「うぐぐ……もう、限界……で――――ひゃあああああああっ!!」
特設の滑り台から落ちないように踏ん張っていた少女が、遂に自重を支えきれなくなって勢いよく下方に転がり落ちていく。向かう先にあるのは真っ白い粉――ホワイトパウダーの海だ。
当然そこに落ちれば全身真っ白に染まってしまい、観客の笑いを誘うことになる。本当なら出来るだけ設置面積を減らし被害を少なくするべきところだが、少女は転がりながらも体勢を整えて、なんと顔面からパウダーの海に突っ込んだ。
「……ぷはぁ」
勢い良く起き上がった顔はアイドルにあるまじき能面のように真っ白で、それを見た観客が一気にどっと沸いた。それだけじゃなく、撮影風景を眺めていた運営スタッフも、必死に笑い声を押し殺している。
バラエティ番組の罰ゲーム的な催しものだったのだが、現役の人気アイドルが身体を張って笑いを取るという姿勢は、予想以上に好評を受けたようだ。
「ひえ~。全身、真っ白ですよ、もう……」
口の中にまで粉が入ったのか、少女が顔を顰めながら舌をぺっぺと出している。その仕草が容姿も相まって愛嬌たっぷりだったので、綺麗な幕引きとなった。
そんな光景を、綾霧はスタジオの袖から感心した面持ちで眺めていた。
少し時間を遡ろう。
とある日のプロデューサーオフィスに綾霧とちひろの姿があった。綾霧がデスクについてパソコンを弄っていたところへ、ちひろが資料を片手に尋ねてきたのだ。
「おはようございます、プロデューサーさん」
「あ、おはようございます、千川さん」
「朝から精が出ますね。事務仕事ですか?」
「ええ。空いた時間に少しでも進めておこうと思って。今日と明日は比較的自由に動けそうなので」
作業していた手を止めて、綾霧がちひろを迎える。それを受けて、彼女が彼のデスクの上に持参していた資料を広げた。
「実はプロデューサーさんにお願いがあって来たんです。来週あるアイドルの付き添いでテレビ局へ一緒に行ってもらえないかと思って」
「テレビ局? それは構いませんけど……この資料にある子ですか?」
「はい。アイドルの輿水幸子さんです。以前あるバラエティ番組に出演して、その時のパフォーマンスがかなり受けたみたいで、系列のクイズ番組にオファーが入ったんですよ」
「へえ、凄いですね」
「なんでも視聴者からの強い要望もあったとか。詳しくはこちらの資料に目を通して頂ければよろしいかと」
そう言って、ちひろが持ってきた紙束を綾霧の前まで移動させていく。それを受け取った綾霧が、まず最初に幸子のプロフィール関連のページを開き黙読を開始した。
「スケジュール的には大丈夫だと思うのですが、念の為に確認をお願いしますね」
綾霧の邪魔をしない程度にちひろが声をかける。
多数のアイドルを抱えている弊害というべきか、プロダクション内で特定のプロデューサーを持たないというアイドルが結構な人数存在していた。
未だデビュー前だったり、個人の希望だったりと理由は様々だが、そういうアイドルのお仕事を、一部のプロデューサーが持ち回りで受け持つこともある。
今回ちひろが持ってきた話が正にそうだ。そうしてアイドルの持ち味や得意な系統を見極めた上で、相性の良いプロデューサーの元へ配属されたりするのだ。
「輿水幸子ちゃんか。オーディションを受けてアイドルになった子なんですね」
スカウトされてきて。あるいは他の事務所から移籍してきて。そういう経緯でアイドルになった者もいるが、オーディションを受けてからという人材が一般的だろう。
そういう面で言えば、幸子に突飛な経歴はないと言える。
「得意分野はバラエティ全般ですか。中でもバンジージャンプ、スカイダイビングが得意……? え? アイドルがバンジー?」
資料に目を通していた綾霧の目が一瞬だけ点になった。一般的な応募方法でアイドルになった幸子だが、お仕事はかなり特異な部分で頑張っているようだ。
「あの、千川さん。この得意な項目ってアイドルの自己申告ですか?」
「いいえ。プロフィールや趣味なんかはそうですけど、お仕事に関係するところは最近の活躍に合わせてこちらで記載してあります」
「なるほど。本人がどう思っているかはわからないわけですね」
