そもそも、なぜ深海の姫に大鳳という器を着せる必要があったのか―――。
当時大鳳が旗艦として率いていた技本連合艦隊は、とある海域で想定外に出会った一体の姫級との遭遇戦で、ほぼ全員が虐殺された。現場海域がくまなく捜索された結果、大鳳と深海の姫が差し違える様に漂流しているのが発見され、大本営よりこの新型の姫の鹵獲救命が再優先事項との指示が出た。大佐が指揮を執った修復作業は、深海の姫の救命が間に合わなかったと報告され、軍首脳陣を落胆させた。
実際には、大佐はその深海の姫を
この過程で得られた技術こそが本来の
◇
ベッドに横たわる大鳳は、少し不安そうな表情を浮かべ大佐に視線を送っている。頭には様々な種類の測定機器が接続され、ベッド脇のモニターには脳波が映し出されているようだ。ふわっとアロマの香りが漂い始め、大鳳が鼻をひくひくさせる。あ、これ、私の好きな香り…大鳳がくすっと小さく微笑む。
「大佐…これ、どうしたんですか?」
「む? 以前貴女が好きだと言ってたので用意しましたが?」
もちろん、大佐のラボはマッサージサロンではない、意識レベルを下げるための薬剤も一緒に用いている。ラボの一角にアロマの香りが漂う頃には、大鳳の小さな寝息が聞こえてきたが完全に眠っているわけではない。大鳳の潜在意識にアクセスするため半覚醒状態に誘導してある。大鳳自身も気づいていないストレスがあって、何らかの心理的負荷が掛かっているのかも知れない、と大佐は考えていた。そしてその答はすぐに現れる。
「大鳳の意識レベルを低下させれば、妾がより
「………久しぶりですね、
仁科大佐は振り向かずに答えるが、その表情は醜く歪み、彼にしては珍しく感情を露にしている。制御系に異常値は検出されていないが、これは一体…狼狽が僅かだが声にも表れている。名も無き深海の姫とはそのままの意味で、当時人類側が知る姫級と異なる彼女にも関わらず、名を付ける間も無く大鳳の命を繋ぐ依代とされたからだ。
「久しぶり…? 妾は常に大鳳の五感を介し、全てを了知している。それとも、貴様ごときに深海の姫たる妾を御せたと本気で思っていたのか? 可愛いものだ」
流石に黙っていられない、と顔色を変え大佐は振り返る。既に大鳳は起き上がりベッドの上で胡坐を組み、肘を膝につき手で顎を支えている。表情はにやにやと大佐を揶揄うものになっている。
「大鳳を壊して妾の姿に戻るなぞ造作もない。だがそうしなかった。何故か分かるか? 貴様の顔…大鳳を繋ぎとめようと必死になっていた時の、鼻水と涙でぐちゃぐちゃの顔が…堪らなく哀れでな、情けを掛けた、そういう事だ」
ますます仁科大佐の表情が歪む。この姫の言っている事は、間違いなく事実だろう。自分の技術では、荒ぶる深海の姫の魂を制御下に置くことはできなかった。相手の気紛れに救われていただけ、それが仁科大佐を打ちのめした。
「それで…? 用件は本題から入ってください」
「強がるな孺子よ。妾は………知りたいのだ。そして………知った上で決めようと思う」
「何を…? ぐぉっ……ぐあぁぁっ!!」
それは刹那の出来事。瞬き一つの間に、大鳳はベッドを飛び降りると仁科大佐の懐に入り込み、持ち上げた右足を踏み下ろすようにして外側から大佐の右膝を蹴り砕く。堪らずに姿勢を崩し大鳳の目の前まで下りてきた大佐の側頭部に人差指から小指までの指をゆっくり突き立てた。
「全てを見せるがよい。積年の疑問、大鳳は…貴様にとって何なのだ? 言葉は不要、貴様の魂に直接聞く」
そう言うと名も無き深海の姫は、仁科大佐の記憶に深く入り込んでゆく………。
◆◆◆
こんこん。
「どうぞ」
その声に応じるように、ドアが静かに横に開き、ぷりっとゆで卵のような尻が姿を現した。そのまま尻は水平移動すると九〇度回転、しゃかしゃかと病室の中へと駆け込んできた。
「あははははははっ!! お兄ちゃん面白いっ! 相変わらず今日も変態だねっ! でも、そういうの好きだよ」
その声に満足するように、着衣を直したこの男は、高校時代の仁科大佐。そして病室のベッドに横たわっているのは彼の妹で、生まれつきの疾患でずっと病院暮らしを続けていた。仁科青年は医学部進学に向け忙しい中でも、学校が終わるとほぼ毎日妹を見舞うため病院に訪れ、妹を笑わせていた。いつの時点かで精神の成長が止まってしまった妹は年齢の割には幼く、こういう体を張った、ある意味で分かりやすい下品なギャグに大きく反応する。
