん」
「あ、ありがとうございます」
楓が安堵したように表情を軟化させる。それを見て綾霧も笑顔を浮かべた。
「ねぇねぇ楓ちゃん。最近のモデルってボイトレとかもやってんの?」
「いえ、そういった経験はありません。歌は……そうですね。カラオケで少し歌ったことがあるくらいで」
「それでこのレベル!? 本当神様ってのは不公平だねぇ」
アイドルとしての必要な素養を大きく分けるとしたら、歌(ボーカル)、踊り(ダンス)、容姿(ビジュアル)の三つに分類されるのではないだろうか。
心を揺さぶる歌声、躍動感を与える踊り、そして外見的な魅力で他人を惹きつける容姿。
その点で楓は、アイドルとして最も重要な歌唱力という部分で既に合格点を貰える基準をクリアしていた。
「これは早急に彼女用の歌を用意しないとなっ!」
社長の張りのある声がスタジオ内に響く。
モデルをやっていた楓は、ビジュアル面でも既に一定以上の水準はクリアしているし、残るダンス部分も練習を重ねれば様になっていくだろう。
そういう意味で“逸材”であると社長が即断してもおかしくはない。
「いやぁマジで楓ちゃん凄い。トップアイドルなれるよなれるっ。アタシが346に居た頃でさえこれだけの素質もった娘は中々いなかったもん」
時はまさにアイドル群雄割拠時代と言って差し支えない状況になっていた。
テレビで、雑誌で、はたまたネットでと、アイドルと呼ばれる少女達を目にしない日はないだろう。それに伴い多くのプロダクションが凌ぎを削っている毎日だ。
躍進著しい765プロダクション。また老舗芸能プロダクションである346プロダクションが、近々アイドル事業部を立ち上げるといった大きな話題も飛び込んできたりしている。
「トップアイドル……私なんかが本当になれるんでしょうか?」
「素質はあるよ。十分にね。それに綾霧が連れてきた娘なんだ。アタシはこいつの人を見る目だけは高く買ってるんだ」
そう言いながら、再び綾霧の背中をぽんと叩く社長。
「原石は磨いてこそ光を放つ。まあその為にも君にはしっかりと働いてもらわないとね。なんてたって楓ちゃんの専属プロデューサーなんだからさっ!」
「えっと、専属もなにもうちにはアイドルもプロデューサーも一人しかいないんですが……」
「なんだいその返事は? もしかして今の待遇に不満でもあるの?」
「そんなこと――」
綾霧が楓のことを“気にしている”ことを知っていて、社長が彼女へと意味ありげな視線をくれた。そういう態度を取られれば彼としてはこう宣言せざるを得なくなる。
楓を担当できることに不満なんて欠片もないのだから。
「不満なんて滅相もありませんよ。もちろんしっかりちゃんと働きますから、そういう煽り方はやめてください」
「にひひ。言質は取ったからな。さしあたって楓ちゃんの送り迎えは頼んだぞ。悪い虫が付かないようにちゃんと“護衛”するんだ」
「護衛――ということは、プロデューサーは私の騎士様?」
「あはは。そんな立派なもんじゃないよ楓ちゃん。けどまあ弾除けくらいにはなるだろうから、便利に使ってもらって構わないぞ」
「ですって、プロデューサー」
「……はいはい。護衛でも騎士でも弾除けでもなんでもやりますから、今はレッスンを続けましょう」
投げやりに答えた風に見えるが、今の台詞の中に綾霧の本音が見え隠れしていた。
即ち楓が望むのならどんなことでも手助けしてあげたいと。それはプロデューサーとして自身初の担当アイドルを得たからなのか、それとも高垣楓という個人を強く意識している現れなのか。
どちらにしても彼女の為に労を惜しまない覚悟がその言葉の中に含まれていた。
日没後、月が出るまでの僅かな時間のことを夕闇という。あとほんの少し待てば街全体に夜の帳が降りて、その様相を一変させることだろう。
街灯に明かりが点り、過ぎ行く車のヘッドライトは目に眩しくて、ライトアップされたショーウインドウが人々の目を引こうと輝き出す。それは空に月が昇って、淡い月明かりが街を満たしても変わることはない。
昼と夜との境目。変化の分岐点。
そんな夕闇に染まる雑踏の中を、楓と綾霧が肩を並べて歩いていた。
社長の言いつけ通り、帰宅する彼女を駅まで送ろうというのだ。
「――」
隣を歩く楓を綾霧が横目で盗み見る。
真っ先に目に飛び込んできたのは彼女の横顔。そして歩みを進めるたびに揺れる艶やかな髪の毛だ。肩で切りそろえた髪をふんわりと仕上げたボブカットは、彼女の雰囲気に実に似合っていた。
彼の目線がそこに当たるのは、ちょうど二人の身長が同じくらいの高さだからで、別に他意があったわけではない。ほんの少しだけ彼の身長の高さが優るが、楓がヒールを履けば逆転するくらいの差でしかないのだ。
「どうしたんです、プロデューサー?」
自身が見られていることに気付いたのだろう。楓が小首を傾げながら彼に目線を合わせてくる。
「いえ、レッスンで疲れたんじゃないかなって思って。今日はどうでしたか、高垣さん」
「そうですね。やはり慣れないことをすると緊張する場面も多くて。うまくできたか不安ですし」
「俺としては十分うまくやれてたと思いますよ。トレーナーさんも褒めてましたし。この先が楽しみな娘だって」