「なにか気になることでもありました?」
「まだ何とも。色々含めて来週までにコミュニケーションを取っていければと思っています。俺に出来ることがあれば、力になってあげたいですし」
「是非、力になってあげてください、プロデューサーさん!」
綾霧の返答に満足したのか、ちひろの表情が明るくなった。
「彼女には既にこの件は伝えてありますから、よろしくお願いしますね」
「はい。この作業が一段落したら、早速会ってきます」
「輿水さんは明るくて元気で、とても可愛らしいアイドルですから、プロデューサーさんも楽しくお仕事できるかもしれんませんね」
綾霧が開いていたページに添えられていたプロフィール写真に目を落としながら、最後にちひろがそう付け加えた。
そういう経緯があって幸子と共にテレビ局を訪れた綾霧だったが、冒頭の一幕を経て、彼女の主要な出番が終了したところである。その後で二人は揃って控え室まで戻って来ていた。
「まったく、酷い目に遭いましたよ、もう。早くシャワーを浴びてサッパリしたい気分です」
控え室は洋風に設えられていて、壁際に大きな鏡が設置されているのが特徴的だ。
幸子はその鏡の前に置いてある椅子に腰掛けると、何処か自身におかしなところはないかとチェックし始めた。ゲームに望むに際してジャージに着替えていたため、衣装的な被害は無かったが、未だ髪の毛などには白い部分が見られる為だ。さすがに顔や手足は拭っていたので最低限の身嗜みは確保できてはいたが、女の子としては一刻も早く綺麗に整えたいところだろう。
「お疲れさま、幸子ちゃん。さっきのパフォーマンスかなり好評だったよ」
「フフーン。そうでしょう、そうでしょう! まあカワイイこのボクにかかればあれくらいは朝飯前ですけどね」
「本当、凄かったよ。正直言って感心したからね」
幸子のことを讃えながら、綾霧が湯飲みにお茶を用意する。それを幸子の前にさっと差し出した。
「はい、お茶どうぞ」
「あ、どうもありがとうございます……」
湯飲みを受け取ってそれをずずっと幸子が啜る。その動作の中で彼女が上目遣いに綾霧を見た。
「えっと」
「そうだ。お菓子もあるけど、食べる? クッキーやチョコだけどさ」
「じゃあチョコを一つだけ頂けますか?」
「OK。ちょこっと待っててね」
何処かのアイドルが言いそうなダジャレを挟んでから、綾霧がお菓子入れからチョコを取って幸子に手渡した。
「なんか妙に優しいですねぇ。もしかしてなにかたくらんでたりします、プロデューサーさん?」
「別に。俺はいつもこんな感じだけど」
自分の分のお茶を用意してから、綾霧が適当な椅子に腰掛ける。
「本当ですか? ならさっきのボクがどんな風にカワイかったのか教えてください」
「いや、可愛いじゃなくて凄いなって思ったんだよ」
「へえ。じゃあどんな風にカワイクて凄かったかをボクに教えてください」
やたらとカワイイを強調する幸子に、そういう設定なのかなと綾霧が心の中で思う。
確かに外見的に見ても幸子はかなり可愛い部類の女の子だとは思った。仕草に愛嬌もあるし、声も愛らしい。瀟洒なドレスなんかを着れば、お嬢様だと言われても納得してしまいそうな品の良さもある。
それだけにバラエティで一定のパフォーマンスを魅せる彼女に感心したのだ。
「さっき幸子ちゃん。わざわざ身体の向きを変えてまで顔から粉の海に突っ込んだでしょ? それが凄いなって思って」
「え? だってああいう時はそうするものじゃないんですか?」
「まあ、そうだけどね。アイドルであそこまでやる人は中々いないと思うんだ」
一般的なアイドルなら身体を張るようなお仕事は避けたがるだろうし、いざやってもパフォーマンス的には芸人さんには及ばない。だが幸子は、この場面ではこういうリアクションが欲しい。そういう部分をうまく表現できるのだ。
綾霧の知る限り、バラエティで幸子と同レベルのパフォーマンスを発揮出来そうなのは瑞樹くらいのものである。
「今日一緒にお仕事することが決まってから、幸子ちゃんの最近のお仕事を順に追って見たんだけど、正直言って笑っちゃった」
「えぇぇ~。笑うなんて酷いじゃないですかー」
