東方高次元   作:セロリ

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86話 身体が冷たくなる……

其れでも受け入れることしかできない……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あれ………………? 俺は一体……」

 

冷たい意識の底に沈んでいた俺が、軽い浮遊感を持って目を覚ました時、視界には木目のはっきり浮かんだ茶色い天井が浮かんでいた。

 

何でこんなところで寝ているのだろうか?

 

そんな疑問が浮かんでくる。当然のことではあるだろう。俺は白蓮の復活祝いと言う事で宴会をしていたのだから。

 

つまりは酒に酔って眠り込んでしまったか。酒に強くない体質の持ち主であるとはいえ、大事な宴会の最中に眠ってしまうとはなんとも情けない。

 

やっちまったなあ……、なんて思いながら腹に力を込めながら体を起こしていく。

 

酒酔いの名残でもあるのか頭がはっきりしない。脳が浮いてしまっているというのか、体内にあるはずなのに、体内にないような。そんな自分の体が、空気と同化してしまったかのような錯覚に陥る。

 

のっそりと。傍から見ればナマケモノが行動しているかのようなポワッとした動作で首を周囲に向けてみる。

 

すると、俺から見て右側に奇妙なものが整列しているのが視界に移ってくる。

 

「あれー…………?」

 

何で白蓮達が倒れているのだろうか。しかも三人とも同じ体勢で目を瞑り、規則的な呼吸をしているのだろうか。

 

まあ、そんなに考えなくても分かることなのだが、要は彼女らも寝ているのだ。

 

しかし、彼女らが寝ているとしても、その部分で妙な点が1つだけある。

 

もちろんそれは、彼女らが一体なぜ同じ体勢で寝ているのかという事である。

 

偶然という可能性も捨てきれないが、あの宴会の中でこのように体勢を同じくして眠るなんてことは非常に考えにくいのだ。

 

だとすると、彼女らはどうしてこのような配置になってしまったのだろうか? というそんな疑問だけが、絶海に浮かぶ孤島のおようにポツリと残ってしまう。

 

何か大事なことを忘れてしまっているような、そんな不可解な可能性も浮かんでくる。

 

とりあえず、彼女らが起きないことには解決するであろう事も解決しない。

 

しばらく待ってみる。しばら~く待ってみる。

 

が、彼女らからは、一向に目を覚ます気配が見られない。

 

仕方がない。この妙に浮かんでいるような気持ち悪い感覚をどうにかしようか。

 

相思いながら、俺は水の入ったコップを創造し、中に大粒の氷を1つ浮かびあがらせる。

 

たかが水、されど水である。

 

母なる海……とはまた違うが、命を存続させるには必要不可欠な物質であり、温度を変えることによって精神的に安定させたり、爽快感を得られる重要な液体である。

 

温度を高めた湯ならば精神的安定を。温度を下げた冷水としてならば、爽快感を体に与えてくれる。

 

溶媒として最強という点は置いておいて、だ。

 

と、ただの水についてこんな余計なことを考えながら口に入れていく。

 

「んあ……?」

 

水を飲んでいるうちに、妙なことに気がついた。

 

やけに方のあたりがスースーするのだ。こう、在るべきものが無いような。そんな感覚がしてくる。

 

いやにその感覚が気持ち悪いものだから、俺はコップを横に鎮座している卓袱台の上に置き、肩の服を掴んで引っ張り上げようとする。

 

「あれ?」

 

しかし、服を掴もうとしたその手は服ではなく、肌に直接触れてしまったのだ。

 

その異変に俺は視線を向け、袖の部分を引っ張りながら、今自分の服がどうなっているのかを見てやる。

 

「破れてんじゃあ掴めないわな…………」

 

何でこんなことになってんのよ……、と服を直しながら疑問が沸き起こり、少し宴会での行動を思い起こしてみる。

 

だがしかし

 

「服引っ掛けたわけでもないのになあ……。何で破れているんだろう?」

 

何かもっと大事なことを忘れているような、そんな気がしてくるのだ。

 

