「守ッッ!!!」
血飛沫が宙を舞い、泣き叫ぶ声が辺りを絶望の色に染まらせていた。
鮮血は囚人服を朱く染め、色は広がり、守は口から血を流しながら床に倒れ伏せるよう、体を地面に打ってしまう。
「守…守ッ!しっかりしてよ……ねぇ!!」
勇希の瞳からは、涙の粒がポロポロと溢れ、止まる事を知らず、手を添える。
自分の囚人服の余った部分を千切り、傷口を抑えるよう止血を施す。小さい頃の保健の授業で習ったことが、此処で生かされるとは思ってもいなかったが…
「そんな、結城くんまで…!」
手で口を覆い、まるで現実から目を逸らす様に、目前の今を受け入れたくない仕草でも取る少女は、首を何度も左右にブンブンと勢いよく振る。
とても、これが目の前で起きてる惨状だとは思いたくないし、もしこれが夢ならば今直ぐにでも覚めて欲しい。
だけど、この世界に〝もしも〟なんて言葉は存在しない。それが有れば全員とも無事でいられるのだ。
「おい、おいおいオ゙イ゙…!!其れは…っ、ダメだろォ…!!小僧!!」
結城守の、決死の判断により身を挺して他者を守った結果の末路――背中はドクドクと血が溢れ、囚人服は真っ赤な血へと汚れていき、灼熱のような痛みが、絶え間なく守を襲う。
ヒーローでも、忍でもない一般人が、倒れ伏せた閃光を守る為に、自らを犠牲にしてまで壁となり、守ったのだ。
「オイしっかりしろ小僧!!お前が死んじまったら…オメェ…!!」
「だ、だめ……光を当てても回復しない…!!傷が、深すぎて…わ、私の個性が…っ」
これ以上傷を汚れた床に付着させまいと、抱き抱えながら何度も必死に叫びかけ、光里は掌から発光させた癒しの光を傷口に当てるも、治癒は一向に進まない。光里優良の個性は、治癒能力にしては優秀な方で、多少の傷や出血は問題なく治すことは出来ても、肉体の多大なる欠損、深すぎる命に関わる重傷は治癒することが不可能なのである。
守を治せないという自らの情けなさ、何より目の前で友人が苦しんで、死にそうなことに大粒の涙を流しながら、それでも治癒の発光はやめない。
「守!ねぇ守ったら!!」
「小僧!しっかりしろ!!まだ息はあるみてぇだ…なぁ、オイ!!聞こえるか!?」
「守くん!死んじゃダメだよ!!ほら、私達がなんとかするから!ね!?」
ポタポタと大粒の涙が零れ落ち、守の顔が濡れる。
どれたけ呼びかけても、激痛に苦しむ少年の表情は崩れない。だけど、閉じてた瞼は開いたようだ。
「はぁ……はぁ………、ゆう…き?」
「守!!!」
呼吸は乱れ、朦朧とする意識を保ち、静かに少女の名前を呼ぶ守は、微かに目を開ける。
「しっかりして!守…ごめん、私が代わりに…貴方がこうなる前に…私が、あの人を庇ってれば…」
とは言っても、今回の落ち度は誰の所為でも無い。
閃光を庇って助けようとした結果、こうなってしまった事。誰が誰も責められる事では無く、状況としては最悪が重なった偶然。仕方のない事だ。
だけど勇希はその事を〝仕方ない〟と片付けたくはなかった…自分を責めたりしないと、この悔やみ心の曇りが拭えない。気持ちの整理が付かない。
幸い少年の傷口は浅く、出血こそは酷いが臓器や骨には行き届いていないのが、唯一の救いだ。それでも袈裟斬りを受けたように、斜め右になぞるよう描かれた傷のラインは、見てるだけで生々しく痛々しいものだった。
「勇希……皆んな……よか…た……なんとか……ぶじ…で……」
「喋っちゃダメ!!貴方は重傷なのよ!?大人達から酷い拷問を受けて…それに、あんな悍ましい化け物にこんな傷をつけられて……」
自分の大切な人間が、親友が、大人に酷い仕打ちを受けるだけで無く、今度は妖魔に致命傷を受けてしまった。――絶恵勇希という少女にとっての、心の痛みは想像を絶するモノだろう。
この世の中、周りの人間全てが敵だった彼女に対し、唯一の味方でいてくれた彼がいなくなるのは、死ぬほど辛いことだろう。
「ギギ、ギギィ…ヴァルウゥゥ…!!」
深く血の色に染まった吐息が、勇希に当たる。
血生臭い、吐気を通り越す異臭が、鼻の奥につんざく。まるで血の油を何百年も溜め込んだような、反吐が出る匂いに喉が痺れそうだ。
「勇希ちゃん!後ろ…っ!」
「光里ちゃん、志久万さん」
今、自分の真後ろに立っている蒼牙鬼。結城守を、たった一人の大切な最愛たる親友を、滅茶苦茶にした蒼牙鬼は、今度は絶恵勇希に目をつけた。
「オイ!何してる!?早く逃げ――」
「二人共、守のこと宜しくね」
えっ?
