中等部二年の春。
食の魔王の異名を持つとされる薙切一族の一人とその付き人が中等部に編入してきた。薙切アリスと黒木場リョウ。俺からすればただの金持ちの権力者の娘さんと、それに纒わり付く金魚の糞程度の認識だった。ご主人様の下につくような奴に遠月学園の頂点を目指すなんていう大層な志しなんかあるわけもない。ハッキリ言えば虫ほどにも興味が無かった。
そんなある日のこと。俺はいつも通り放課後に潤の元に向かっていた時、ある光景が目に入った。黒木場と榊が調理実習室で黙々と料理をしているようだった。窓際から微かに匂いが漏れてくる、この香りはハリッサだ。唐辛子等から作る北アフリカ発祥の万能調味料。ハリッサの辛味は比較的マイルドで香りが高く、さらに甘みがあるので単調になりがちな料理に少し加えるとアクセントになって食べ飽きなくなる。
「……ハリッサを使うなんてな」
ハリッサを使うなんて珍しい。眼中にすらなかったのに少しだけ気になった俺は窓際から黒木場の作る料理を覗くのと同時に全身に衝撃が走った。黒木場が使っているハリッサは市販とかで売ってる物じゃない、自分で作った物。青唐辛子、にんにく、コリアンダーシード、クミン、キャラウェイシード、塩、オリーブオイルから作られたハリッサとはなかなか考えつかない。
「あっ、葉山くんじゃない」
「ん? どうしたんだよ、そんな所で。暇なら今から作る料理の味見でもしていけよ」
「あ、あぁ」
今を思えばこれが黒木場リョウという一人の料理人を知る良い機会だったかもしれない。招かれるままに調理実習室へと入ると、様々なスパイスの香りで満たされていたので驚いた。まさか潤と俺以外にもスパイスにこだわりを持つ奴がいるなんてな。どうやら、ただの金魚の糞ではないらしい。それにしてもなんで榊までいるんだ、確か塩麹を使った料理を得意としているはずだが。まさか、この二人付き合ってるのか。なんか邪魔してるようで気が引けてきた。
「なんか勘違いしてるようだから言っておくけどよ、榊とは付き合ってねえぞ。塩麹を使う料理なら榊の得意分野だって聞いたから手伝ってもらってる」
「そうそう、でも最初は驚いたのよね。付き人っていうから料理人としてはそんなに力入れてないとか思って侮ってたけど……」
付き合ってなかったのか。
というか、それよりも初対面の相手に料理手伝ってもらうとかコミュ力高過ぎるだろうよ。薙切家の付き人って皆がこんな感じなのか、いや新戸緋沙子とかいう薙切えりなの付き人は堅そうな奴だからコイツは例外みたいなもんだな。
「何の料理作るつもりなんだよ。言っておくが塩麹とハリッサを使う料理なんて味が出鱈目になるくらい普通の料理人なら分かるはずだろ」
「……榊。こいつ性格悪いって言われてねぇか」
「残念ながら言われてないわね。葉山くん、黒木場くんが今から作るのはクスクスを使った料理よ。さっきまで色々な料理を試してみたけど、私的には意外と美味しいって思ったけど黒木場くんが納得いかないらしくてね。一応、食材もこれでラストなのよ」
クスクス。
小麦粉から作る粒状の粉食。発祥地の北アフリカから中東にかけての地域とそれらの地域から伝わったフランス、イタリアなどのヨーロッパ、およびブラジルなど世界の広い地域で食べられている。大体の料理人は自分の得意分野が必ずある。目の前の榊にしろ、潤にしろ自分自身に合った料理を作るが黒木場リョウのジャンルが分からない。クスクスを使った料理に塩麹を使うだと、まったくもって理解が出来ないぜ。こいつは料理のジャンルに捉われない。色々な料理を作って試すのは分かる、料理人として自分の料理を完成させるために試作を作り続けるのは。でもよ、当てはまらない料理にスパイスをいくらぶち込んでも結果は目に見えてるはずだ。
「ジャンルに縛られると料理人としての視野は狭くなる。食べてもらいたい相手に、ただ美味しかったって言ってもらうより笑顔で美味しかったって言ってもらえる方がこっちも嬉しいだろ」
