サムライ:パッチワーク -六欲天の門-   作:外清内ダク

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壱巻の一、ふたり、昼つ方に眩めきけり

 壱巻の一、ふたり、昼つ方に(くる)めきけり

 

 

 甚兵衛は追われていた。

 賑わう宿場の大通り、人混み掻き分け甚兵衛は走る。厳寒の睦月半ばといえど、昼九ツの温んだ陽射しに、小半時余りも走ったとあっては、襦袢はじっとり汗みずく。休みたいのは山々なれど、後に迫るは追っ手の罵声。走りながらに通りを見わたし、手頃な小路を横手に見つけ、わらじの裏で砂を跳ね上げ、身を翻して飛び込んだ。

 とにかく身は隠したが、これで撒ければ苦労はしない。甚兵衛の狙いは桶屋の壁際に並べて干された大桶である。素早く縁に手を掛け、たがに足掛け、身の丈ほども高さのある桶の上へとよじ登る。そこから桶屋の屋根瓦にひらりと身を躍らせ、じっと身を伏せ時を待った。

 やがて罵声が近づき、甚兵衛と同じように小路へ駆け込んでくる。ところがそこに甚兵衛の姿はない。追っ手の男どもは、畜生だの愚図野郎だの、口汚く言い合った挙げ句、手分けして探すことに決めたと見えて、散り散りにどこかへ行ってしまった。

 一部始終を屋根の上でびくびくしながら聞いていた甚兵衛は、なんとも深い、安堵の溜息を吐いた。甚兵衛とて侍の端くれ、腰には大小の刀を差す身分。荒くれ者の四人や五人、相手にしてできないはずもなかろうが、そこはそれ。どうにも大勢で囲まれると、彼は足がすくんでいけない。

 それになにより、

「刀を抜きゃあお互い傷つく。争わずに済むならそれに越したことはねえ」

 こうした考えの男だったのだ。

 すっかり安心した甚兵衛は、寝ながらに懐をまさぐった。出てきたのは紫色の袱紗(ふくさ)の包み。丁寧に開けば、中から親指の先ほどの小さな勾玉が姿を現した。よほど価値のある宝であろうか。甚兵衛がうっとりと見つめるそれは、陽射しを吸い込んで深い深い瑠璃色に煌めいている。

「これさえありゃあ」

 己の仕事を確認し、満足した甚兵衛は、後生大事に宝をしまい込んだ。そして不用心にも屋根の上で身を起こした――と、目ざとく辺りを見張っていた奴がいたとみえて、どこぞでけたたましく声がする。

「屋根の上! こっちにいたぞ! 月萩(つきはぎ)甚兵衛(じんべえ)だ!」

「やっべえ!」

 甚兵衛は大慌てで屋根から地面に飛び降りた。そして再び、まろびながらの逃走が始まったのであった。

 

「むーむーみょーやーくーむーむーみょーじーん……」

 ふらり、ふらり、ゆらり、ゆらり、少女が足を引きずりながら大通りを行く。身の丈からして十二、三の小娘だろうか。纏う衣は袈裟に似ていたが、色は神社の巫女装束のごとき白と朱。結いもせず腰ほどまでも伸ばした艶髪が、白絹の上によく映える。普段はきっと愛らしい顔立ちをしているに違いなかったが、今はそれも全て台無しであった。

 なにしろ彼女の顔は、限界に達した極度の空腹に青ざめ、まるで水死体のごときありさまとなっていたのである。

「むーくーしゅーめつどーはらへったー……はぁぁぁ……」

 得意の経を読み、全ての苦しみは幻である、それゆえこの空腹も幻である、そう思い込もうとしても、きゅんと絞り上げられるような胃袋の切なさはどうにも消えない。

 なにしろ、もう三日も食べてない。

 少女は、行き交う人々の訝しげな視線にも気付かなかった。それほど無我の境地であった。そういう時、ひとは往々にして恐るべき潜在能力を発揮するものである。果たして少女は何かに気付いたようであった――臭いだ。犬ですら嗅ぎ分けられないであろう、ごくごく微かな臭いだ。少女は突如、「きょっほー!」などと奇声を挙げて小躍りしながら駆け出し、桶屋の壁際に干してあった大桶の前にひざまづくと、大人の男の背丈ほどもある桶を片手でやすやす持ちあげる。

