食戟のトニオ・トラサルディー Sesame's Treet (ソーマXジョジョ) 作:ヨマザル
「『4つの仕事』……それは一体どう言うモノですか?」
涼子がたずねた。
「フフフフ……今からそれを説明しまショウ……グレートな結果を出してくださいね」
トニオは一本指を立てた。
「まず一つ目は……」
「タクミ君ッ、気を付けてよ」
涼子は、すっかり心配になって声をかけた。
「ハハハハハハッ! 心配無用っ」
高い梯子にのったタクミが自信たっぷりに言った。
タクミは地上にいる涼子からロープを受け取ると、建物の壁高くに取り付けられた金具に通していく。
次に、通したロープを輪にして、縛り付ける。そのロープには、すでに大きなシェードがしっかりと縛り付けられていた。
トニオはシェードの端を引っ張って、ピンと広げた。涼子が反対側のシェードを引っ張る。二人は協力して両端のシェードをピンとはり、あらかじめ立てていたポールの上にひっかけた。
そこへタクミが梯子を持ってやってきた。再び梯子に登り、ポールに張り渡した綱にシェードを結びつけていく。
「ほらっ! ちゃんとできただろッ」
タクミは台の上で胸を張り、あやうくバランスを崩しかけた。
「ほら、足元に気を付けてよッ」
「ハハハハッ、もちろん気を付けているさ」
まるで子供のようにはしゃぎながら、何でもなかったかのようにタクミは作業を続けた。その様子を少し離れたところから見て、涼子は苦笑した。
その言動、行動が、まるでワチャワチャと走り回る小学生のようなのだ。一つ一つが危なっかしい……でも憎めない。
そんなタクミを見ていると、タクミの弟のイサミが兄の後ろをずっとついて回る理由が、なんとなくわかるような気がした。ほっておけないのだ。
そしてついに、シェードが完成した。
「フム……中々いいですネ」
トニオが言った。
「ハハハっ、やりましたねッ」
「……素敵ね……」
三人は午前中いっぱいの作業結果を眺め、満足そうに言った。
レストランの裏手に広がる美しい庭に、いまや、大きなシェードが風に翻っていた。
庭園は日本の秋の山河を写し取ったような景観にしつらえられている。秋晴れの青空のもと、目の前の芝生は青々と広がり、奥に広がる池のなかでは、赤、金、白の錦鯉が数匹たわむれていた。
しかも青い芝生の上に、まるで炎のように紅く、紅葉が舞い落ちていく……
「あら、大体終わってきたのね……良くやったわ」
三人の背後から声が聞こえた。
振り返るとそこには、黒髪の女性が大きな紙袋を抱えて立っていた。
「みんなお疲れ様……ハイっ! マカナイがわりの、サンドイッチよ」
そのゴージャスな女性が、紙袋からサンドイッチを取り出し、振って見せた。
「ヴェルジーナ……」
振り返ったトニオの顔が、花が開くような笑みに包まれた。
「早かったね?」
「フフフ……急いできたわ。期待の新人君たちが、見たかったからね」
ヴェルジーナはトニオの腕をそっと抱えた。
「あぁ、紹介が遅れてしまいましタ……彼女はヴェルジーナ、私の家内デス……」
トニオは、タクミと涼子に、自分の妻、ヴェルジーナを紹介した。
「初めまして……ずいぶん若いのね……驚いたわ」
「奥様?」
「初めましてッ」
タクミと涼子は、ヴェルジーナにペコリと頭を下げようとした……
そのおでこがポンと抑えられる。
ヴェルジーナが二人の額に手をやり、お辞儀を止めさせたのだ。
「やめてね、ワタシ個人は、貴方たちの指導をするような人間じゃぁないのよ。ワタシは、貴方たちのお辞儀を受けるべきじゃあないわ」
ヴェルジーナはそう言うと、ニコッと茶目っ気タップリに笑った。そして二人の頭を下げる代わりに、ふたりをハグした。
