会場内に漂う必殺料理の香り。
その余韻をかき消すようにミネストローネの香りが会場内を包み込んだ。言いようのない不安が胸を覆う。
確実に、トマトは傷んだものとすり替えさせたはず。それなのに、何故こんなに鼻腔を擽るほどの芳醇な香りを放っている。嫌な汗が頬を伝っているのが分かる。
隣に座っている一色は表情一つ変えずに笑みを浮かべている。傷んだトマトを見て動きを止めた黒木場を見ても一切、動じていなかった。まるで、黒木場ならこの程度の危機を乗り越えられると暗に言われてるようで気に入らねぇ。
「一色……お前、気付いてたのか」
「傷んだトマトのことかい? それとも、黒木場くんが危機を乗り越えるかもしれない、ということかな?」
やはり、この男は侮れない。
この距離から目利きの料理人ですら、傷んだトマトの仕分けなんて困難なのにそれすらもやってのけるとはな。
「ハッ、後者だよ。傷んだトマトを使っているのも関わらず、一体……どんなマジックでーーなっ!?」
キュッと首が絞まるような感覚と共にシャツの襟を思いっきり掴まれる。息がかかる程の距離、銀髪に紅い瞳をした女が俺を睨んでいた。
薙切アリス、か。大方、食材の指示を出したのが俺だということを薙切えりなから聞いたんだろう。だが無駄なことだ。証拠なんていうのは一切ない。
「おい。最近の一年生は、先輩への敬い方を知らないらしいな。一体、何の真似だ?」
「何の真似? こっちのセリフよ!! うちのリョウくんに何の恨みがあってーー」
「ストップ!! 落ち着きなさい、アリス!!」
薙切アリスは追って来た薙切えりなによって羽交い締めにされ、シャツの襟から手が離れる。ったく、シワになったらどうするんだよ、この女。
やれやれ、これだから友達ごっこをしている料理人共は嫌になる。仲良しこよしをやりたいなら遠月学園を出て他所でやればいい。
証拠があるのならまだしも、ないにも関わらずに食材をすり替えさせたかもしれない、先輩へ突っかかって来るなんてな。
「少し落ち着こうか、アリスくん。この件については後ほど、遠月十傑評議会と食戟管理局で調べてみるから」
一色の奴、余計なことを。
「今はとりあえず……黒木場くんを見守ろう」
まあいい、すり替えさせた奴には金でも握らせて遠月学園を出て行ってもらおう。
イタリア料理、ミネストローネ。
主にトマトを使ったイタリアの野菜スープでイタリアでは使う野菜も季節や地方によって様々で決まったレシピはない。
トマトをベースにしたスープ、使う野菜によっての薬膳効果を考えて見た目、味、どれもが劣らぬように試行錯誤した上でようやく作り上げることが出来たはずの料理は、想定外のトラブルで手を止めた末に急ピッチで即席の薬膳イタリア料理になってしまった。
出たとこ勝負だ。今の俺で考えうる調理法を駆使して作り上げた料理、負けても悔いはない。ただ、お嬢に申し訳が立たない。
「黒木場リョウ、一時の間……手を止めていたが、何かのトラブルでもあったか」
「うす、ほんの些細なトラブルだったんで俺の料理には影響はないです」
俺なりの虚栄だ。
言っては見たものの、現総帥である薙切仙左衛門殿は既に見破っているだろう。些細なんかではない、重大なものだと。鋭い眼差しが俺を射抜いているのが分かる。
色鮮やかで芳醇な香りを放つミネストローネは誰が見ても、薬膳料理だとは思うまい。しかし、イタリア料理と薬膳を本来とは違う、急ピッチでの即席料理。これがどんな風に味わいが変わるのか、冷や汗が止まらない。
「強かだな、黒木場リョウよ。お主はここで終わるような料理人ではあるまい、孫娘を闇から救ってくれた男なのだから」
「総帥、一体、何を……?」
