「プロデューサー、エプロンとか持ってたりします?」
「いえ、自炊とかあまりしないんで、生憎と……」
「じゃあお鍋とかまな板とか調味料とかも無かったり?」
「いえ、そういうのは引越しの時に一通りは揃えたので。キッチンの戸棚の中に一式仕舞ってありますよ」
「良かった。なら安心ですね」
料理を作ると申し出た楓が、安堵したように両手を合わせた。さすがに何も無いレベルだと作れるものは極限まで限られてくる。
「でもエプロンの持ち合わせはなくて……やっぱり困りますよね?」
「ふふっ。そうだと思って買ってきたんですよ、エプロン」
楓が部屋の隅に置いてあった自身のバッグまで歩み寄り、その中から包装されたままの袋を取り出した。その包装を丁寧に破いて、中から真新しいエプロンを取り出す。
楓はまず緑色を基調としたそれを身体の前に合わせ、肩紐を背中に回してから腰の部分で固定し、最後にきゅっとリボン結びをして着付けを完成させた。
身体のラインに沿うように付けられたエプロンは、若干彼女のバストやウエストを強調するような形になっている。
「どうですかプロデューサー? 似合ってますか?」
アイドルらしくその場でポーズをつけ、くるりとターンを決める楓。その動きに合わせてひらりとスカートとエプロンの裾が舞った。その一連の動作に見惚れてしまい、綾霧が呆けたように固まっている。
「……」
「もう。感想を聞いてるんですから、なにか言ってください」
「あ、いや……」
憤慨したとばかりに、楓は両手を腰に当ててから前屈みになった。こうすることで、座ったままの彼と同じ目線になるのだ。だが綾霧は照れた表情を間近で見られるのが恥ずかしかったのか、顔を横に背けながらぽつりと感想を呟いた。
「……似合ってます、とても」
「ありがとうございます。じゃあキッチンお借りしますね。きちんと消化に良いものを作りますから」
簡素な言葉でも嬉しかったのか、ぱっと笑顔に戻った楓が姿勢を戻した。それから持参してきたスーパーの袋を手にして、台所へと向かって歩いて行く。
そんな彼女の姿を眺めながら、綾霧はこんな夢のような光景があっていいのかと自問までする始末だ。何故なら、自分の部屋に楓がいて、あまつさえエプロンを纏い、料理を作ってくれようとしている。
夢でなければここが天国かと思ってしまうほどである。
「ふんふんふーん♪」
だが台所から聞こえてくる鼻歌は間違いなく楓のものであり、材料を切るトントントンという音は紛れもなく現実だ。
楓の手料理が食べられる。そのことを理解するにつれて、猛烈な嬉しさが込み上げてきた。
「…………っっ!!!」
もしすぐそこに彼女がいなければ、やったー! とか、いやっほうっ! とか叫んでいたに違いない。声には出さずとも小さくガッツポーズは決めてしまっている。
「今なにか言いました? プロデューサー?」
「い、いえ。楓さん、なにを作ってくれてるのかなって……」
「出来てからのお楽しみです。でも時間の関係で手の込んだものは作れませんから、あまり期待はしないでくださいね」
扉越しに聞こえる楓の声。だが期待するなと言われても期待してしまうのが男の性というものだ。こういう役得があるのなら、たまに休んでしまうのもアリかもしれないと思うほどに。
「穴あきのお玉あるかしら。……っと、あったわ」
「……あぁ、なんだかいいな、こういうの」
キッチンに楓がいて、自分はテーブルに座りながら料理が出来るのを待っている。扉を隔てているために匂いは然程感じないが、音は直に伝わってくる。
水が流れる音、野菜を切る音、食器同士がぶつかる音。楓が動く度になんらかの情報が部屋で待つ綾霧の元へ届けられるのだ。その雰囲気に浸ってしまい、自然と感想が口から漏れてしまう。
「楓さん、エプロン似合ってたな」
部屋の隅に置かれた楓の荷物。その上に被せられた彼女の上着。キッチンには本人が立っていて、彼が何か語りかければすぐに答えてくれるだろう。
普段見たこともないエプロン姿といい、いずれも彼の日常には無い光景である。それが加わっただけで味気ない自分の部屋がとても鮮やかなものに変わったような印象を受けた。
「……まあ、大人しく待ってるか」
テレビもつけず、スマホも触らずに、ただじっと座ったまま彼女が料理を持ってくるのを待っている。それだけの時間なのに楽しいと感じてしまうのは状況が珍しいからだろうか。それとも相手が楓だからだろうか。
綾霧は何となくキッチンの方向を眺めながら、ゆったりとした時間が過ぎるのを肌で感じながらその時を待った。
それから暫く時間が経って――遂に楓の料理が完成した。
「はーい、お待たせしましたプロデューサー。まずは、これをテーブルの上に置いてくれますか?」
「えっと、これ鍋敷き?」
