楓の木の下でまた貴方に恋をする   作:かえるくん

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第十話

 遠くから幼い女の子の泣く声が聞こえる。意識はいまいちはっきりせず視界は薄暗い。ただ向こうにぼやけた小さな光だけが見えた。私は無意識にゆっくりとそれに手を伸ばす。距離感が全くつかめず、どれだけ伸ばせば届くのかは見当もつかない。それでも私の手は勝手にそれを追ってゆく。そして腕が伸びきったところで、その淡い光に触れる。

 

 瞬間、その小さな光は強烈な輝きを放ち私を飲み込んだ。反射でまぶたは固く閉じられ再び暗闇が訪れる。聴覚は未だ少女の泣き声だけが支配していた。しかし次第にそれが大きくなってゆき、他の音も混じり始める。これは、そうだ。近頃ずっと耳にしていた、あの居心地のいい空間にいつもあった音。あの楓の木の声だ。真っ暗だった瞼の裏もいつの間にか白んでいる。私はゆっくりと目を開いた。

 

 そこには赤と緑がおり混ざった何かがゆらゆら揺れているのが見えた。徐々にピントがあい、それが楓の葉であるのとに気づく。そしてその向こうに青空があることにも。

 

 はっとして私は体を起こす。見渡せばそこはいつもの神社。けれども頭上には月ではなく太陽がこれでもかと存在感を放っていた。

 

「ここは…」

 

 そう溢し、知らないうちに聞き慣れてしまった泣き声の源に目を向ける。そこにはランドセルを傍らに置いて膝を抱える少女がいた。私は起き上がってその少女に声をかけようと試みるが、ある程度近づいたところで足が止まる。少女の横に置いてあるそれはやたら見覚えのあるランドセルで、服も、髪留めも、どれも知っていた。そこで泣いていたのは紛れもない、幼い私だった。

 

 

   _____________

 

 

 

 どうやらここは立体映像のようなものらしい。少女に触れようとしてもできないし、それどころか楓の木にも鳥居にも、社にもさわることはできなかった。足元を踏みしめても砂利の擦れる嫌な音はしない。私はどうすることもできずただただ泣き続ける私を見つめていた。

 

 どれくらいたった頃だろう。不意に後方から足音が聞こえた。私がゆっくりと後ろを振り向くと、そこには黒いランドセルをしょった男の子が立っていた。特徴的なアホ毛に腐った目、どう見てもちっちゃい先輩である。私は高ぶるテンションを必死に抑えて、ミニ先輩の周りをぐるぐる周りながら観察する。触れられないのが惜しい。そんな私をそっちのけでちっちゃい先輩は泣いていた私に近づいて声をかけた。

 

「おい、どうした? 迷子か?」

「……え?」

 

 泣きっぱなしだった私は突然の声に顔をあげる。誰もいないはずの場所に突然現れて……、ああ、思い出した。泣き顔を誰にも見られたくなくて、人のいないところをあちこち探したんだっけ。涙堪えて歩き回って、いっぱい歩き回って見つけたのがこの場所だった。それでこの大きな楓の木と出会ったんだ。私はもう我慢の限界で、そのずっしりとした佇まいに身を預けて泣いた。

 

 そして、先輩と出会ったんだ……。

 

「迷子じゃないのか?」

 

 ぼんやりと浮かび上がってきた記憶を呼び起こそうと必死になっていると、不意に幼い先輩の声が耳に入る。私は向かい合う先輩と私から、声がかろうじて聞こえる距離まで離れて二人を見つめ続けた。

 

「……」

 

 声をかけられた私は首を振ることでそれに答える。知らない人に話しかけられ少しだけ戸惑っているようだ。それを見た先輩は一度首をかしげると、背負っていたランドセルを下ろして中を漁り始める。そこから取り出されたのは、マッ缶だった。それを泣き止み始めた私に差し出している。相変わらずな、いや、昔から先輩はこうだったのか、私は思わず吹き出してしまう。幼い私は何も言わずに差し出し続ける先輩を一度見ると首を横に振った。先輩はびっくりした顔をすると言葉をこぼす。

 

「嘘……。マッ缶は千葉の人は皆好きなはずだろ…」

 

 どうやら本当に励ませると思っていたらしい。私は笑うのを一生懸命堪えて二人を見守る。気づけばいつの間にか泣き止んでいた私は先輩のランドセルの一点をひたすら見つめていた。

 

「何、こっちの方がいいのか?」

 