しかしその忘れている部分は、俺の精神を害するような、そんな危険性を孕んでいる。思い起こさなければならないという考えと同時に、またそういった自身に対する警告も浮かび上がってくるの。

 

とはいっても、その抜け穴のように欠落している何か大事なモノは、いっくら考えても一向に蘇る気配は無い。

 

最も、領域で守られている俺が忘れるくらいなのだから、大事なモノというのは俺の思い過ごしであって、実際はもっと単純なものなのかもしれない。

 

まあ、それだったら良いなあ。

 

そんな事を思いながら、再び水を口に含もうとすると

 

「ん…………んああ……」

 

右隣から女性の声が聞こえてくる。

 

俺はその声に導かれるように、首を向けてみると、三人の中で一番俺に近い側。すなわち白蓮が体をモゾモゾ動かして覚醒しようとしていた。

 

寝起きの際に発する声。

 

その声は人によって様々な違いというものがあるが、俺は素直に思った。

 

男を惑わす魔性の声であると。

 

創造の中でしかないが、恐らくこの声を持つ白蓮が耳元で囁いてくるのならば、どんな男でも背筋を震わせ、靡いてしまうであろう。

 

そんな声である。

 

「…………あら、命蓮?」

 

目を薄く開けた白蓮が、こちらを見ながらそう言ってくる。

 

命蓮だって? 俺を命蓮だと思っているのか? ……いやまあ、こちらを見ながらそう言っているのだから、俺の事を命蓮と勘違いしているのだろう。

 

さすがに2升の酒を飲むという事は、大魔法使いである白蓮の体にも多少なりとも負担を掛けてしまっているようだ。

 

とはいっても、さすがに魔法使い。俺が領域無しで飲んだらポックリ逝ってしまうであろう量を飲んでもこの程度で済んでいるのだ。

 

如何に人間から魔法使いへ昇華した存在が強化されるかを改めて確認する。

 

「白蓮さん。俺は命蓮さんではありませんよ?」

 

そういうと、白蓮は横たわっている状態から、体に力を込めて起き上がろうとする。

 

「よっこいしょ…………」

 

なんとも年寄りくさい事を発しながら。

 

起き上がる際に、装束を今にも破らんと自己主張している胸が邪魔になったと思ったのか、左手を胸の下に差し込み支えていく。

 

もちろんそんな事をすればどうなる事か。子供でも分かることである。

 

つまりは、白蓮の腕によって形を変えた胸が、横に広がり、装束を歪ませる。

 

寝ぼけ、無意識のうちでの行為であろうが、男の前でそういったことをするのはあんまりよろしいとはいえないと思う。

 

とはいっても、その弱みに付け込んでガン見している俺も人の事を言えたものではないが。

 

だが、幸いなことに白蓮はこちらの視線に気づく様子はなく、置きあがったらすぐに首をフルフルと横に振って頭を覚醒させようとしている。

 

「命蓮ではないのですか……?」

 

それでも寝惚けが治らないようだ……明らかに飲み過ぎなのであろう。

 

仕方がないので、俺が飲んだのと全く同じ冷水を白蓮に渡す。

 

「ですから違いますって……ほら、これでも飲んで目を覚ましてください」

 

目の前に出されたコップと、俺の顔を交互に見る白蓮は、コクリコクリと小さく数回頷いてから、コップを受け取る。

 

「んく……んく……」

 

ゆっくりと、味わうように白蓮は水を喉に通していく。

 

時折水の冷たさに目を瞬かせながら、渡された水を飲み干していく。

 

俺も白蓮飲みっぷりに促されたのか、自然と手に持つコップを唇に当て、残りの水を喉にくぐらせていく。

 

ボリボリボリボリ。

 

なんか硬い音がする……。何か固体を歯で噛み砕いているような、そんな鈍い音がする。もちろんこの音は俺ではない。もしやと思って白蓮の方を見てみると、俺の予想通りの事をしてくれていた。

 

「もが……甘くておいひいでふね……」

 