「ふふっ。今夜のメニューは煮込みうどんですよ。用意しておきますから、プロデューサーはその間に手を洗ってきてくださいね」
「あ、はい」
綾霧が立ち上がって洗面所へ向かうのと入れ替わりに、楓が両手でお鍋を持って部屋の中に入ってくる。そして再び彼が部屋に戻った時には、食事の用意はあらかた終わっていた。
「さあさあ、席についてくださいプロデューサー。――じゃーん。楓特製の味噌煮込みうどんです!」
楓が鍋の蓋を取った途端、お味噌の良い香りがふわっと漂いだした。未だ熱々の煮込みうどん。中に野菜も入っていて、ネギに人参に白菜と彩りも良い。
匂いと見た目のインパクトは強烈で、否応なしに綾霧の胃袋を刺激する。
「うわ、これめっちゃうまそうですね」
「……プロデューサーの好みに合えば嬉しいんですけど」
「絶対美味しいでしょ。匂いでわかりますって」
「ふふっ。今、取り分けますから。あ、男の子だから多めに入れても大丈夫ですよね」
鍋から大きめの取り皿へと中身を分けていく楓。うどんにお汁にお野菜。最初に綾霧の分を用意して、それから自分の分を用意する。これでいよいよ食事の準備が整った。
「じゃあ、いただきます、楓さん」
「はい、私もいただきます」
二人とも手を合わせてから箸を取る。その後で綾霧はまずうどんへと箸を伸ばしていった。程よく色のついたうどんを摘んで口元へと運ぶ綾霧。
その様子をじっと対面から楓が見つめている。
「あ、うまい……」
一度口に入れたら後はもう止まらなかった。野菜を口に運んで、汁を飲んで、またうどんを食べて。煮込まれたうどんはとても口当たりが良くて、味の染みた野菜は旨みが抜群だった。
味噌の風味がまた食欲をそそり、はふはふと息をつきながら食べ進めるさまはまるで子供のようだ。
そんな風にがっつく彼の様子を見て、楓がほっとしたように表情を緩める。
「楓さん、めっちゃうまいですよこの煮込みうどん! もう本当幾らでも入るくらいで」
「七味を加えると辛味のアクセントが効いて、また違った味が楽しめますよ」
「あー味噌と合いそうですね。早速やってみよう」
「……なにか副菜も用意できれば良かったんですけど、そこまで手が回らなくて」
「いやいや、これだけで十分っすよ! ボリュームもあるし、食べ易いし! なによりうまい!」
「良かった。それだけ喜んで貰えると頑張って作った甲斐があります」
嬉しそうに目尻を下げて楓が微笑む。その後でやっと彼女も自分の食事に取りかかった。自身が食べるよりも彼の感想のほうが気になっていたのだ。
「おかわり言ってくださいね、プロデューサー」
「あ、じゃあ、おかわりを……」
「はい。あ、卵入れましょうか?」
「いいですね! 卵。入れちゃいましょう!」
楓提案の卵を加えて、味噌煮込みうどんがパワーアップする。卵が加わるだけで、味の印象がガラリと変わるのだ。
「うん、これは酒が飲みたくなるなぁ。ビールとか。確か冷蔵庫に幾つか残って……」
「もう。今日はアルコール駄目ですからねプロデューサー。体調悪くなっちゃったらどうするんです?」
「……ええ!? まさかお酒のことで楓さんに駄目出しされる日がくるとは」
「私だって節度くらいは弁えてますっ」
美味しい料理に華を添えるのは、目の前にいる相手との楽しい会話。ましてや気心の知れた相手なら尚更だ。
「楓さん。料理上手なんですね。こう言っちゃうとアレだけど、ちょっと意外でした」
「見直しました? なんて偉そうに言えるほどレパートリーはまだないんですけど」
「そうなんですか?」
「ええ。実は最近料理の勉強を始めたばかりで。本を買ったり、アプリを利用したり。時間がある時に作ったりしてるんですよ」
「へえ、なんでまた料理の勉強を?」
「プロデューサーはどうしてだと思います?」
「え、それは……」
質問を返された形だが、綾霧は気にした風もなく、答えを探ろうと知恵を絞りだした。――が、すぐに納得のいく解答がでてくるわけもない。
結局は曖昧な返事になってしまう。
「節約するため、とか?」
「違いまーす」
「じゃあ、自分好みの美味しいものを食べたかったとか?」
「外れですね」
「えっと、おつまみの勉強……?」
「そういうのじゃなくて料理の話ですよ」
「うーん、ちょっとわかんない……。降参しますから、教えてください楓さん」
「駄目でーす」
「ええ?」
「じゃあこれは私から貴方への宿題ということで。それまでは内緒にしておきます。うふふっ」
ちょっとからかうような仕草で片目を瞑ってみせる楓。そんな楽しい時間は瞬く間に過ぎて、二人きりの食事の時間が終わってしまった。
後片付けくらいは自分がという綾霧を制し、その後も楓がキッチンに立つ。面倒なはずの洗い物を鼻歌交じりでこなす彼女。そしてその後は、コーヒーを淹れてのリラックスタイムだ。
