艦隊これくしょん 幻の特務艦   作:アレグレット

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第十四話 それでも姉妹

桜の見頃はとても短い。紀伊が第七艦隊で初めて出撃して帰ってきた直後にはあんなにも満開だったのに、鎮守府さくら祭りの開催日当日には呉鎮守府の裏手にある河川敷土手の桜はあらかた散ってしまっていた。

 急きょ南西諸島方面作戦が発動されたからなのだが、艦娘の中にはそれを残念がるものが少なからずいた。大きな桜の木の下に座って上を見上げている数人の艦娘がいる。陽光が葉桜を通して降り注ぎ、下に敷いた毛氈を柔らかく温めている。

「提督も急だったよね~。まぁ、上からの命令には逆らえないのかもしれないけれどさぁ。もうちょっとタイミングってものをわかってなくちゃ。」

こういったのは伊勢だった。

「でも、葉桜もなかなかいいと思いますよ。緑とピンクのコントラストってなんだか素敵じゃないですか?私はこういうのもいいと思います。」

と、霧島が言った時だ。どよめきが聞こえた。さっきから度々聞こえるのだが、その原因が何なのかを知っている二人は意に介さなかった。

「まぁ、でも中には桜の見ごろや散りごろなんて全然関係ないっていう人もいるけれどね。」

伊勢と霧島が向けた視線の中心には真っ赤な絨毯が敷かれ、その上に座っている何人かの艦娘がいた。

『日向選手ついにギブアップ!!ですが103個と大健闘です!!戦艦側はビスマルク選手と金剛選手の二人になった!!おおっと!!これで何個目?!赤城選手120個を突破!!加賀選手も119個を完食です!!なおも両者お稲荷に手を伸ばすぞ!!あっ!!ビスマルク選手も負けてない!!猛然と追い上げて121個目を完食!!金剛選手も後に続く!!これに負けじと赤城、加賀両選手もさらに手を伸ばす!!』

鈴谷の実況で行われている鎮守府艦娘対抗大食いトライアルは大盛況だった。お稲荷の山が減っていくたびに、記録が更新されるたびに見物人からは大歓声が聞こえる。

 サクサクと白砂を踏む音がして、紀伊が伊勢と霧島のそばにやってきた。両手に大きな風呂敷包みを下げている。

「お、紀伊じゃん。参加しなかったの?」

「わ、私はあまりああいうのは得意じゃなくて・・・・。」

紀伊は困ったような笑みを浮かべた。

「それにこの後榛名さんと一緒に――。」

「あ、そうだよね。演奏するんだもんね。頑張ってね!!」

「ありがとうございます。あ、これ、間宮から持ってきました。足りないかなと思って。」

「ありがとう。わぁ!!豪華!!いいのかな、物資大丈夫なの?」

5段重ねにしたお重箱にはおにぎりや煮しめ、鰻、寿司、から揚げ、卵焼き等様々なご馳走が入っていた。早速伊勢が手を伸ばしておにぎりをつかんだ。

「提督が色々な方面に手を伸ばして集めてこられたんだそうです。それに今日一日くらいはのんびりさせてあげたいとおっしゃっていたそうです。間宮にいらっしゃった妖精さんがそういっていました。あの・・・・。」

「ん、何?」

伊勢がおにぎりをほおばりながら聞いた。

「そう言えば間宮っていったい何なんですか?酒保の名前ですか?」

「違うよ。今横須賀にいる給糧艦間宮さんの名前。でも全国にある各鎮守府の酒保は皆間宮って言う名前を付けているんだってさ。それだけ彼女の存在が大きいってことなんだろうね。」

「そうなんですか。」

突然また大きなどよめきが聞こえたが、今度は悲鳴らしきものも交じっている。

『ああっ!!金剛選手突然胸を叩き始めた!!無理な追い上げがたたったのか!!128個を口に入れたところで動きが止まったぞ!!』

「姉様!?もうっ!!!お祭りだとすぐこうなるんだから!!すみません。行ってきます。」

霧島が立ち上がり猛然と会場に走っていった。ほぼ同時に、金剛目指して駆け寄ってくる榛名とそして比叡の姿も見えた。姉妹三人は金剛を引きずるようにして会場の外に連れ出すと、盛んにさすったりたたいたりして介抱している。