「ごめん。そういう意味の笑ったじゃなくて、楽しくて笑顔になる感じ。特にスカイダイビングの企画とか凄くてさ、画面に見入ったよ」
そう言って綾霧が両肩の前に手を持っていき、ランドセルを背負うような仕草をする。それを見た幸子が手を前に出してバタバタと交差させた。
「あああ、ボクにそれを思いださせないでください! とっても怖かった……じゃなくて、もう二度とやりたくな……じゃなくてぇ!」
「そんなに怖かったなら断わることもできたんじゃない?」
「それは、まあ、そうですけど。折角頂いたお仕事なんですから、きちんとやり遂げたいじゃないですか」
「うん。そういう姿勢は素直に感心するし、見習いたいって思うよ」
「……」
綾霧の言葉を聞いていた幸子の外ハネが、一瞬ピクっと動いた……ような気がした。
「あの、もしかしてボク、プロデューサーさんに褒められてます?」
「だからさっきから褒めてるよ」
「ふ……フフーン。そ、そうですよね! カワイイボクのパフォーマンスはいつも完璧ですから、褒められるのも納得ですっ! というかもっと褒めてくれてもいいんですよ?」
両手を腰に当てて、自慢げに胸を張る幸子。だが心なしか頬が紅潮して見えるので、実は内心かなり照れているんじゃないかと綾霧は思った。
「幸子ちゃんはさ、バラエティのお仕事って好き?」
「え? それは嫌いじゃありませんけど……」
「けど?」
「……もう少しアイドルらしいお仕事をしたいなって気持ちはありますよ。歌って、踊って。そんな風に。でもちょっと、ほんのちょっとですからね!?」
周りに受けてしまったから。高いレベルの要求にも応えてしまったから。だからこそ同系統のお仕事が増えてしまい、アイドルとしての華やかなお仕事が減ってしまった。
これは一時的なものなのかもしれない。幸子のアイドルとしての力量は確かなものなので、輝く舞台に上るのもそう遠くはないだろう。それでも現状頑張っている幸子に、ちょっとしたサプライズ、ご褒美の一つくらいはあってもいいんじゃないか。
そう綾霧は思っていた。
「わかった。じゃあ俺も自分の仕事を頑張るとするかな」
そう言って椅子から立ち上がった綾霧を、幸子の目線が追っていく。
「えっと、何処かに行くんですか、プロデューサーさん?」
「番組ディレクターのところ。実は事前にある程度の話はついてるんだ」
「へ?」
話の流れがわからないとばかりに、幸子の表情にハテナマークが浮かび上がった。
「俺はプロデューサーだからさ、みんな――アイドル達みたいに華やかな舞台には立てないけど、だからこそできることがあるんじゃないかって思ってるんだ」
「プロデューサーさん?」
「幸子ちゃんの前を向く姿勢を見ていたら、俺も頑張らなきゃって」
「その……いまいち話の内容が理解できないんですけど……」
「時間をもらいに行ってくる。だから俺が戻ってくるまでの間にシャワーを浴びておいてくれるかい?」
「あの……」
「その後で衣装を着て、メイクさんにお化粧してもらって――ステージに立とうっ!」
「はぁっ!?」
今度こそ完全に幸子の思考がストップし、パニックに陥ってしまった。全く想定していなかった方向へと話が進んだからだ。
「ちょちょ、ちょっとプロデューサーさん!? ステージってもしかして今からですか!?」
「うん。事前に話が通ってる部分もあるから大丈夫だと思う。番組内での演奏になるから、二分ちょっとのショートバージョンだけどね」
「…………」
「――To my darling。可愛くって良い歌だよね」
「と……当然です! ボクが歌うんですからカワイイのは当たり前じゃないですか!」
「よし。それだけの気概があれば大丈夫だね。じゃあ行ってくる」
「ちょ、プロデューサーさぁんっ!?」
幸子が綾霧に向かって手を伸ばすが届くはずもなく、彼は扉を開いて駆けて行ってしまった。
「あ……フフーン。全く仕方ないですねぇ。これもお茶の間のファンの皆さんとプロデューサーさんの為です。このボクが立派にステージを勤め上げてあげますから、感謝してください」
仕方ないと呟いた幸子だが、目の前の鏡には実ににこやかな笑顔が映しだされていた。
