残った最後の輸送船は、トラック泊地から付けられた護衛を伴い、ハルマヘラ島ウェダを目指し夜明け前に人知れず抜錨し西南西に進路を取った。トラックから一四ノットで丸四日の航程となる。
「司令官、本当に扶桑さんを行かせて良かったの? あとで艦隊本部に怒られるんじゃないの?」
トラック泊地の執務室では、秘書艦の瑞鶴が司令官に疑問と一抹の不安を呈する。長く過酷なリハビリを経て現場に復帰した司令官と、
「そんな事はないさ。
頭の上に疑問符をいっぱい浮かべる瑞鶴に対し、手にしていた書類を机に置きトラックの司令官は説明を行う。
「今回配属された扶桑は、元々ウェダという、今は無い基地の所属でそこで戦没したことになっていた。なので艦娘としての登録番号はそこで抹消されている。その後、どういう経緯か知らないけど、技本の実験用機材としての登録番号が付与されたままなんだ。分かるかい? 本人と登録番号種別が合致してないんだよ。トラック泊地所属の艦娘としての新しい登録番号は来てないし、登録上今の彼女は実験用機材のままだ。艦隊本部が相変わらず形式主義で助かったよ」
あっ、と驚いた表情の瑞鶴は、司令官の顔を眺める。
「…あの扶桑なんだろう、君が深海棲艦に堕ちたのを救ってくれたのは? なら、僕は精一杯の恩返しをしないとね」
◇
航路の三分の二を過ぎた辺りに位置するパラオ泊地には、管理海域の航過を事前に通告してあり、島の南方を一行は過ぎゆく。支援兼休息用の母艦が随伴する、天龍と龍田、雷と電、そして扶桑の五名に守られた輸送艦、一行は遮るもののない海をひたすらに進む。二三機の瑞雲が青空に舞い警戒を続ける中、それは現れた。
「まもなくヘレン島南を航過します。もうすぐで日本海軍の管理海域を出ま……探針儀に感ありっ!! 潜水艦二…天龍さんっ!」
「そう慌てるなって。『航過は許可したが臨検は実施する』って通信がパラオから入った所だ。へっ、ネチネチした連中だぜ。んで、瑞雲からの情報だと北北東から軽巡四隻が急速接近中だってよ。よーし、こっちも好きにやらせて貰うぜ」
護衛艦隊の旗艦を務める天龍は、不敵な笑みを浮かべながらも内心焦っていた。臨検で輸送船の
-だが、簡単には行かせてくれなさそうだな。
ふふん、と鼻で笑った天龍は、指をポキポキと鳴らし、軍刀を抜く。
「俺がどれだけ怖いか、しっかり教えてやろうじゃねえか。おしっ、まずは扶桑の姉御、両舷全速、さっさとインドネシアの管理海域に入ってくれ。その輸送船と一緒に目的の島まで着いたらお役御免だ。これはウチの司令官命令だからよ、頼むぜ」
扶桑がきょとんとした顔で天龍を見つめ、何を言われているのか分からない、そんな表情で小首を傾げる。
「大丈夫よぉ~、瑞鶴を助けてくれたお礼だから~。それに、輸送船の
サムズアップに二重の意味を込めウインクした龍田は、頭上の輪を明滅させながら、ひゅんっと風切音を立て薙刀を構える。
扶桑が龍田を振り返る。瑞鶴を助けた…それって私が
「はあ~、ロマンチックなのです~。扶桑さん、幸せになってくださいなのですっ!」
「大丈夫、私達トラック泊地全員が扶桑さんの味方なんだから、も~っと頼っていいのよ」
電と雷の姉妹がハイタッチをすると、主機を全開にして前進を始める。
扶桑はやっと意味が分かった。
北太平洋海戦後に配属されたトラック泊地では、まるで凱旋した将軍の様な手厚い歓迎を受けた。南洲と扶桑が、堕ちた瑞鶴を救ったと誰もが理解していたからだ。そんな事とは全く思い当たらず、かえって困惑してしまった。新たな任地、新たな仲間、それでも胸にあるのは、ただ一人の事。北太平洋海戦での短い再会、お互い意識不明の重傷、目覚めれば一人だった。それから顔を見る事さえ叶わぬまま今に至る。