 その下に転がっていたのは、慌てた誰かの懐からこぼれ落ちたのであろう、ちいさなちいさな小粒銀であった。

 これがあれば。これさえあれば。

 両手にうやうやしく小粒を抱いた少女は、愛しい恋人を見つめるような上気した顔で経を唱える。

「ぎゃーてぇーぎゃーてぇぇぇん」

 もう止まらない。彼女も、よだれも。

 

 メシ屋に飛び込んだ少女の前に出されたのは、ふっくら炊きあがったほかほかの白米。いい具合に皺の寄った新香が少々。そして黒い魅惑の貝殻が、しとやかに水面から顔を覗かせるしじみ汁。

「あっはぁぁぁああぁん……いっただっきまーっす!!」

 ずばしん! と、店の中にざわめきが走るほどの勢いで手を合わせ、少女は膳に飛びかかった。てんこ盛りのごはんを箸からこぼれ落ちるほど掬い上げ、口いっぱいに頬張る歓び。噛めば噛むほど広がる甘さ。お行儀悪く新香を頬張れば、そのコリコリとした歯ごたえ、よだれの湧き出すような塩気がたまらない。次いで啜った味噌汁が、それら全てを包み込むように混ぜ合わせ、しじみの芳醇な出汁と温もりを、胃袋から体全体に染み渡らせていくかのよう。少女は箸でつまんだ小さな貝の身を前歯で削ぎとり、恍惚に浸る。もう我慢できない。貝殻まで舐めしゃぶりたい。桃色の舌先を伸ばし、貝殻にたまった僅かな汁を、丹念にねぶっていく……

「お嬢ちゃん、旨そうに食うねえ」

 と、嬉しそうに言うのは、湯飲みに入れた白湯を運んできてくれた、店の主であった。もう四十がらみであろうか、生真面目で親切そうな親父であった。少女は至福の笑顔を彼に向け、

「ぼっけえ旨えー! 生きててよかったわー」

「たかが飯と汁に大げさなこった。変わった訛りだねェ。旅人かい? どこのお国から?」

「えっと……西……のほうからじゃ。子細あって旅しとるんじゃけど」

「そうかいそうかい。まあしかし、できるなら早いところこの宿場は発った方がいい」

「なんで?」

「物騒なのさ。喧嘩に盗みに拐かし、後を断たねえのよ。てえのが、大きい声じゃ言えねえが、宿場の元締めがとんだやくざでね。ならず者を集めて横暴するもんだから……」

 店主は声を潜め、少女の耳元に口を寄せる。

「その元締めも、ゆうべ誰かに殺されたって話だ。みんな自業自得だって噂してるよ。ともあれ、下手人がまだそこらをうろついてるかも……」

 と、店の主が顔を曇らせた、その時だった。

「待ちやがれ甚兵衛!」

 ざわめきと悲鳴を伴って、どやどやと一団が店に駆け込んできた。見ればつぎはぎだらけのボロを着た、なんとも風采の上がらない二本差し《さむらい》が、5人のちんぴらに追い立てられ、この店に逃げ込んできたようであった。

「言ってるそばからこれだ!」

「ふーん?」

 店の主が頭を抱えている。少女は、ぱくりとごはんを一口。

 さて、甚兵衛と呼ばれた侍は、ぜいぜいと肩で息をしながら、片手を広げて突き出して、ちんぴらたちを制止した。

「待て! 待ってくれ。ここじゃあ店に迷惑がかかる。場所を変えないか?」

「黙りな、それらしいこと言いやがって。またはぐらかして逃げるつもりだろうが」

 ぎくり、と侍が肩を震わせてるあたりを見ると、どうやら図星らしい。

 ここで店の主が割って入った。睨み合う両者の間にだ。少女がぴたりと箸を止める。これはいけない、危ない。店主のおじさん、勇敢なのはいいことだが、あんな乱暴者たちの話に割り込んでは、どんな類が及ぶか分かったものではない。しかし店主は声を張り上げて、

