フェンリルを送り出してから1時間ほど経ったころ、ネルは夕食を食べ終え部屋に戻るとそこには果実酒を飲むクレマンティーヌがいた。
それを見たネルはフェンリルの前では見せない心底嫌そうな顔をした。フェンリルが仲間として迎え入れてから数か月経ったが未だにネルはクレマンティーヌが嫌いだ。
敬愛する主に気安く抱き着くのが嫌いだ。
フェンちゃんなど気安く呼ぶのが嫌いだ。
ネルがクレマンティーヌを嫌いな理由を上げればきりがないほどに嫌いだ。
そしてそれはクレマンティーヌも同じことだった。
「アンタさぁ、酒が不味くなるからその顔やめてくんない」
「あなたに良い顔をする理由がありませんから」
「はぁ、まぁいいや、丁度いい機会だからちょっとこっちきて」
「なぜ?あなたの近くに?」
「私だってさぁ、好きで言ってんじゃないの、フェンちゃんの為なの!」
フェンリルの為と言われればネルは従うしかない、フェンリルに関して意味の無い嘘を吐くクレマンティーヌではない事を知っているからだ。渋々ではあるが体面の椅子に座る。
「それでマスターの為とは何でしょうか?」
「アンタ私の事嫌いでしょ、私もアンタの事嫌いだし」
「当然です」
「でもさ、それじゃダメじゃない?」
「ダメ?なにがですか?」
クレマンティーヌはネルの察しの悪さに頭痛がしてくる思いだった。フェンリルに仲良くしろと言われているのに当事者同士が一切歩み寄りを見せないのだ。相手の事など一切考えないクレマンティーヌだが仲の悪さを理由にフェンリルに捨てられるのだけはご免被る。
「だから!仲良くしろって言われてるのに仲が悪いこと!このままだといずれ捨てられるよ」
「捨てられる?まさかそんな事あり得ません」
「一度聞いてみたかったんだけどさ、アンタのその自信はどっからくるわけ?」
なぜネルはフェンリルに捨てられることを恐れないのか不思議だった。いやそもそも捨てられるなど考えていないのかもしれない。
「自信?そんなものマスター、フェンリル様にそうあれと生まれた私に今さらというものです」
クレマンティーヌは頭痛がしてくる。やはりネルは絶対に自分は捨てられないと思っている。何とも危険な考えだ。神と崇めるフェンリルとて心を持ち生きている限り心変わりが絶対に起きないという保証はないというのに。
「アンタさぁ、本気でそれ思っているなら絶対捨てられる。今は良くてもあと何年かすれば絶対に捨てられる。私としては良いんだけどさ、アンタの巻き添えを喰らうのは絶対に嫌!」
「あなたがそうでも、私が捨てられるなどそんな事あり得ません」
話を聞いても自分の意見を曲げないネルにクレマンティーヌは腹が立った。
「私らがいがみ合っている間に他の女が近寄ってきたらどうすんのさ!フェンちゃんはモテるからね!この前のマジックキャスターも絶対に惚れて来るよ。もしかしたら私らがいがみ合ってる内に女を作って、その女に夢中になって捨てられるかもしれない。アンタそれで良いの?私ら以外にフェンちゃんの傍に女が居て良いの?どうなの?私は絶対に嫌だからね!」
そんなものネルも絶対に許せない、クレマンティーヌが嫌いなのは変わらないがこれ以上フェンリルの寵愛を受ける敵を増やすわけにはいかない。
「分かりました。あなたといがみ合い続けるのはやめましょう。ですが勘違いしないでください、あなたを嫌いな事に変わりはありませんから」
「安心して、私もアンタが嫌いなのは変わらないから」
二人はグラスを合わせる、休戦の誓いだ。
それからフェンリルに対してのとある作戦を立てながら何本目かの果実酒を開けた頃、フェンリルが帰ってきた。
「ただいまー」
フェンリルが部屋に入ると酒の匂いが押し寄せてきた。
「うっ」
「おかえり~」フェンリルにグラスを掲げ迎えるクレマンティーヌ、その顔は紅くなっている。
「おかえりなさい」ネルはいつもと変わらず迎えてくれたがその手にはなみなみと酒の入ったグラスが
テーブルの上と下には幾つもの酒瓶が並び、そのどれもが空になった物ばかりだ。どうやらこの前購入した酒をほとんど飲んでしまったようだ。
「あれ~、なんかフェンちゃん暗くない?なに晩餐会の食事美味しくなかった?」