「初めまして……ワタシはトニオの妻、ヴェルジーナ・トラサルディよ……♡」
「ハ……初めまして」
妖艶な美女にハグされたタクミは、ガチガチに緊張しながらそのハグを受けた。
かすかに柑橘系の香りが、ヴェルジーナから香ってくる。
そ、それに……まさか、まさか、この……背中にふれている『素晴らしい』感触は……
「フフフ……ガチガチね……『緊張』しなくていいのよ」
ヴェルジーナは、小首を傾げ、二人から離れた。その顔が、不意に真剣になり、タクミと涼子にペコリと頭を下げる。
「どうかトニオを助けてあげてね……お願いします」
「こ……こちらこそ」
タクミと涼子も、ペコリと頭を下げた。
いえいえこちらこそ……とヴェルジーナが頭をさらに下げる。
あわてて、タクミと涼子が、もっと頭を下げる。
お辞儀合戦が始まりそうになったとき、ポンとトニオが手を叩き、その流れを断ち切った。
「これで、互いに知り合えましたネ……良かった。それに、一つ目の仕事もわかりましたね」
「ええ……この庭に、『テラス席』を設営するのこと……これが一つ目の仕事なのですね」
涼子が答えた。
「そうです。そして二つ目の仕事は……」
トニオの指が、二本挙げられた。
レストランのスタッフとしての、下働きをお願いします……掃除と仕込み、ホール、まかない……それから私の作業補助をお願いしますよ」
「もちろんですッ!」
タクミが勢い込んで答えた。
スタジェール(実地研修)なのだから、レストランの仕事を手伝うのは、当たり前だ。目の前で、これほどの凄腕の料理人の仕事を間近に見れる、しかも一緒に仕事ができる。こんな機会を、タクミが見逃すわけはなかった。
わくわくするタクミの横で、涼子は緊張して顔をこわばらせている。
「頼みますよ。そして三つ目は……」
トニオは三本目の指を立てた。
「お弁当作りです……」
「お弁当?」
涼子が首をかしげた。
「このお店では、お弁当も販売しているのですか?」
「いえ、普段はお弁当を販売していませんよ……お弁当を販売するのは、この杜王町で近々トクベツなイベントがあるためです」
トニオが答えた。
「その特別なイベントは、来週一週間、開かれます。『杜王町祭り』です。そのイベントとして、トクベツに『日本料亭 にじむら』に、ウチの弁当を置いてもらうことにしたのです……そのお弁当作りを、任せます」
「いいのですか?」
「モチロンですよ……アナタ達の実力は、良くわかりましたからね……とはいえモチロン、お弁当はトラサルディ―の名前で出すのですから、出来栄えは私がチェックしますヨ。素敵なお弁当を生み出してくれることを、『信じて』いますが……」
「お任せくださいッ」
タクミは胸を張った。自信たっぷりだ。
一方、タクミほど自信の持てない涼子は、ばっちりとプレッシャーを感じ、ますますこわばった笑みとなっている……
「それで4ッ目は……」
トニオは楽しそうに笑った。
「これは、まだ教えられませんね……三つの仕事が軌道に乗ったら、話しましょう……それまで楽しみにしていてくだサイ」
「そうね、でもまずは、お昼にしましょう」
ヴェルジーナは一人一人にサンドイッチを配った。
「サンジェルマンで買って来たわ……BLTサンドよ」
「サンジェルマンのサンドイッチはおいしいですよ」
トニオが言った。
「さっそくお昼にしましょう」
その言葉に、皆サンドイッチを手に取り、かぶりつく。
ジュワッ
ほうっ……
サンドイッチを口にした涼子は、ニッコリした。
「確かに、肉厚のトマトにシャキシャキのレタス……それにこのベーコンも肉厚……おいしいわね」
「うむ、これは、絶品のサンドイッチだな」
