グロリアス軽戦車   作:景浦泰明

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『グロリアス軽戦車 最終話』

 

「んぁ~!? それでそれっきりそいつは帰ってこないのか~!?」

 

 食堂に安斎の叫び声が響き、周囲の人間の視線が一斉にこちらを向く。私は慌てて安斎の口を抑えて人差し指を唇に当てて彼女を黙らせる。携帯電話のバイブレーションのようなうめき声が聞こえる中で周囲の学生に愛想笑いを送り、改めて安斎を睨みつけた。

 

「……い、いやすまん。とはいえびっくりしちゃって」

 

「それはわかるが、いきなり大声を出す奴があるか。大学の食堂だぞ」

 

「だって家で会おうって約束したんだろ! それなのに一週間も帰ってこないって何やってんだそいつは!」

 

 頼むからあんまり大声を出すなと懇願し、大きくため息を吐く。

 

 あの試合から一週間。私は夏休みの途中から大学の戦車チームの練習に参加させてもらうようになり、明日から始まる後期では本格的に選手として復帰するため練習に明け暮れていた。私は毎日佑と暮らしたあの家で寝起きして大学に通い、彼の帰りを待ち続けている。相変わらず大学に入学した時に借りた下宿に帰っていないことを訝しんだ安斎から近況を尋ねられて正直に答えたが、私は早くもそのことを後悔し始めていた。

 

「ふー! ふー!」

 

「まあ、まあ落着け。そんなに興奮するな」

 

 目の前で荒い息を吐き続ける安斎をなだめつつ、全く彼女のこういうところがアンツィオを再興させるのに一役買ったんだなと感心する。大学のチームでも既に一年の間では頼れる姉貴分として認知されているようだ。とはいえこの激情癖はなんとかしてもらわないことには困る。

 

「まあ待っていてほしいと言ったんだから、帰ってくるだろう。私はその間自分のやれることをやるだけだ」

 

「うぅー、どっかの恋愛小説みたいなこと言ってるな。そいつの行く先とか動向とかなんかわかんないのか!」

 

「携帯は家に置いたままだし、連絡もない。あいつに友達などいない」

 

「とんでもない奴だなー!」

 

 それに関しては同意せざるを得ないかもしれない。思えばあいつに友達などひとりもいないのだろう。帰ってきたら安斎を紹介してやろうと思った。あいつでも安斎となら仲良くできるだろう。

 

 話題も途切れ、安斎とふたりでコーヒーを飲みながらのんびりしていると、不意に食堂の一角が騒がしくなる。どうやらテレビに出ている人間が大学の出身者らしい。全く困ったものだと思って気にせずコーヒーを飲んでいると、安斎が興味深そうにそちらを覗き込み始めた。

 

「うちから有名人なんて、西住に続いてふたりめか」

 

「テレビの取材に応えることは何度かあったが、あまりいいものではないぞ」

 

「流石有名人の言うことは違うなあ。……あっちの有名人はさくらって名前みたいだぞ」

 

 コーヒーが気管支に入った。

 

「おわー! 西住大丈夫か!?」

 

 大丈夫だからさっさとティッシュを寄越せとジェスチャーし、なんとか落ち着いたところですぐにテレビの方を振り返る。そこでぎこちなくインタビューに答えていたのは間違いなく佑だった。インタビュアーの質問に言葉少なに受け答えし、時折褒められては顔を赤くしている。あいつはあんなところで何をしている。

 

 番組は佑の経歴から始まり簡単なインタビューへと移り、彼はそのひとつひとつに丁寧に答えていく。次第に言葉少なになっていく様子に彼がどんどん疲弊していくのがわかるが、それを退屈と受け取ったのかインタビュアーが必死に彼を楽しませようとしているのが滑稽である。番組に用意されたスタジオで彼が絵を描く様子を映し最後にこれからの抱負を語ってほしいと言われ、不自然にカットが途切れる。おそらく長い沈黙があったのだろう。

 

『今回初めてテレビの取材を受けて、私の名前を知る人も増えると思います。そういう風にもっと多くのひとに絵を見ていただく機会を作っていきたいと考えています。……ありがとうございました』

 

 場面が変わり、スタジオに移る。コメンテーターが二、三言彼の今後について期待するようなコメントをはさみ、そこで特集は終わった。食堂はしばらく「あんなひとうちにいたんだね」「みたことないよね」と話題がもちあがっていたが、やがてそれも移ろっていった。

 

 テレビの方を向いたまま固まる私に安斎から声がかかり、私はギシリと壊れたロボットのように振り返る。

 

「あれが」

 

「……見知った人間がテレビに出るというのは思ったよりびっくりするな」

 

「ようやく私の気持ちがわかったか」

 