口いっぱいに氷を含ませた白蓮が、頬を時折膨らませながらガリガリと噛み砕いているのだ。味もなんも無いのに甘くて美味しいとはこれいかに。

 

と、しょうもない疑問を持ちながら、まーだ寝ぼけとるんかこの尼公は、と思ってしまう。

 

短い間しか接していない俺ではあるが、其れでも酒を飲んでいる時と飲んでいない時の差ぐらいは理解できるつもりである。

 

「御代りください命蓮」

 

と、氷を噛み砕き嚥下し終わった白蓮が、、コップをずずいと出してこちらに補充せよと所望してくる。

 

「はいわかりました……。それと、私は命蓮ではありません。耕也です」

 

まあ、寝ぼけと酔いがあるうちは、いくら訂正しても無駄だろうという諦めと同時に、白蓮が如何に弟を思っていたかをさわりの部分ではあるが、認識する。

 

白蓮の魔法使いになる切っ掛けを作った人。

 

俺と命蓮が似ている訳はないだろうし、彼女から似ているという言葉を聞いたわけでもない。

 

男であるという理由が一番高いのであろう。

 

「命蓮……? 私は妖怪と人をですね。もっと平等な――――っ!? ぶふぅ!!」

 

命蓮と勘違いし、自分の理想を話そうとしていた白蓮が、一瞬で目を大きく見開き、水っを吹き出した。

 

そしてそれはどういうわけか、水の行先は俺の方へ一直線に進んで来る。

 

もちろん、白蓮よりはマシとはいえ、起きてそう時間が経っていない俺が避けられるなんてことは、当然あるわけがなく。

 

それよりも、脳が完全に覚醒していたとしても、この距離では避けられなかっただろう。

 

つまりは

 

「うおわっ!!」

 

びしょ濡れになるのだ。俺が。

 

 

 

 

 

 

 

 

「ごめんなさい耕也さん……」

 

そう言って白蓮が頭を下げてくる。勿論それは水を噴き出してしまい、俺にひっかけた事。

 

濡れた衣服は取りかえたし、顔も洗ったから特に問題は無いのだが。

 

「いえ、大丈夫ですよ白蓮さん」

 

と、白蓮に手を振りながら言う。

 

俺が洗っていた間に、白蓮はムラサと一輪を起こしていたようで、白蓮の斜め後ろに正座していた。

 

すると、俺が特に気にしていないと言う事を理解したのか、ホッと息を吐いた白蓮が口を開く。

 

「耕也さん、一体何故私達は寝ていたのでしょうか……?」

 

と、言ってくる。

 

何とも可笑しなことを言う。俺達全員酒に酔って寝ていたのではないか? と、俺は咄嗟にそう考えてしまい、口に出してしまう。

 

「いや、単に酔いつぶれてしまっただけではないのですか?」

 

と。

 

だが、その言葉はすぐさま訂正せざるを得ない事になった。

 

俺が言葉を発してすぐに、村紗が反論してきたからだ。

 

「耕也さん、違いますよ?」

 

「え? あれ? 寝てしまっていたのではないのですか?」

 

と、率直に疑問を彼女に向ける。

 

いや、自分でも分かっているのだ。あの状況がおかしかった事くらい。そして、何か大切な事を忘れてしまっているという様な感覚と同時に、その忘れていた事を思い出してはいけないと警告しているかのようにも感じる。

 

忘れてしまっている事が、大したことではないと片づけてしまった自分がいたが、それは大きな間違いなのではないかと今更ながら考え始める。

 

ゆっくりと自分の中の知識を探っていく。

 

ああそうだ。確か忘れると言う事は、同時に防衛的な機能としても認識されていたはず。精神的に害、苦痛を及ぼすであろうと判断したがゆえに、脳が無意識的にそれらを意識から排除している。

 

確かアンナ・フロイトの防衛機制の中で抑圧に分類されるモノだったはず。

 

たしかそんな事だったような気がする。合っているかどうかは分からないけれども。

 

もし、この忘れているような感覚というモノが、その防衛機制によるモノだとしたら、一体この宴会の中でどれほどの事件があったのか。

 