タクミも涼子の意見に賛成した。
配られたサンドイッチは、何の変哲もないただのサンドイッチに見えた。
だが口にしたとたん、その濃厚なパンの味、トマトの適度な酸味、甘味、そしてわずかな清涼感……ベーコンのコク……この味は、ずば抜けていた。
「相変わらず、サンジェルマンさんは、素晴らしい仕事をしますねェ」
トニオも満足げにうなずいた。
「我々のお弁当も、これを超えるようにガンバリマショウッ」
「ハイっ!」
「…………フム……しかし、この値段設定でここまでの味が出せるとは……もはや芸術品といってもいいな、このサンドイッチは……バンズの味もいい……」
タクミは、サンドイッチをかじりつつ、さっそく弁当のイメージを作るため、考え込んでいた。
「この味を超えるには、心してかからないとな」
「まぁでも、物事を進めていくのは一歩一歩よ。もうこれで第一の仕事は、クリアできたのだもの、次の課題も頑張れば、きっと何とかなるわよ」
サンドイッチを食べきり、涼子がそう言うと、トニオが首をふった。
トニオは時間をかけてゆっくりと口に入ったサンドイッチを飲み込むと、首を振った理由の説明を始める。
「トンデモナイ……『テラス席』を使うには、まだまだやることが沢山ありますよ。まず、この後、支柱にペンキを塗らなければなりませんし、テーブルとイスのセッティング、雑草とり、毎日の掃除、飾り付け…………」
トニオは、やらなければならないことを、指折り数え上げた。
「……あすからこのスペースの責任者は、このヴェルジーナです。今後は彼女と相談しながら、セッティングを進めてください。昼の営業は、この作業が終わるまでは中止しますカラ……」
「そ、そうですか」
涼子が少し残念そうに言った。涼子の目には、ずいぶんしっかりしたテラス席に見えるのだが……
「フフフ、二人とも手伝ってね。頼りにしているわよ」
ヴェルジーナは、二人にウィンクをした。
「さて……そろそろ休憩を終わりにしましょうか」
ポンと再び手を叩き、トニオが嬉しそうに言った。ギュッと妻を抱き、すぐに放す。
「では今日は、そろそろ夜のための仕込みに入りますしょう…………まずは二人ともシャワーを浴びてください。厨房は完璧に清潔でなくてはナリマセン。今日の汚れをきれいに落としてから、仕事に入りましょう……」
「わかりましたッ!」
つまり激しい肉体労働の後、まったく休む間もなく厨房に入ると言うことだ。張り切って答えるタクミの横で、涼子は少し強ばった笑みを浮かべた。
ポンポンと涼子を慰めるように、ヴェルジーナがやさしく肩をたたいてくれた。
ザザァ──……
キュッ
ピチャッ♡
涼子はシャワーの栓を閉めた。
「ふぅ~~う……いいシャワーだったわ。運動の後のシャワーは、格別よねっ! ……すぐにまた仕事だけれども」
ゴシゴシ……
プルッ♡
ガチャッ
涼子が髪の毛をふきながらシャワー室を出ると、厨房では、タクミが一人で、あちこち歩き回っていた。タクミは、涼子より一足先にシャワーを浴び終えていたのだ。
タクミの、そのすっかり興奮した様子は、まるで『給食のカレーライスを目の前にした、小学生の男の子』の様だ。
涼子はクスッと笑った。
「やぁ……さっぱりしたかい?」
そんな涼子の感想など知らず、タクミは涼子を見つけ、さわやかな笑みを見せた。
「えぇ……おかげさまで、とっても気持ちよかったわ……トニオさんは?」
「トニオさんは、奥さんと二階にいるよ。なにか、話があるみたいだ。僕はその間に厨房を見させてもらっているんだけど……ここはスゴイよッ」
タクミは、興奮冷めやらず……といった様子で、厨房中をチェックをつづけている。