「やれやれ、でもさすがは姉妹だよね。」

「日向さんは大丈夫なんですか?」

「日向はこういう時には無理はしないから大丈夫。自分のペースで食べて、危なくなったらすぐにやめるからさ。こういっちゃなんだけれど、私より妹の方がしっかりしてるかな。」

「私は伊勢さんのおっとりしたところ、とても好きですよ。」

「あんたにそう言われるのはちょっと意外だし、照れるな。でもあんたもそうだと思うよ。前は神経質そうだったけれど、今はここにすっかりなじんで丸くなった感じね。あ、違うよ!体形じゃないよ!」

紀伊が顔を赤らめて自分のウエストを触り始めたので、伊勢は慌てて言ったとき、また大きなどよめきが起こった。

『ああっ!!なんということでしょうか!?ここにきて今大会初参戦の新型艦娘、近江選手の追い上げがものすごい!!あっという間に150・・・・160・・・・ええ!?まだ行く?!マジで!?170・・・・!!!あ、駄目だ!!加賀選手ギブアップ!!ビスマルク選手も撃沈!!プリンツ・オイゲンちゃんが介抱しています!!後は赤城選手との一騎打ちだ!!』

「あ、あんたの妹・・・・すごいね。赤城に引けを取らない大食いって初めて見たよ。」

伊勢が唖然となっている。

「はぁ・・・。」

紀伊は顔を赤くした。何やらうれしいようなとても恥ずかしいような複雑な気持ちだった。

 

 三女の近江と初めて会ったのは赤城たちとお茶を終わっていったん自分の部屋に戻ってくる途中だった。航空巡洋艦寮内の廊下で見慣れない艦娘が一人窓の外を見ていた。その姿を見た瞬間、紀伊の胸が高鳴った。長い艶やかな黒髪。赤い上衣に緑のスカーフ、そして黒のスカート。容姿は讃岐が言っていたものと瓜二つ――。

 紀伊の足音を聞きつけたのか、ゆっくりと艦娘がこちらを見た。とてもきれいな顔立ちだ。大きな黒の瞳はとても優しそうだったが、それが驚きに変わった。

「あの・・・・。」

「・・・・紀伊、姉様?」

「近江・・・・・?」

瞬間、紀伊は胸にぶつかってくる近江を受け止めていた。

「あぁ・・・!!」

紀伊の肩に顔をうずめながら近江は声を詰まらせた。

「姉様、本当に姉様なのですね!?よかった・・・やっと会えてよかった・・・・!!」

「近江・・・・。」

紀伊は嬉しくもあり悲しくもあった。妹がこんなにも慕ってくれているのに、ここに来るまで姉妹がいるかどうかもわからず、いると聞かされてもそれほど実感がわかなかった自分が妹に比べてとても恥ずかしかった。

「ごめんね。」

近江がやっと体を離したところで、紀伊が謝った。

「どうして謝るのですか?」

「私はあなたたち姉妹がいることなんて、ずっと知らなかったの。知ったのはつい最近だったわ。なのにあなたに連絡もしなかった。なんというか実感がわかなかったの。」

「いいえ、気になさらないでください。私は生まれた時から尾張姉様、讃岐がいましたけれど、紀伊姉様はずっと一人ぼっちだったのですから。無理もありませんわ。それより・・・。」

近江は視線を不意にそらすと、顔を赤らめた。

「許してください。さっきはあんなにはしたない真似をしてしまって・・・・。」

「いいえ、とてもうれしかったわ。ありがとう。」

紀伊はそっと近江の手を取った。

「それよりもしかしてずっと待っていたの?そうだったら申し訳なかったわ。あなたが眠っているって金剛さんから聞いたから・・・・。」

「いいえ、さっき起きましたわ。本当は真っ先に姉様にお会いしたかったのですけれど、体が言うことを聞かなくて――。」

「長旅だったのだもの、無理ないわ。今夜は呉鎮守府に泊まるのでしょう?色々とお話を聞きたいわ。」

紀伊の言葉に近江はようやくにっこりしてうなずいたのだった。

「はい!」

 

