壱巻の三、逃走
甚兵衛はその日のうちに宿場を発った。
棒端の横を過ぎると、街道はうねりながら山中に入っていく。山肌の途中を削って整備された街道は、静かに、涼やかに、旅人の目と心を楽しませてくれる。左は見上げるような断崖、右は杉の鬱蒼と茂る谷間。木々の切れ間からは遠く、青々とした海が見える。空は澄み渡り、疲れた目を洗っていくかのよう。
「わーっ! 海じゃー! ねねね、海がみえよーる! きゃー! きれー!」
……うしろにちょこまかと付きまとう、うるさい小娘の姿さえなければ。
「あのよお……」
甚兵衛はかぶった笠の裾を持ちあげ、中に手を突っこんで頭を掻いた。蒸れて痒くてしかたがない。
「一体いつまでついてくるんだ、お前は?」
「ごぼう喰わしてくれるまで」
さも当然、という風に無垢は言う。
「約束なんじゃけ、ちゃんと果たされーや。それまで地獄の底でも付いてくけーな」
見れば、目が完全に座っている。だめだ。こいつは、本気の目だ。
「勘弁してくれよ……いいか御坊」
「無垢」
「あ?」
「
どうでもいい、とばかりに甚兵衛はかぶりをふる。どうせ、長い付き合いにする積もりはないのだ。
「いいか無垢坊、俺に付いてくると危ねえんだ」
「なんで?」
「色々あってな」
「さっきの、ごろつきみたいなん?」
「見た目はごろつきでも、奴らは
「元締め……?」
どこかで、そんな話を聞いたような気がして、無垢は首を捻る。しばらく記憶を辿り、思い当たるところあって、あっと声を挙げる。
「って、まさか」
と、その時だった。
背後から地を揺らさんばかりの怒号と足音が聞こえてきた。甚兵衛は弾かれたように振り返る。反射的に刀の柄に手を掛ける。土煙をあげ、他の旅人を突き倒しながら駆けよってくるその一団に、甚兵衛は見覚えがあった。彼は苦虫でも噛んだかのように顔をしかめた。もう追いついて来やがったか、と。
だから、追いつかれないうちにさっさと宿場を出ようと思っていたのに。余計な荷物のおかげで時間を食ってしまったのだ。むろん余計な荷物というのは、後ろでぽかんと状況を見守っている無垢のことであるが。
一団は甚兵衛の姿を認めるや、それぞれに足を止め、左右に広がり街道を塞いだ。その数、ざっと十四、五人。
「見つけたぞ甚兵衛」
彼らの頭らしい男が、低いよく通る声を張り上げる。
「よくも親分を殺ってくれたな! ぶっ殺してやる!」
それを聞いた無垢が、愕然として口元を手のひらで覆った……
「
これはちょうどよい。甚兵衛はにやりと、なるべく邪悪らしく見えるように笑って見せて、
「そういうことさ。分かったら俺につきまとわねえで……」
「そんなの
「……は?」
がばっ! と無垢が甚兵衛にすがりつく。驚いて甚兵衛の笑顔が引きつった。まあ本来が、大して悪人顔でないものを、わざと悪人ふうに作り笑いしていただけだ。ふとしたことで崩れる程度のものであった。まして、目尻に涙を浮かべたいじらしい少女に胸元にすがりつかれては、もういけない。よもやこの娘、俺のことを心配しているのか? と、そう思うだけで甚兵衛はどきりとしてしまうのだ。
「お前……」
「絶対捕まったらおえん! うちにごぼう喰わしてくれるまでは!!」
――どきどきして損した。
「それしかねーのかお前は!?」
「他に何があるんなら!?」
「たいしたもんだ……」
「なんだかよく分からんが……」
と、呆れ気味に割り込んだのは、追っ手の頭であった。威勢良く腕を振り上げ、大音声で檄を飛ばす。
「とにかく二人纏めて引ッ捕らえろ!」
追っ手が獲物を抜き、包み込むように二人に躍りかかった。甚兵衛は舌を打つ。躊躇えば命はない。無垢を抱き寄せると
「動くなよ」
「うん?」
その細い腰に手を回し、ひょいっ、と彼女の体を小脇に抱え、迷わず甚兵衛は逃げ出した。この人数を相手に正面から戦って勝てる見込みは薄い。そもそも怖いし、何より、無垢を巻き込むわけにはいかない。彼女は無関係だ。
うねる山の街道を、砂を蹴り上げ甚兵衛は逃げた。だが追っ手も元気がよい、どこまでも怒声と共に追ってくる。このままでは遠からず追いつかれる。
甚兵衛はふと、道の脇に立った一本の立派な杉の木に目を留めた。これだ、と思うや否や、空いた右手で腰の刀を抜き放つ。脇に抱えた無垢の鼻先を白刃がかすめて過ぎて、彼女が裏返った悲鳴を挙げる。
「なんしょんなら! 危ねかろーが!?」
「っるせーな、ちょっと……」
甚兵衛が草鞋を滑らせ立ち止まり、
「黙ってろ!」
それと同時に、刃が奔る。
ただ一太刀で、大人の胴ほども幹が横一文字に叩き切られた。途端、木が呻く。枝がざわめく。杉の木がゆっくりと、だが不気味な破砕音を伴って倒れていく。無論、追っ手の行く手を遮るようにだ。
慌てた追っ手が口々に叫んだ。
「うわっ」
「止まれ! 止まれェ!」
なんとか足を止め、転びながら引き返し、辛うじて彼らは難を逃れた。もうもうたる砂埃が視界を塞ぎ、倒れた丸太が道を塞ぐ。
ややあって、ようやく落ち着きを取り戻した彼らは、薄れはじめた砂埃の向こうに目を遣った。
だがむろん、甚兵衛たちはとうの昔に逃げ去っていたのである。
さて、その時。
甚兵衛も無垢も、追っ手の男たちも、誰一人として気付いてはいなかったが――背後からじっと一部始終をうかがっている、一つの影があった。
笠を目深にかぶり、その目元は窺い知れぬ。どうやら旅装束の女のようではあった。女はこの追跡劇から充分に距離を取り、決して見とがめられぬように気を使い、通りかかったただの旅人を装っていた。だがそれが、ただの旅人で無いことは明らかであった。
それが証拠に――女がふっと身じろぎしたと思うと、その姿は、一瞬にして忽然と消え失せたのであった。