「楓さん、こんにちは。今から準備運動してるんですか?」
「こんにちは、まゆちゃん。ええ。軽く身体を解しておこうと思って」
トレーニングウェアを着た楓の元へ、これまたウェアを着込んだまゆが近づいてく。
二人は今、346にあるダンスレッスン場に来ていて、トレーナーさん待ちをしているところである。フロアには他にも愛梨や瑞樹、幸子といったアイドルの姿もあり、これから全員で動きの合わせを行う予定になっていた。
演目はもちろんお願い!シンデレラ。まだメンバー全員が集まっていないため、それぞれストレッチをしたり、軽く雑談したりとレッスンが始まるまでの時間を過ごしているところだ。
「それじゃあまゆもストレッチやろうかな。楓さん、一緒にやってもいいですか?」
「ええ、もちろん。じゃあ最初からやりましょうか、まゆちゃん」
「はい、お願いします」
返事をしたまゆが楓の隣に並んで、ゆっくりとした動きでストレッチを開始していく。筋肉を十分に伸ばしておくことで、怪我の抑止にも繋がるし、激しいダンスレッスンを行っても身体が悲鳴を上げにくくなる。
そうやって身体を動かしながら、まゆはここに来た時から気になっていたことを楓に尋ねてみることにした。
「あの、楓さん。もしかして、なにか良いことでもあったんですか?」
「どうして?」
「なんだかとても機嫌が良さそうに見えたから。鼻歌でも歌いだしそうな感じって言ったら伝わります?」
「あら。そんなに浮かれて見えるのかしら、私」
軽くとはいえ運動しながらなので、時々言葉が途切れたりするが、そのあたりもお互い慣れたものである。
「まゆ、そういうの敏感だから。他の人なら上機嫌だなぁって感じるくらいかもしれませんけど」
「……それでも上機嫌なのはバレてるのね。これでも自分では、普段と変わらないつもりなんですよ」
「普通にわかっちゃいますよ。でも最近は少し元気がないかもって思ってたから、調子が戻ったみたいで良かったです」
「ありがとう、まゆちゃん」
「うふふっ。やっぱりライバルには元気でいてもらったほうが張り合いが出ますから」
同じ事務所になった後も、楓とシンデレラガールの座を争っているという意識は、まゆの中で強く息づいているようだ。
「不躾でなかったら、その理由を聞いても構いませんか?」
「機嫌が良い理由ですか? 特別まゆちゃんが聞いて面白いような話じゃありませんよ?」
「それでも聞いてみたいです」
「……先日のオフにプロデューサーにお買い物に付き合ってもらって。それが凄く楽しかったんです。色々な発見もありましたし」
「お買い物? もしかして二人きりでお出かけしたんですか?」
「そうですよ」
「いいなぁ。まゆも、まゆのプロデューサーさんとお出かけしたいですよぉ」
変わらずストレッチを続けながら会話する二人。何度か仕事を一緒にするようになって、二人の距離も随分と縮まったようである。
「まゆちゃんは、お出かけしたりしないんですか?」
「プロデューサーさんとですか? まゆが勝手についていったりはしますけど、まだ二人きりで街へお出かけなんてのは……」
「それなら、思い切ってまゆちゃんから誘ってみるとか――」
『なんですか!? オフにプロデューサーとランニングでもしたんですか!? いいですね!!』
楓が喋っている途中で、小柄な女の子が元気一杯に会話に乱入してきた。
長い髪をポニーテールに纏めた元気印のアイドル。栄養ドリンクのCMに登場してファイト一発!と叫んでも違和感のないパワフルさ。今度のライブで楓たちとオープニングを一緒に飾る日野茜である。
そんな彼女の登場に、まゆが驚いた小動物のように一瞬ビクっと身体を震わせてから、動きを止めていた。
「あ、茜さん? いきなり後ろから声をかけてくるから、少し驚いちゃいました」
「ああ、すみません! 気になる単語が聞こえてきたので話に混ざりたいなと思ったらもう声をかけていました。しかしまさか楓さんが休日にプロデューサーと走りこみをしているなんて知りませんでしたよ! 体力作りの一環ですか? 凄いですね!!」
「……あの、話がいまいち見えてこなくて。私は別に走りこみとかしていませんよ?」
「あれれ? 身体を動かすとか解すとか、オフに出掛けたとか聞こえたので、てっきりそうなのかと」
部分部分で聞こえた単語を都合よく解釈して突撃してきたのだろう。
