「すいません。少し散らかってますけど、あまり気にしないでください」
綾霧が事務所の応接室へと楓を招き入れる。
今日は無事オーディションに合格した楓の初出勤の日である。まず最初に契約に関する説明と、彼女に関係書類を書いてもらうために、二人きりでここを訪れたのだ。
応接室――とはいっても、大して広くない部屋の中をパーティションで仕切り、そこにテーブルとソファを設置した簡易的なもので、重厚感のようなものは全く感じられない。
どちらかといえば安っぽいとさえ言える。
「手狭ですけど散らかっている感じは受けませんよ。どちらかと言えば清潔感のある部屋だと思います」
「そう言ってもらえると助かります。――あ、そちら側の椅子に掛けてください」
楓の言った通り室内の清掃は行き届いていて、応接室としての機能は果たせているようだ。ただどうしても調度品の使用感は拭えないし、部屋の隅にはダンボール等の雑多な物が溢れているため、みすぼらしい印象は受けてしまう。
整理整頓を心がけてはいるが、物理的な空きスペースが足りない状況というべきか。
「では改めまして。今日からあなたの担当を勤めさせていただく綾霧です。よろしくお願いします」
「高垣楓です。不束者ですが、どうぞよろしくお願い致します」
「ふ、不束者だなんてとんでもない。高垣さんは素晴らしい女性です! 俺こそ色々迷惑かけるかもしれませんが、どうぞ見捨てないでやってください」
「あ、いえ、見捨てるだなんてそんな……。私こそ迷惑をかける立場で……よろしくお願いします」
テーブルを挟んで対面形式で座り、お互い揃ってぺこりぺこりと頭を下げる。そのあまりの仰々しさに、二人とも頭を上げてから相手の面を見つめるかたちで苦笑を浮かべた。
まるで初めて出会った男女の自己紹介のようなぎこちなさは、今の二人の関係を良く現していた。
「……あはは。なんというか少し他人行儀すぎでしょうかね。アイドルを実際に担当するのは高垣さんが初めてなので……その、勝手がわからなくて……」
「いえ、私もこういうことには慣れてなくて。ですからプロデューサーの接し易い話し方で構いませんよ」
「じ、じゃあ、もう少しだけフランクに」
フランクにと口にしながらも、じゃあどれくらい砕ければ良いのかその程度に悩んでしまう綾霧。やはり圧倒的な経験不足というのはこういう場面で足を引っ張るものだ。
「……」
「……」
「……えっと、なんか色々と難しいですね」
「私相手に堅苦しく考えることはないですよ。だって貴方は私のプロデューサーなんですから」
「そうなんですけど、やっぱり構えちゃいますよ。自然体でって思うほどに硬くなるっていうか……」
彼の難しい硬くなるという言葉の中に、楓のような美人を前にしている緊張感も含まれているのに彼女は気付いているだろうか。手狭な部屋の中での対面形式とはいえ、二人の距離は意外に近い。
「ふふっ。ですけどこういう雰囲気ってどこかお見合いを彷彿とさせますね。告白すると、実は私も結構緊張しちゃってますし」
「高垣さんも緊張してるんですか?」
「そうは見えませんか?」
「はい。落ち着いているというか、さすがだなぁって思ってました」
彼の目から見て、楓から緊張している様子は感じ取れなかった。それくらい彼女の雰囲気は落ち着いていて――けれど初めて訪れる場所で男性と二人きりである。
緊張するなというほうが無理な話だ。
それを表面上出さないだけ。このあたりの機微はさすがモデル経験者といったところか。
「あと、お見合いって――」
先ほど何気なく発した楓の台詞。その一部分に彼が強い反応を示した。
「高垣さん、もしかしてお見合いしたこと、あるんですか……?」
「え?」
「誰かと、お見合い……」
「あ、いえ。私自身はそういった経験はありません。聞きかじったというか、テレビなんかで得た情報程度の知識しか持ってなくて……ごめんなさい」
「あ、謝らないでください。俺が変な事聞いたのが悪いんです。こちらこそ申し訳ない」
「いえいえ」
深々と頭を下げる綾霧に対して、楓が困惑気味に彼を制した。そしてこのままでは再びお互いが頭を下げ続ける展開になると危惧したのか、彼女は話の方向性を変えようと試みることにした。
その切欠としてテーブル上に置いてある小さな箱に着目する。それは高級感のある紙片に包まれており、一見してお菓子の箱であることが分かった。
「あのプロデューサー。そこにある箱ってお菓子だったりします?」
「え? あ、はい。あまり堅苦しいのもアレだと思って。軽くお菓子でもつまみながら話せたらと」
「良かったら、開けてみてもいいですか?」
「ええ、もちろん」
そう答えてから、綾霧は楓が手を伸ばす前に箱を手に取ると、そのまま包装紙を剥ぎ取った。それから蓋を開いてテーブル上へと戻す。
「わぁ、チョコレート」
「飲み物も用意してありますから、遠慮なく手に取ってください」
箱の中には包み紙に入ったままのチョコレートが等間隔に並べられていた。
これなら手を汚さずに食べることが出来る。
「じゃあチョコっとだけ、頂きますね」
片目を瞑りながら微笑む楓。
どうやらうまく場の雰囲気を変えることには成功したらしい。
彼女なりの気配りが功を奏した形だが、役得もあった。包装紙を見た時点で気付いていたが、このお菓子、決して値段的に安いものじゃない。
実は楓の為にと綾霧が奮発したのだ。
「どうぞ。“超高”級品ですから、味のほうは保障しますよ」
「あらあらまあ」
まさかそう返されるとは思わなかったのか、楓は手を合わせた格好で可笑しそうに目を細めている。
無論、彼の台詞は値段を誇って言っているのではない。彼女の言葉に乗っただけなのだが、この返しは楓のツボをうまくついたようだ。
