少し散歩でもしようか。そう社長に言われた綾霧は、彼女が運転する車で事務所の近くにある自然公園まで連れてこられていた。普段楓や瑞樹を伴う際には綾霧が運転することになるので、助手席に座ることに何処か面映いものを感じてしまう。
その車を付近にあるパーキングに停めて、二人が揃って園内へと足を踏み入れる。さすがに自然と名が付くだけあって公園内は緑に覆われていて、特に外周に沿って走る並木道は利用者に人気のスポットとなっていた。
「悪いね、綾霧。ここまで連れ出しちゃってさ」
「いえ、最近はこういうゆったりした時間の過ごし方をしていなかったので、ちょうど良い気分転換になりますよ」
「フェスの前とか特に忙しかったもんねー。アンタは頑張ったよ、うん。でもこの先はもう少しゆとりのある環境で仕事できるからさ」
「……」
並木道を歩きながら会話する二人。
この先――それに関する話は、ここに来るまでの車の中で社長から聞かされていた。簡潔に言うと別のプロダクションへ移籍するという内容の話だ。
この業界では特に珍しい類の話ではないのだが、自身や担当アイドルの身に降りかかるとなったら思いは違ってくる。綾霧も表面上は平静を装ってはいたが、内心はかなり動揺していた。
「やっぱり急な話だったし、驚いた?」
「……正直、楓さんや川島さんが移籍すると聞いた時は心臓が止まるかと思いました。けど俺も一緒にって……」
「まあ移籍というより吸収に近いからね。うちの事務所丸ごとあっちのアイドル部門にお世話になることになったんだ。形ばかりの面接とかもあるけど、希望すれば落とされることはないよ」
希望するという言葉の裏には、辞退することも可能だとの意味合いが込められていた。
「うちのアイドルもプロデューサーも、他のスタッフも全員受け入れて貰えることになってるから、そういう意味での心配はいらない。けど別の懸念があるって顔してるね?」
「それは――」
社長に指摘されて、綾霧は思わず黙り込んでしまった。実際、色々な思いが胸中に渦巻いているが、一番気にかかっていたのは楓や瑞樹の担当プロデューサーはどうなるのかということだった。
事務所ごと移籍すると言っても、そこで彼がまた二人をプロデュースできるとは限らない。だが社長は彼の思いも織り込み済みだとばかりに笑顔を浮かべる。
「心配はいらないよ。あっちでもアンタが楓ちゃん達を担当できるように信頼できる人間にお願いしといたからさ」
「それ、本当ですか!?」
「うん。実は前々から話は進めてたんだよ。向こうからの打診もあったし調整は比較的スムーズに進んだかな」
もし彼女の話が本当なら、彼の懸念の大部分は払拭されることになる。楓と瑞樹を今から他の人間のプロデュースに委ねるなど、絶対に許容できる内容ではないからだ。
「大きいから敵も多いけどさ、美城は良いところだよ。設備も人員も桁違いだ。アイドルをプロデュースする環境は全て整っていると言っても良い。正にアンタの腕の見せどころだってね」
にひひと笑いながら、社長が綾霧の腰の辺りをパンパンと叩いた。
その勢いに押されて彼が半歩分だけ前に出る。
「羨ましいなと思ってた部分はありますよ。もしこうできたらなとか考えたり。二人をもっとうまくプロデュースしたいからからこそですけど」
「でしょ? だからアタシは今回のことはタイミング的にも良かったって思ってる。もしうちで楓ちゃんたちをプロデュースし続けてもトップアイドルへなるのには時間がかかっちゃうからね」
「時間……」
「けどあっちならその時間はかなり短縮できるはずだ。まあ、以前アンタに新しいアイドルをスカウトしてくれーって言っといてこういう話もなんだけどさ」
「いえ、俺も忙しくて蔑ろになっていましたから、逆に申し訳なくて……」
「そうは言ってもアンタは十分に責任を果たしたよ。その働きはあっちでも十分に評価されてる。だから楓ちゃん達の担当は綾霧にって胸を張ってお願いできたんだ」
「――社長」
楓の仕事が増えてきて、瑞樹が新たにデビューして。そういう中でアイドルのスカウト活動まで手が回らなかったというのが事実だ。
このまま人員を増やして順応していくという選択肢もあったろうが、より上を目指すのなら規模の大きい346への移籍は悪い話ではない。
「実際あっちもアイドル部門を立ち上げて間もないからね。馴染むのは難しくないと思うよ。綾霧――アンタのプロデュースでトップアイドルになった楓ちゃんや瑞樹ちゃんを見るの、楽しみにしてるんだから頑張れ」
「もちろん頑張ります。でも社長にも助けてもらえたら嬉しいんですけど」
「あー、うん。それなんだけどさ、さっきスタッフ全員移籍するって言ったけど、正確にはアタシ以外の全員なんだ」
「え?」
さもあっけらかんとした口調で断言するから、綾霧は一瞬聞き間違ったのかと思ってしまった。しかし内容を理解するにつれて、驚きの感情が素直に表情に現れてしまう。
「社長、346に行かないんですか?」
「そだよー」
「……理由、訊いても構いませんか?」
「別にそんな畏まった話じゃないよ。単に主婦業に専念しようかなって。良いタイミングだったしさ」