「本当ですか? だったら凄く嬉しいです。でもプロデューサー、それお世辞じゃないでしょうね?」
少しからかうような口調で悪戯っぽい笑みを浮かべる楓。そんな彼女に対し、彼はお世辞じゃないですよと直球で返してしまう。
先ほどの返答も――実はさっきあなたに見惚れていたんです、なんて返せる器量があったならなと少し本気で思ってしまった。
「ふふっ。なら良かったです。先日のダンスレッスンはあまりうまくいったとは言い難かったですし」
身体を激しく動かすダンス部分は、やはり元モデルである楓にとって一番のハードルとなっていた。静止を主とするモデル業と歌いながら踊るアイドルでは酷使する部分が違い過ぎる。
しかし練習を重ねれば克服できるだろうし、彼としては楓の雰囲気に合わせた曲調と振り付けで対応することも考えていた。どちらにしてもそれを必要とするのはもう少し先になるだろうとも思っていたが。
まずは今の楓に合わせた仕事を取ってくるのが先だろうと。
「はぁ、夜風が気持ち良いですね」
肺の中いっぱいに外の空気を取り入れるように、大きく呼吸する楓。そんな彼女の視線の先には目的の駅は見えていて、到着することは今宵の二人の時間が終わることを意味していた。
お互い“また明日”という関係ではあるのだが、綾霧はそのことにちょっとした寂しさを覚えた。
まだ夜は始まったばかり。ここでさよならするには早いんじゃないかと。
「あの、高垣さん」
だから彼は勇気を振り絞って彼女を食事に誘ってみることにした。そうすることで二人で過ごす時間がほんの少しでも延びるから。
「もし良かったら、これから一緒に飲みにでもいきませんか?」
「え? 飲みに……ですか?」
「はい。居酒屋とかなら色々メニューもありますし、夕食がてらにでも……」
「居酒屋、夕食、居酒屋……」
彼の誘いを受け、楓がキョロキョロと辺りを見回しはじめる。駅前なので当然その手の店は幾つも営業しているし、看板等すぐに発見することができた。
「あ、別に居酒屋限定ってわけじゃなくて、何処でも構わないんですけど。もうちょっとあなたと話をしてみたくて」
「プロデューサー?」
「今後のスケジュールとか色々ありますし――って、違うな。アイドルとプロデューサーってだけじゃなく、俺が楓さんと話をしてみたいって思ったんです。えーと、だから……その、なんていうか……」
綾霧の吐露する言葉を聞いて、最初楓は少し呆けたような表情で彼を見つめていた。しかしそこから一気に破顔すると、掌を口元に添えてころころと可愛らしく笑い出す。
「なぁんだ。プロデューサーも私と同じことを思っていたんですね」
「同じこと?」
「ええ。私、誰かと話すのがそれほど得意じゃなくって。相手との間に見えない壁があるっていうんですか? 誰とでもそういう感じで。でも不思議と貴方との間にはその壁がないんです」
初めて会った時から。そう彼女が付け加えた。
「自分でも不思議なんですけど――だからでしょうか。プロデューサーと会話するのがちょっと楽しいなって」
楓のカミングアウトに綾霧は少なからず驚いた。
饒舌という感じではないが、喋るのが苦手という印象も受けなかったから。
「私も貴方とお話がしたい。いいじゃないですか、居酒屋で。私は全然構いませんよ」
誘いをOKするサイン。それを示すように楓が可愛らしくウインクをする。
「お酒の席でなら、普段の私じゃない自分を貴方に見せられるかもしれない。そう思います」
もう少しだけ相手の内側へ切り込んでみたい。綾霧も楓もそう思っていた。
それはアイドルとして? それをプロデュースする者として?
それとも――?
こうして二人は連れ立って居酒屋へ繰り出して行くことになった。
「いらっしゃいませー! 何名様ですか?」
適当に選んだ店の扉を開くと、途端に居酒屋特有の喧騒が耳に飛び込んでくる。それに合わせ甲高い女性の声で出迎えがあった。
店内はそれなりに盛況なようで、幾人かの店員が忙しそうに動き回っているのが見える。とはいっても時間的にはピークを迎える前ということもあり、待たずに席に着くことはできそうだ。
「二人です。予約はしてないんですけど、いけますか?」
「はい、大丈夫ですよ。――奈々さぁんっ。二名様、奥のテーブル席へご案内して!」
「はぁい!」
自身には別の仕事があるのか、奥にいた人に声をかけてから、会釈して去って行く店員さん。すると入れ替わりのような形で別の店員さんが走ってきた。
「いらっしゃいませ。ではでは今からご案内しますから、ナナに着いてきてくださいねっ!」
現れたのは見た目からして十代と思しき少女だった。身長もかなり低く、どちらかと言えばキャピキャピとしている印象を受ける。だが居酒屋で働いているのなら成人はしているのだろう。
そう綾霧は当たりをつけつつ、何の気なしに彼女のネームプレートを盗み見た。
居酒屋のネームプレートには少し凝っているものを採用しているところも少なくなく、それはここも例外じゃないらしい。手書きのような筆跡に、一言書きが追加されている仕様で、そこには“永遠の17歳、アベ”と記されていた。