「どこか変なところはないかしら?」
自宅にあるドレッサーの前に座った楓が、目の前にある鏡を使って自身の姿におかしな部分がないかを確認していた。しきりに腕を上げたり、身体を斜めにしたり背中を向けたりと、そのチェックに余念がない。
それもそのはずで、今着ている洋服は買ったばかりのもので着なれてはいないからだ。
「うん。可愛い……わよね?」
美容院に行って整えてきたばかりの髪もチェックする。
思い切って後ろで纏めてみようかとも思ったが、着ている洋服に似合わないような気がして断念してしまった。普段とは違う髪型を披露するよりも、安定感のほうを取ったのだ。
「帽子、被って行こうかな」
それでも何かしらのアクセントは欲しいようで、帽子を被って行くかを思案する。
鏡の中には眉根を寄せた自分が映っていて――このまま悩んでいても仕方ないと思ったのか、楓は一度席を立ってから帽子を取り、それを被った状態でドレッサーの前まで戻って来た。
「似合ってる……はずっ」
楓は帽子のつばを両手で掴んで、軽くポーズを取ってみた。このあたりはモデル時代の経験が活きたのか、非常に絵になる姿が鏡に映っている。
そのあたりも含めてもう一度チェックを開始しながら、楓は美容院を訪れた際に担当の美容師さんに言われたことを思いだしていた。
「はい、終わりましたよ。お疲れさまでした」
「ありがとうございます。綺麗に整えてくださって助かりました」
「いえいえ。気に入って頂けたなら嬉しい限りで」
妙齢の女性が気さくな笑顔で楓に応えている。
各人、行きつけの店というものがあるが、楓はモデル時代から同じ美容院を利用していて、担当の美容師さんもその頃からの付き合いである。というよりモデル時代のヘアメイクさんが担当美容師さんなのだ。同じ年頃の女性同士ということもあって、今やかなり気心の知れた間柄になっている。
その美容師さんが、雑談としての話を切り出してきた。
「楓さん、アイドルになってから変わりましたよねー」
「え? なんです突然?」
「いえね、前々から思ってはいたんだけど、雰囲気が明るくなったし、何より可愛くなった!」
「……そうですか?」
ちょっと照れたような楓の表情が目の前の鏡に映っている。そんな彼女の反応も織り込み済みだったのか、美容師さんが弾んだ声で話しを続けた。
「そうですよぉ。モデル時代から綺麗だったし、とびきりの美人さんだったけど、今は愛嬌も加わってとっても可愛くなりました。私は今の楓さんのほうが好きだなー」
「……ありがとうございます」
どう返せば良いのか判断に迷って、楓はお礼の言葉だけを述べてお茶を濁すことにした。可愛くなったと言われれば嬉しいが、素直にそれを表現するのは躊躇われたのだ。
「それって、特定の誰かのためだったりします?」
「え?」
「だから、可愛くなったのは誰かの影響を受けたとか、誰かのためにお洒落してるのかなって思って。ほら、よく言うじゃないですか。女は恋をすると変わるって」
「……」
「どうなんですか、楓さん?」
「……誰かのためというか、あの人の隣を歩く時は、できるだけ可愛い私でいたいとは思いますけれど」
「あの人っ!?」
自分から話を振っておいてなんだが、よもや楓からこういう反応が返ってくるとは思わなかった美容師さんが、目を丸くして驚いていた。
女性が集まればどんな会話も恋愛の話に発展、脱線するのはよくあることだが、楓からそういうニュアンスの言葉をもらったことは記憶にない。だからいつもと同じように曖昧な返事が返ってくるとばかり思っていたのだ。
「へえ。なんだか怪しい言い回しですね」
「それは……」
「もしかして楓さん、彼氏さんができたんじゃないんですか?」
「あの」
「だって、お洒落してその人の隣を歩くってことは、そうことじゃないんです?」
「……まだそんなんじゃないですよ。あの人は私の担当プロデューサーですから、一緒に出歩いたりはよくしていて……」
「ふーん。そっかそっかぁ。“まだ”なんですね。じゃあ楓さんにはその気ありということでFAですよね?」
「FAって」
「もちろん、ファイナルアンサーってことですよっ。さあ、観念して答えてください!」
「もう。あまりからかわないでください。こういう話には、その、あまり慣れてなくて……」
「あはは。まあその時が来たら紹介してくださいよ。是非会ってみたいです、私。楓さんを落とした人がどんな人なのか、興味ありますもん」
「ですから……」
「あらあら。耳まで赤くしっちゃって、もう、可愛いなぁ」
と、そんな会話を交わしたのがほんの少し前であり、思い出すだけでまた頬に朱色がさす思いがするというものだ。
「でも可愛いって言われたんだから、自信は持っていいわよね?」
元モデルで現アイドルなのだから、ファッションの流行には自信がある。だがそれが自分に似合うかは別問題だし、そこに相手の好みも加われば頭を悩ませる種には事欠かない。
楓は被っていた帽子を取ってから、改めて鏡に映る自分を眺めてみる。