 それからのことはよく覚えていないが、なんだか私は呆けたままでなんとか家まで帰ったらしい。気が付くと相変わらず私一人だけの家にいて自室で本を読んでいた。いつのまにか随分とページが先に進んでいるが、私は本当に理解してこれを読んでいたのだろうか。すっかり物語は佳境に入り、最後のページに向けて主人公の独白が続いている。私はそれをほんの数分で読み終えると、大きくのびをして息を吐いた。

 

 あいつが折角前に踏み出したところを見られたのに、この気持ちはなんだろう。私はこの家にひとりでいることがたまらなく寂しく、またあいつのことを思うたびに胸がむかむかと苛立つような気持ちになるのを感じる。

 

 なにが『私』だかっこつけて。もっと多くのひとに見てもらいたいなんて人見知りのくせに。大体待っていると言ったのに待たせているのは何事だ。

 

 考えれば考えるほど佑に対する八つ当たりの言葉が浮かび、結局その日は誰にともなく「なんだというんだ」と呟いて料理を作り、風呂を沸かして布団に入った。布団に入ってもその気持ちは一向に去ることなく、結局夢の中にまで佑が現れたのでⅡ号戦車で追いかけまわした。いい気味だった。

 

 

 

 翌朝目が覚めたとき、布団の上でなんだか懐かしい雰囲気に包まれているのを感じた。寝ぼけたままの頭で上半身だけを起こし、それから目をこする。少しだけ肌寒さを覚えて布団の中に戻りたくなるが、今日から大学も始まるからそういうわけにもいかない。

 

 寝巻のままで起きだし、自室を出て洗面所に向かう。だらしないとは思うがどうでこの家には私しかいない。私は台所から漂う味噌の香りを嗅ぎながら襖を抜けて洗面所に向かう。

 

「おはよう、まほ」

 

「あぁ、おはよう」

 

 途中で聞こえてきた声に何気なく返事を返し、それから洗面所で顔を洗う。井戸水が引かれているだけあって水は冷たく、一瞬で意識が覚醒される。

 

「……あれ」

 

 同時に、先ほど起こったことに対してようやく脳が違和感を抱き、私は早足で洗面所から抜け出し廊下を歩く。確かに味噌の香りがする。襖を開くと、エプロンをつけた佑が驚いた表情でこちらを見詰めている。

 

「もうすぐできるけど、その前に着替えてきた方がいいね」

 

「なぜここにいる」

 

「ここはぼくの家なんだけど……」

 

「そういうことを言っているんじゃない」

 

 睨みつけて問い詰めると、どうやら昨日私が早々と寝てしまったあとで彼は久々に帰宅したらしい。起こすのも忍びないということでそのままにしていたようだが、この方がよほど心臓に悪いと怒ると困ったように頭をかいた。

 

「いままで何をしてたんだ」

 

「テレビと雑誌の取材と、あといくつか仕事も」

 

「テレビは知っている。昨日見た」

 

 見ちゃったか、と落胆する彼に構わず、台所で作業をする彼に近づいていく。その様子に威圧感を覚えたのか彼が口早に言い訳を発し始めるが、そんなことはどうだっていい。私は包丁を置いてこちらに向き直った彼を捕まえ、その唇に強く口づける。こうするのは二度目だ。どちらもこちらからだと思う。

 

 目の前で顔を赤くしてしどろもどろになる彼を見つめ、ゆっくりと身体を押し付けていく。

 

「お前は、意外と有名だったんだな」

 

「……それはお互い様じゃないかな」

 

「昨日テレビで見た時はお前がなんだか遠くに行ってしまったようなきがしたよ」

 

 彼のことを見上げながらそう呟くと、彼が慌てて「そんなことないよ」と言葉を返す。慌てる彼のことをそれでもまっすぐに見つめ続けると、やがて彼の顔が真っ赤に染まる。放置されたままの味噌汁が湧きはじめ、沸騰する音だけが私たちの間に響いた。

 

 今度は彼から試合のことについて質問され、あの日のことを答える。久々に戦車道の仲間たちと出会ったこと。試合の趨勢。そして勝利。私の話を聞いた彼が嬉しそうに笑い、それから今度は佑の方から私の身体を抱きしめる。

 

「まほのことが好きだよ」

 

 突然彼が私に向ってそう言って、背中に手を回したままで私の顔を覗き込む。

 

「まほと一緒ならなんだって出来るって思えるんだ。もう一度絵を描けるし、誰かに向けてそれを発表したりもできる。たくさん絵を描いたから、それを君に見てほしいんだ」

 

 それがぼくだから、と彼は言う。そして私とずっと一緒にいたいと呟いた。その言葉に対する答えはずっと決まっていたし、ようやくそれを伝えられる時が来たと思う。

 