そんな事を思っていると、俺の返答に村紗が続けて返答してくる。

 

「耕也さん、覚えてないのですか? 眼の前で突然聖が倒れたじゃないですか。あの場にいた全員が覚えているはずなのですが……2升飲んだ白蓮は別としましても」

 

と、飲み過ぎだと言う事を警告するかのように言ってくる。

 

白蓮も、村紗の言いたい事が分かったのか、顔を少々赤くしながら俯き

 

「思いだしました……ごめんなさい」

 

如何にも恥ずかしそうな素振りを見せながら謝ってくる。

 

いや、確かに酒の席でしでかした事ってのは非常に恥ずかしい事もあるけれども、白蓮がした事は飲みすぎってだけでそんな顔を赤くしてまで謝る必要はないと思う。

 

とはいっても、これが白蓮の性分なのだろう。だから仕方ないと言うべきか。

 

が、白蓮はすぐに気を取り直し、こちらに話しかけてくる。

 

「耕也さん、そうです思い出しました。酒を飲んでいた際にやられたのであっさりと眠ってしてしまったのですが、意識を落す際に、微量、本当に極微量なのですが、鋭い妖力を感じました。大妖怪水準のものです」

 

という白蓮の言葉に、一輪も賛同してくる。

 

「そうです耕也さん、私もそれを感じました。覚えてませんか? 私達が卓袱台を囲って宴会をしていた時、突然白蓮が気を失った事を」

 

その瞬間、彼女の言葉が俺の耳へと妙に早く吸いこまれていった気がした。

 

何と言うべきだろうか? 紙に水が染み込むようにスッと入って行った気がする。

 

さらには、村紗の言葉が時間が経つごとに言葉という音の情報から、記憶のピースというモノに変化し、当てはまって行く気がする。

 

段々と。段々と思いださせていく。

 

ドロリドロリと粘性を持った液体が、型にはめられ整形されていくようにあやふやな記憶が形をなしてくる。

 

部分的な記憶喪失という濃霧の中、風が吹き始め、霧が晴れて行くように。

 

そうだ、確かあの時白蓮が突っ伏して、皆気絶して……俺が寝かせたはず。

 

ええとそれから……紫色の布を見てから――――――っ!?

 

その瞬間、全ての事を思い出した。

 

あの後紫と二人っきりで酒を飲み、紫が理性を失って俺を食った事も。

 

全部思いだしたのだ。

 

今まで味わったことのない恐怖。肉を歯で食いちぎられ、眼の前で咀嚼嚥下されていく異常事態。

 

妖怪と人間の意識、倫理の差を思い知った瞬間。どんなに歩み寄ったとしても、存在は根本から違うのだという事を思い知ったあの状況。

 

骨を噛み砕かれ、筋繊維を丸ごと持って行かれる喪失感。大切な人に命を啜られるという惨めな気持ち。

 

初めて味わった痛み。二度と味わいたくないあの痛み。

 

あの短い時間にどれほど神経が鑢に掛けられ、摩耗したか。

 

そんな事を思った瞬間に、より一層クリアな映像が頭の中いっぱいに広がってくる。

 

「んう―――っ!」

 

映像が頭を駆け巡った瞬間、一気に胃が収縮し、吐き気となって俺を襲ってくる。

 

その吐き気は、今までのどんな状況下における吐き気と比べても、圧倒的な強さを持っており。

 

一瞬にして胃液が喉を這いあがってくるが、口に手をやり食道を喉に力を込めてやる事によって、無理矢理閉じてなんとかやり過ごす。

 

我慢したと同時に涙腺が緩み、涙がボロボロ出てきてしまう。

 

「耕也さん、大丈夫ですか!?」

 

俺がえずいてしまった事を白蓮が見て、背中をさすってくれる。

 

「……んく…………ありがとうございます白蓮さん」

 

いくらか強めに摩ってくれたおかげか、ほんの少しではあるがマシになった。

 

