アイツの停学が明けた日の朝。
現れたアイツの姿に、教室の喧騒は嘘のように静まり、何処からともなく、悪意に満ちた視線ばかりが集まった。
『あ、あの、ヒッキー…。ヒッキーっ!!』
気丈にも、アイツが停学になってから1日たりとも学校を休まなかった結衣の呼び掛けにアイツは答えない。
相変わらず憎たらしい程に無関心な表情で、席へ着くなり机へ突っ伏して寝てしまう。
気付けば、あーしは何度も何度も酸素を吸い込んでいた。
吐く事さへ忘れ、吸い続けられた酸素がお腹へ溜まる。
そんなあーしの様子に気付く事もなく、教室の片隅を陣取っていたグループの1人が、小さくない声で悪意を発した。
『ほんとに来たよ…、レイプ魔。辞めちゃえば良かったのにさー』
その声に、結衣が目を見開く。
怒りを抑える事もなく、結衣はその声の主の元へ歩き出そうとするも、隼人により静止させられた。
『…相模さん。あんまり言ってやるなよ…。…っ、結局、ヒキタニが……っ』
ーーー全部悪いんだ。
隼人の口元が悔しげに強く歪む。
そんな事を隼人が言うと思っていなかったのか、教室中に居る誰もが驚くように隼人を見つめてた。
善人であり続ける彼の言葉とは思えない。
ただ、その言葉により、結衣へ向けられていた汚い視線が、全て敵意となってアイツへと向けられたのは確かだった。
.
…
……
………
……………
……………………
眼が覚めると、時計の針は昼過ぎを指していた。
平日の昼間にやる事があるわけでもないが、とりあえず身形を整えるべく浴室へと向かう。
シフトを減らしてもらってから、こんな朝をよく迎えるのだが、やはり何かをやっていないと落ち着かない性格なのか、何の予定も無く出かける事が多い。
ふと、昨夜の電話を思い出す。
ーー本当の理由を…。
『……それを聞いてどうするんだ?』
それは…。
『気にしなくていい。おまえはいつも通りにしておいてくれれば』
何だし、それ。
それじゃぁあーしは、ただアンタに利用されてろってこと?
……いや、違うか。
利用してくれてるんだ。
こんなあーしの事を、アイツは利用してくれている。
「…いいよ。それで。あーしで良ければ、いつでも利用して…」
思わず溢れた独り言は、浴槽に貯められたお湯に触れると優しく弾けた。
そっと、右足から浴槽へ入れると、心なしかいつもより温いお湯が身体を包む。
「あーしのせいだもん。全部全部。…少し優しくされたからって、絶対に勘違いしちゃダメ…」
結衣の事も、ヒキオの事も、全部の引き金はあーしの軽率な行動が原因だ。
たぶん、ソレをヒキオも知っている。
あーしの務めるキャバクラにヒキオが現れるなんて偶然、起きるわけがないんだ。
これはきっと、ヒキオが書いたシナリオによる必然。
あーしを利用して、過去を清算するつもりなんだ。
「……」
だから、その事に気が付いてしまえば、ヒキオはあーしから離れていく。
だって、察しが良い女は利用しにくいもんね。
それはキャバ嬢として男を騙すあーしにも分かる事。
「…っ!利用しろし…。もっと利用して…、離れていかないで…っ」
と、説に願うのは叶わぬ願い。
あの優しいヒキオの声が、もうあーしに届く事はない。
.