「うー。どんな服装が好きか、それとなく聞いていれば良かった。食の好みは結構わかってるんだけど」
この日のために用意した洋服。もし似合っていると言われれば、その一言だけでとっても嬉しいし、舞い上がってしまうだろう。
「そうね。やっぱり帽子は被って行こう。うん。眼鏡は……しなくてもいいかしら」
お洒落なファッショングラスも幾つか持っているが、今回は見合わせようと楓は結論付ける。
そうやって鏡の前で一人、百面相をしていたら、まるで見透かしたようなタイミングでスマホに着信が入った。
「きゃ!?」
一瞬、ドキっとして身構える楓。しかし手に取ったスマホの画面に映っていた発信者の名前を見て、一気に身体の力が抜けていく。
楓はちょっと残念なような、それでいてほっとしたような気持ちを抱えながら、ゆっくりとスマホを耳に当てた。
『はい、もしもし。あ、母さん? うん、楓。どうしたの?』
電話をかけてきたのは、和歌山に住んでいる母親からで、どうやら近況を聞きたがっているらしい。
『今日? オフよ。うん、そう。今から出掛けるところ』
両親、特に母親とは定期的に連絡は取り合っていたが、最近は忙しさにかまけて少しそのあたりが疎かになっていた。だから気になって向こうからかけてきたのだろうと楓は思った。
『え? 散歩じゃないわよ。これから待ち合せ場所に行くところなんだから』
一人で散策でもするのかと聞かれ、違うと答える。すると当然相手は誰なのかと問い返されるわけだが。
『……そうよ。男の人。私のプロデューサー』
待ち合わせている相手が男性だと聞いた時の母のはしゃぎようは忘れられない。そういう類の話とは縁遠い生活を送ってきたから、母の気持ちもわからないのでもないけれど、と楓は思った。
『仕事? オフだって言ったじゃない。え? だから、その…………デートよ』
娘からデートに行くと聞かされた母のテンションは一瞬で最高潮に達し、楓はそのパワーに気圧され気味になってしまった。
もし時間があるなら母の長電話に付き合っても良かったのだが、今はそんな悠長なことをしている余裕はない。だから楓は、やや強引に話を切り上げにかかった。
『あのね。もうすぐ待ち合せの時間だから切るわよ。……うん、わかってる。ありがとう。また電話するわ。じゃあね、母さん』
プツ。ツーツーツー。
楓は暫く通話の切れたスマホを眺めていたが、つと顔を上げると視線をタンスの上に置いてあるフォトフレームへと向けた。
それはいつか彼の部屋で見たのと同じ写真が飾られているフォトフレーム。
二人の、ツーショット写真。
「ねえ、あなたもデートだと思ってくれているのかしら?」
買い物に付き合って欲しいとは伝えたが、言葉をそのまま捉えられているとちょっと困る。空気も雰囲気も読める人だから、それはないと思いたいけれど――
「いけない。もう本当に出掛けないと」
母の電話を切った口実は方便ではない。
楓は時刻を再確認してから、出掛ける前の最終チェックをこなして、準備を整えていった。
「あら、プロデューサー。もう来てる」
そんな風に自宅での時間を過ごしてから、楓は綾霧との待ち合せの場所までやってきたわけだが。既に目的の場所に彼が立っていたので少し素っ頓狂な声を上げてしまう。
「えっと、まだ十五分前よね?」
念の為に腕時計で時刻を確認してみるが、待ち合せの刻限まで確かに余裕があった。時間には几帳面な人だから、遅れることはないだろうと思っていたけれど、まさか自身より先に来ているとは考えていなかった。
だって自分も予定より随分と早く到着してしまったから。
「そわそわしてる? 落ち着かないのかしら?」
そうこうしている内に綾霧のほうも楓に気付いたようで、彼女に向かって手を振ってきた。それを受けて楓も小走りに近寄って行く。
「ああ、楓さん! こっちですよ」
「こんにちは、プロデューサー。もしかして待たせちゃいましたか?」
「いえ、俺もさっき到着したばかりだから」
「本当ですか? 楽しみにしすぎて早く来ちゃったとかじゃないです?」
「遠足前の子供ですか、俺は」
「おやつは幾らまででした?」
「えっと、三百円までって……この話続けるんですか?」
「プロデューサーが素直に答えてくれないから」
「……本当ですよ。嘘ついても仕方ないでしょう?」
「そうですね。じゃあそういうことにしておきます。うふふっ」
もし本当に今来たばかりだとしても、十五分以上前には到着していたのは変わらない。そのことが可笑しかったのか、楓の表情に笑顔が宿る。
「っ……」
「どうかしました、プロデューサー?」
「あ、いや、帽子を被ってる楓さん、あまり見たことないなって思って。あと、もしかして髪の毛とか切りました?」
「はい。今朝、美容院に行ってきたんです。少し長くなっちゃってたから」
毛先に触れるような感じで、楓が首元に軽く手を添えた。
こういう些細な変化にもすぐ気付いてくれるのが実は凄く嬉しかったりする。だってよく見てくれているということに繋がるから。