「じゃあ食べながらで良いので、まずは俺の話を聞いてください。質問があれば随時その場で受け付けます」
「はい。よろしくお願いします」
「ではまずは一枚目の書類に関してですが――」
楓の機転のおかげか。はたまた彼の用意したお菓子の影響か。二人のやりとりは当初にくらべ随分柔らかくなり、結果としてスムーズにこの後の話を進める結果となった。
「では、そちらの書類にも今日の日付とフルネームでの署名、最後に捺印をお願いします」
「はい」
「……高垣さん。何度も何度も同じようなことさせてしまって、ごめんなさい。煩わしいですよね」
「どうして謝るんですか? 必要なことなのですから、プロデューサーはどーんと構えてくれてれば良いんです」
アイドルになるといっても事務所と契約があって始めて仕事ができるのだ。書類を一枚書いて終わりというわけにはいかない。
楓は今日一日で幾度も署名捺印を迫られていた。
昨今の通信事情――インターネット等での情報漏洩を防ぐ意味での契約もある。それらを含め、相手に詳しく事情説明するのが今日の彼の仕事だ。
担当アイドルに関する事柄の責任は彼が請け負うのだから、手を抜くわけにはいかない。
「丁寧に説明してくれて。質問しても嫌な顔ひとつせずに答えてくれて。感謝しているんですから」
「高垣さん……」
「だって私にとっては全てが未知の世界で、初めて触れるものばかりで。正直不安だらけです。それをプロデューサーが導いてくれるって、そう思えましたから」
「――ッ!」
楓の率直な言葉が彼の胸を突く。そこから全身に染み渡るように暖かいものが広がっていった。
アイドルとプロデューサー。
きっとどちらが欠けてもうまく活動していくことはできないに違いない。ましてやトップアイドルへ昇り詰めるなんて、夢のまた夢だ。その第一のハードルを楓と綾霧は越えようとしていた。
まだ互いを深く信頼するという関係には至らないが、いずれその場へと到達する架け橋のようなものが出来た瞬間だった。
「……」
「あの、プロデューサー。私、なにか変なことを言いましたか?」
「え?」
「だって、なにか固まってるみたいで……」
楓から嬉しくなるような言葉をかけられ、素直に感動に打ち震えていた綾霧だったが、傍から見れば呆然としているように映ったのだろう。
それは彼女も例外じゃないようで、何か自分が変なことを口走った所為なのではと危惧したのだ。
「別に高垣さんの所為じゃないですよ。というか何もないですから」
「なら、良いのですが」
「逆に元気になりました。それもこれも高垣さんのおかげ――」
そこまで口にしてから、彼はある事実に気付く。
これまで何度も楓とは目線を合わせてきた。それなりに近い距離で顔を付き合わせたこともある。だが今までは彼は彼女を前にした際に感じるオーラのようなものに中てられ、そこまで気が回っていなかったのだ。
だが心の距離感が僅かとはいえ近づいたおかげなのか、彼女の些細な変化に気付ける余裕が持てるようになった。
それは楓の瞳の色。
彼女は左右で瞳の色が違うのだ。
「あの、高垣さん、もしかして瞳の色が――」
「え? ああ、そうなんです。オッドアイっていうんですか? 左右で瞳の色が違ってて」
右目が緑色、左目が青色のオッドアイ。ただどちらも淡く薄い色合いなので、一見して気付けるレベルのものではない。
その目元に指先を添えながら、楓が僅かに目線を伏せる。
「……やっぱり、こういうのって変ですか?」
「変じゃありませんっ!」
綾霧が間髪入れずに即答したので、楓が驚いたように顔を上げた。
「全然変じゃないです。それどころか綺麗だなって」
「え……?」
「吸い込まれそうなくらい綺麗だなって。まるで星か宝石のようで、高垣さんによく似合ってると思います」
「…………あ、ありがとうございます」
身を乗り出すようにして発した綾霧の告白を受けて、楓の頬に朱色がさっと差した。真っ赤になるというような感じではないが、照れた様子の彼女を見て、今度は彼が慌て出す。
どれくらい自分が恥ずかしい台詞を口走ったか気付いたのだ。
「あと、今のはですね、率直に思ったことを口走っただけというか、別に口説くとかそんな他意はありませんというか――って、何言ってんだ俺!?」
先ほどまで色々と説明をしていた綾霧は、どちらかと言えば落ち着いた雰囲気で彼女に接していた。それが今や完全に慌てふためいている。
そのギャップが面白かったのか、楓は口元に手を添えてころころと笑い出した。
「ふふっ。クスクス。なんだか本当にプロデューサーとお見合いをしているみたい。経験はありませんけど」
「あ――う」
先ほど彼が追求してきたことを“だし”にするように、楓が念を押してくる。軽い意地悪を含むような茶目っ気が逆に可愛くて、彼の心を更に乱す。
「ねえプロデューサー。どうして私にそんなことを聞いたんですか?」
「それは、ちょっと気になっただけというか……」
「なら、どうして気になったんです?」
「…………高垣さん?」
「知りたいです、私」
「え……と。俺……」
後ずさるように身を引く彼に対し、楓は身を乗り出すようにして詰問をかける。だが彼が口篭っているのを見て、ゆっくりと身体の姿勢を戻していく。
「冗談です、プロデューサー。どうやらお互い相手のことをもっとよく知る必要があるみたいですね」
きっとこれは彼女なりの仕返し――いや、お返しだったのだろう。
楓は表情を軟化させ破顔すると
「貴方とならうまくアイドルをやっていけそうな気がします。これからもよろしくお願いします、プロデューサー」
そう言って、右手を彼の前に差し出した。