 

紀伊は近江を見ながらその時のことを思いだしていた。

(あの時はとても素直でいい子だと思っていたけれど、こんな一面もあったんだ。というか、すごい・・・あの赤城さんに負けないくらい食べてるなんて・・・・。)

そのことが恥ずかしくもありとてもおかしくもあった。

『残念なお知らせです!!お稲荷の在庫がなくなったとのことで、競技続行は不可能!!よって現時点での完食数をもって勝敗を決めま~す!!』

「なくなった!?すごい・・・信じらんない。こんなこと初めてよ。」

伊勢が紀伊を見た。

「あんたの妹、とんでもないわね。」

「あぁ・・・さすがは、戦艦と空母の特性を持つだけはある・・・・。」

伊勢と紀伊が顔を上げると、日向が立っていた。少しだけ顔色が悪い。

「日向さん?大丈夫ですか?」

「少し食べすぎたな。ちょっと横になってもいいか?」

「いいよ、なんなら私の膝を貸してあげようか?」

「なっ!?」

日向が動揺した。

「ほら、いいから遠慮しないでって。」

嫌がる日向を無理やりに寝かしつけると、あきらめたらしくそっと伊勢の膝に頭を乗せた。

「どう?」

「・・・・嫌じゃない。」

「でしょ。胃薬飲んだの?」

「あぁ・・・。」

「なら、後は横になっているのね。大丈夫だから。」

「・・・・・・・。」

日向は目を閉じた。なんだかんだ言っても姉妹なのだ。お互いを信頼しあっているからこんなこともできる。これからそういうことを妹たちにしてあげられるだろうか。そう思うと紀伊は少し切なさを感じたとき、高らかな鈴谷のアナウンスが城内に響き渡った。

『すごい!!信じらんない!!赤城選手は220個完食!!そして近江選手も220個完食!!引き分けです、引き分け~~~~~~ッ!!!』

おおっ!!と会場がどよめいた。

「赤城に匹敵する食べっぷりは伝説に残るね。いや~呉鎮守府始まって以来のことじゃない?」

紀伊は何と言っていいかわからず、赤くなったりスカートをいじったりしていたその時、救いの神が現れた。

「紀伊さん。」

紀伊が顔を上げると、榛名が立っていた。

「そろそろ私たちも準備しましょう。」

「はい。」

紀伊が立ち上がった。

「すみませんが、行ってきます。」

「ここはいいから、行ってきな。二人とも頑張ってね。」

『はい。』

榛名と紀伊はうなずくと、コンサート会場に歩き出した。

「金剛さんは大丈夫なのですか?」

「ええ。大丈夫です。すみません、よく噛みもしないで詰め込むからああなるんです。でも、そこが姉様らしいのですけれど。」

榛名はふふっと笑った。

「そう言えば紀伊さんは妹さんともう再会なさったのですか?」

「はい・・・ええ。」

「どうしました?」

「その・・・・この前のときもそうだったんですけれど、姉妹って実感がわかなくて、困ってるんです。榛名さんは初めて金剛さんたちとお会いした時のこと、覚えていますか?」

「初めて、ですか・・・・。」

榛名は少し空を見上げ、目を細めた。

「いいえ。覚えていません。気が付けばいつもそばにいるのが当たり前だった、そんな感じなんです。きっと前世でつながりがあったからだと思います。」

「やっぱり・・・そうですよね。」

「でも、紀伊さんたちだってすぐにそうなると思います。」

だといいのですけれど、と紀伊は言葉を濁した。讃岐も近江もどこか自分と違っている。少なくとも榛名や霧島、金剛、比叡のように一体感がないように見える。その違いは何なのだろう。

「ご存知ですか?」

榛名が紀伊を見た。

「私たちって実を言うと微妙に艤装が違うんです。」

あっと紀伊は声を上げていた。確かに服装や雰囲気は似ているところはあるけれど、艤装は四人とも同じではない。

「それに四人ともずいぶん性格も違います。榛名は榛名ですし、金剛お姉様は金剛お姉様、比叡お姉様は比叡お姉様、霧島は霧島なんです。他の誰でもありませんし、他の誰かが誰かの代わりになることもできません。でも・・・・。」