「どちらさんも、よしてくださいよ! 喧嘩なら表でやってください」

「ああっ、おっちゃん、出しゃばっちゃダメだって」

 と心配そうに顔を曇らせるのは、甚兵衛とかいう侍の方。ちんぴらたちは、長々と獲物を追い続けて頭に来ていたところだったらしい。案の定、横から割り込んだ茶々に激昂し、ついに腰の脇差しを抜きはなった。悲鳴が挙がる。五本の刃が外から差し込んだ陽光に煌めく。甚兵衛の目が鷹の如く鋭く光る。

「やかましい爺!」

 ちんぴらの一人が脇差しを振り上げ斬り掛かった。甚兵衛が動く。しなやかな足で咄嗟に地を蹴り、店主を庇うように抱きかかえ、横っ飛びに身をかわす。その素早い動きを追い切れず、ちんぴらはそのままの勢いで前につんのめり――

 どがっしゃあああ!

 店の机に激突し、一緒になってひっくり返った。

 少女の目の前で湯気を立てていた、あの、白米と、しじみ汁と、お新香と一緒に。

「てめえやりやがったな!」

「俺は何もしてねえ!」

「黙りやがれ! 殺してやる!」

 甚兵衛が舌を打つ。やむなく刀を抜き放つ。悲鳴、混乱、剣戟の響き。一瞬にして修羅場と化した飯屋の片隅で、茫然と椅子に腰を下ろしたまま、少女はぶつぶつと何事か呟いていた。誰も聞きとがめる者など居ない。だがもし、誰かが聞いていたなら、その声はこう聞こえたことだろう。

菴薩縛怛他蘖多(おんさらばたたぎゃた)播那満娜曩迦魯弭(はんなまんなのうきゃろみ)……」

 再び悲鳴。鈍い音。刃閃き、交錯し――

南无三曼多哇日落赧憾(のうまくさんまんだばざらだんかん)!!」

 瞬間。

 少女の目の前に生まれた光の曼荼羅から、凄まじい爆風が迸った!

 

 店の戸板ごと吹き飛ばされたちんぴらたちは、往来に背中を叩きつけられ、苦しげに呻きながら地虫のように身じろぎした。大通りがしんと静まりかえる。冬の冷風が吹きすさぶ。まるでこの世の支配者であるかのごとく、地獄の呪詛が店の中から響き渡る。

「食べ物を……粗末にしゃあがって……」

 少女は怒りに震えながら、一歩、一歩、ゆっくりと、店の外へと踏み出してくる。ちんぴらたちが唾を飲み込む。往来の人々が思わず身を引く。

「三日ぶりの……ごはんじゃったのにっ……」

 少女の握りしめた二本の箸が、怒れる拳の力に負けて、真っ二つにへし折れた。

「地獄へ堕ちろやこのド外道が!!」

 恐怖に駆られ、体の痛みも忘れてちんぴらたちは立ち上がった。目の前の年端もいかない少女。どこにでもいるちんけな小娘に見える。だが違った。これはまずい。とんだ虎の尾を踏んでしまった!

「やばいぞ僧侶だ!」

「どうすんだよぉ!」

 ちんぴらたちが威に飲まれている一方、目を輝かせていたのは甚兵衛である。

 ――こいつは使える!