「いや、気にするでない。年寄りの戯れ言よ」
審査員達のそれぞれの席にミネストローネの皿を置いていく。感嘆の声が漏れる者、ため息を吐く者、反応が様々だ。一人、また一人とミネストローネへスプーンを口に運んでいく。ため息を吐いていた審査員が表情を真っ赤に変え、小刻みに震えるのを見て俺は自分の体温が一気に下がっていくのを肌で感じていた。
もはや、ここまでか。遠月学園中等部へお嬢と編入してからの日々が頭を過ぎる。料理人としての毎日が充実していた、と。お嬢、えりな嬢、緋沙子との過ごす日々はかけがいのないものだ。天井を見上げて目をつぶって死の宣告を待っていると、耳を劈く勢いの声を浴びせられる。
「黒木場リョウ!! 一体、どんなを手を使ったんだ!?」
「何を言って……」
慌てふためくロッシの向こうの審査員席で堂々とおはだけをしたまま、腕を組み上げている薙切仙左衛門殿。他の審査員達もおはだけしていた。顔を真っ赤にしていた審査員なんかはミネストローネをおかわりしている。
「見事なものよ。このミネストローネには
「ミネストローネの味の奥深さ、トマトの旨みがよく染み込んでいる。それぞれの野菜に薬膳の効果を持たせ、客の心と身体を気遣ってくれる料理なんていうのは初めてだよ」
「おろし生姜がよく効いている、トマトの甘酸っぱさと野菜、しょうが、身体から力がみなぎってくるようだ。見た目も美しく、味も素晴らしい……さらに薬膳の効果まで持たせるなんて完璧だ」
俺は傷んだトマトを熱湯に浸けてから、氷水に浸け直してその後にある程度、乾かしてから潰して使用した。その際に味が変わってくることからスープの味と薬膳を整えるためにおろし生姜を加えたんだ。本来なら味が少し変わった際に入れようと考えてほんの少しだけ、すりおろしていたのを全て加えて、追加で入れて整えていた。
ロッシの必殺料理が出された時と俺の料理が出された際の反応は明確だった。誰一人として、美味しいとは言いつつも、おはだけしていなかったのに対してこちらは全員おはだけしている。ロッシの曇る表情、なぜ同じ料理人であるはずなのに、こんなにも違うのか。今回のは本当にギリギリだった。ギリギリだったからこそ、分かってくるものもある。
『結果はーー5対0です!! 食戟は黒木場リョウ選手の勝利となります!!』
審査員達は満場一致。
しかし、納得のいかない料理人が一人。
「おかしい、ありえない。僕のイタリア料理が負けるわけがない!!」
「……納得がいかなければ、お主も食べてみよ。ジュリオ・ロッシ・早乙女よ」
ミネストローネの皿を手渡されるロッシ。無言のまま、口に入れ、呆然と立ち尽くす。
ああ、そういうことか、と小さくこぼした言葉は酷く弱々しいものだった。
「……新戸緋沙子には謝罪する。だが、薙切の犬であるお前に負けたわけじゃない。今回のはたまたま、薬膳知識、それも新戸緋沙子のおかげで勝てたに過ぎないんだからな」
顔を歪めて背を向けるロッシにこれ以上、俺が掛ける言葉はない。
傷んだ食材への対処、というのに正解なんてない。今回のがたまたま上手くいっただけで次も上手くいくとは限らない。
お嬢の姿を探すと、叡山先輩と一色先輩の所に居たので手を振ると涙目のまま、観客席から走って来て、そのままダイブしてきた。慌てふためくえりな嬢へ視線を向けずにひたすらに、お嬢は俺を馬鹿と連呼しながら胸を叩いてくる。
「私の面倒をリョウくんが見ないで、誰が見るのよっ」
「うす、すいませんでした。今回は本当に危なかったです」
涙をこぼすお嬢を優しく抱きしめた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。