「こうしてみると、あらためて、トニオさんがものすごい料理人だって、わかるね……こんなにスゴイ料理人の下で修行できるなんて、僕たちは幸せ者だよッ」
タクミは、あちこちの食材や、機材、仕込んであった各種瓶詰などを指さしていく。そして、それがどんなものか、なぜ他のものと違うのか、涼子に向かって事細かく説明を始めた。
「どれも本当に一級の品ばかりだよ……とくに、食材の充実ぶりがスゴイッ! トニオさんは、いったいどうやってあんなにも『圧倒的』な素材を仕入れられるのだろう……」
「ちょっと待って、タクミ君」
涼子はタクミの長口上を遮った。
「……ゴメンね……でもトニオさんのことより、私には自分のことが気になるわ……」
「どういう事だい?」
タクミがけげんな顔をした。
「トニオさんみたいな、スゴイ料理人に、私は付いていけるかしら……スタジェールの課題を、クリアできるのかしら?」
「……」
不安げな涼子に、タクミは何と言おうか少し口ごもった。その後、ゆっくりとした口調で涼子に優しく話しかけた。
「……あの、君が『秋の選抜』で作った『炭火熟成納豆を使用した豆カレー』……、あれは、ものすごく美味しかったよ」
「あぁ……ありがと……フフフ、でもけっきょく予選落ちしちゃったけどね」
「でも、あれは絶品だったよ。だから……君も……あんな美味しいものを作れる君も、絶対に『スゴイ料理人』だよ……大丈夫、やれるさ」
「……そうね、そうだといいけど……まぁ、がんばるしかないもんね…………ところで、イタリア料理の仕込みって、どんなものなの?」
涼子は話題を変えた。
「ああ……でも、『僕の知っているやり方』が、トラサルディ―でも役にたつのかな……」
タクミは首をひねった。
タクミの実家は、トラットリア(大衆食堂)であり、タクミ自身も幼いころからシェフとして厨房に立ち続けていた。だから、イタリアの一般的な大衆料理の仕込みなら、お手の物だ。
だがトラサルディ―は、あきらかにリストランテ(高級店)だ。しかもトラサルディーには、メニューもない。
お出しする料理はシェフであるトニオが『客を観て』決めると言う、超変則型の高級店だ。
つまり何を料理するのか、トニオがお客様と対面するその時まで、わからないのだ。
何が料理になるのか、わからないまま、仕込みに入らなくてはならないという事だ。
相当な難問であった。
とはいえ、トラサルディ―は伝統的なイタリア料理を出す店だ。勢い、必ず仕込んでおかなければならない基本の材料はあるだろう。
そう考えて、タクミはイタリア料理の基本の材料を、改めて涼子に説明した。
「……つまり、ニンニクやトウガラシを漬け込んだオイル、トマトソースやドライトマト、バジルのソース、パンチェッタ(塩漬け肉)、それからソフリット(野菜のみじん切りをオリーブオイルで炒めたもの)ってとこ?」
涼子が確認した。
「おそらく、そうだと思う、それに必要ならパスタを仕込んだり、他にもドレッシングや、すね肉の煮込みをしたり……ってところかな……なんにせよ、店ごとにいろいろやり方が違うからね……今はトニオさんのやりかたに、従うだけさ……」
「そうなんだ……」
涼子は明らかに不安そうであった。
それは当然だろう。涼子は、物心ついたころからイタリア料理店で働いていたタクミとは違うのだ。正直に言えば、涼子のイタリア料理の経験は、遠月学園で学んだことだけだ。つまり、『本物』の場での、経験はない。
初めての実践の場で、しかもこの、『天使』のような料理人についていけるのだろうか……
「大丈夫さ。涼子ちゃんならイケるよ……自信を持つんだ」
タクミはもう一度、涼子を力づけた。