しかし、それでもあの光景が消える気配は無い。むしろ、認識した瞬間から強く鮮明になる一方である。

 

「どうやら酔いがまだ残っていたようです……」

 

と、何とか言い訳する。

 

とはいっても、言い訳した所でこの吐き気が収まるわけでもなく。

 

とにかく俺はその吐き気を紛らわそうと、水を飲み続ける。

 

食道の途中まで胃液が昇ってきたせいか、胸がムカムカするのを抑えるために、ひたすら水を飲み続ける。

 

涙が未だに滲み出てくるのを感じながら、白蓮の摩りと飲水でなんとかこの吐き気を忘れようとしている。

 

すると、白蓮が唐突に言い始めた

 

「とはいっても、このまま宴会をするという訳にもいきませんし、私達を眠らせた犯人も見当がつきませんし……」

 

そう、呟くように。

 

実際のところ、俺が全ての訳を知っているのだが、いかんせんソレを話すわけにはいかないだろう。

 

話せばどう考えても大騒ぎになるし、白蓮の思想から考えても話しづらい。おまけに八雲紫という大妖怪なのだから、その影響も大きいと予想できる。

 

「そうですね……どうしますか? 宴会はまた日を改めて行うというのはいかがでしょう?」

 

えずきそうになるのを我慢しながら、俺は白蓮に提案してみる。

 

俺が思うに、これから宴会を再開したとしても少々気まずいだけだろうし、興がのらないのはお互いに感じている事だろう。

 

だからこそこの提案をした。そして恐らく

 

「ええ、そうですね。宴会はまた後日という事にしましょうか……」

 

と、白蓮が返してくる。

 

そこで、白蓮の呟きに、村紗が賛同してくる。

 

「そうですね耕也さん、日を改めましょう。白蓮、今日は私達の家に泊るというのはどう? また後日耕也さんに送ってもらえば良いし……」

 

そう言うと、白蓮は村紗に向かってコクリと頷き、ついでに一輪も賛同するように頷く。

 

「では、私が送りを後日いたします。今日はすみませんでした。大事な宴会だというのにも拘らず……」

 

勿論、俺に責任があるかと言えば、当然発生している。紫との事件は俺の体質が原因でもあるのだから。

 

だが、ソレを此処で言う訳にはいかないから、主催者としての責任にすり替えて彼女らに謝罪する。

 

主催者として宴会を円滑に進行し、かつ何の障害も無く無事に終わらせるという事ができなかったという意味で謝罪をする。

 

そして同時に、彼女らが俺の思った通りに捉えてくれて、受け入れてくれる事を望みながら。勿論、心の中では二つの意味で謝罪しているのは言うまでも無い。

 

「大丈夫ですよ耕也さん。また時間があった時に皆でしましょう。今度は私も何か持って行きますので」

 

彼女は本当に俺の事を微塵も疑わず、俺の意思を汲んでくれた。

 

勿論、彼女らを巻き込んでしまった上に、正直に自分たちの身に起こった事を話せない事への罪悪感はもちろんあるが、今はこうすることしかできない。

 

ソレを思うと、何ともやるせない気持ちになるが、こればっかりは仕方が無い。許してほしい。

 

「ありがとうございます白蓮さん。今度私ももっと喜んでいただけるよう細心の注意を払いますので……」

 

「はい、楽しみにしております。では……」

 

そう言って白蓮達は自分たちの家へと戻って行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

再び静寂が訪れた。

 

白蓮達のいないこの空間。一人だけの空間。

 

何時もならば一人でのんびりとできる心地良い空間であり、空気でもあるのだが、それが今回ばかりは違う。

 

精神的にも宜しくない空間になり下がってしまっているのだ。今更ながら、白蓮達を帰すのではなかったと思ってしまう。あの後無理にでも宴会を続けていればよかったのではないだろうかと思ってしまうのだ。

 

それほどまでに、あの時起こった事が俺の心を蝕んでいるのを把握させられる。

 

白蓮達がいたときよりも一層意識させられ、考えさせられてしまう。

 