そして目的地も知らされないまま与えられた護衛任務は、西へ進む一隻の小さな輸送船を守る二五〇〇kmの長い旅。このまま進むと、ウェダ基地のあったインドネシア東部方面に向かう。西に向かうにつれ、昔の想い出に胸の奥が微かに痛くなった。けれどこれは偶然ではなく、トラック泊地のみんなが私のために―――扶桑は涙が溢れるのを止める事ができなかった。
ぐいっと拳で涙を拭った扶桑は、凛々しく南洲に呼びかけると、主機を全開にする。
「準備はいい? 急いで突破します!」
とはいっても、小型輸送船と低速の航空戦艦、壊れそうなほど主機を上げても二四、五ノットが全力の扶桑。天龍達四人もパラオ勢を足止めしながらインドネシアの管理海域を目指すが、その間を縫い、三六ノットの快足を誇る長良と名取が先行しインドネシアの管理海域内に展開、扶桑の行く手を塞ぐ。輸送船に目をやると、春雨以下翔鶴、神通、神風がいつでも飛び出せるよう準備を始めていた。
-どうすれば…。
絶対に南洲達を戦わせる訳にはいかない。扶桑の二三機の瑞雲は健在であり、全機突入させれば前面に立ちはだかる二人を撃退できる。だがそうなれば、パラオ泊地にこれ以上ない介入の口実を与えてしまう。
睨みあいを続ける扶桑の目に、長良型二名の背後の遠くで閃光と爆炎が映った。立ち上る黒煙の大きさから見て大口径砲なのは明らかだ。
「あの…」
「扶桑さん、逃げずに臨検を受けてください、すぐ済ませますから。お願いですっ」
扶桑が呼び掛けるが、名取は低姿勢で頼み込んでくる。
「ですので…」
「逃げるって事はやましい事があるの? パラオ泊地司令官の命です、大人しく臨検を受け入れてくださいっ」
海域を管理監督する泊地司令官としては当然の権利だが、事前に航過許可を取ったのにこのやり方。明らかに艦隊本部の意を組んだ嫌がらせだが、長良にはそんな政治的背景は分からず、ただ忠実に命令を遂行しようとする。名取が気弱そうに長良の腕をひっぱり、扶桑に視線を向ける。長良も扶桑が何かを言おうとしていたことに気付き、少しトーンを落とす。
「扶桑さん…なんでしょうか?」
「いえ…そろそろ着弾しそうだなあって…もう、遅いですよね」
扶桑の言葉が終わるか終らぬかのうちに、次々と巨弾が長良と名取の周りに着水し、巨大な水柱を立てる。その大きさから見て、間違いなく戦艦の主砲が撃ち込まれた。
「Guten Morgen、ここはインドネシア政府と協定を結んだ我がドイツ海軍の管理する海域よ、誰の許可を得て立ち入ってるのっ!? パラオの艦娘達、ただちに立ち去りなさい。じゃないと威嚇じゃ済まないわよ。それとも、このビスマルクの四基八門の三八cm砲の威力、一から教えてもいいのよ。ああ、そこにいるのはトラックの艦娘達ね、貴方がたの事は聞いてるわよ、早くいらっしゃい」
風になびく長い金髪、すらりと伸びた長い手足、そして自信満々な口調と表情…それは日本を立ち去ったはずのビスマルクの姿。すでにトラック勢は手を出せない場所に逃げ込み、こうなると長良や名取を含むパラオ勢は矛を収めることしかできなくなった。少なくとも、許可を得ずにドイツ海軍の管理海域に立ち入ったとなれば大問題になる。仕方なく、いったんビスマルクの主張する管理海域の境界線の外まで出ることにした。