 好機は、ちんぴらどもが混乱している今しかない。彼は店の中から少女に呼びかけた。

「御坊!」

「ごぼう!? きんぴら!!」

 さっきまでの憤怒はどこへやら。少女はきらっきらと星のように目を輝かせ、甚兵衛のほうを振り返った。きんぴらごぼうと名を聞いただけで、もうよだれが口許から滴り落ちる。

 牛かお前は、と呆れる一方、これは好都合と甚兵衛はほくそ笑んだ。

「腹いっぱい食わせてやるよ。こっちにつけ」

「まじで!?」

「この時期のごぼうはいいぞぉ、ふっくらとして身が詰まってて。醤油で甘辛く煮染めりゃあ、もうこうれだけで飯が何杯でもいける……まさに今が旬!」

「よっしゃぁぁああああっ! 助太刀しちゃらぁあ!!」

「あーっ!? ずっりぃぞ甚兵衛! そんなのアリかっ!?」

「早いもん勝ちだ。さ、御坊! 殺さない程度にお願いします!」

「ごっぼっうっ♪ にっしっめっ♪ あまかっらっ♪

 南无阿迦舍掲婆耶(のうぼうあきゃしゃきゃらばや)(おん)麼哩迦麼利慕利莎縛河(ありきゃまりぼりそわか)ーっ!」

『うおわーっ!?』

 再度起こった爆発に、為す術もなく蹂躙されるちんぴらたち。甚兵衛の頼んだ通り死者こそ出ていないが、このままではそれも時間の問題。現に2人ばかり、打ち所が悪かったのか、さっきからぴくりとも動かない。

 もはやこれ以上は無益と察したか、彼らは一斉に身を翻し、倒れた仲間を肩に抱えてほうほうの体で逃げ出した。だが、走る彼らをその横手から、銀色の一太刀が襲う。ただの一振りで、二人が同時に倒れ伏す。残るは仲間を纏めていた、頭領格の一人のみ。

 彼は震えながら、横の物陰に隠れていた侍に、指を突きつけ、唾を飛ばして罵声を浴びせる。

「て……てめえ甚兵衛! いつのまに回り込みやがった!?」

 そう、彼らの逃げ道に待ち伏せていたのは、他でもない甚兵衛であった。彼は少女とちんぴらたちがやりあっている間に、店の裏口から外に周り、物陰でじっと隙を窺っていたのであった。

 甚兵衛は抜き身の刀をぶら下げてにやりと笑い、

「逃がすと面倒だから、ちょいと痛い目見といてもらうぜ。ま、殺しゃしねえ、ひと月ばかり肩が上がらなくなるくらいさ」

「ちっくしょう、味方ができた途端に手のひら返しやがって! 卑怯だぞ!」

「卑怯結構。俺の二つ名を知らんのか?」

 ちんぴらの頭領は、怒りを込めて朗々と語る。

「相撲とるときゃ他人のふんどし、刀も身分もみんな借り物、虎の威を借る素浪人……

 人呼んで、“つぎはぎ甚兵衛”……!」

 その甚兵衛の峰打ちが、頭領の肩口を打ちのめし、彼はその場に卒倒した。言われ放題に言われた甚兵衛は、怒るでもなく、難しい顔をして溜息を吐くばかり。刀を鞘に収め、倒れた相手にぼやくことには、

「何もそこまで言うこたねーだろ……」

 と、そのとき、甚兵衛の耳に、とさりと小さな音が聞こえた。見れば、僧侶の少女が路上に卒倒しているではないか。ぎょっとした甚兵衛は慌てて駆けより、羽毛のように軽い彼女の体を抱き起こした。

「おい、御坊、どうした」

「はらへった……」

「……はあ?」

 完全に目を回して弱々しく言う少女に、甚兵衛は思わず、顔をしかめる。

 

 とまあ――

 素浪人つぎはぎ甚兵衛と、怪僧寄坐無垢(よりましむく)、二人のなれそめは、こんな具合であった。

 

 

 

"S.o.S.;The Origins' World Tale"

EPISODE in 1774 #A01/SAMURAI:The Patchwork

サムライ:パッチワーク -六欲天の門-


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