榛名はにっこりした。

「姉妹っていうだけで一体感があるように思えるんです。かけがえのない大切な存在。榛名はそれだけで十分だと思います。」

さあっと心地よい涼風が二人の間を吹き抜けた。

(大切な存在・・・まだまだ私の心の中にはそういう意識はないけれど、でも・・・・。)

紀伊は思い起こしていた。初めて讃岐と出会った時のこと、初めて近江と出会った時のこと、そしてこれから出会うであろうもう一人の妹の事。讃岐はああいっていた事が思い起こされる。とても不安だ。けれど、それを全部ひっくるめて――。

 

 

(私たちは姉妹なのよね。間違いなく。)

 

 

そう思ったら、じわりと安堵の気持ちが広がった。これまで一人ぼっちだったけれど、こんな自分にも姉妹がいる。紀伊は仲間ができた時とは違った気持ちに包まれていた。

 

「違って当たり前、それでも姉妹、なんです。それでいいのではないでしょうか。」

榛名の言葉に紀伊は大きくうなずいていた。

 

 

 

「夕立ちゃん。怖くないのです?」

ひときわ大きな桜の木の根元にシートを広げて座っているのは駆逐艦娘たちだった。大きなお重はさっき間宮から運び込んだものだ。それを広げて食べながら大食い選手権を観戦したり、出し物を見たりして楽しんでいた。その折にふと電が夕立に聞いたのだ。

「う~ん、わかんないっぽい。」

夕立は他人事のように首をかしげている。

「どうして?」

「だってこれから行くところにはおっきなおっきな深海棲艦がいるって聞いたのです。それなのに私たち、一緒にいけないのです。夕立ちゃん、一人で――。」

「私は一人じゃないっぽいよ。」

夕立がにっと笑った。その笑顔にはこれまでにないもの―自信だろうか――がうかんでいる。彼女は先日改装を受けて、改二になったばかりだった。

「赤城先輩、加賀先輩、榛名先輩、霧島先輩、それに紀伊さんが一緒だもの、怖いものなんかないっぽい!」

「それにあちらには夕立さんのお姉さんの白露さん、村雨さんがいるって聞きました。久しぶりに会えますね。」

と、綾波。

「うん!綾波ちゃんはそういえば寂しくないっぽい?そういえば敷波ちゃんは横須賀鎮守府にいるっぽいよね?お手紙もっていってあげようか?」

「そうですね・・・。」

綾波は手に持っていたおにぎりをすっと下に置いた。

「敷波とは手紙のやり取りだけです。あの子は少し前までは横須賀鎮守府にいたのですが、最近新設された大湊鎮守府に異動になったそうです。」

艦娘たちは顔を見合わせた。その大湊鎮守府というのがどんなところかはわからないが、仮に地名と同じところだとすれば、地理的に言ってヤマトの北方に位置する。簡単に会える距離ではない。

「そっか、そうだよね・・・・。考えてみれば私たちって超ラッキーなのよね。4人全員がこうしていられるなんて・・・・。」

雷が俯く。なんだか申し訳ない気持ちになって電も暁も響も視線を落とした。

「あ、気にしないでください。今までの皆さんもそうでしたし。不知火さんだってそうですし。」

綾波が慌てて取り繕った。

「私は別に気にしていない。」

不知火は遠くのイベント会場を見ながらつぶやいた。

「あ、まぁ・・・不知火はそうかもしれないけれど・・・・。」

暁がそう言いかけ、雷に突っつかれて慌ててごにょごにょと口を濁した。

「それに・・・私はここに入れて幸せです。みなさんいらっしゃいますし、鳳翔さんもいらっしゃいますから・・・・。」

「鳳翔さん?」

一同は首を傾げた。

「綾波って、前世で鳳翔さんと接点あったっけ?」

「あ、いえ。前世の太平洋戦争会戦時に第一艦隊でご一緒したことがありましたけれど、でも、そうではなくて・・・・。」

綾波は遠い目をした。

「私、ここに始めて来たときに真っ先にあったのが鳳翔さんだったんです。私はその時はとても不安で・・・。でも、鳳翔さんはとても優しくしてくださいました。後、初めての出撃で私、鳳翔さんに命を救われたことがあるんです。」

