かしこ、と。
お付きの神官はため息をつきながらそう代筆の文を締めた。
――偽りは神の尊ぶところではないのですが……
そう手紙を封しながら恨めし気に仕える主に視線を向けても、盲しいた双眸を眼帯に隠した主は艶やかに顎に手を当てている。
手元の砂盆には何やら図形が描かれて、何かを構想している様子にも見える。
どうせ、そう言ったとしてもしれっと『世が滞らないための言葉の装飾は必要なのです』とか言ったりするのだ。
敬愛に値する、少し困った所のある主だ。
最近言いつけられるようになった、ゴブリン退治の依頼の一覧が収集された紙束をみやる。
ギルドの者から相談を受けた、ときた。
西方の大都市、水の街、その司法を預かる至高神の神殿の主にして、国王陛下の冒険者時代からの戦友。
陛下がこの街にみえらえる折には、領主と過ごす時間よりも長く、親しく過ごされる伝説に語られる剣の乙女、この街の実質的な第二の領主。
ゴブリン退治のあてを聞かれるなど、される訳もない。
主を良く知らぬ者であれば、そもそもゴブリン退治の依頼の相談など持ちかけることなぞ出来ず。
また、良く知る者であれば、なおさらゴブリン退治の依頼の相談など持ちかけることなど出来ない。
愛しの彼……いや、ちょっと違うのだろうが、多分似たようなものだろう。
その彼に手紙を送る口実探しの一環ではあるゴブリン退治の依頼の収集を命じられるようになって、それなりの期間が過ぎた。
ギルドにも幾人か顔見知りも出来て、ギルドの受付嬢とは私的にも飲んだりする仲である。
無論、この行方不明の女性に救いの手が差し伸べられるのであれば、差し伸べられないよりずっといい。
とはいえ、理解できてもちょっと納得がいかない、そういうことがある。
「では、ちょっと出してきますね」
とはいえ、従わぬ理由は特にない。
ため息一つ、神殿の蝋の印が押された手紙を持って出る。
今速達で出せば明後日、健脚の者の手に、いや、足に、かかれば場合によれば明日の夕方には相手の元に届くだろう。
「ええ、おねがいします」
そうして、言葉を背に受けて部屋を出た瞬間。
「……?」
ふと、宙を仰ぐ。
何事かの基点となった、そう感じたのだ。
地の底から氷竜の息吹のように吹きあがるような吹雪が風をはらんで頬を打つ。
雪の村落をゴブリンスレイヤーと共に駆ける。
吐く息は白く、荒い。
自然と口角が上がる。
心躍る、甘やかな時間だ。
全方位が危険、だが、横には彼が居る。
ゴブリンスレイヤーが武器を投じ、屋根によじ登ろうとしたゴブリンが長い断末魔を上げながら落ちる。
十字路で、敵を待つ。
大きく息を吐き、来る戦闘にそなえる。
雪影の中、騒がしく蠢くものがある。
「来ましたね」
「背中は、預ける」
「――っ! はいっ!」
その言葉に、体の奥底からふつふつと熱が湧き立つ。
錫杖の先端を抜くと、そこから簡素な穂先が現れる。
かつて見た、地母神ではないが、旅をする神官の護身具としての仕込み槍だ。
錫杖の芯にも鋼を入れて槍として使うにも申し分ない強度になっている。
錫杖の先端は引っ掛かり、絡まりやすく、また蛮用に用いるには強度が足りない。
この改造は当然の帰結であった。
……頼んだ職人の親方にはものすごく微妙な顔をされたが。
長い木の杖と言うものは実戦で使うと意外と折れやすい。それに耐えようとすれば男性の腕の様な太さが必要になるが、さすがにそれを持ち歩く訳にはいかない。
だが、鋼の芯があれば、思うままに振るうことができる。
「シッ!」
「GA!」
鋭い呼気と共に、ゴブリンの首を槍の穂先で斬る。
手元、肩口、足回り、幅広く狙いながらも隙を出さないことを旨とした、コンパクトな動きだ。
鍬の打ち、大鎌の振るい、農作業は様々な技を教えてくれる。
「あ……!」
ゴブリンスレイヤーの動きを感じて、くるりと体を入れ替える、そのついでに石突き側で足払いをしてゴブリンを転がす。
