壱巻の六、縁の板を蹴って
その名を聞くや、甚兵衛が顔色を変えた。無表情。血の通わぬ彫像のような、まるで人間味のない凍り付いた顔。それが彼の怒りの表情であることを、住職は長年の付き合いでよく心得ていた。
化外が一体なんであるのか、という問には、よくわからぬ、としか答えようがない。ただ彼らは人の歴史が始まった頃には既に世界にあり、以来絶えることなく人と対立し、殺し合い、奪い合ってきた種族である。やや痩せ形で、目は切れ長で鋭く、肌の奇妙に浅黒いもの、耳の先が尖ったものもいる。とはいえその姿は人とほとんど変わるところがなく、黙って群衆に紛れ込んでしまえば見分けが付くものではない。
故に、化外どもはしばしば、人間社会に紛れ込んで悪事をはたらく。実力の高い者は、人間たちの中でもひとかどの立場に登り、その権力を駆使することもある。たとえば、甚兵衛が殺した宿場の元締め、彼も、ここら一帯の、化外の親玉であったのだ。
甚兵衛はそれを殺した。ひょっとしたら、奴らの復讐の目標にされているかもしれない。
「……俺を狙ってか?」
「でも、ないらしい」
住職は茶を啜り、一息吐いてから、ぽつぽつと語り出すのだった。
「十日余り前、上方の寺が化外に襲われたそうな。住職以下、小僧から寺男に至るまで悉く殺害され、生き残ったのはちょうど用事で外出していた若い僧ひとりきり。彼の話によると、寺に匿われていた“神剣”の巫女だけ、行方が知れぬ。亡骸が見当たらぬのだと……」
「やつらに捕らえられたのか? ……いや、それなら化外どもは身を隠すはずだ」
「さよう、さ。それで、ここらに化外が姿を現したとすると……」
「巫女は逃げた……そして、奴らがそれを追っている」
と、その時。
甚兵衛の背筋を、たとえようもない悪寒が貫いた。弾かれたように顔を上げる。反射的に刀を手に取る。立ち上がり、障子を勢いよく左右に開く。外は静寂の宵闇。空には雲間にかすむ美しい月。
その青白い光が、異様な、邪悪な、気配に覆われ、不安げに揺らいでいるのが甚兵衛にも分かる。目には見えぬ。だが、間違いない。
――奴らだ。
彼の拳に固く握りしめられ、刀の鞘がみしりと小さく悲鳴を挙げた。
「どうしたね?」
住職は何も感じないらしい。怪訝に眉をひそめて、問うてくる。甚兵衛はそちらに顔も向けず、ただ、額の脂汗を感じながら問い返した。
「その巫女の名は?」
「ああ、なんといったっけな。たしか……そう! 寄坐の、無垢」
「……やっべえ!」
と、言うが速いか。
甚兵衛は縁の板を蹴り、欄干をひとっ飛びに飛び越えて、闇の中へと駆け出した。
「ぬっ」
すっかり闇に閉ざされた街道に、どこからともなく、少女の声が聞こえてくる。
「ぬぎっ……ぐぐ……」
片側は山、反対は崖。崖下は黒々とした杉の林。月の光も届かぬ、澱のような暗闇……そこから、突如、白い手が生えてきた。手は妖しく辺りをまさぐり、枯れ草の根本を掴む。それを頼りに不気味な姿が深淵の裡から這い登る。
「ぬぐわーっ!」
這い登ったそいつは、どてり、と仰向けにひっくり返った。肩を上下させ、ぜーはーと荒い息を吐いている。体力という体力を使い果たしたものとみえる。この崖を這い登るのに、だ。
「あ……ぁーの大
もう叫ぶ余力も無いのであろう。ぐったりと体の力を抜いたのは、言うまでもなく無垢であった。甚兵衛に崖下に投げ落とされ、おかげで追っ手の目からは逃れたものの、崖をよじ登るのに、今までかかっていたらしい。この恨みは深い。坊主殺しは七代祟るという。今度会ったら是が非でも山盛りのごぼうを奢らせてやらねばならない。
などと考えていたそのとき。
無垢は何かを感じ取り、疲れた体に鞭打って立ち上がった。
足音。そして、呻くような声。月があるとはいえ夜の暗闇の中でははっきりとは見えないが、街道の向こうの方から、近づいてくる一団があるようだった。影の動き方からして人数はそうとう多い。おそらく十名は下るまい。
その時ちょうど雲の切れ間から月が覗き、遠い一団の顔が浮かび上がった。
「げっ、あいつらじゃ」
見覚えのある顔、甚兵衛を追っていた奴らである。疲れてとぼとぼと脚を引きずるように歩いているところを見ると、どうやら甚兵衛は捕まらなかったらしい。それで追跡を諦め、引き返してきたというわけだ。
まずい。このまま見つかれば、無垢はきっと捕らえられてしまう。後ろに走っても追いつかれよう。といって再び崖下に身を投じる? 二度と御免だ。
となれば。
――しゃあねえ。真言で死なん程度にぶっとばして、その隙に逃げちゃろ。
即断即決。すぐさま無垢は数珠を取り出し、手を摺り合わせて経を読み始めた。ちょうど奴らが近づいてくるころには、経も読み終わっているという見積もりだった。
だが。
――うげっ!?