黒木場はそう言うと同時に目付きが変わる。冷蔵庫から取り出したのは鳥の手羽先だ、ハリッサと塩麹で漬け置きしておいたものだな。いや違うな、ヨーグルトも混ぜ合わせてあったのか。
玉ネギは四つのくし切りにし、ズッキーニは両端を切り落として厚さ1.5cmの輪切りにし、大根、ニンジンは皮を剥いて短冊切りにする。ナスはヘタを取って大きめの乱切りにしていく。流れるような動作だ、まるで無駄がない。深めのフライパンにオリーブ油を入れて中火にかけ、先程の鳥の手羽先を投入して焼き色がつくまで焼く。玉ネギ、ズッキーニ、大根、ニンジン、ナスを加え、玉ネギが少し透き通るまで炒めていく。さらに、砂糖、トマトペースト、ハリサ、カレー粉、水、塩コショウ、オリーブ油を加えてフライパンに蓋をして強火にする。吹きこぼれそうになったら火を弱めて十五分煮込み、塩コショウで味を調える。
開いた口が塞がらないとはこのことだな。
学生のレベルじゃねえぞ、これは。遠月学園には遠月十傑なんていう奴らがいる。いずれはそいつ等を倒して学園の頂点に立つのが目標だが、同年代なのにこんな奴がいるなんて思いもしなかった。一切無駄がない動き、冷静な判断力、寝かせておいた鳥の手羽先は塩麹、ハリッサ、ヨーグルトを充分に漬け込まれていたのを考えると適当に今まで料理をしていたわけじゃない。本気で料理を完成させようと考えた上でやっていたんだ。
煮込んでいる間にボウルにクスクス、沸騰させたお湯を加えてよく混ぜ合わせ、クスクスが水分を吸収するまで少し時間をおき、水分がなくなったらオリーブ油を回しかけて全体を混ぜる。最後の盛り付けで料理はーー完成か。
「完成だぜ食ってみな。葉山、榊」
くっ。皿を見るだけで美味しいのが分かる。
一口頬張るとトマトソースの深みと漬け込まれていた鳥の手羽先の塩麹とハリッサ、ヨーグルトがまろやかさとピリ辛さが口の中に広がって素晴らしい味わい深さが俺の身体を喜ばす。こんなに美味くて味わい深い料理なんて食べたことがない。まぐれでこの料理が美味しかったわけじゃないだろうな、この料理の前まで試作していた料理も美味しかったかもしれない。それでも目の前の料理人は納得せずに料理を作り続けたんだろう。
「美味しい……こんなに美味しい料理は初めて食べたぜ」
「塩麹とハリッサが絶妙なバランスで保ってる!! ヨーグルトを加えたことによってピリ辛さと甘みの両方が活かされてるわね!!」
こんなに美味しい料理を作る奴が誰かの下につくとは思えない、何か理由があって下についているのか。
「黒木場、ちょっと聞いていいか。お前ほどの料理の腕を持つ奴がなんで薙切なんかに仕えてるんだよ」
「……口の利き方には気を付けろよ、葉山。俺は薙切に仕えてるんじゃない、薙切アリスお嬢に仕えてるんだ。毎日、荒くれ者相手に料理を振る舞う日々、失敗は許されない厨房は戦場と化す。追い出されれば生きていく術すら無くなる毎日から、お嬢に拾ってもらったんだ」
なるほどな。
こいつも色々事情があったようだ。俺が潤に拾ってもらって生きていく術を学んだように、この男は薙切アリスに拾ってもらって生きていく術を学んだ。後はもう分かる、俺が遠月学園の頂点を目指すようにこいつの目標も同じものだろうな。今の時点では圧倒的に俺の負けだ、実力的にも考えも全てが負けてる。荒くれ者相手に料理を振る舞ってきたことを考えても幼少の頃からもう現場で闘ってきたんだな、俺はその頃は何も出来ないガキだった。
「すまない。ハリッサを扱うとこを見ると、もしかしてスパイスの扱いにも心得があるのか? あるなら俺に料理人としての扱い方を教えてほしい。潤の役に立つにも俺の目標のためにも、必要なことなんだ」
「多少は心得ているつもりだ。そっちの時間さえあればいいぜ」
黒木場リョウ。
遠月学園の頂点に立つためにはまずお前を倒す必要があるようだ。俺が強くなるためにも学べることは学ばせてもらう。
「あーーっ!! リョウくん見つけたわっ!! 探したのよ、もうっ!! あら、葉山くんに榊さん、ごきげんよう」
「げっ……お嬢」
しばらくの間、学ばせてもらうぜ
次話より本編に入ります(๑•̀ㅁ•́ฅ✧