「食後にはコーヒーでしたよね、プロデューサー?」
「ありがとうございます。何から何まで全部お任せしてしまって」
「お気になさらず。お見舞いに来たんですから、これくらいはやらせてください」
テーブルの上にはカップが二つ。綾霧の対面には楓が座っていて、両手で頬杖をついた姿勢で彼を見ていた。その視線が、彼の後ろにあったあるものを捉えて丸くなる。
「あ、フォトフレーム……」
壁際に設置されたデザインチェスト。その上にちょこんと乗せられていたフォトフレームに楓の視線が吸い寄せられた。デジタル仕様のそれは、スマホなどで撮った写真も高解像度で簡単に映し出すことができた。
「あれって、いつか私が撮った……」
「あ、その」
楓の視線に誘導されるようにして綾霧も振り返る。そこにあったフォトフレームには、かつて居酒屋で撮った楓とのツーショット写真が飾られていた。
彼女から綾霧のスマホに送られてきた写真をフォトフレームに移したのだが、正直これは隠しておくべきだったかと綾霧が頭を抱える。だがもはや後の祭りだ。
「……記念撮影だったから。折角だし飾っておこうかと。楓さんが迷惑だって言うなら片付けます」
「い、いえ! そういうアレじゃないんです。大丈夫です! ただこれと同じものが私の部屋にもあって」
「え?」
「“全く同じ物”が飾ってあるから、ちょっと驚いてしまっただけで……」
「…………」
同じとはどういう意味の同じなのだろう。フォトフレームが同じ品? それとも中身の写真が同じ?
今の応答だけではわからない。
「………………」
唐突に沈黙が降りたことにより、目の前にいる人物を猛烈に意識してしまう。相手が手を動かせばそこに、コーヒーを飲めばそこへ注意が向く。
なまじ対面形式なばかりに、その方向性が顕著だ。
「あの、楓さん。時間は大丈夫ですか?」
最初に沈黙を破ったのは綾霧。
目線を動かした時にたまたま視界に入った壁掛け時計から情報を得て、口を開く切欠に使ったのだ。だからこの問い自体にあまり意味は無い。しかし結果としてこれが楓と綾霧に“終電”を意識させることになった。
「もうこんな時間になっていたんですね。色々と夢中で気付きませんでした」
自身の腕時計で時刻を確認し、楓が小さな溜息をつく。
「楽しい時間はすぐに過ぎちゃいますね」
「……送って行きましょうか。今ならまだ電車間に合いますよ」
「大丈夫です。一人で帰れますから」
帰れる。そう口にしたものの、楓から動き出す気配は見られない。それどころか、彼女は腕を下にした状態でテーブルに突っ伏してしまう。
「あーあ、帰りたくないなぁ……」
「楓さん?」
「時間、止まっちゃえば良いのに」
「……」
「プロデューサー。私――」
楓が面を上げて、真っ直ぐ綾霧を見つめて。ちょうどそのタイミングで、突然室内に来訪者を告げるチャイムの音が鳴り響いた。
「きゃっ!?」
文字通り飛び上がって驚く楓。綾霧もまた不審な顔付きで玄関のある方向を眺めていた。
「こんな時間に誰だろう?」
心当たりはないが、家主として出ないわけにもいかない。そう思った綾霧がすっくと立ち上がる。
「ちょっと玄関見てきますから、楓さんは待っててください」
「はい」
扉を開いて廊下に出て、そして程なく玄関へ。
念のために覗き窓から来訪者を確認した綾霧は、相手が誰だかを理解した瞬間、勢い良く扉を開いていた。
「なん、で――」
「にひひ」
「はろはろープロデューサー君。それとも時間的にはこんばんはかしら」
そこにいたのは、笑顔で手を振る瑞樹と、腰に手を当てたポーズで仁王立ちしている社長の二人だった。そして綾霧が瑞樹に気を取られている隙に、社長が玄関にある楓の靴に着目する。
「あ、やっぱりまだいた。おーい楓ちゃーん、アタシー。迎えに来たよー! 一緒に帰ろっ!」
玄関から部屋の奥に向かって声をかける社長。
結局楓は、二人に連れられて帰ることになった。終電を逃した場合、タクシーでも呼ぼうかと考えていたために、状況的に助かった形にはなるが――
「お邪魔しましたプロデューサー。ゆっくり休んでくださいね」
「楓さんも気をつけて帰ってください。夕飯めっちゃ美味しかったです」
「次の機会までに、レパートリー増やしておきますね」
帰る前に挨拶を済ませる二人。
楓は会釈をしてから部屋を出ようとして、一つ忘れ物をしたとばかりに綾霧を振り返った。
「あの、プロデューサー」
「なんですか? 忘れ物です?」
「いえ。また、明日」
照れたように小さく手を振る楓。バイバイという別れの挨拶をしたかったのだ。
「……はい。また明日。事務所で」
またという言葉に笑顔を添えて、彼女は部屋を後にして行った。