彼女の返って来た言葉は、耳を疑うような意外な言葉だった。その言葉の意味が解らず、光里と志久万は困惑する。
「ああ…嗚呼……なんて、こと…こんな……」
閃光と守は辛うじて息はあるものの、其れでも一刻と死が近付いている事、自分が逃がせと言わずに一緒になって止めていれば…こんな結果にはならなかったのだろうか?月光は思わず涙を浮かばせながら、わなわなと震わせる。
勇希は三人に背を向け、顔を後ろへ振り向けば、光里に笑顔を見せる。
「私ね、あの妖魔にいい加減頭に来てたのよ……今こうして、私が平静で居られるのが奇跡なほどに」
表面上の笑顔の裏には、只ならぬ憤慨が燃えていた。よく見ると体は震え、手は強く握り拳を作っている。
今でも理性を保ててるのがやっとで、今すぐこの妖魔の喉首を噛み千切りたくて、もうどうしようもない程の殺意の衝動が、彼女を蝕んでいた。
「何、言ってるの?ダメだって!勇希ちゃんじゃ勝てないよ!!そもそも、あの人達でも…」
光里には理解出来なかった。
確かにあの妖魔には敵意を通り越して殺意と悪意を抱くのは自然だし、納得も理解も出来る。
怨むこと、憎むこと、憤ること、何も悪いことではない。大切な人を傷付けられたんだ当然だ。だけど…私情に心を支配され、挑むのは、果たして今やるべきことなのか?
それは、結城守が望んだことなのか?そもそもあんな化け物に勝つことなどあり得ないだろう。
否――冷静を保ててないだけで、本当は解っている。
守がこんなことする為に、庇ったわけではないことを。身を呈してまで彼女に仇を討って欲しいと願ってはないと。
ただ彼女が無事であることを、望んだだけだ…
だけど…こんなことをされて冷静になれるのならば、私情に心を呑まれる人間は苦労しない。
勇希の瞳は、鋭く狼にも引けを取らない眼光を放ち、妖魔を睨む。
…不思議な光景だ、忍ならまだしも一般人が恐ることなく妖魔に、況してや妖魔衆が睨まれるなど、蒼牙鬼本人も一度たりとも経験したことがない。
「よくも……」
「アギ?」
少女は低い声でポツリと呟いた。眼前にいる蒼牙鬼にも聞こえない、とてもとても小さな声で…
「よくも皆んなを…守を傷付けたわね!!
――ぅうああぁぁぁぁぁぁぁーーーーーッッッ!!!」
瞬間、誰もが目を疑った。
蒼牙鬼の下顎が、ボトリと音を立てて落ちたのだ。滝のように溢れる赤黒い血が流れ、蒼牙鬼だけでなく、他の皆も目を丸くする。
いつからだ?
少女の手には血の色に近いピンク色の刃物の武器を握り持っていた。あのサイズ、武器の種類からしてブレードだろう。
「ギッ――!?!」
なんだこれは?
今、何をされた?下顎の部位から絶え間ない激痛が電流として駆け巡るかのように痛い。痛覚が働いている。
だって、目では追えなかったぞ?