そのゴブリンを踏み殺しながら、ゴブリンスレイヤーは目に付くゴブリンをまた一太刀。
周囲は雪、貧しい寒村、武器によりさらけ出されたゴブリンの血や内臓。
血に塗れ、死に近づき、しかし、胸に充実感が満たされる。
彼と一緒にゴブリンを殺す。
それは、とてもとても幸せな事だった。
戦闘の後にはもちろん戦後処理がある。
治療の術を持つものとしては、むしろこちらの方が本番、といって良いだろう。
「皆さんにも、協力していただきます」
そう言って取り出したのは下半分が短冊状に切られ、色で塗り分けられた札、識別救急だ。
未来、戦場や災害の現場で用いられるようになったそれを手製で作ったものだ。
「症状に分けて重症であればあるほど書いてある数字を減らしてください、その人間から優先的に治療します、大まかな基準ですが……」
女神官の説明にふむふむと頷いて鉱人達も散っていく。
村に居るのは代替わりしたての薬師の娘。熟達の産婆なども医療技術者ではあるが、この村には居ないらしい。
となるとこの村は出来立てか地母神と縁の弱いところ、ということになる。薬師の娘がいる辺り後者なのであろう。
産婆はなにもお産の手伝いをする老婆、という訳でなく比較的広範に医療技術を習得した者でもあり、直截なことを言ってしまえば地母神の有する利権の一端でもある。
この神徳厚い世界において、産婆が地母神の神殿と無関係な事もなく彼女たちは地母神の傘下にある技能集団の色合いが濃い。
はるか未来では産婦人科の病院は須らく地母神の聖印を掲げているものであった。
今でも地母神と産婆達の関係は自分の知識とさして変わらないものであり、ゆえに産婆の居ない村や町というのは地母神の神殿とは縁遠い場合が多い。
技能者の派遣は神殿と懇ろな集落の方が優先されるのは当然のことだ。
場合によっては地母神側が産婆を引き上げさせるような、劣悪な酷使を強いたりすることもありえるが、産婆を迎えることができたような村がそんなことをするケースはほとんどない。
出生率と死亡率にかかわる技能者が抜けられた村の末路など知れている。
更には神殿の中では比較的温厚穏健な地母神の神殿とそこまで関係性が破綻した村へ行く医療技術者など殆どいない。
どこだって有能な人材は不足しており、わざわざ地方での情報に明るい地母神のブラックリストに乗っている場所に差し向けたりはしないからだ。
よって地母神の神殿との関係は将来的な人材の質ともかかわりのある重要なファクターであり、一番身近な窓口である産婆をおろそかな扱いをするところはほとんどない。
そんな有能な女性に無体を働いたりすると地母神側が人材引き上げをするまでもなく原因の人員が"事故"にあう。
また、妙齢の女性であれば、場合によっては村の男と夫婦になってくれるかもしれない、そんな人材なのだ。
産婆技能の取得と開拓村への派遣と土着は私の推し進めたゴブリン被害者の社会復帰の一つの柱として晩年まで機能してきた。
無論、内側からの働きかけのための人員でもあったが、私よし、被害者よし、開拓村よし、ゴブリンは滅ぶ、と四方得ばかりだ。
村の若衆としても"事故"が起こるのはやぶさかではない。
"事故"で一人ないし数人死ぬぐらいなら、はるか未来に至るまで各神殿のブラックリスト入りするよりマシだからだ。
となればこの村は鉱業等が主産業なのかもしれない。
かつては思い至らなかったことを思索しながらも、治療の手が止まることは無い。
かつての時よりは多めに持ってきた薬草や軟膏は村人たちの治療に足りるようだ。
術で多くの物を持ち歩くことができるようになったのは非常に助かる。
一通りは、助かるだろう、だが、それでも死者はもう出てしまっている。
慣れたことではある。
だが、悲しいことなのだ。
葬式は。
重苦しく、それでいて虚ろな空気が流れていた。
隣人、家族を埋葬すべく穴を掘る墓地はえしてそういうものだ。