無垢は思わず顔をしかめた。
こちらの読経は小声である。加えて、昼間でも辛うじて顔が見えるかどうか、というほどの距離がある。相手には、何か声がしているようには聞こえたかもしれないが、その内容までは聞き取れないはずである。暗闇の中でぼそぼそと呟く何者かの声、それを聞けば、まず何者かと訝って、じりじりと間合いを詰めるのが当たり前。
よもやそれを、一挙に全力疾走で向かってこようとは。
急速に近づいてくる相手に、無垢は慌てて口調を速めた。男たちが近づく。各々手には長脇差をぶら下げ、完全に殺すつもりで迫ってくる。だが彼らが飛びかかってくるより僅かに速く、無垢の経が完成した。
「
無垢の前に浮かび上がった光の曼荼羅から、すさまじい爆風が迸る。
本来ならば爆炎によって前方を焼き尽くす術であるが、手加減をして熱も炎も伴わない突風を撃ち出すのみに留めてある。とはいえ、
果たして男たちは羽毛のように吹き散らされ、街道に累々と横たわった。
ほう、と無垢は安堵の溜息を吐く。
と。
一時の安堵が、不気味な恐れに変わった。
初めは違和感であった。吹き飛ばされた者達は、悲鳴一つ挙げなかった。背中から地面に叩きつけられても、痛み一つ訴えなかった。彼らが、動く。手が、脚が、まるで操り人形のごとく蠢く。
立ち上がる。
それを目にして、無垢は息を飲み、半歩後ずさった。
一人だけではない。二人、三人、次々と、立つこともできぬと思えた相手が、何事も無かったかのように起きあがる。その時、ふたたび月の光が差し込んで、奴らの姿が露わとなった。
今度こそ。
無垢は恐怖に凍り付いた。
異様、であった。脚はねじ曲がり、足首から下は切り落とされ、腹は割かれ、腕は断ち斬られ、首はおかしな方向にへし折れて、頭蓋はかち割られる。血が、脳漿が、身じろぎするたびにこぼれ落ち、全身が異様なぬめりに包まれて、それでも彼らは、動いていた。
光の宿らぬ虚ろな瞳を、ただ無垢だけに向け、呻きながら擦り寄ってくる。
――
思うや否や、無垢は再び経を唱えはじめる。今度は手加減なしである。
だが――
敵がそれを待つはずがない。
死人どもが咆哮し、一斉に無垢目がけて飛びかかる。迫る死体の群れ。月光を浴びてぎらつく刃。無垢の体が恐怖にすくむ。もうだめだ、間に合わない、殺される!
無垢は思わず目を閉じて――
静寂――。
仏の御許に召されたものか。否、破戒僧は地獄行きか。そのどちらでもないと気づき、無垢はおそるおそる瞼を開ける。淋、と静まりかえった月の光。それを遮り、無垢を庇うかのように、すっくと立つ黒い影。
「全く危なっかしいったらねえぜ……」
抜き放たれた刃。舐めるように視線で辿る。手、腕、夜風にたなびくつぎはぎだらけの上着、汗に濡れた首筋と、固く結んだ一文字の唇。
「だが間に合った!」
ひとりのさむらいが、そこに居た。