紫のあの鋭利な歯と、鋭利な爪が肌に食い込み、細胞を、筋繊維を抉っていく様を。感触を。

 

嫌でも考えさせられるのだ。思い出させられるのだ。思い出したくないのにも拘らず鮮明に、常に。

 

「くそっ…………」

 

寒くも無いのにも拘らず身体が震えてきてしまう。

 

まるで自分が冷水に浸されているかのように、身体から体温が奪われていくかのような。そんな感触が今俺を襲っているのだ。

 

そして同時に胃がまたもやむかむかしてくる。

 

「うっぷ…………」

 

軽くえずいてしまう。

 

どうやっても取れないこの吐き気は、まるで思いだしてしまったことへの罰のような気がしてきてしまう。

 

せっかく脳が防衛反応として忘れてしまおうと努力していたのにも拘らず、安易な好奇心によって無理矢理思い出させてしまったのだ。

 

その代償、罰なのだろう。

 

血塗れの指を丹念にしゃぶり、見せつけるかのように飲み込んでいく紫。

 

俺の絶叫をよそに、血まみれの顔を恍惚とした笑みで歪ませて肉を貪っていく紫。

 

そして、激痛で意識が朦朧としている俺に肉と血の混ざった口内を見せ――――――

 

「――――――――っ!!」

 

俺はその瞬間弾かれるように立ち上がり、台所のシンクへ走り込む。

 

「っげえ!!…………がはっ! ……うえぇっ」

 

胃が一気に収縮し、先ほどよりも更に強烈な吐き気が襲い、俺はシンクへと戻してしまう。

 

先ほど飲んだ水と胃液の混合物がシンクへとぶちまけられる。

 

しかし、それでも猛烈な吐き気は収まる所を知らない。

 

「うっく……うえっ……」

 

胃の中に吐くモノが無くなってしまったため、胃酸がこみ上げてくる。

 

どんなに抑えようとも、食道をこじ開けて胃酸が昇ってくる。もちろん、胃酸は強酸性。

 

「ぐっぐく……」

 

喉が胃酸で焼かれ、激痛が走る。

 

タンパク質の分解される際に出る異臭、胃液特有の悪臭が鼻を刺激し、更に吐き出したくなる。

 

「くっそ……っ!」

 

このあまりの気持ち悪さに、喉を掻き毟りたくなってしまいたくなる。が、そこをこらえ、何とか唾を飲み込んでやり過ごす。

 

この息詰まる様な感覚が酷く俺の心を表しているようで、思わず助けてくれと叫びたくなる。

 

叫びたくなる……が、叫んだ所で誰も助けてくれはしない。

 

だめだ、どうしても怖い。紫が怖い。

 

水で口をすすぎ、吐き出しながら何とも情けない事を思ってしまう。

 

紫が怖いのだ。大切な人である紫の事が、今では何よりも怖い存在に思えてしまうのだ。

 

鬼よりも、人間に裏切られた時よりも、幽香と闘った時よりも、過去に味わったどんな恐怖よりも上を行くのだ。

 

あんな、あんな食われ方をしたら誰だって……。

 

「うあああああああ! こんちくしょうっ!!」

 

あまりにも本来の自分とはかけ離れてしまっている心の凹みに、嫌気がさし、卓袱台を蹴り飛ばす。

 

内部領域に守られた足によって、卓袱台は軽く宙を舞い、載せていた食器などを周辺にばらまく。ばらまかれた食器は、周辺の家具にぶち当たり、容易くその身から破片を散らしていく。

 

木が折れる乾いた音。陶器が粉々に砕け散る甲高い音が鼓膜を激しく叩く。

 

「くそっ…………何てざまだ……」

 

感情を行動に移したおかげか、少しだけ落ち着く事ができた。が、それでもまだ恐怖は収まらない。そして恐怖による吐き気も。

 

机を蹴り飛ばしたためによる感情の落ち込みか、それとも恐怖の増大による足の震えが原因か。

 

どちらからともいえるこの脱力感に、俺はそのまま従ってその場に座り込んでしまう。

 