それでも日々は笑顔に満ちていた。が、終わりは唐突に来る。病状が進行し意識混濁となった妹は、彼がどれだけ何をしようと、ぴくりとも反応しなくなった。そのころ両親が離婚、父方に引き取られた妹は転院し、母方にいる彼は、妹と会う術を失った。
◆◆◆
数年後、再会は訪れる。仁科青年は医学生として、妹は解剖学の実習用検体として。彼の握ったメスは、妹を切り開いた。
「貴女は…外見も体組織も…どちらも美しかったのですね。生きている間には気が付きませんでしたよ…ふははは、ははは、はははははははははっ!」
仁科青年は医学の道を捨て軍に任官した。
◆◆◆
技本-技術本部の霊子工学部門に配属され早数年、実験兵装のテストベッドとして技本独自の艦隊所有が許可された。様々な艦娘が配属されたが、大鳳型装甲空母一番艦の大鳳だけが、仁科大佐の心に焼き付いた。
「最新鋭だからって、そんなジロジロ見られると、困ります!」
開口一番、困惑した表情にさせてしまいましたね。たかが15分ほど何も言わずに上から下まで嘗め回すように微に入り細に渡り見つめただけですが。…よく似ていたもので。
驚くほど、死んだ妹に似ている。
あの笑顔がもう一度見たい。
誰かを笑顔にする、そのために仁科大佐が知っているのは、体を張った下品な振る舞いだけだった。
◆◆◆
大鳳はほとほと困り果てていた。黙って仕事をしていれば極めて有能な上司だが、隙あらば脱ぎたがる変態的な性癖は理解できない。それでも時折不意を突かれて笑ってしまう。そんな時彼は、心底嬉しそうに、屈託無く笑う。その笑顔だけは好きだった。そのうち、彼の笑顔が見たくて彼を受け入れている自分に気付く。最早手遅れだった。
「はぁ………どうしたって変態………でも、どうしてこんな人を好きになったのでしょう」
ある日、顔を真っ赤にして訥々と本心を明かした大鳳の言葉は、彼にとって忘れ得ぬ熾火として心に灯り続けた。
◆◆◆
精一杯、技本艦隊の旗艦として、できる限り暴れ回りました。あの姫級の深海棲艦…すごく強かった。仲間が次々と沈められて、私も…。でも…勝てなかったけど相打ちには…できた、はず。このまま海に帰るのかな、イヤだな…って思ったけど、最後にまた会えた…。クスッ…鼻水と涙でぐちゃぐちゃの、ひどい顔…。また私を…笑わせるつもり、なの…?
あの人が好きだと言ってくれた笑顔…で…笑えて、る…かな。
口は…まだ動く。言えるうちに言わなきゃ…これが最後だから…。
「………でも、好き」
◆◆◆
すぶり、と音を立て
「…貴様、何をした?」
「言った通りだ。貴様の奥底を見せてもらった。届かぬ願いに振り回される姿、実に愉快だ。…一つ問おう。貴様が心に宿すのは…どちらだ?」
亡き妹の幻影か、大鳳自身か、名も無き深海の姫の問いは明らかだろう。
「貴様には関係のないことだ。それに…私の記憶をスキャンしたのなら、すでに分かっているはずだろう?」
「それを貴様の言葉で語れと言っておる」
「槇原南洲といい、深海の姫といい、つくづく悪趣味なことですね。ですが、この場面で私に答えない選択肢は、ありません、か…」
―――――――。
仁科大佐の言葉に、名も無き深海の姫は言葉を返す。
「ふ、ん…。その答でなければ、貴様を八つ裂きにしていた所だ。稚拙な貴様の技術だが、それでも役に立ったようだ。妾の魂と大鳳の魂は重なり感覚も同じ…大鳳の感情は、妾にも影響を与えておる。つまり、大鳳の愛する者は、妾も同様に愛しておるようだ。まったく、こんな変態相手に…不本意なことだ」
は? ナニイッテルノコイツ? とぽかーんとした顔で見つめる大佐に、彼の癖が移ったように名も無き深海の姫は肩を竦める。
「貴様を蝕み負の力を増幅させていた、陸奥の
はぁ…と深いため息をつきながら、仁科大佐はまっすぐに
「………貴女の…大鳳の笑顔を見るためなら、私は何でもします。ですので、何があっても私から離れないでください」
「はい、ずっと前から全部分かっていました。私も…同じ想い、です」
「はああああっ!? あ、貴女は…大鳳ですかっ!? あの姫っ、いきなり変わるとはっ」
真っ赤な顔でてれてれしながら、目をきらきらさせ抱きついてくる大鳳に、めったに見せない真っ赤な顔で大慌ての仁科大佐。諦めたように大鳳にされるがままにしていた大佐だが、やがて肩を震わせながら笑い始め、おもむろに立ち上がると感極まったように叫び始めた。
「やはり技本の技術は世界いちぃぃぃぃぃっ! であることが証明されました。さあ大鳳、これからは真珠湾を拠点に真なる技本を再興しますよっ。一生は何もせぬには長く、何かを成すには短いのです、漲ってきましたっ! 」