夜の住宅街は静寂に満ちていて、並んで歩く二人の靴音を消し去るような雑音も響いてこない。
空から下りてくる淡い月の光。そして並木道のように立ち並ぶ街灯の明かりが、アスファルトの地面をうっすらと蒼く浮かび上がらせていた。
冬という季節の中で寒さのピークは過ぎ去っていたが、それでも夜になると一気に気温が下がってしまう。けれど凍えるというほどではない。こうして歩いていても、夜風が火照った身体に心地良いくらいである。
「どこへ向かっているんですか、プロデューサー?」
「……実はあてなんかなくて。楓さんと歩けたらなって思っただけで。こういうの嫌ですか?」
「いいえ。夜の散歩をしているみたいで悪い気はしませんよ。隣に貴方がいるなら尚更です」
居酒屋を出た二人は、そのままの足で散策するように歩き出していた。真っ直ぐ大通りに出ることもできたが、敢えて道を一本奥へとずらし、住宅街へと赴いている。そうすることで、驚くほど人の気配や喧騒が遠くなるのだ。
綾霧が道を選び、楓がそれに着いて行っている格好。しかし少し暖かくなってきたとはいえ、このまま連れ回すのは気が咎めると思ったのか、綾霧が場所を変えようかと楓に提案した。
「あの、楓さん。何処かの店にでも入りましょうか? 風邪を引いたら大変だし」
「構いませんけれど、今はプロデューサーと静かに話したい気分ですね。ですからこのままでも……あら?」
歩きながら話すのでもいいですよ。そういう意思表示を示した楓だが、ふと視界にあるものを捉えて足を止めた。
「あそこに広場がありますね。……児童公園かしら?」
住宅街に突如現れた開けた空間は、楓の言うように小さな公園だった。
「すべり台にブランコ、ジャングルジム。色々ありますね。こういう場所を見ると、なんだか懐かしい気持ちになったりしませんか?」
「そうですね。大人になってからは訪れる機会も滅多にありませんし」
「一人暮らしだとどうしても、ね? そうだ! 折角ですし、少し中に入ってみませんか?」
「いいですけど、もしかして童心に返りたいんですか、楓さん」
「かもしれません。ふふっ。行きましょうか」
茶化してきた綾霧の言葉に微笑みで答えてから、楓が彼を園内へと誘った。それを受けて彼も楓の後に続いていく。
そこには代表的な遊具が幾つか設置されていて、夜の暗闇の中で不思議な存在感を放っていた。他にもベンチが置いてあったり木々が植えられていたりと、平均的な児童公園の様相を呈している。
ただ広さのわりに設置されている街灯の数が少ないので、道路を歩いていた時よりも薄暗いと感じてしまうだろう。
「さすがにこの時間だと誰もいませんね」
楓が歩みを進めながら、園内を見回している。昼間なら近隣住民の憩いの場として利用されているだろう公園も、夜になれば閑散とした姿を晒してしまう。やはり主役である子供たちが家へ帰ってしまうということが大きいのだろう。
「プロデューサーはこういう場所でよく遊んだりしました?」
園内中央まで進み出た楓が、着いてきていた綾霧を振り返りながら尋ねてきた。
「小さい頃はよくやんちゃして怒られたりしましたよ。加減がわからなくて怪我しちゃったり。まあ、人並みには遊んでたほうじゃないかな」
「ふふっ。なんだか想像できちゃいますね。でも私にはそういう思い出があまりないんです」
綾霧に視線を向けながら、楓が少し歩みを進めて街灯の下まで移動する。その仕草が、こちらでお話しましょうという風に受け取れたので、彼もそれに倣う。
「私、子供の頃は聞き分けの良い静かな子、なんてよく言われていました。誰かが遊んでいるのを眺めていることほうが多かったように思います」
「身体を動かすのが苦手だったとか?」
「そういうわけじゃないんですけど、自分でなにがしたいとか、どうしたいとか、そういう感覚があまりなくて。大人になってからもそれは変わりませんでしたね」
出会った頃の楓には、確かにそういう部分があったように思う。どちらかと言えば受動的で、感情を素直に表現するのが苦手だったとも言っていた。
「でも本当は、自分の中にある想いや願いに気付かずに、ただなんとなく生きていただけなんだって、最近になって思うようになりました。――いいえ、正確にはアイドルになってから、ですね」