「よくも、よくもよくもよくもおおぉぉぉ!!ぬあああああぁぁあぁああぁああーーーーーッッッ!!!」
無数の赤き閃光に、蒼牙鬼は切り刻まれるように、斬撃の痕を残しては痛手を負ってしまう。
自分が大剣を掲げる前に、彼女が先に手を出させまいと攻撃してるのだ。
「守に謝れ!!皆んなを傷付けたことも、頭を下げて謝罪しろ!!!貴方なんか…オマエなんかああぁぁぁぁーーーー!!!!」
二本の角を狙った瞬間、蒼牙鬼が初めて守りの態勢に入り、防御の構えを取った。まるでやめて下さいと言わんばかりに、大妖魔が一般人の攻撃を、防いでいる。
これは…余りにも信じ難い光景だ…周りの皆も唖然としてしまうのは、この際無理もない。
「………何だ…あいつは……」
「あの子も…忍なの……?」
志久万と月光も、現実を受け入れられないと言った様子で、釘付けになっていた。確かに動きや武器の振り回しはがさつで下手だし素人寄りだ。だけど…あの立ち位置だからよくは見れなかったけど、あの少女、一体いつからあんな武器を持っていた?
個性か、或いは忍家系の子か…何方かは判断し難いが、この際はどうでも良い。
問題なのは、誰も手も足も出せなかった大妖魔を、彼女が圧倒していると言うことだ。
自分達が束になってもダメージを与えれなかったのに、あの少女は一人でああも容易く蹂躙してる。これは、余りにも馬鹿げた異常事態だ。
「……待て、何か様子が可笑しいぞ」
志久万は嫌な汗を流しながら、見守るように釘付けになっていた。嫌な予感…まるでこれからもっと最悪な事態になるかのような…ただの勘だ。だけどこの胸騒ぎ…彼女の激昂、大妖魔たる化け物が押されてる…これらの要素は不安を引き寄せていた。
そして、その不吉な予感は見事に外すことなく的中した――
「フゥー…フゥーー……」
息が荒々しく、白い息を吐く勇希の眼は段々と紅桜へと変色していく。何だろう?このドス黒い邪気の波動は…
まるで何かが、彼女の身も心も真っ黒に染め上げるような、気味悪い感覚…
何かに苦しむ彼女は、実を言えばもうマトモに動ける状態ではない。立っているのさえ奇跡で、蒼牙鬼に痛撃を与えるのさえ絶対にあり得ないのだ。
「…………」
少女は腹を抱え、何かに踠き、何かに耐え忍んでいる。
だけど…少しずつ彼女の姿は違う何かへと変貌を遂げようとしている。まるで蛹から脱皮したがる蝶のように…
精神が汚染し、朦朧とする意識、眩暈、頭痛、様々な発作が起こる彼女に
『お前ガ臨むモノを手にシタいのなラば…少しダケで良イ…箱を開けヨ――』
心の中で誰かが呟いた。
いや…声を〝かけられた〟という表現が正しいのだろうか、心の中でたった一つの、自分でも抱えれるような小さな箱がポツンと置いてある。
私は朦朧とした混乱する意識の中、無我夢中で手を伸ばし、箱を掴む。古く頑丈そうな、隕石が落下し衝突してもキズ一つ付かなさそうな得体の知れない歪な箱を、正気を失いかけてる勇希は開ける。
すると中には、黒く禍々しい邪気が、溢れ出した――
「グオオォォォーーーーーッッ!!!」
ザン!
獣の雄叫びと供に、斬撃を振るう蒼牙鬼は、先程のお返しと言わんばかりに、攻めてこない勇希に大剣を振るった。
斜め右下に斬りつけた蒼牙鬼は、血狂った眼でもう一度自分を追い込ませた彼女に反撃を繰り返す。
溢れ出す少女の血を浴びながら、蒼牙鬼は大剣を振り下ろした。
「きゃはっ☆」
ガシッ!