だがタクミだって口で言うほど自信があるわけではない。むしろ同じイタリアンを専門とする料理人だけに、トニオの腕前がどれほど素晴らしいのか、骨身にしみるほどわかっている。
しかも、タクミの専門はトスカーナの料理、トニオの専門はおそらくナポリの料理だ……身に沁み込んでいるトスカーナのやり方、味を捨てて、トニオの味に合わせることが出来るのか……合わせられなくては終わりだ。
タクミ自身も、はたから見て良くわかるほど、ガチガチに緊張していた。
ガチャリ……
ドアが開いた。
「フフフフ……いい顔ですね。では、始めましょうかッ!」
扉の前で、トニオが言った。トニオは、厨房に入る前に立ち止まり、コック帽子をまっすぐにかぶった。
次の瞬間、まるで『雷でうたれた』かのような、恐ろしいほどの緊張感が厨房を包んだ。
「涼子は、ソフリットを。まずは野菜のみじん切りを、このボールに5杯、作ってくださいッ!」
トニオが叫ぶ。先ほどの優しい口調とは言ってかわった、鋭い話し方だ。
「ハイっ」
「切るのは、これと、これと、これ……切り方は、こんな感じでッ」
トニオはいくつかの野菜を取り出すと、お手本にサラッと刻んで見せた。これまで見たことないほどの、超高速の包丁遣いだ。
「わかりましたッ!」
涼子は、必死にメッザルーナ(半月包丁)をつかい、野菜を切り始めた。
「…………」
トニオはその様子をしばらくじっと眺めていた。だがすぐに、首を振って、涼子に作業をやめさせた。
「涼子……違います。その細かさ、『野菜の断面』では、使えませんヨ」
そう言うと、トニオは涼子の切った野菜を、ビニール袋に詰めた。
「これは、お客様に出せません……しかしもったいないから、まかないの時に使いましょうか」
トニオは、涼子の手からメッザルーナを取り上げ、ゆっくり目に野菜を切って見せた。
「メッザルーナは、こう使うのです……すると、葉の大きさが均一になります……それに野菜の断面も、ほとんどつぶれません。もう一度……いえ、きちんと出来るまで、やってください」
「すみませんでしたッ!!」
涼子は歯を食いしばり、全身全霊をただの『野菜をみじん切りにすること』だけに集中しはじめた。
(スゴイな……)
その様子を横目で見ていたタクミは、そのあまりに繊細な仕事に、ひそかに圧倒されていた。 別に、涼子の仕事が悪かったわけではない。ただ、トニオの要求が高すぎるのだ。
(すごいッ! 下ごしらえの野菜の断面にまで、あそこまで気を配るのか……)
「じゃあ、涼子……頑張るのですよ」
「ハイッ!!!」
トニオは涼子から離れ、今度はタクミの元へとやってきた。
「タクミ……君にはドライトマトの仕込みを頼みます」
そういうと、トニオは箱いっぱいの完熟トマトを二箱、取り出した。
「……皮むきを頼みます……もちろんお湯も、火も禁止ですよ。金気が付くのもダメですから、包丁なども使わないでくださいネ」
涼子の時とは違い、それだけを伝えるとトニオはタクミに背を向け、パンチェッタのしこみを開始した。
「ハッ」
威勢よく答えながらも、タクミは冷や汗をかいた。
トマトの皮の向き方は、何通りもある。一番良く知られたやりかたは、湯につける事だ。湯につける事で、トマトの皮が割れ、驚くほど簡単に、綺麗に皮をむくことができる。だが、トマトを湯につければ、そのジュースがほんのチョッピリ湯に溶けて、味わいが落ちてしまう。
他にも、直接トマトの皮を火であぶる方法もある、少し火にあぶれば、トマトの皮は縮み、パリッと割れる。だが、トマトに火が入ってしまう。
包丁で直接皮をむいてしまえば、トマトに金気がつく……
となれば……
(くっ、やりきれるのかッ!)