見えない線が引かれたように距離を開けながらも、背後に扶桑と輸送船、トラック勢を庇うビスマルクとにらみ合うパラオ部隊。右手で長い金髪を後ろに送りながら、自信たっぷりにビスマルクが宣言する。
「いいこと、日本海軍だろうが深海棲艦だろうが、ドイツ海軍の預かる海に入る事は許さないわ。許可なく立ち入るなら、このビスマルクが直々に相手をしてあげるけど。…ん? いいわ、確認したければ勝手にどうぞ」
騒がしく動き始めたパラオの部隊を意に介することなく、ビスマルクは両手を上に向け肩を竦めながら、扶桑に素早く視線を送り小さくウインクをする。司令部と連絡を取っていた長良だが、やがて悄然とした表情で、ビスマルクに管理海域への無断侵入を詫び、部隊を集めて立ち去って行った。トラック勢もまた、扶桑に涙ながらに別れを告げ、長駆泊地へと帰投する。
◇
これ以上の危険はない、そう理解した扶桑は居ても立ってもいられず輸送船に乗り込み、上甲板に上がってきた南洲に飛びつくように抱き付いた。言葉は出ず、南洲の胸で泣きじゃくる扶桑と、それを見守る春雨や翔鶴、神通と神風。
遅れて乗船し甲板まで上がってきたビスマルクは、一瞬眉をぴくりと上げたが、すぐにため息を付く。何だかんだ言って、いっつも艦娘に囲まれてるのよね、この人って…。
「お取込み中の所邪魔するわね、ナンシュー、ここまでくればもう平気よ。…って何で片腕なのよっ!?」
「………何でお前がこんな所に…。ドイツに帰れって言っただろう?」
お互い質問をぶつけ合い、答えが得られない会話。先にビスマルクが背景を説明する。
「ナンシュー、私は『絶対帰ってくる』、そう言ったでしょう? 帰国する前からアカシやオーヨドとは連絡を取り合ってたし、貴方の動向もしっかり掴んでたのよ。約束通りドイツ政府を貴方のために動かしたわ、褒めてくれていいのよ。さっきも言った通り、ハルマヘラ島を中心とする150km圏はドイツ海軍が管理する海域になったわ。本国も、膨張を続ける日本海軍、特にあのヨシノって中将がインドネシアに食い込んでるらしいじゃない? それをそのままにしておくのは嫌だったみたいでね。インドネシア政府高官のテーブルにユーロの札束を積み上げたら、喜んで協定締結してくれたわ。だからナンシュー、この海は貴方と私達だけの物よ。さあ、行くわよ、ウェダって所でいいのかしら」
◇
南洲が舞鶴で死亡したという話は一瞬軍を騒がせたがすぐに風化し、誰の口にも上らなくなりどれくらいの時が経ったのか。その頃になると、戦場伝説めいた噂が各地の艦娘の間で静かに広まっていた。
インドネシア東部海域のどこかにある島には、大柄で隻腕の提督が治める基地があるという。探しても見つけられないその場所だが、傷つき行き場を失くした艦娘だけはその島に辿りつけるらしい、そう言われている。実際、行方不明になったり轟沈したと言われる艦娘の姿をその海域近辺で見かけるとの噂が後を絶たず、流言とも言い切れない何かがある-多くの艦娘はそう理解している。
遠くにゆらゆらと見えるが、近づくことはできないその基地は、いつしか『逃げ水の鎮守府』、そう呼ばれる様になっていた。
(了)
これにて『逃げ水の鎮守府-艦隊りこれくしょんー』、終幕となります。ここまでお付き合いくださいました読者の皆様、心よりお礼申し上げます。
第三章でコラボさせていただき、その後もインタラクティブに物語を動かす機会をくださったzero-45様には深甚なる感謝を。
のちほど活動報告もアップしますので、よろしければそちらもご覧ください。