「食事は美味かったよ・・・そこでさ」
フェンリルは全てを話した。レイナースという呪いを受けた女性に万能霊薬を上げた事、そして対価を受け取り忘れた事、その万能霊薬がこの世界では伝説的アイテムとして興味を持たれたこと。
モモンガが聞いたら後者の問題を気にするだろうが二人は違った。レイナースの事が気になった。
「フェンちゃんは何でその女にアイテム上げようと思ったの?」
「何でって、変な臭いが気になったからで―――」
「本当にそれだけ?」
クレマンティーヌが酒臭い顔をフェンリルに近づけた。
「それだけって―――」
「その女が綺麗だったからとかではなく?」
今度はネルが迫ってきた。
「いや、そんな下心は無いよ・・・綺麗だったけど・・・いやでも―――」
「「そこに座りなさい」」
眼の座った二人が指したのは床だ。
これ以上女を近づけさせない誓いを立てて数時間も経たないうちに女の気配を作ってきたフェンリルに二人は初めてのタッグを組んだ。
その迫力にフェンリルは何も言わず素直に床に正座した。
この日の説教は二人に酒が入っていたこともあり深夜には終わったが精神的ダメージは今までで一番だった。
ニンブル邸
フェンリルが去った後、レイナースはジルクニフ達に背を向け、小瓶に入った万能霊薬の中身を飲み干す。
味はいかにも薬という苦みを感じた。今のところ身体に異変は無い、すると呪いを受けた顔右半分が熱くなり青く幻想的な淡い光に包まれた。
顔の熱と淡い光が消えると持っていた手鏡を恐る恐る覗き見ると、醜くおぞましい歪んだ呪いが消えていた。鏡に映る自分の顔、どれ程この時を待ったのかわからない
「呪いが・・・解けた・・・」
いとも簡単に消えた事が信じられないと念入りに顔を見るが最初からそんなものなど無かったかのように滲み一つない。本当に消えたのだと確信すると自然と両目から涙が零れた。
ジルクニフがニンブルとバジウッドに目配せするとフールーダが動き出す前に抑え、ニンブルが何やら耳打ちすると大人しく部屋の外へと出て行った。
「良かったなレイナース呪いが解けて、だがどうする?ウォルフ殿にお前は何を返すのだ?」
そうレイナースは返さなければならない、待ち望んでいた時をくれた恩を、だが仲間になる事は断られた。金もフールーダが提示した金額など持っていない。
「そこでだ。金なら私がお前に貸そう、お前は帝国四騎士として変わらず働き支払う給金から返してくれればいい、お前の今までの働きから利子などは取らぬとしよう」
「ありがとうございます。陛下」
これでジルクニフはレイナースへ新しい恩を売る事が出来た。しかしまだ完全ではない、貸した金をレイナースはウォルフへと支払うだろう、だが帝国四騎士として帝国に残るとは限らない、借金を踏み倒してどこかへと逃げる可能性が全く無いとは言い切れないとジルクニフは考えているからだ。
だから新しい楔を打たなければならない。
「だが、それでウォルフ殿は満足するのだろうか?」
「満足?」
「そうだ。伝説とまでされる霊薬を何の見返りも保証もなくお前に渡すような優しい人間に、金だけを払ってそれでお前は良いのか?それでお前の心は伝わるのか?」
ジルクニフの言う通りだ。金だけを支払って終わりにしてしまうそれは嫌だ、自分の心に生まれた恋いや愛をウォルフに伝えなければ、仲間に女が二人いるというだから言葉だけではなく行動で伝えなければ
「陛下のおっしゃる通り、きっとあのお方を金だけでは満足させられないでしょう。私の気持ちを伝えるには金以上の何かをあの方へ差し上げなければ」
ジルクニフは心でほくそ笑む。これでレイナースはウォルフが帝国にいる限りどこへも行かぬであろう、そしてレイナースを利用してウォルフを帝国へ根付かせる。
二人を結婚させるのもいい、そうしてレイナースを帝国貴族として復帰させウォルフに爵位をくれてやろう、仲間にダークエルフと義姉がいるという事だが何の問題もない貴族に妾を持つ者は多いし、義姉には良い縁談を紹介すれば良い、さらに強い父母から生まれる子は将来帝国の役に立つことだろう。
その為に幾つもの策を弄さねばとジルクニフは頭脳を働かせる。
これによりフェンリルの悩みが多くなっていくことになる。