 そう言って先輩はランドセルの側面に手をかける。カチャカチャ何かを弄った後差し出したその手には、あの黒猫のキーホルダーが乗っていた。

 

「……いいの?」

 

 長く泣いたせいかその声は少しかすれている。まだちょっとだけ潤んだ目は先輩の顔と掌を行き来していた。

 

「おう、もともと妹にやるつもりだったけどいらねって言われてな。仕方ないから俺が付けてたんだが、欲しいならやるよ。欲しいやつが持ってた方がこの猫も嬉しいだろ」

 

 そう言って先輩はキーホルダーを幼い私の前にぶら下げる。私はゆっくりとその下に手を広げると、ポトリと金具の擦れる音と共に黒猫は手の上に横たわった。しばらくそれを見つめたあと視線を先輩に移し口を開く。

 

「ありがとう」

 

 そんな私の顔にはいつの間にか笑顔が戻っていた。先輩も笑った私を見て安堵の息を吐き少しだけ微笑む。

 

「にしてもこんなところまで来て一人で泣いてるなんてな…。家帰って母ちゃんにでも慰めてもらえばいいのによ」

 

 先輩は釈然としない調子でそんなことを言った。それに私はちょっとだけ顔をムスっとさせると目を横に流しながら答える。

 

「それは…、なんかやだった。負けたみたいで」

 

 それを聞いた先輩は一瞬目を点にした後、声を殺して笑いだした。私はなんで笑われているのかわからないと言いたげな表情で固まっている。が、なかなか笑うのを止めない先輩に顔をしかめていく。

 

「なんで笑うの…」

「いや、こんなところでめそめそしてるからどんな奴かと思ったけど、思いの他根性あんのかなって。でも泣いてんのにまだ負けてないつもりなのが面白くてな」

 

 私はちょっと恥ずかしくなったのか顔の赤みが増す。それでも言われたい放題で済むのが嫌だったらしく言い訳をこぼす。

 

「泣いたの誰も知らないからまだ負けてないもん」

「俺が知ってんだけど…」

「知らない人はノーカンだからセーフ」

「なんだそれ」

 

 私の苦し紛れの言葉に先輩は苦笑いを浮かべている。自分でもちょっとそれがわかっているせいか、私は先ほどから先輩の顔を見れないでいた。そんな私の隣に先輩は腰かける。

 

「な、なに?」

「何って、俺の特等席に先客がいるから仕方なく…」

「特等席?」

 

 私は横の先輩を見上げて首をかしげる。先輩も私の方を見ると下を指差しながら答えた。

 

「お前が座ってるとこ、いつも俺が座ってんだよ。ここは俺のお気に入りの場所でよく来るんだ。人も滅多に来ないし。いいところだろ、ここ。特にこいつが」

 

 そう言って先輩はもたれ掛かっていた楓の木の幹を叩く。楓の木はまだ本格的に紅葉していないのか、所々に青々した葉を付けている。それでもその佇まいは相変わらずで、そこにあるものをすべて包み込むかのようにずっしりと根をはっていた。

 

「この木の傍にいると落ち着くんだ。どんなに寄りかかっても、不満をぶつけてもびくともしない。やなことあってもこいつだけは、いつも受け止めてくれるんだ」

 

 その言葉に反応するかのように楓の木はざわめく。

 

「お兄さんもここへ泣きに来るの?」

 

 穏やかな表情で言葉をこぼす先輩に私はそう問いかける。先輩は少しだけ口ごもるが、私の方は見ずに遠くを見て答えた。

 

「まあ、たまに」

「へー、ちょっと意外」

「そうか? そういえばなんでお前は泣いてたんだ?」

 

 今度は先輩が尋ねる。空は相変わらず青く、細切れの雲が漂っていた。幼い私は膝を抱えると顔を少し埋めて喋り出す。

 

「最近、女の子が意地悪してくるの。今まで普通だったのに、仲間にいれてくれなかったり、無視したり、今日は嫌なこと言われた。訳わかんなくて、ちょっと怖くて、でも誰も助けてくれないし…」

 

 その声は少しずつ小さく、か細くなった。目にはまた涙が浮かんでいる。そんな私の横で先輩はただじっと沈む私を見つめていたが、一つ息をはくと口を開いた。

 

「お前さ、男の子の友達多いだろ」

「え? まあ、よくしてくれる男の子は多い、かな」

「だからだろ。たぶんみんなお前に嫉妬してんだよ」

「なんでそう言えるの?」

「俺は嫌なことされる歴が長いから。人の悪意は周りよりわかる、と思う。そういうことに関しては俺はお前より詳しい先輩なんだよ」

 