「私もお前が好きだよ」

 

 それからふたりで長い間抱きしめあい、やがてどちらからともなく離れて私は自室に戻る。寝巻から私服に着替えてタンクジャケットをバッグに詰め込み、化粧をして大学へ向かう準備を済ませる。荷物を持って台所へ戻ったところ、テーブルの上にはすっかり朝食の準備が整えられていた。

 

 彼が笑顔で「食べよう」と言って目の前に座り、私もそれに向かい合うようにして椅子に座る。ふたりの「いただきます」が唱和し、黙々と朝食を食べ始めた。

 

 アジの開きとひじきの煮物。米と味噌汁。特別なところなど何もない食事だが、なぜだか自分で作るよりもずっと美味しく思える。味噌汁だけは沸騰させてしまったせいかすっかり香りが飛んでいしまっていたが、そのことを意識するとなんだか恥ずかしくなってくるような気がして何も言わなかった。

 

 彼が焼き魚から綺麗に骨を外す様子を眺め、その指が滑らかに動く様子を眺める。あの手が私の頬に触れ、そして私をキャンバスの上に浮き上がらせる。そしてこれからも、ありとあらゆるものを。自分のふしばった指を恥ずかしいとは思わないが、それでも彼の指は特別だ。

 

 ふたりで焼き魚を綺麗に掃除し、それから私が食べ終えるのを待っていた彼と共に「ごちそうさま」を唱和する。彼が手早く洗い物を片付け始め、私も隣に立って洗い終わった食器を布巾で拭いていく。彼の傍に立つと不思議と良い香りがするような気がする。ふと隣を見上げると、彼が同じようにこちらを見詰めている。

 

「まほは戦車道の家元になるんだよね」

 

「まあ、そうなるかな」

 

「じゃあぼくはお婿さんになるんだね」

 

 皿を落とした。

 

 彼が慌ててそれを取り上げて割れていないことを確認し、安心したように息を吐いてまたそれを渡してくる。私はしばらく壊れた機械のようにそれを布巾で拭いていたが、やがて再起動してそれをラックに片付けて次の洗い物に移る。

 

「生まれて初めて風景以外の絵を描いたんだ」

 

 彼の方をみないままで小さく頷き、アトリエに置かれていた私の絵を思い出す。彼がいままで描いてきた絵は風景や工芸品ばかりだった。そんな彼が私の絵を描いたことに何らかの意味があると思うのはうぬぼれではないだろう。

 

「ずっとありもしない故郷を探していた」

 

 ひとがどこから来てどこへ行くにしても、そこには常に自分は何者かという問いがついてまわる。過去、未来、現在。自分がどこにいるのかを常に確認し、それを立脚点として突き進んでいく。彼は物心ついたときにそれを無くしてしまっていた。

 

 思い出せる限り一番古い記憶をたどってみると、彼の場合それは移動だった。船で、飛行機で、電車で。いつも佑はどこかへ移動している。情報によれば彼は日本のある大都市の病院で生まれ、混血の父と日本人の母の間に生まれたらしい。一度だけその病院に行き、その都市を歩き回ったことがあるが、それが故郷のように思えはしなかった。

 

「だけど、もう故郷を探したりなんかしない」

 

 洗い物を終えた佑が布巾で手を拭き、私も彼と向き合って手を拭く。エプロンを外して椅子にかけた彼が笑う。

 

「ぼくはまほのそばで生きていきたい。君のものになるよ」

 

 それからまた私たちは短く口づけをし、彼は二階へあがっていった。私は彼の言動にしばらく呆然とさせられたが、やがて気を取り直して荷物を背負い、玄関先で靴を履く。何はともあれ今日から新学期だ。初日から大学に遅れるような深くは取りたくない。

 

 そう考えていていると背後から白いトートバッグを抱えた佑が現れ、私の隣に座って同じように靴を履きはじめる。

 

「お前も今日はどこかへ出かけるのか」

 

「……まほ、今日から新学期だよ?」

 

「……正気なのか?」

 

 正気なのか? と言わんばかりの表情でこちらを見詰めてきたのは佑が先だったが、こちらもそれに負けず劣らずの正気なのか? を見せてやれたと思う。とはいえ彼はどうやらしっかり正気らしく、私よりも先に靴を履き終えてこちらに手を差し出してくる。私はその手を取って立ち上がりそれからふたりで玄関を出る。

 

 彼が自家菜園の惨状を見ながら「なんとかしなきゃだなあ」と呟き、週末になったらふたりで整備しようと約束する。

 