自身の視線の先にいる綾霧に向かって微笑みながら、楓が吐露を続ける。
「貴方に輝く世界に誘われて、そして自分も輝きたいと願って。何気ない日々に、風が吹いたんです」
大切なものがそこにあるというように、楓が自身の胸元に手を添えた。
「沢山、お仕事をしました。沢山の人に出会いました。歌うのはとても楽しいですし、目標もできました。お酒も、もっと美味しく頂けるようになって。今は毎日がとても楽しんですよ」
「……楓さん」
「セピア色だったこれまでの日々が色鮮やかなものに変わったのは、全部貴方に出会ってからです、プロデューサー。あの日が、貴方に出会ったあの日こそが、私にとっての運命の日。魔法をかけてもらった、人生の分岐点」
街灯の明かりがまるでスポットライトのように楓を照らし出す。舞台は土色の地面で、煌びやかなドレスも纏っていない。そして場にいる観客は綾霧一人だけだ。
それでも浮かび上がる姿はまるでシンデレラのように輝いて見えて。そんな彼女の姿に、綾霧は見惚れてしまっていた。
「プロデューサー。本当に、私に出会ってくれて……ありがとう」
万感の思いを込めるという言葉があるが、楓はたった一言に思いの丈をありったけ込めて、感謝の言葉を口にした。そんな短い一言だったが、それが自分に向けられているというだけで、綾霧は身体が震えてくるほどの衝撃を受けていた。
彼女に――楓に思われているという事実が、嬉しくて、嬉しくて、仕方なかった。
「俺の方こそ、あなたに出会えて……良かった」
目の前にいる楓が愛おしくて溜まらない。できるなら今すぐにでも駆け寄って、力一杯腕の中で抱き締めたかった。けれど、そうするためには越えなければならないハードルが一つある。
綾霧は心の中で意を決し、静かな声で彼女の名前を呼んだ。
「あの、楓さん」
「なんですか、プロデューサー?」
「その、今日のこと……なんですけど」
もう、ここしかないというタイミングで綾霧が踏み込んでいく。きっと彼女も、それを待っていたはずだと信じて。
「最初からあの場にいたって言ってましたよね? ということは聞いてました?」
「はい」
「……全部、ですか?」
「全部、です」
事細かく説明しなくても、相手にはなにが言いたいのかちゃんと通じている。それは短い返事でも同じことだ。ならば後は、どうしてそんなことをしたのかという理由だけが問題になってくる。
「私が頼んだんですよ。ですから早苗さんや川島さんのことを悪く思わないであげてください」
「もちろんっ。そういうのは全然。ただ……どうしてそんなことをしたのかなって」
「わかりませんか?」
小首を傾げた楓が柔和に微笑む。優美で、繊細な、優しい微笑み。
彼女は一度目を閉じると、その場から一歩だけ前に踏み出した。そうすることで彼に距離を近づけることができる。次いで開いた瞳は相手の目を真っ直ぐに見つめていて、離れようとはしなかった。
そして、口を開く。
「――貴方のことが、好きだから」
躊躇う心を置き去りにして、ずっと言いたかった一言を、伝えたかった想いを言葉にした。それは思っていたよりもずっと心地良いもので。
「だからどうしても、プロデューサーが私のことをどう思っているのか知りたかったんです」
「楓――さん」
「ふふ。やっと言えました。ずっと、ずっと貴方に伝えたかったんですよ?」
はにかんだように微笑みながら、楓が少しだけ俯いて目線を外す。合わせた両手の親指を、上にしたり下にしたりとそわそわしているのは、やはり恥ずかしいからだろう。
「私、誰かを好きになったこととかなくて、だから自分の中にあるこの気持ちがなんなのか、最初はわからなかったんです。でもある時――」
落としていた視線を前に戻して、楓が想いを綴っていく。
相手に伝える言葉を捜しながらなので、理路整然とした説明じゃないけれど、それでも――いや、だからこそ、強く綾霧の心に染み込んでいく。
「あの、前の事務所にいた頃、戻ってきたらプロデューサーがソファで眠っていたことがあって」
「……もしかして、起きたら楓さんが目の前にいた時のことですか?」