そういうことがあってから数日。
「ねえプロデューサー。根を詰めすぎてもあれですし、ホットコーヒーで“ほっと”しませんか?」
綾霧が報告書を作成していたら、楓がコーヒーを両手に持った状態でゆっくりと歩いてきた。
二つあるということは、一つは彼のために淹れてくれたのだろう。それを示すように、楓は綾霧の手元近くにカップを一つ差し出した。
「ありがとう、楓さん」
カップに手を伸ばしながら、綾霧が礼を述べる。楓がこうやってコーヒーを淹れるのも手馴れたもので、既に彼の好みに合わせて砂糖とミルクは投入済みである。
そのコーヒーに口をつけながら、綾霧が楓を眺める。すると彼女がやたらとニコニコしていることに気がついた。上機嫌というのか、今にも鼻歌でも口ずさみそうな気配である。
「楓さん、なにか良いことでもあったんですか?」
「え? そう見えますか?」
「今日戻ってきてから凄く機嫌が良いように感じて。もしや会心のダジャレでも思いついたとか?」
「ふふっ。そんなんじゃありませんよ。でも確かに良いことはありました」
楓は事務作業をしている綾霧の隣まで来ると、デスクに腰を預けるようにして楽な姿勢を取った。こうすることで互いの距離が縮まり、顔を合わせることができる。
ただ綾霧は座ったままなので、彼からは彼女を見上げるような格好になった。
「そう言われると気になるなぁ。美味しい日本酒でも見つけました?」
「違いますよ。実は今日現場で幸子ちゃんと一緒になったんですけど、彼女がプロデューサーのことを凄く褒めてたんです」
「え? 幸子ちゃんが俺のことを?」
「はい」
目を細めて楓が頷く。
「ベタ褒めでした。少し妬けちゃうくらいに」
「……」
幸子を褒めた覚えはあるが、逆に褒められるようなことをした記憶がない綾霧は心の中で首を傾げた。ただそれ以上に楓が妬けるという言葉を使ったことに一瞬ドキっとしてしまう。
言葉のアヤ的なものなのだろうが、心臓に悪い。
「……どんな風に俺のこと言ってたんですか?」
だから話の感心を褒められたという方向へ持っていく。
「気になります?」
「それは、まあ」
「ふふっ。でも内緒にしておきます」
「えぇ?」
「意地悪してるわけじゃないですからね」
「それはわかりますけど……」
幸子から聞くという手段もあるが、気持ち的には楓から伝え聞きたい心境のほうが大きかった。そういう気持ちを彼の表情から読み取ったのか、楓は綾霧に一つの提案をすることにした。
「どうしても気になるなら、私を酔わせて聞きだしてみたらどうです、プロデューサー?」
「……」
これはお酒に酔うと饒舌気味になる自分のことを揶揄しての、楓からの飲みのお誘いなのだろう。そう思った綾霧は彼女の口車に乗ることにした。
「わかりました。楓さん。今日仕事が終わったら飲みに行きましょうか」
「いいんですか、プロデューサー?」
「俺もちょうど飲みたい気分だったから。居酒屋でもいいです?」
「ええ、もちろん」
やったとばかりに楓の表情が輝いた。そんなに喜んでもらえるなら、誘った甲斐があるというものだ。
「じゃあ後は――」
綾霧は壁にかけられているスケジュールボードを横目で確認して、ポケットからスマホを取り出した。
ここ最近は楓と飲みに行くとなったら、自然と瑞樹や早苗も同席することが多くなっていた。だから彼女たちの予定を確認して、連絡を取ろうとしたのだが――
「あ――」
喋っちゃ駄目ですよとばかりに、綾霧の唇に楓の人差し指がそっと添えられた。粘膜で直に感じる彼女の体温が、妙に生々しく感じる。こうされると、スマホを取り出しても喋ることができない。
「今夜は二人きりで飲みに行きましょう。ね?」
まるで蓋をするように吸いついて離れない楓の指先に、綾霧の意識が集中する。
「……」
喋れないのだから、仕草で意思を表示する他はない。だから綾霧は肯定する旨を相手に伝えるために頷くことにした。それを見て、楓が彼を解放する。
「ありがとうございます、プロデューサー。今夜がとても楽しみです。ふふっ」
人差し指は離れたものの、そう言って微笑む楓の表情に、綾霧はしばらく見惚れる結果となってしまった。