…
……
「…よう」
「……っ!?な、な、な!?」
お風呂から上がり、涙で赤くなった目元を隠す事も無く、バスタオル1枚を身体に巻きつけたあーしはリビングへと戻る……。
戻るとーーー
「な、なんで、ヒキオが居るの!?」
「…鍵空いてた。ピンポンしたけど返事ないから入れてもらった」
「〜〜っ」
「不用心な奴。あれだけ気を付けろって言ったのに」
いつもコイツは突然に現れる。
あーしの気持ちの隙間を縫うように。
そっと触れて、その暖かい声を聞かせてくれるんだ。
声にならない声を出しながら、あーしは優雅にソファーへ腰掛けるヒキオの頭を強めに叩いた。
「いてっ」
「バカ!出てけ恋泥棒!あーしの気持ちだけは置いていけし!!」
「何言ってんの?ていうか服着ろよ」
昨夜の電話を終えて尚、コイツがあーしに近づく理由は分からない。
そもそもなんであーしの家を知っているのか。
ただ、先ほどまで冷め切っていた心が暖かくなったのも確かだ。
浴室で泣いたばかりだと言うのに、なぜかまた涙が溢れ出てきてしまう。
ふと、気付けばあーしはフローリングに膝を付け、勢い良く頭を下げていた。
「…ごめんなさい」
「おま、半裸で土下座って…」
「全部あーしのせい…。あの時のこと、あれからの事も、全部全部あーしが悪いんだ。それなのに…、あーしは…」
壊れゆくヒキオの日常も、消えゆく奉仕部の関係も、見て見ぬ振りをしていたんだ。
そんな言葉を続けようと頭を上げるがーーー
「…ひ、ヒキオ?」
「む?コーヒーどこ?喉乾いちゃった」
ヒキオはソファーから姿を消し、キッチンへと向かっていた。
「ちょ、ちょっと!まじめな話をしてんだけど!!?」
「ああそう。おまえも飲む?」
「…う、うん。あ、砂糖なしな」
「……なんで偉そうなの?」
ーーーーで。
服を着たあーしと、平日だと言うのにラフなシャツとジーンズを履くヒキオは、テーブルを囲ってコーヒーをすする。
「ふぅ。やはりマッ缶には敵わぬか」
「…あの、ヒキオ?そんな事より…」
「ん。…全部あーしのせいって奴だろ?そんな事はどうでもいい」
「ど、どうでも…」
「言っておくけど、あの夜におまえと会ったのは本当に偶然だから」
「な!?」
思わずコーヒーをこぼしてしまう。
その真意こそ分からないが、ヒキオはやはり、何も考えていなさそうな表情でコーヒーを飲み続けた。
「う、嘘だし!だって、それなら…、ヒキオがあーしに優しくする理由がない!」
「…優しくしてないですけど」
「へ!?」
「…きみ、優しさのハードル低くない?そらストーカーに追われてるって言われれば助けにぐらい行くだろ」
「うぬぬっ…」
な、なんと…。
あれを優しさと呼ばずして何と呼ぶのだ。
コイツ…、優しさの化け物か?
普段から優しすぎるが故に、あの程度じゃ優しいとすら思えない、優しさの化け物なのか!?
「起因に興味は無い。俺は
「あの男?」
そう聞くと、ヒキオは黙って脚を組み直すのみで答えてはくれない。
教えてくれないのは、ヒキオなりにあーしへ教えない方が良いと判断したのだろう。
「…。ん、コーヒーご馳走さま。そろそろ帰るわ」
「え?か、帰る?何かあーしに用事があったわけじゃないの?」
「別に?なんか、昨夜の電話でおまえの様子がおかしかったから見に来ただけ」
「うっ、…それは」
あーしが勝手にナイーブになっていて…。
だって、ヒキオが何を考えているのか分からないから…。
…。
いや、何を考えているのかは分かるか。
ヒキオはいつも、他人の事ばかりを考えているんだ。
うん、今日だってーーー。
「…。あ、あーしの様子がおかしかったから、心配して来てくれたの?」
「…たまたまな。まじで。このへんでちょっと用事もあったし」
「…ふふ。あっそ…。ちなみにその用事ってなに?」
「不粋なことを聞くなよな」
少し慌ててソファーから立ち上がり、玄関へと向かうヒキオを追い掛ける。
そっと、その背中を抱きしめながら
「だ、大しゅき…、うっ…。だ!大好きぃぃー!!」
「むっ!?」
「おらぁぁっ!ぎゅぅぅうう」
「ぐ、や、やめろ!離せバカ!」
「伝わったか!?もってけあーしの気持ち!!!」
「いらん!」
「い、いらん!?」
答えはいらない。
ただ、あーしの気持ちだけ伝えたかっただけ。
甘い香りを漂わせるヒキオに数分間抱き着き続ける。
困ったように身体を硬直させるヒキオがどこか可愛らしく、この優しさに触れ続けて来た結衣や雪ノ下さんを羨ましく思ったり。
「あーしも、奉仕部でヒキオに奉仕してあげてたらなぁ…」
「…そんな卑猥な部活じゃねえよ」