勘違いだったと気付いた茜が、ペコリと頭を下げた。
「すみません。どうやら強引に話に割って入ってしまったみたいで。どうにも気になってしまうと身体が先に動いてしまうんですよね」
「ふふっ。気にしていませんから。――そうだ。折角ですし、茜ちゃんも一緒にスチレッチしませんか?」
「是非、お願いします! 運動前のストレッチは大切ですからね!!」
こうして三人でストレッチを開始しながら、雑談する運びとなったのだが、茜の第一声を聞いて、楓とまゆが顔を見合わせる結果となる。
「そういえば聞きましたか? 今度のライブの日に、遂にシンデレラガールの発表が行われるらしいですね! 私が選ばれることはないでしょうが、お二人は候補に名前を連ねていますから、興味津々なんじゃないですか?」
「十時、ターンはもっと早くだ。隣にいる城ヶ崎を見習え。輿水は小さく纏まりすぎ。身体が小さいんだから、大袈裟なくらいでちょうど良い。高垣はセンターなんだぞ。もっとどっしりと構えるんだ」
こうしてベテラントレーナーを迎え、全員でのダンスレッスンが開始された。
個人で、あるいは少人数で練習を重ねてきたとはいえ、全員で合わせるのは初めてなので、どうしても噛み合わない部分が出てくる。その都度、トレーナーに指摘されては修正し、また初めから合わせていく。
そんなことを繰り返しながら完成度を高めていくのだ。
「……みなさん、さすがですね。トレーナーさんの要求に応えて、すぐ修正されて。動きも洗練されて無駄がないように思えます」
フロアの邪魔にならない箇所、例えば壁際などに、幾人かのアイドルやプロデューサーの姿が見て取れた。みんなこの全体練習の見学に集まって来ているのだが、そんな人影の中に綾霧と文香、そして早苗の姿があった。
「ただ凄すぎて、私には……到底出来そうにありません……」
「じゃあその言葉に“今は”という注釈をつけましょうか、鷺沢さん」
「今は……?」
壁に背中を預ける形で見学している綾霧。その右隣に文香が立ち、更に隣に早苗の姿があった。
「いずれは追いつくという意味での“今は”ですよ」
「追いつくだなんて……プロデューサーさん。期待してくださるのは嬉しいのですが、やはり私には難しいように思えるのですが……」
「そんなことはないですよ。鷺沢さんも目に見えて上達していますから、そう遠くない日に追いつけます」
「本当、ですか?」
「嘘なんて言いませんから。ねえ、片桐さん?」
不安そうな目で綾霧を見つめる文香を励ましながら、早苗に力添えを頼む。
「うん。プロデューサー君の言う通りよ。ねえ文香ちゃん。最近ダンスレッスンの後で座り込まなくなったじゃない? 最初の頃はもう動けませんーって感じだったのにさ」
「……そう言われれば、そう、ですね」
「ほら、それだけでも体力がついてきた証拠。振りつけもこなせるようになってきたし、ほら、上達してるじゃないの!」
自分では成果が出ていないような気がしていても、周りから見れば前進しているということはままある。文香は綾霧や早苗に肯定されて初めて、自分がレベルアップしていることに気付かされた。
「プロデューサーさん。私、本当にうまく……いえ、少しは出来るようになってきていたんですね?」
「それも鷺沢さんが努力した結果ですよ。俺も力を貸しますから、頑張っていきましょう」
「……はい。ありがとうございます」
「んっふっふ。文香ちゃん素直ないい子ね。あなたは色々とアイドルとしての武器を持ってるんだから、苦手分野を克服すれば正に鬼に金棒よ!」
アイドルとしての三つの大きな要素であるビジュアル、ボイス、ダンス。その中で文香はビジュアルに関して飛び抜けたものを持っていると綾霧は感じていた。
簡潔に言うと容姿や佇まいがとても美しいのだ。人の視線を自然と惹きつけてしまう魅力に溢れていると言い換えても良い。それはアイドルとして活躍していく上で大きな武器になるだろう。
「期待、させてください、鷺沢さん」
「……努力、します」
そう答えた文香が、レッスン中のみんなに意識を集中し始めた。こうやって直に見ることも勉強になるのだ。自身の課題を理解しているなら尚更力になるだろう。
そんな文香の邪魔にならない程度の声量で、早苗と綾霧が会話を続ける。
「そうだわ。ねえプロデューサー君。ちょっと小耳に挟んだんだけど、シンデレラガールの発表が近々行われるのよね?」