タクミは箸を掴んだ。そしてトマトを掴み、箸で必死に皮をこすっていく。そう、百回もトマトの皮をこすると、まるで『アユの皮をむくように』自然にトマトの皮と、果肉が剥がれていくのだ。
それは、キウィの皮を包丁を使わずに剥くのと、まったく同じやり方だ。
「……そうです……力加減に気を付けてくださいね。細胞膜を不必要に壊さないように……」
背中越しにトニオが言った。
その背後では、涼子がまたしても野菜のみじん切りをやり直させられているようであった。
「わかりましたッ!」
タクミは必死に叫んだ。
必死に、だが繊細にトマトの皮をこすり続ける。
トマトの皮をまんべんなくこすり、皮をヘタに向かって剥いでいく。皮をすべてむき終わったら、最後にヘタを指でそっと取り除く。
「一つ終わりましたッ!」
トニオはくるりと振り向き、トマトをチェックする。黙ってうなずくと、近くの瓶から塩……と何かほかに色々ハーブが仕込まれたもの……を一つまみとった。その塩を、タクミの手のひらにそっと乗せる。
「トマト一個に対して、この量だけ塩を『完全に均等に』振ってください……その後の処置は、わかりますね……」
「ハイっ!」
タクミはうなずくと、平たいバットの上にトマトを置き、塩を持った手を高く持ち上げた。
そして手の甲を下にして、指のあいだから慎重に塩を振っていく。それは日本人の父に尋ねた、日本料理の『塩を均等に当てる』ための技法だ。
一つ振り終えると、トマトを乾燥の為の網に入れ、すぐに次のトマトをこすり始める。
(クッ、これはキツイ……やりきれるか? だがッ!)
タクミは、目をキラキラさせながらトマトの仕込みを続けた。
(面白いぞッ! 仕込みの段階から、ここまでの繊細な仕事が要求されるなんて)
三時間後……
仕込みを終えた時点で、二人とも完全にへばっていた。
タクミはパンパンに晴れ上がった両腕を氷水につけて、冷やしていた。
なんとか野菜のみじん切りでOKをもらった涼子は、ぐったりと流しに向かって突っ伏している。
二人とも時折首をコックリとさせていた。おそらく、あまりにも疲れてしまい、一瞬気を緩めたときに、眠りかけてしまうのだろう。
そんな二人を見て、トニオはニッコリと笑った。
「では……ワタシからの差し入れです……」
そういうと、トニオは柄杓を持った。
その柄杓で、瓶の中に寝かせた水をそっとすくい、ヤカンに汲みいれる。
そのヤカンに火をかけた。
そしてトニオは……地下の食糧庫に入っていくと、直ぐにコップ一杯のコーヒー豆をうやうやしく捧げ、持って帰ってきた。
そのコーヒー豆は、『小さな石のすり鉢』に入れた。それは、東南アジアで香辛料を潰すために使われているものだ。
トニオは、すりばちとセットの『石の小さなきね』を高く掲げ……一気に砕いたッ!
そして、全身の力を込めてグリグリと、すり鉢の底にたまったコーヒー豆を砕き、すりつぶす。その貌が、一瞬だけ、悪鬼のような、狂乱の表情に染まりッ……
また元の穏やかな表情に戻った
「ベネ(よし)……エスプレッソには、なるべく均一に、細かくひいた豆を使わなくてはなりませんからね」
トニオは、すり鉢の底にたまったコーヒーの粉の薫りを確認し、満足そうに言った。
その様子を、ボンヤリと見ていた涼子は、頭を悩ませていた。
(あれ? ……コーヒー豆って、あんな風に手でグリクリするだけで挽けたっけ?)