そして、自分の身体を掻き抱くようにして両手を回し、肩を強く撫でつける。

 

領域が修復してくれたというのは分かってる。分かっているはずなのに、自分の肩が存在しているのかを確かめてしまう。

 

そう、内部領域が現時点で展開されているのに、不安で仕方が無い。今でも襲われているような、そんな感覚に陥ってしまうのだ。

 

この静寂、無音である状況で。これらが恐怖を再燃、増幅させる。極限にまで。

 

身体が次第にブルブルと震え、眼頭が熱くなり、涙がこぼれ始める。

 

「うああ……うう……ちくしょう…………怖い……」

 

愛しいはずなのに怖い。どうしても怖い。あの強烈な、初めての捕食がどうしても怖くなってしまう。

 

これからどう接していけばいいのだろう。どうやったら関係を元通りに修復できるのだろう。

 

もう手遅れなのか? 高次元体を狙ってまた俺を捕食しに来るのか? 紫がまた俺を捕食しに来るのか?

 

そんなネガティブな事を考えてしまう。

 

どうしても拭えない恐怖を持つ自分への怒りと、その恐怖に苛まれる自分が何とも情けなく感じ、拳を握りしめようとする。

 

が、拳に力が全く入らない。いや、生活支援でやろうと思えばできるのであろうが、素の力が入らない。まるで今の俺の無力感を表しているかのように、握力が出ない。

 

ただただあふれ出る涙を袖で拭き、これからどう紫と接していけばいいのだろうか? とそんな事を考えていくだけである。

 

と、一瞬ではあるがこの思考の中で、どす黒く、そして何よりも冷たい何かが身体を駆け巡っていくのを感じた。

 

「あ……ああ…………あああ……」

 

そこで考えついてはいけない事を考えついてしまった。

 

「いや……そんな事…………あり得るわけが……」

 

口では否定の言葉を言っているが、すでに頭の中ではそれが確信に近いモノを得ていたのだ。

 

最早口で否定の言葉を繰り返しているだけでは、全く解決に至らないほどの推測。

 

それは

 

「まさか……藍や幽香も…………?」

 

俺の身体を狙っている者の増加である。

 

紫、幽香、藍。

 

この三人の中でも最も強い紫が、理性を吹き飛ばし、俺の肉を食らうほど。それほど俺の身体は彼女ら妖怪にとっては極上の食材に見えるという事の他ならない。事実、俺が戦ってきた鬼、亀の妖怪にも俺の肉が美味そうだと言われたのだ。どんな人間よりも。

 

という事は、紫よりも総合的な面で劣る藍、幽香は…………

 

「ああああああ……う、うああああああああ……」

 

俺の肉を食いたいと思っているのではないだろうか?

 

そんな事を思ってしまったのだ。

 

今まで人間と同じように接してきたが、彼女らも妖怪なのだ。あり得ない話ではない。

 

もし、もしだ。もし彼女らが俺の家に来て肉を差し出せと言ってきたらどうすればいいのだろう?

 

あの狂気じみた恍惚な笑みを浮かべながら、肉を貪っていくのだろうか?

 

確かに妖怪と人間の間には大きな障壁が存在する。

 

覆せるものではない。存在からして違うのだ。生い立ちも、構成素材も、感情も、倫理も全部。

 

愛しいという感情を上回り、恐怖という文字が頭を埋め尽くしていく。ドロドロと血が溢れていくように。そう、抉られた肩からあふれ出る血のように。

 

「でも、でもあれだ……俺には領域もある……何とか話し合いに……でも……うあああああああああああああああああ!! くそっ! くそっ!! ……うう……ちくしょう……」

 

話し合いで何とかできるならこんな事は起こりはしない。

 

ただただ自分の体質に振りまわされている情けなさに対する怒りと、どうにも変えられそうにないこの絶望感。

 

その中でほんの少しだけ、話し合いで解決してみたいという願望が複雑に絡み合い――――――

 

涙へと変換されていくのみであった。

 

 

 

 

 

 

 


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