「近々というか、今度のライブが行われる日、恐らく終了と前後する形で速報が入ってくると思いますよ」
「もうすぐじゃないの!」
――シンデレラガール。
新設されたばかりの賞ではあるが、その年に一番輝いたアイドルに送られる称号ということで、関係者含めて多くの人の関心が集まっていた。
「ですから、当日にはちょっとしたサプライズを用意してあります」
「サプライズ? ライブに出演するアイドルから選ばれる前提でってこと?」
「まあ、そうですね。そんな大袈裟なものじゃないんで、驚くほど豪華って感じじゃないですけど」
ライブ終了後にシンデレラガールとなったアイドルへある贈り物をしよう。そういう企画だ。
「ふーん。ねえ。ぶっちゃけ誰がシンデレラガールになると思ってる?」
「え……?」
「予想とか予測とかあるんでしょうけど、プロデューサー君の意見、聞いてみたいな」
「……そうですね。現時点で有力視されているのは十時愛梨さん、佐久間まゆさん、城ヶ崎美嘉さん、そして楓さんの四人です。この中の誰がシンデレラガールになっても不思議じゃありませんし、驚きません」
「あー」
綾霧の予想を聞いた早苗が、違うのよねーという感じで眉根を寄せた。聞き方がまずかったかという感じである。
「そうじゃないのよね。こう世間的な評価じゃなくて、プロデューサー君が思ってることや感じてることを聞きたいなって思ったの」
「俺個人がってことですか?」
「そうそう」
「それは……」
「話したくない? 答え難いなら別に――」
「大丈夫です。俺は――楓さんにシンデレラガールになって欲しいって、そう思ってますから」
担当の身びいきと言われるかもしれないが、そういう部分を抜きにしても、綾霧は楓にその称号を戴いて欲しかった。彼女がそう望んだという経緯もあるし、二人で歩んできた道の先にその栄冠があるのなら手にしてみたい。
そういう強い思いもあった。
「ありがと、プロデューサー君。やっぱり楓ちゃんなのね」
「楓さんにはシンデレラガールを手にする相応しい実力と人気もありますし、全然不可能なことじゃない。けど、少しレースに出遅れた感は……否めません」
「出遅れた? それってどういうこと?」
「ほら、俺たちはこっちに移籍してきた側じゃないですか。やっぱり346に来る前の宣伝力とかバックアップとか。そういう面ではかなり差がありました。追い上げる形でここまで来ましたけど、それがどうでるのか、正直わかりません」
「なるほど。プロデューサー君個人としては楓ちゃんを応援してる。まあ、これは当然よね。でも客観的に見ると結果はわからないってところかしら」
「それでも俺は、楓さんがシンデレラガールになった姿を見てみたい。……プロデューサーである俺が片桐さんを前にして言う台詞じゃないのかもしれません。けど俺は、やっぱり、彼女になって欲しいから」
「あはは。別に贔屓だーって怒ったりしないわよ。あなたが楓ちゃん以外のプロデュースに手を抜いてるってなら不満に思うかもしれないけれど、そうじゃないのはあたしたち自身が一番わかってるからね」
「片桐さん……」
「それに“次”はあたしも名乗りをあげるんだから! 瑞樹ちゃんだってきっとそう言うと思うわよ」
早苗だって、瑞樹だってアイドルなのだ。ならシンデレラガールになれる可能性は秘めている。現時点での候補はもう絞られてしまっているが、次回の結果はまだ誰にもわからない。
今はまだ覚束ないアイドルである文香にだって、チャンスはあるはずだ。
「ま、そのためにも次のライブは、みんなで頑張って成功させなくっちゃね!」
そう言って微笑む早苗の表情に、綾霧は随分と勇気付けられる気がしていた。
残務を終えてから帰路に着く。
プロデューサーオフィスの戸締りをして廊下に出て、その先にあるエレベーターを使って下へと降りていく。その後はメインフロアを通って正面扉を潜れば外に出ることができる。
その途上で思わぬ人物に出くわし、綾霧が目を丸くした。
「あれ? 楓さん?」
「お疲れさまです、プロデューサー」
柱の影に立ちながら、綾霧に目線をくれる楓。ここにいれば、玄関を通る全ての人がチェックできる。そういう場所だ。
「もしかして俺を待ってて……いや、楓さんも今から帰るところだったり?」
「いいえ。ここで貴方を待っていたんですよ」