 近海警備に出た時の事、所定の海域のパトロールが終わって、帰投しかけたその時、やや離れていた綾波の後ろに不意に敵艦が出現したのだ。いち早くそれに気が付いた鳳翔は艦載機を放ってこれを迎撃、撃破したのだった。

「だから、私はいつか必ず鳳翔さんにご恩返しをしたいって、そう思っていたんです。あっ!!」

綾波は不意に真っ赤になって黙り込んだ。

「ごめんなさい。私の事ばかり、しゃべってしまって・・・今日は夕立さんの送迎会ですのに・・・・。」

「いいっぽいよ、私、綾波ちゃんの話を聞けて良かったっぽい!私も大好きな先輩や仲間のために戦いたいっぽいもの!」

「でも・・・・。」

不意に天津風が言った。

「今度の作戦はかなりの激戦になるって・・・・・。無事に帰ってきてよね、約束よ。」

その言葉に一同は再び黙り込んだ。陽気に騒いでいても前途の作戦の規模や困難さの重圧からは決して逃れられなかった。それはひしひしと一同を包み、重苦しくさせる。

「やだなぁ。」

不意に雷が沈黙を破った。

「心配したって何も変わらないわよ。そうでしょう?心配して重荷が減ったり、うまくいくのなら、私も心配するけどさ。そうじゃないんだから。体に毒よ。」

「・・・・・・。」

「大丈夫、夕立ならきっと帰ってこれるから!改二になったんだし!あ、ほら、そんなに黙っていないでさ、夕立の出立を祈って乾杯しようよ!暁!」

雷が大きな声で言った。

「そ、そうね、じゃあ・・・ゴホン!」

暁はわざと大きな咳払いをすると皆を見まわした。

「とにかく大切な仲間が離れることは寂しい事ですけれど、夕立、そして先輩方の無事を祈って、皆で乾杯しましょう。」

皆はお互いのコップやグラスや湯飲みにそれぞれが好きな飲み物を注ぎあった。もちろん中身はノンアルコールだった。

「夕立、今までありがとうね。そして気を付けて、頑張ってきてね!!」

『乾杯!!』

駆逐艦娘の言葉が和し、グラスが小気味いい音を立ててぶつかり合った時、ピアノの音色が風に乗って聞こえてきた。

 

 桜の木が囲むような格好になっている小さな空き地に特設ステージが設けられ、そこに大きなピアノが置かれている。手入れを怠らなかったと見えて、ピアノは黒々と光って綺麗だった。

 紀伊は指をピアノの上に置いた。もう楽譜は用意してある。こういう時どんな曲を弾けばいいのかずいぶん悩んだが、一人ぼっちで横須賀にいた時あの人が教えてくれた曲から選ぼうと決意していた。

 一呼吸すって、紀伊はゆっくりとピアノに指を滑らせ始めた。

 

 

「ショパンのノクターンね。滑り出しの曲としてはいいほうじゃん。」

鈴谷が満足そうに目を閉じながらつぶやいた。

「ええ・・・・本当に癒されますわね・・・・。」

熊野は鈴谷の肩に頭をもたせ掛けながらつぶやいた。

「熊野も弾けばよかったじゃん。去年は弾いてたのに。」

「わたくしだって、たまには別の方の演奏も聞きたくなりますのよ。」

そう言った熊野は目をつぶり、心地よさそうなと息を吐いた。その隣では利根がほうほうと感心したような声を上げている。

「ふうん、これがピアノというものか。吾輩にはちと難しいものだな。」

「姉さん、こういう時は黙って聞くものですよ。」

筑摩が注意した。

 

 紀伊の指は滑らかに動き、曲はノクターンからリストのラ・カンパネラに移っている。

 

 