「主婦業? え? 社長って結婚してたんですか!?」
移籍云々の話を聞いた時よりも驚愕してしまった。そしてその思いがストレートに彼の口に出てしまったから、さすがの社長も眉根を寄せる。
「なんだ綾霧? アタシが結婚してちゃおかしいの? もしかして喧嘩売ってたりする?」
「い、いいえ! そういう話を聞いたことが無かったから驚いただけで、他意はありませんっ」
「そんなに主婦してるように見えないかなぁ。ま、元々アタシは美城の舞台女優だったからね。その時のマネージャーと紆余曲折を経て一緒になったんだ」
まあ、一種の職場結婚だねぇと社長が付け加える。
「だからアタシ個人としては、アイドルとプロデューサーってのもアリだと思ってるよ」
意味ありげなニヒルな笑みを浮かべながら、社長が綾霧に向かってぐっと親指を立てた。
コンコンと扉をノックする音が事務所内に響いた。といっても誰か尋ねてきたわけじゃなく、中に入ってきた楓が内側から扉を叩いたのだ。
目的は窓際に立っている人物に気付いてもらうため。その音を聞いた綾霧が振り返る。彼が何やら思案している風だったので、楓が気を使ったのだ。
「良かった。ここに居たんですねプロデューサー。少し探しちゃいました」
「……楓さん?」
「はい。みなさんもうお店に向かっちゃいましたよ」
「ああ、もうそんな時間ですか」
腕時計で時刻を確認して、どうやら少し遅れてしまいそうだと綾霧が頭をかいた。今から事務所のみんなで打ち上げと言う名の大宴会が催される予定になっているのだ。
事前に予約を入れているので、誰かが遅れていてもじっと待っているわけにはいかない。
「約束に遅れるなんて、時間に几帳面な貴方にしては珍しいですね」
「……すみません気付かなくって。電話をもらえたら飛んで行ったんですが」
「もう少し探して見つからなければそうしてましたよ。でも、ここに来れば貴方に会えるような気がして」
腰のあたりで後ろ手を組んだまま、楓がゆっくりとした足取りで窓際まで歩いて行く。コツコツという渇いた音は、彼女の歩みに合わせて鳴る靴音だ。
「考えごとですか? わかります。物思いに耽ってしまう日もありますよね」
綾霧の隣まで歩を進めた楓が、彼の顔を覗き込むように小首を傾げる。その仕草が良かったら話を聴きますよというサインだと見て取った綾霧は、楓に思いを語ることにした。
「別に悩んでるとか、そんなんじゃないんですけど。環境が一気に変わるんだなと思ったら色々考えちゃって」
「ですよね」
「ずっとここで働いてて他を知らないから、なんか不安とか期待とか色々ない交ぜになってて、ちょっと混乱してる感じで」
「そういう気持ち、わかりますよ」
「臆してるとか、怖いとか、うまく説明できないけど違う感じで。あの、楓さんは……そういうの、大丈夫ですか?」
綾霧の質問を受けて、楓がそうですねぇと相槌を打つ。
「やっぱり私も色々と考えたりします。それこそプロデューサーと同じような感じで。でも大きく環境が変わるのは今回が初めてではありませんから」
「あっ……」
勤めていたモデルを辞めて、畑違いのアイドルへと転身。そのことに比べれば事務所が変わるだけというのは、彼女にとってそこまで大きな出来事ではないのかもしれない。
一度大きな決意をして全く違う環境へ単身で飛び込んだのだ。その時の心境に比べればということだろう。
「知らない人が大勢いる場所で働くということに抵抗がないわけではないですよ。ほら、私って人見知りだから」
「でも楓さん、少し改善しましたよね。最近だともう誰も人見知りだって思わないかも」
「それはきっと誰かさんのおかげでそうなったんですよ」
クスクスと口元に手を添えて楓が笑う。
「新しい環境へ行くのは勇気が入ります。でも何処へ行っても私は私ですから。きっと目の前に変わらずファンの方はいてくださると思います。それに――」
一旦呼吸で間を作ってから、楓が胸の前で両手を合わせる。大切なものをその中に抱くように。
「プロデューサーも一緒なら、私は大丈夫です」
「楓――さん」
「傍に貴方がいると心強いんですよ。こういう気持ち、プロデューサーにはわからないかもしれませんけれど」
ふふっと微笑んで、楓が目尻を下げる。その笑顔に綾霧は随分と勇気付けられる気がした。
別に落ち込んでいたわけじゃないし、深く悩んでいたわけでもない。何となく気持ちがざわついて落ち着かなくなっていただけで。
きっと誰にだってそういう日はあるだろう。でもそんな時に傍に誰かが居てくれて、話を聴いてくれたなら。
「行きましょう、プロデューサー」
そっと楓が彼の前に右手を差し出した。
行くというのはもちろん今から皆の待つ宴会場に行きましょうという意味なのだろう。しかし彼には、彼女が別の意味で言っているような気がした。
「――はい。行きましょうか、楓さん」
差し出された彼女の手を取りながら、綾霧がそう答えた。
その先にあるのは、きっと次のステージへと至る階段に違いない。
この日二人は、揃ってその階段を上り始めた。