わざわざ綾霧が言い直した言葉には頷かず、楓は彼が始めに言いかけた言葉に返事を返した。そうやって正面から肯定されると、どうやって返答したものか彼としても迷ってしまう。
「えっと……」
「ふふっ。駅まで送ってくれますか、プロデューサー?」
「も、もちろん」
「じゃあ、行きましょうか」
そう言った楓が、微笑みながら彼の隣に立った。こうして二人で並びながら外へと出る。途端、この季節特有の冷気が二人に襲いかかってきた。
建物の中と外の寒暖の差は激しくて、楓は思わず手を口元へと持っていき息を吹きかけた。
「今日は少し寒いですね。ほら、息がこんなに白く」
ほうっと吐いた息が白いもやとなって空へと昇っていく。それもすぐに消え去って、澄んだ夜空が二人を迎えた。輝く星空。それをひとしきり眺めてから、二人は駅を目指して足を踏み出した。
歩調を合わせ、駅を目指す。並んで歩くのは、もう慣れたものだ。
「こうやって二人で歩いていると、あの頃を思い出してしまいます」
「あの頃?」
「以前の事務所にいた頃ですよ。まだ川島さんもいなくて、アイドルは私だけで。その頃はこうやってよく二人で駅まで歩いたじゃないですか」
「……ですね。俺が社長に言われて楓さんの騎士を気取って、みたいなこともありましたっけ」
「ありました、ありました。よく覚えてますよ」
お互いの手の甲が触れ合うくらいの距離。それは当時よりも確実に近づいている。
「そんなに時間は経ってないはずなのに、なんだか懐かしいような気がするのは、環境が大きく変わったせいかしら。私、あの時間がとても好きだったんですよ」
「俺もですよ。駅までの道程がもっと長かったらなんて考えたこともありました」
「なぁんだ。プロデューサーも同じようなこと考えていたんですね」
口元に手を添えて、楓が可笑しそうにフフっと笑う。そんな彼女の右手に綾霧の視線が誘われるように釘付けになった。
先日二人で街へ出掛けた時に、終始手を繋ぎっぱなしだったのを思い出したのだ。さすがにお店に入った時には手を離したが、また並んで街を歩く時は自然と繋いでいて。
これじゃまるで恋人同士みたいじゃないかと、彼は思ったものだ。
「あの……楓さん」
「なあに?」
待っていたというようなタイミングで楓が返事を返す。だからだろうか。綾霧も次の言葉にとても繋げやすく感じた。
「その……手、繋ぎましょうか。ほら、息が白くなるくらい寒いし、繋いだら少しは暖かくなるかもって」
「そうですね。とても、寒いです」
「ですよね。だから……あ」
楓から手を近づけた。
その作業は慣れたもので、綾霧の左手に自身の右手を合わせ、指を絡めていく。
――寒いからという理由付けで肌を触れ合わせる。
「プロデューサーの手、暖かいです」
「楓さんの手も暖かいですよ」
「じゃあ駅まで繋いでおくことにしましょう。寒いから仕方ありませんよね?」
微笑みながら綾霧に目線を向ける楓に、彼はしばらく見惚れてしまっていた。
「ねえ、プロデューサー。今度のライブが一つの区切りになるんじゃないかって、私、思ってるんです」
「区切り、ですか? それってシンデレラガールが発表されるから?」
「いえ、私がシンデレラガールになれるとか、なれないとか、そういうのではなくて……なんて言ったらいいんだろう。こう一つの集大成みたいな感じかしら」
言葉を捜すように楓がつと視線を上げた。自身の中での確かな思いはあるのだが、それをどう言葉にして相手に伝えたら良いのかを考えているのだろう。
「今の私があるのはファンの方のおかげです。スタッフの方や私に関わってくれた人のおかげです。そしてなによりプロデューサー。貴方が隣にいたから、私はここまで来ることが出来たんです」
「楓さん……」
「私は臆病で、弱くて。でもこんな私でも必要としてくれる人たちがいて。だからアイドル高垣楓としての集大成を歌に込めたいなって。感謝の気持ちが伝わってくれるなら嬉しいし、笑顔になってくれたならって」
簡潔に伝えることはできないけれど、それでも必死になって言葉を探り、心の中の思いを話す。そんな姿勢が繋いだ手からも確かに伝わってきていた。
「アイドルとしての道程はまだまだ続きます。だからこその一つの区切り、ですね。現時点での最高の私を、皆に届けたい」
熱を帯びた楓の語り口調は、次の言葉で締め括られる。
「そうすれば、きっと私も踏み出す力をもらえるって信じてるから」