「癒されるなぁ!」

ほうっとと息を吐きながら長良は一言感慨深げに言った。

「少しは音楽に興味を持ちましたか?」

由良は笑いを含んだ目を向けた。

「ううん、ちょっとだけね。私は体を動かしている方が好きだもの。でも、ランニングしながら聞くのもいいかな。どっかにウォークマンみたいなの、なかったっけ。」

「ありますけれど、それは後ででもいいでしょう。折角の機会なんですからゆっくり聞きましょうね。」

「うん。」

長良は素直にうなずくと、シートの上で膝を抱え、じっとピアノ奏者を眺めた。

 

 

 

「不思議ですね。こんなにも安らかな気持ちになれるなんて。」

あれほど食べたにもかかわらずいつもと変わらない様子だった。赤城と加賀は二人ならんでシートの上にひざを抱え、小高い丘の上から紀伊の演奏を見下ろしていた。風に乗って緩やかに舞い上がってくるのは、シューマンのトロイメライだった。

 

加賀は目を閉じて、心持赤城に寄り掛かっている。その姿勢のまま彼女は一言だけ言った。

「ええ。」

赤城はそっと加賀の髪を撫でた。

「こんな時間がずっと続いてくれればいいのに。」

「私はそうは思わないわ。」

加賀は目を片方だけ開けた。

「ずっと続いているとありがたみがなくなるわ。三度のご飯と一緒。空腹だからこそ、仕事を終えた後だからこそ、ありがたみも感じられるし美味しくもある。それと一緒だと思うけれど。」

「そうね。」

赤城はくすと笑った。

「あなたがそんなことを言うなんて思わなかったわ。そういう話題は私の代名詞だと思っていたもの。」

「・・・・・・・。」

加賀は目を閉じたが心持頬が赤くなっていた。

「でも、私は少しだけ反対。今のこの時間を刻み付けるために、忘れないために、もう少しだけ・・・・こうしていたいの・・・・。」

赤城は目を閉じて加賀に身を寄せた。加賀はもう少しで赤城に声をかけてしまいそうだった。先日の作戦会議での様子は普通ではなかった。栄光の第一航空戦隊の双璧として共に錬磨していた赤城について、加賀はある疑いを持ってしまったのだ。

 

 臆したのか、と。

 

だが、結局加賀はその言葉を発しなかった。発してしまえば、もう取り返しのつかないところに進んでしまうのではないか。その思いが加賀を押しとどめていた。

「そうね。」

そうつぶやいたきり加賀も動かなくなった。

 

紀伊が最後の音を収めると、会場からは盛んな拍手が響いてきた。ちょっとよろめくように立ち上がり、一礼すると紀伊は脇に下がった。そこには次の奏者の榛名が控えている。本当は榛名を最初にしたかったのだが、どうしても紀伊さんから、と言われ、引き受けてしまったのだ。

「とっても良かったですよ。」

榛名はにっこり微笑んだ。紀伊は赤くなってうなずきながら、頑張ってください、と答え返した。

 どこに座ろうかと思っていると、誰かがうなずきかけているのが見えた。紀伊はそばに行って並んで腰を下ろした。

「姉様とても素敵でした。私、ピアノの生演奏を聴いたの、生まれて初めてなんです。」

近江が頬を高揚させていった。

「私なんか・・・・。」

紀伊は恥ずかしくなって視線を逸らした。

「次の榛名さんの方がもっとずっと上手よ。」

やっとの思いでそう言った時、榛名の手が動き始めた。

 

「流石は榛名ネ~。」

金剛は楽しそうににこにこしながらリズムに合わせて首を左右に傾けて聞いている。

「姉様、もうお腹は大丈夫なのですか?」

隣に座っている比叡が心配そうに聞いた。

「Please don't worry.大丈夫ネ。さっき比叡がくれたお薬でだいぶ良くなりまシタ。」

「ならいいですけれど・・・。」

「シ~ッ、今は静かにネ。」

金剛が指をたてたので、比叡は黙り込んだ。

 