 そう言って先輩は笑った。私はいまいちピンときていないのか眉間に少しシワをつくって首を捻っている。そんな私に先輩はちょっとだけぎこちない励ましの声をかけた。

 

「だから、なんだ。あまり落ち込む必要はないと思うぞ。お前に魅力があるって話だからな」

「……あ、ありがとう」

 

 私は再び膝に顔を埋めて礼を言う。それからしばらく二人は口を閉じたままだった。黙って肩を並べて座る二人は、この神社の空間を介して繋がり始めている。そう、これが私と先輩の一番最初の出会い。あの日、何かに導かれるようにここにやって来た私、きっとこの楓が私達を引き合わせてくれたのだろう。楓の影が数センチ動いた頃私は長めの静寂を破る。

 

「先輩……」

「え、俺のこと?」

「うん。だってさっき先輩って」

「ああ、まあいいけどよ」

 

 私の呼び掛けに先輩は一瞬戸惑いを見せるがすぐに気にしないというふうに返事をする。私はその先輩の顔をうかがうように質問を投げかけた。

 

「明日もここにいる?」

「たぶんな」

「明後日は?」

「おそらく。晴れたらだいたいここに来る」

「そっか。じゃあまた会えるよね」

「そうだな。ここにこれば会えるんじゃないか?」

「そっか」

 

 それを聞くと私は隣に置いていたランドセルを掴み立ち上がる。それを背負うと先輩の方に向き直った。

 

「バイバイ先輩、また晴れた日に」

「じゃあな、また今度」

 

 その言葉に背を向けると私は駆け足で鳥居の方へ向かう。慌ただしい砂利の擦れる音が神社に響き渡り、穏やかに吹く風が数枚のの葉をさらっていった。鳥居のすぐ傍にやって来た私は急に楓の方に振り返る。

 

「先輩! 猫ちゃんありがと!」

 

 その声は少し橙が混ざり始めた神社に轟く。走り去る私を見送っていたのか先輩は私の方を向いていた。私の言葉にヒラヒラと手を振って返事をしたので、小さい私はそれを見届けて神社から去っていった。先輩はしばらく私の走り去っていった方を見つめていたが、すぐに鞄から本を取り出し読書に没頭し始める。

 

 彼らが言葉を交わす度、ピースが一つ一つ埋まっていく。今までさっぱりわからなかったパズルの絵がみるみる浮き出てくる。気づけば周りの風景にノイズが走り場面は切り替わった。いたはずの先輩はいなくなっていた。

 

 

   _____________

 

 

 

 その日は曇天だったらしい。空を少し厚めの灰色が覆っていて今にもぐずり出しそうだ。吹き付ける風は温くて気持ち悪い。そんな濁った神社に先輩がやって来た。体が覚えているのか自然と楓の木の下へ向かい腰を下ろし、そのまま膝を抱えて丸くなる。先輩は終始俯いていた。楓はすっかり紅葉していてあれからそこそこ時間が経っていることが伺える。こんな曇った日でもそれだけは変わらず美しかった。

 

 じっと動かない先輩を遠巻きに眺めていると一人の女の子が沈んだ神社にやって来た。私だ。その足音は周囲の雰囲気とは正反対で軽やかだ。しかしその足はここにいるただ一人の存在に気づくとすっかり勢いを失ってしまう。幼い私は未だ動かぬ先輩にそっと近づくと、しゃがんで先輩と頭を突き合わせる。

 

「先輩、どうしたの?」

 

 その問いかけに先輩は首を振るだけで言葉は発しない。私はどうしていいかわからないのか、しばらく首をかしげていたが不意に手を先輩の頭に伸ばした。その手はそっと頭に触れるとゆっくりと、しかしどこかぎこちなく、それでも優しさを含んで撫で始める。予想外の事に先輩はっと顔を上げ驚きの表情を浮かべるが、それでも私はその手を止めることはなく、先輩も頭上の小さな手を払うことはしなかった。

 

 どれくらいそうしていただろうか。数時間たった気もするし数秒だけのような感覚もする。

 

「もう、大丈夫?」

 

 私は先輩の顔を心配そうに覗き込む。それに先輩は少しだけ微笑んだあと口を開く。

 

「ああ…、ありがとな」

 

 それを聞いて私の手はやっと先輩の頭から離れた。二人の上では楓がはらはらと紅を落としている。小さい私はまだ先輩の正面にしゃがんでじっと顔を見つめていた。

 

「やなことあった?」

「……ああ」

 