すすり泣く人々が、それでも手を動かし、土を掘る音が、いかに小さなものであろうが骨身に刻まれるように響いてくる。
「ふぅ……」
鶴嘴を肩にかけた鉱人道士が一息をついて辺りを見回す。
墓穴掘り。
誰かがやらねばならず、治療にさして役に立たず、穴掘りが得意。
となると鉱人がやらねばならぬことであった。
森人は見張りで既に高い所に登って弓を構えている。
「お疲れ様です」
「おぉ……ま、の……」
すたすたと疲れを感じさせない様子で歩いてくる一党の最年少の少女はいつもの柔らかな笑みを凛とした気品に変えてそこにいた。
有能で、それでいて危なっかしい所のある娘っ子、などいない。
そこに居るのは祭祀を執り行うべく招かれた聖職者であった。
「いくつか、葬儀の儀式に使うものをいただいてきました」
一握りの穀物、死者の数だけの小さな地母神の聖印の記された布袋と蝋燭。それぐらい、一党の物資から出しても何の痛痒もないであろう。
「最期ですから、残される者も何かしてあげたいものですから」
「……そうじゃな」
さすがにこの状況で死化粧は望めない。
顔面の傷が酷い者は顔に布を巻かれ、嗚咽の漏れる人々の手によって掘られた穴へ収められていく。
「縁者の方が居るようであれば、手ずから渡してあげてください」
彼女から渡された穀物と蝋燭の入れられた布袋を、女神官へしきりに感謝の言葉を述べて死者の胸元に縁のある者たちが備えていく。
小さな村だ、家族が居なくとも友人ぐらいなら居る。
死者の胸元に、供物は供えられた。
飢えぬよう、穀物を、闇夜を照らし、暖を取る灯を。
それが彼らに絶えぬように、祈る。
しゃん、と錫杖の音が鳴る。神への一打ちだ。
「善なる神々よ、秩序に連なる神々よ、今日のこの日、守り、救うべく戦い散った勇士はその御許に向かうことでしょう」
しゃん、と錫杖の音が鳴る。送られる者への一打ちだ。
「神々よ、この魂、善也、この行い、善也、されば神々よ、その御手にて彼らを導き給え」
しゃん、と錫杖の音が鳴る。見送る者たちへの一打ちだ。
「神々よ、勇士に悠久の安寧を与えたまえ」
しゃらららら、と長く錫杖を鳴らし、膝をつき、胸元に手を付ける。
その様に、村人たちも倣う。
それを見て、鉱人も鉱人の作法で勇士を讃えその鎮魂を願った。
「見張りはやる、消耗しているはずだ、休め」
そう彼に言われて、半ば押し込まれるように疲れを癒すようにと温泉へと向かわされた。
「ふぅ……」
「いいものねー」
体を自然の湯船につかりながらも、手の届くところには慣れ親しんだ女神官の山刀と妖精弓手の弓矢がある。
入浴中の奇襲を警戒するのは基本だからだ。
「ねぇ」
「はい?」
するり、と妖精弓手の手が女神官をかき抱く。
突然の行動に、無防備にきょとんとした顔を向けてくる少女に森人はクスリと笑い、その頭に鼻を押し付ける。
戦い血に塗れた臭い、だが、それでも女の子の臭いでもある。
「貴方のお師匠様じゃないけど、森人なんだからそんな変わりはないでしょ」
いいこいいこ、とばかりに頭を撫でる。
凛とした、人々にささやかながらも心に救いをもたらす聖職者であったとしても、こうして抱きしめればやっぱりか弱い小さな女の子なのだ。
「……ありがとうございます」
常の様子のない、まるで溶けるように、母親に抱かれた幼子の様に安心して全てを委ねる様なその少女の顔だちに、森人は魅入りそうになり、ふと目をそらす。
何か、はまってはいけない穴に自分から踏み外してしまいたくなる何かがあった。
こんな子が、孤児院に預けられたのだ、"彼女の師匠"がただ理由もなく置き去りにしたりするような者でないとすれば、その別れはおそらく幸福なものではなかったのだろう。
包容力だとか、色気だとか、あればあるに越したことは無いのだろうが、それが無いから目の前の彼女を癒やすことができているのであれば、あの生意気な鉱人のからかいも気にならない。
そうして、二人は体の芯まで温まるまでそうしていた。