もちろん出来ない。だが、疲れきっていたこともあり、タクミと涼子は、その驚異的な所業をほとんど当たり前のこととして、受け入れていた。
それがいかに驚異的な事であっても、それが料理に関することならば、『トニオ』ならば、やってのけて当たり前……と言う気がしてしまうのだ。
シュッ
トニオは、沸騰したヤカンの火加減を調節すると、挽きたてのコーヒーをヤカンにかけた。
コーヒーを煮出し、しばし待つ。
コーヒーの官能的な薫りが、キッチンに拡がっていく…………
トニオはヤカンの火を止め、煮出したコーヒーを何やらはいった缶のなかに流し込み、濾す。
そして二人を起こし、トニオは、二人にエスプレッソの入った小さなカップを手渡した。
真っ黒な、ドロドロのコーヒーだ。
「二人とも、初めてなのに良く頑張っていますね……店を開けるまで、まだ30分残っていますから、これを飲んでもう少し休憩しなサイ」
「あっ……有難うございますっ」
厨房の流しに突っ伏していた涼子は、ピョンと跳ね起きた。さっきまであまりもの疲れに、ほとんど気絶していたようなものだったのだ。だが、さすがに研修生の身で、店のオーナーシェフにここまでされて、それをボーっと見ていたことに恥ずかしくなり、頬が染まる。
「いただきますッ……!?」
涼子はエスプレッソを一口すすり、そのあまりに濃厚な薫りにビクッと身を震わせた。
「元気の出るトクベツなエスプレッソです……これは数年前に、私が尊敬している『人生の大先輩』から、聞いたものを再現したものです。なんでも、大昔に彼の一族の一人が、イタリアの友人から学んだものだと……」
トニオが、ニコニコと言った。
「へぇ……そうなんですか」
タクミも、そのドロドロの超濃厚エスプレッソを受け取り、飲み干した。
親指サイズの小さなカップに、ほんの少しだけ淹れられた、超濃厚、激苦のエスプレッソだ。
二人は少し躊躇したのち、鼻をカップに近づけていく。
カップが近づくにつれ、芳醇な薫りが、口腔、鼻腔いっぱいに拡がっていく……
気がつくと二人はいつの間にかエスプレッソを飲み干していた。すると……不意に二人とも、まるで、心臓が爆裂するほどに、狂ったように、脈打ち始めた。血液が、いや、ありとあらゆる体液が、体のなかを高速で巡り始め…………
「……あぁぁ~~んんっ」
その薫りは、例えれば『
セクシーな、翻弄されたような気分になり、思わず熱いため息をついた。
「ウぉぉおおおおおお──―、僕は、ボクわぁぁぁッ!」
タクミはこれまで以上に空回った感じで、天井を見上げてこぶしを握り締めている。
その天井に見えているのは、彼が宿命のライバルとみなしているあの男の姿か、それとも食戟の場で納得できない敗北を喫したあの男か……それとも別の誰かであったのか……
疲れたときのコーヒーは、果たして効果てきめんであった。二人の目は爛々と輝き始め、さっきまでくすんでいた肌の色も、赤く染まり始めていた。
コーヒーを飲む前のぐったりとしていた二人は、もうどこにもいなかった。
「さて、厨房に戻りましょうか……そろそろお客が来るころです」
キラリと目を輝かせたトニオが、言った。
「……今日は、涼子さんがホールに、タクミ君は私の補助に入ってくだサイ」
「わかりましたッ!」
タクミと涼子は、張り切って大きく返事をした。
開店してから、5時間後……閉店間際……
「……ありがとうございました♡」
涼子が『最後の客』を見送っているとき、新たに二人組の客が顔を出した。
一人は『少しふっくらした』女性だ。その女性は涼子をじろっと眺め、全く気に食わない……と言うように涼子を無視した。
客とはいえ、失礼な態度だ。だが、彼女の連れは、さらに失礼で、ぶしつけであった。
「へぇ……トニオさんのところで、新たに従業員を雇ったのかい?」
その男は、ジロジロと涼子の顔を見て、少しあざけるような口調で言った。
「フン……ずいぶん若いみたいだけれど、トニオさんの料理の邪魔だけはしてくれるなよ」
その声を聴いたのか、トニオが調理場から顔を出した。
「……露伴さん…………」
トニオが満面の笑みを浮かべた。
「待っていましたよ……」
「ちょうどさっき、原稿を上げたところなんだ。……予約の時間に少し遅れて悪かったけれど、今日もよろしく頼むぜ」
その男、岸部露伴はとてつもなく偉そうに言うと、ドカッと席に着いた。