突然――大剣が微動だに動かず、振り下ろす過程の途中で、自分の動かしてた腕は止まってしまった。
それと同時に、少女の微かな笑い声が聞こえた気がする。生まれて一度も、人間の笑い声を聞いたことがない蒼牙鬼にとって其れは、大変奇妙で不思議な声だろう。
「ウギギ…?」
少女の顔を、しかと見下ろす。よく見ると少女は邪悪な笑みを作り出していた。
紅桜色の瞳は不気味に輝き、黒の髪は白に変色し、ブレードを手に持つ右手は、巨大な刃に変貌を遂げ、左手は凡ゆる者を掴み取る亡者の手。この世の物とは思えぬ異形な手は、右手と同じサイズであり、全てを爪で裂くような獰猛な手をしていた。
囚人用のボロい衣服は消え、裸体とはなっているも、己の血が秘部を隠し模様が浮かぶ。
胸には悪魔の口、下半身は下着のパンツ、禍々しき魔の足、其れ等の人外混ざった異形な容姿は、嘗て人間だった勇希とは掛け離れた存在だった。
「ふふ……ふふふ……ははっ!!」
少女は笑う、嗤う、破顔う。
ただただ、嘗て勇希だった者ではない不気味な声で――
「アーーーッハッハッハッ!!キャハァァ!!」
ザシュッ、ザシュッ、ザシュッ――
肉斬る音は、蒼牙鬼を襲い、血飛沫が宙に舞う。赤黒い血は何百年も濁り溜まった穢れの血。閃光ですら砕くことの出来なかった蒼牙鬼の甲冑のような装甲は、そのラインをなぞるかのように、斬り裂かれる。
「ヴァアあア゛っ!?アガァア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ぁぁぁぁぁぁッッ!!!!」
蒼牙鬼の想像を絶する叫喚。
以前の攻撃とは比べ物にならないその猛攻は、明らかに上回っていた。装甲は削れ、肉が見え、血を流す蒼牙鬼。
これは…明らかに可笑しい。コイツは人間なのか?そう疑わしい思想が芽生えてしまうのは、自然の流れだ。
「勇希……?」
血が広がり、苦悶に塗り潰された少年は、微かに見える少女の名を呼ぶ。守がこれまで見てきた少女の姿は何処にもない。人間の皮を捨て、化け物に成り果てた絶恵勇希。
顔や体は確かに彼女そのものだが、この血迷い狂ったような獰猛な容姿、言動、意味不明な言葉を叫び続ける彼女は、どう見ても今までの勇希とは違うし、こんな事は一度たりとも無かった。
「勇希ちゃん……」
「あのガキ…何がなにやら、どうなって……」
見たことも無い醜い化け物へ変貌した少女に、志久万は言葉を失い、光里は膝を折り、地面にぺしゃりと座る。こんな、こんなことってあるのだろうか?
「勇希さん…まるで、こんなの……〝妖魔〟じゃない…」
月光は絶句する。
今まで見たことのない光景、自分達でさえ大苦戦を強いられ、犠牲者まで続出させてしまったあの大妖魔を圧倒する少女の歪な姿、それらは確かに、その場の空気を沈黙させるのには相応しい。
これは…覚醒か?
確かに其れらしき気も感じ取れれば、そうでもないような…そんな答えに行き届かない曖昧な感覚…
「おぉ…あのか弱き偏愛の少女は、神を宿す器だったと言う訳ですか」
屋上の遥か遠く――忍商会第四支部のアジトとかけ離れた夜景のビルから、屋内の様子を見届ける人ならざる者。考古学者のコートを羽織る、首のない不気味な非現実性。そして虚な身体を代弁とする気優しい男性の顔を象徴とする絵画。
驚嘆な言葉を漏らす不気味な遺影は人の顔が写されており、作品である絵画は、絵の中で不思議そうに表情を動作として働かせている。
「多くの魔術者達は、苦難や試練…そう言った物語の葛藤や過去、作品に於ける必要不可欠な要素を乗り越え、ほんの一握りによる者が、
――忍には、覚醒と呼ばれる物が存在する。
類い稀なる存在に宿る特別な力は、常忍よりも遥かに凌ぐものであり、有るか無いかで全てが決まる者も、時には存在する。
――飛鳥と呼ばれる半蔵の生徒には、真影。
――焔と呼ばれる蛇女の生徒には、紅蓮。
――雪泉と呼ばれる月閃の生徒には、氷王。
――雅緋と呼ばれる天竜衆に立ち挑んだ生徒には、深淵。
しかし、勇希と呼ばれる少女のコレは覚醒とは似て非なるモノ…
――絶望である。
そして少女の中には、妖魔が眠り宿っていた。
今まで数千年は眠れるであろう、閉じられた箱を、人間が、妖魔が、無意識に無自覚に、開けさせていた…
枷が外れた妖魔は、少女の心に呟いた。
宿主である妖魔は、少女の臨む破壊を、促せた。
絶恵勇希――この世に産まれた時から、少女には妖魔が宿っていた。
その妖魔は、他ならぬ有象無象の化け物とは違い、神として選ばれた災厄な存在。
その名も…神魔――パンドラ
祠の絵に描かれた、人や妖魔を貪り、災厄を降り注いだ神である。
時間軸は、まだ飛鳥、雲雀、柳生が雄英に移ってから直ぐですね。