榛名の指は華麗にピアノの上を踊り、乙女の祈りからトルコ行進曲に変わっていった。

「姉様。」

寄り添ってピアノに耳を傾けていた近江が突然紀伊に話しかけた。

「なに?」

「邪魔してごめんなさい。でも、どうしても言いたかったことがあります。」

「?」

近江はそっと体を紀伊にもたせ掛けた。

「お会いしてまだ間もないですし、お互いの事、全然知りませんけれど、でも・・・・。」

「でも?」

「それでも私たち、姉妹なんですね。こうしているだけでとても安らかな気持ちになります。」

紀伊はうなずいた。姉妹という実感はまだまだわかないけれど、不思議と穏やかな気持ちになりつつある。それは讃岐に出会って二人でお茶を飲んでいるときに感じたものと同じだった。

「私、今の時間がとても大好き。こうして姉様と一緒に穏やかな時間を迎えられてとても幸せです。そのことを伝えたくて・・・・。」

どうこたえていいかわからなくて、どうすればこみ上げてくるものをおさえられるのかわからなくて、ん、と喉の奥で答えるのが精いっぱいだった。

 姉様、と近江が身を離してまっすぐ紀伊を見つめた。

「あらためるのもおかしいのかもしれませんが、この先大変な戦いになりますけれど、姉様。どうかよろしくお願いします。」

「こちらこそ。」

紀伊がしっかりとうなずいたとき、榛名の演奏が終わった。万雷の拍手。そして、アンコールという声があたりにこだましている。

「紀伊さん。」

拍手の嵐の中、榛名が紀伊を呼んだ。紀伊は立ち上がった。

「姉様?」

「ごめんなさい。最後にもう一曲だけ弾くことになっているの。」

「もう一曲?」

「ええ、本当は4人で弾くはずだったのだけれど、でも、榛名さんがどうしてもって。私も同じ気持ちだったから――。」

不思議そうな顔をする近江にうなずきかけると、紀伊はステージに上がっていった。

「・・・・ありがとうございます!アンコールに応えて、最後にもう一曲です。これは・・・・。」

榛名は一瞬目をぎゅっとつむったが、すぐに微笑みを取り戻した。

「これは今佐世保鎮守府にいらっしゃる翔鶴さん瑞鶴さんに送りたいと思います。」

そういうと、二人はうなずき合い、そろって椅子に腰かけた。

 

 

「連弾?」

鈴谷が声を上げた。

「ええ、連弾ですわ。珍しいことですわね。普通はあまりないのですけれど・・・・。」

「連弾とはなんじゃ?」

「一つのピアノを二人で弾くことですわ。成功すればとても美しいメロディになりますけれど、でもそれには二人の息がぴったり合っていないと――。」

その時榛名の右手が動き、旋律が沸き起こり始めた。

「しっ、始まりましたよ。」

筑摩の促しで4人は口を閉ざし、耳を傾けた。

 

 

「これ、知ってるわ。」

足柄が目を大きく見開いて姉に話しかけた。一つの旋律にもう一つ、さらにもう一つと積み重なり、美しい音界が織りなされていく。

「とてもきれいだけれど、とても切なくなる曲・・・・。」

「ええ、パッヘルベルのカノン・・・・。」

妙高は目を細めてうなずいた。

 

榛名の紡ぎだす音に寄り添うように紀伊は指を走らせていく。時折榛名がちらっと紀伊を見てかすかに微笑んでうなずく。紀伊も同じだった。滑り出すまではとても不安だった。初めてこの話を持ち出された時は正直驚いたし、自信もなかったからだ。

「連弾ですか?」

驚きを込めてそう聞き返すと、榛名はうなずいた。

「一度やってみたかったんです。翔鶴さんや瑞鶴さんが出れなくて、二人だけでは不足かもしれませんが、でも、やってみたいんです。」

「でも、それには・・・・。」

「ええ、お互いの呼吸をつかむことが何よりのポイントです。でも、紀伊さんとだったらできる気がするんです。お願いします。」

そこまで言われては紀伊は断ることができなかった。

 

 そして今、二人の織りなす幾重もの旋律は美しい音界となってステージの周りを、会場を包み込んでいく。

(この音、この思いが二人に届きますように。)

紀伊は願いを込めて鍵盤に指を走らせ続けた。

 


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