「そうです、そうです。あの時、眠っているプロデューサーの隣に座って横顔を見ていたんですね。でもそれだけじゃ物足りなくなってきて、ふと貴方の肩に頭を預けてみたんです」
「……そんなの、全然気付かなかった」
「寝てましたから。そんなプロデューサーの隣で一緒に目を瞑って、寝息を聞いて。そうしていたら気付いたんですよ。――ああ、そっか。私、この人に恋してるんだって」
当時を思い出しているのか、楓が胸元に手を添えた格好で眦を下げている。
綾霧は当然、自分が起きた後のことしか覚えていなかったが、起き抜けに目の前に楓がいたのが衝撃的だったので、そういうことがあったのはよく記憶していた。その後で彼女がコーヒーを淹れてくれたのも覚えている。
今では当たり前の光景になってしまったが、楓が彼のためにコーヒーを淹れてくれるようになったのは、その日を境にしてだったように思う。
「胸の奥がじんわりと温かくなる思いがしました。それからは私なりに貴方にアピールしてきたつもりだったんですけど、気付きませんでした?」
「……いや、実はその……楓さん、もしかして俺のこと好きなんじゃって思ったことは何度かあったんです。ほら、自宅までお見舞いに来てくれたこともあったじゃないですか。このあいだのデートも……そうだし」
「その時に言ってくだされば良かったのに」
「言えないですよっ。……言えないです。だってそれが俺の勘違いだったら、今まで築いてきた楓さんとの関係まで壊れてしまいそうで……」
それが怖かったんです、と綾霧が言葉の最後に付け加えた。それを聞いた楓の目が、驚いたように丸くなっている。まさか似たようなことで悩んで、踏み込むことを躊躇していたなんて思わなかったから。
「うふふっ。なぁんだ。プロデューサーも私と同じだったんですね」
「え?」
「想いを伝えてしまって、それで今までの関係が壊れてしまったら。そう考えたら臆病になっちゃいますよね。それならいっそこのままでも、なんて」
「でも――」
「でも、想いが溢れてしまったから。誰かを好きなるって、我慢できなくなるんだって知りました」
「楓さん……」
「早苗さんや川島さんには全部見抜かれてたみたいですけど」
「……そっか。敵わないな、あの人たちには」
「本当に」
綾霧があははと、楓がクスクスと、お互い顔を見合わせて笑いあう。それからひとしきり笑った後で、楓がこう切り出してきた。
「それで、私の気持ちを知った貴方はどうするんですか?」
後ろで手を組んだ姿勢で、楓が綾霧を窺う。
だが問われずとも答えなんてもう決まっている。というか、彼女にここまでお膳立てをされて何もできないようでは、それこそ男が廃るというものだ。
綾霧は軽く佇まいを正してから、彼女を真っ直ぐに見つめた。
ここで言うべき言葉は、一つだけだ。
「――楓さん。あなたのことが大好きです。俺と付き合ってください」
「はい。喜んで」
弾んだ声で彼女が応える。
それからどちらからともなく歩き出して、近づいて、そして二人の距離がゼロとなった。もはや遮るものはなにもなく、お互いが相手の背中に腕を回し込んで、抱き締める。
「……楓さん。お待たせして、すみませんでした」
「構いませんよ。待っているのも、そんなに悪い時間ではありませんでしたから」
頬が触れ合うような距離。耳元で相手が囁く声を拾いあう。
それがとても幸せなことなんだと強く感じていた。
「……プロデューサー。そんなにきつく抱き締められると、苦しいです」
「楓さんだって、ぎゅってしてるじゃないですか」
「ふふっ。我慢してください。やっとこうやって貴方を抱きしめられるようになったんですから。……我慢、してください」
綾霧も楓も、好きな人を腕の中に抱ける喜びに胸がいっぱいになっていく。
いつまでもこうしていたい。そう思ってしまうほどに。
そうやってどれくらい抱き締めあっていたのだろうか。ふと綾霧が腕の力を緩めた。それを察した楓も拘束を解いて、少しだけ二人の距離が離れる。
じっと見詰め合う綾霧と楓。その中で、先に瞳を閉じたのは楓。次いで綾霧も目を閉じて――ゆっくりと二人の唇が重なり合う。
これが二人にとってのファーストキス。
この日、綾霧と楓は、晴れて恋人同士となった。