 先輩は少しだけ間を空けるが、か細い声で返事をする。風の音しかないそこで二人は言葉を交わし始めた。

 

「今日はいつもと逆だね」

「そうだな」

「私じゃ全然頼りない?」

「そんなことはない」

「ならよかった」

 

 けしてその声は大きくはない。言葉数も少ない。けれどもそれ以上の何かが二人の間を行き来しているような気がした。

 

「いつもは私が励まされてるから」

「そうか?」

「うん。先輩のおかげで頑張れる」

「話聞いてただけだ。そんな大層なものじゃない」

「うん。でも私には大きかった」

「……」

「私にとって、先輩はこの木と一緒だよ」

 

 一瞬口ごもった先輩だったが最後の私の言葉に目を見開く。私は楓を見上げながら続けた。

 

「ここに来たら二本の大きな木があって、私を支えてくれたから頑張れた。…ありがとう」

 

 柔らかい風が二人の間を吹き抜け、ふわっと髪を靡かせる。1枚の紅が二人の交わる視線をさらって地面に落ちた。その葉は再び風に吹かれると二人から離れ去ってしまうが、それをひたすらに幼い少女と弱々しい少年は目で追っていく。葉を見失ってしまう頃に先輩が目線はそのままで口を開いた。

 

「俺は、居てもいいのかな。誰にも望まれていない。クラスの奴らも、先生も、親にだって。そんな俺はいない方がいいんじゃないかって、たまに思う」

 

 そういうとぎゅっと膝を抱えて顔を埋めてしまう。その姿に先程見た頼もしさはどこにもなく、孤独感だけがまとわりついていた。そんな先輩にすかさず正面の私は言葉を発していた。

 

「「いいよ、私が望んでるから」」

 

 その声は二重だった。あの小さな私だけではなく、無意識に遠くで眺めている私の口からもそれは溢れ落ちたのだ。私は驚いて咄嗟に口を手で覆う。そんな私をよそに向こうの私は言葉を連ねた。

 

「私は先輩に会えて、一緒にいれて嬉しいよ。だからそんな寂しいこと言わないで。大丈夫、先輩が私の楓になってくれたみたいに今日から私が先輩の楓になってあげるから。よろけたときも支えてあげる。転んだときも手握ってあげる。落ちたときだって引き上げてみせる。先輩がしてくれたみたいに」

 

 そう言って私はまた先輩の頭を撫でた。優しく優しく、何度も何度も。

 

「俺は、お前を信じてもいいのか?」

 

 顔は伏せたまま消えてしまいそうな声で先輩は言う。

 

「うん」

 

 私は大きく頷きながらそう答えた。

 

「でも俺には、それが難しい」

「うん」

「お前のその優しい言葉も素直に受け取れない」

「うん」

「いつまでも疑ったままかもしれない」

「うん」

「お前を傷つけるだけかもしれない」

「うん」

「それなのに、こんな俺にそう言ってくれるのか」

「うん!」

 

 やっと顔を上げた先輩の目には今にも溢れそうなほど涙が溜まっていた。一生懸命堪えているせいか顔も不自然に歪んでいる。それに対し、私はけして笑顔を崩すことはしなかった。いつまでも微笑んで先輩を見つめ続けた。

 

「…ありがとう」

 

 そう言った先輩の目からはとうとう一滴の涙が流れ出てしまうが、その顔には笑顔が浮かんでいた。

 

「やっと笑ったね」

 

 私は今までにないとびっきりの笑みを先輩へ向ける。そんな二人に一本の光の筋が当たった。上を見ればあの厚かった灰色に亀裂が走っていて、その隙間から数本の光のラインが地上に向かってのびている。そのうちの一本がこの神社を照らしていたのだ。楓は紅をより鮮やかにし、石畳や鳥居についた苔は緑を増す。そこにはもう新しい世界が広がっていた。

 

「じゃ、約束!ゆびきりしよ!」

「え?」

 

 突然小指を突きだした私に先輩はつい戸惑いの言葉を発してしまう。

 

「ずっと私が先輩の楓になるって約束!」

 

 なぜか得意そうに胸を張って言う私に少しだけ先輩は苦笑いを浮かべる。しかし先輩も私にならって小指をたてると、目の前の小さな手の傍へ持っていった。

 

「じゃあ俺も。お前の楓であり続けるって約束」

 

 ゆっくりと近づいた小指同士はしっかり絡まると上下に揺れ始め、二人の指切りの歌が神社に響き渡る。それからしばらく神社から賑やかな声が消えることはなかった。


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