「プロデューサーもいつもと髪型、少し変えてるんですね。似合ってますよ」
「あ……うっ」
オフの日に一緒に飲みに行ったりもするので、スーツじゃない綾霧の姿もそれほど珍しいものではない。しかし今日の服装はいつもより、ほんの少し気合が入っているように楓には感じられた。
「……楓さんも似合ってますよ。帽子に、その服も。可愛くて、あと………とても綺麗です」
「っッ!」
すぐに返事を返せれば良かったのだが、真正面から似合っている、可愛い、綺麗だと言われれば言葉に詰まるのも致し方ない。そう思いながらも、楓はなるべく平静を装って返す言葉を選んでいった。
「プロデューサーにそう言っていただけると、この洋服を選んだ甲斐がありますね。帽子も迷ったんですけど、被ってきて良かったです」
「もしその帽子が風に飛ばされそうになったら、俺がはっとして受け止めますから、安心してください」
「もう、私が言おうとしたダジャレ、取らないでください、プロデューサー」
「ダジャレは言った者勝ち、早い者勝ちですからね。そこは楓さんでも譲れません」
帽子、ハット、はっと。どうやら慣れないシチュエーションで緊張しているのはお互いさまのようで、綾霧がダジャレを口にすることでそれを解そうと試みたようだ。
もし彼が言わなければ、楓が披露していたに違いない。
「じゃあ立ち話もなんだし、そろそろ行きましょうか」
「えっと、はい。ですがその前にひとつお願いがあって」
「お願い? 俺にですか?」
「ええ」
若干歯切れの悪い楓の様子に、綾霧がハテナマークを浮かべた。
「まあ、俺にできることなら。楓さんの頼みなら断わらないと思いますけど」
「……本当に?」
「俺にできること限定ですからね?」
「こんなこと、プロデューサーにしかお願いできません」
二人は今、向かい合った状態で会話しているのだが、これから散策へ出ようとするなら、必然的に隣同士で並ぶことになる。
楓はそのシチュエーションに、一つのアクセントを欲しがった。
いつも二人で並んで歩く時より、もっと距離を近づけたいという思いがあって、それをお願いというかたちで口にしたいのだ。
「あの、プロデューサー……」
だが、決めてとなる一言が喉から出てこない。
恥ずかしいという感情が邪魔をするし、断わられたらと思うと絞りだした勇気も萎んでいく。
「私と……」
きゅっと唇を噛む。
「……」
――勇気を出して。勇気を出して。一歩、踏み出して。
たった一言、他愛もない言葉を口から出すのに、楓は自分自身で叱咤激励する必要に迫られた。心臓が強く脈打ち、口にする言葉が震えそうになる。
「手を……繋いでもらっても構いませんか?」
それでも彼女は、やっとの思いでそれを彼に伝えることに成功した。
「え?」
「ですから、手を……」
楓からのお願いを聞いた時、綾霧は一瞬フリーズしたようにその場で固まってしまった。
それはほんの数秒にも満たない時間だっただろうが、彼の中で色々な葛藤があったのだろう。綾霧は硬直を解除した直後に右手をズボンにぱっと擦り付けてから、楓の前にそっと差し出した。
それを見た彼女は、束の間呆気に取られたように目を見開いていたが、その事実に気付くと小さな声でクスクスと笑い出してしまった。
「ふふっ。プロデューサー。それだと握手になってしまいますよ?」
「え? あ、そっか……」
「手を繋ぐのは、こっちです」
綾霧の隣に並びながら、楓が彼の左手を取った。それから彼の指と指の間に自身の指を入れると、それを絡めるようにしてきゅっと握り込む。
「こうやって繋ぐんですよ」
「……」
「なにか言ってください、プロデューサー」
「…………」
「さっき笑ったの、謝りますから」
彼の耳元で囁く言葉。でも言わなくても繋いでいる手から伝わるものがある。だから楓は綾霧が黙っていても気を悪くしたりはしなかった。というより逆に、ドキドキと高鳴っている心音が、繋いでいる手から相手に伝わってしまっているんじゃないかと気が気じゃないくらいだ。
楓は、自分の耳が髪と帽子で隠れていて良かったと、本気で思った。
「……楓さんから繋いだんだから、俺からは離しませんからね。それでもいいですか?」
「あら。それだとお店に入った時に困っちゃいますね。カウンター席があればいいんですけど」
「楓さん?」
「ふふ、冗談です。じゃあ何処へ行きましょうか?」
「えぇ? 今日って楓さんの買い物に俺が付き合ってるんですよね?」
「そうですよ。プロデューサーと一緒に、色々と見て回りたい場所があるんです」
綾霧の冗談に、楓も冗談で返す。
でも繋いだ手はそのままで。
楓は幸せそうに目を細めながら彼の手を握り込んだ。今度は間髪入れず綾霧のほうも握り返してきて。
「まずはあそこの店に入ってみましょうか、プロデューサー。可愛い帽子が沢山あるんですよ」
デートはまだまだ始まったばかり。
さあ、楽しい休日を二人で始めよう。