 彼とふたりで山を降りながら機嫌よさそうに歩く彼を見つめる。機嫌よさそうに歩いているが彼はこのまま大学に行ったら自分がどれだけ目立つかわかっているのだろうかと考え、それはそれで面白そうだと思ったので黙っておく。

 

 彼が私の手を握って笑いかける。私もそれを握り返し、それから大学への道を歩き出した。

 

 

 

              ■ □ ■ □

 

 

 

 春の日。ぼくとまほはふたりで新幹線に乗って、遠く熊本の地まで来ていた。

 

 熊本駅で降りたぼくたちをⅡ号戦車に乗ったみほさんと高級車が出迎えてくれ、それを運転していた使用人さんにご挨拶する。なんという非日常感。空港からラスベガスまで送ってくれるサービスかなと首をかしげていると、ではこちらへと後部座席に案内されて戸惑う。正直乗りたくない。

 

「みほはどうする?」

 

「私はⅡ号で後からついていくよ」

 

 その言葉にまほがしばらく考え事をし、それから「私がⅡ号を運転して佑を連れて行くから、みほが車で帰るといい」と答える。使用人さんから「長旅でお疲れでしょう」と気を使われるが、まほはそれに「久々にⅡ号に乗りたいんだ」と言って譲らなかった。結局まほがⅡ号を運転してぼくが一緒に戦車に乗ることになり、少しだけ安心する。

 

 まほの後に続いて戦車に乗り込むと、彼女から「あれでは緊張するだろう」と声をかけられ、全てお見通しだったのかと笑いがこぼれた。

 

 鈍い音を立てて戦車のエンジンが動きだし、ややあってからゆっくりと無限軌道が回転し戦車が動き始める。鉄でできた巨大な生き物が眠りから目覚めるようだ。ぼくが感嘆の声をあげると、足元でまほが笑いをこらえているのが見える。はじめてなんだから感動してしまうのも仕方ないとおもう。

 

 戦車が市街地を走っていき、ぼくはまるでオープンカーに乗っているような気分になる。乗ったことはないし見た目に大きく差があるが、多分このようなものだろうと思う。やがて市街地を抜けていくと背の高い建物が少なくなり、一面に水田の風景が広がる。

 

「昔はよくみほとこの道を走った。ザリガニを釣ったりして遊んだんだ」

 

 彼女の言葉を聞き、ぼくは戦車から身を乗り出して周囲を見渡す。後ろを走る高級車の車内で使用人さんが口元に手をあてている。心配させてしまっているだろうか。だが、そんなことも気にすることができないぐらい楽しかった。ここがまほが育った土地なんだ。身体全体に風を受け、それから胸いっぱいに息を吸い込む。

 

 今回熊本にまで足を運んだのは、西住流家元に今度やる展覧会の協賛になってほしいと頼みに行くことと、ついにまほのお母さんにご挨拶をすることになったためである。これに関してはふたつの要因がお互いに絡まりあっているのだが、どうしてこうなったのかはぼくにもよくわからない。

 

 あれからぼくは何枚かまほの絵を描き、彼女を通じて仲良くなった安斎さんや、大学の戦車チームの練習を絵にしたりもした。それがマネージャーさんの目に留まったようで肖像画以外のものが連作として小さく発表され、やっぱりいつのまにかそれが西住流家元の耳にまで届いたらしい。

 

 ぼくはついにまほとふたりで西住家に招待されてしまい、いまこうしてご挨拶にむかうこととなった。

 

 これに関しては流石に恐ろしくてマネージャーに相談に行ったが、彼は快活に笑ってぼくにこう返事を返す。

 

「向こうもプロリーグ発足でイメージアップしたいでしょうから、これまでに描いてきた戦車道の絵で展覧会を開きましょう。後から私も行きますから、ふたりで協賛になってもらえるようにお願いしましょうね」

 

 というわけで、ぼくの初めての個展は『戦車道少女繪畫集』ということになった。ぼくはこの協賛についての相談と、それからまほとお付き合いさせてもらっていることについて西住流家元に報告しなければならない。正直に言えば気が重いが、いつかはやらなければならないことだと覚悟する。まあマネージャーも来てくれるわけだから、なんとかなるだろうと腹を括ることにした。

 

 再び我々は住宅街に戻り、いくつかの道を曲がる。戦車が軋むような音を立てながら坂道を上り、それから少し下って停車した。左手に大きな屋敷が広がり、表札に『西住』とかけられている。ここがまほの家なんだと思うと同時に、その威容に圧倒されてしまう。

 

 ややあってから目の前の門が開き、ぼくの乗る戦車がゆっくりと敷地内に乗り入れる。内部は平屋建ての立派な日本家屋で、まさに名家という趣があった。

 

 戦車が停まり、その隣に使用人さんと妹さんの乗った車も止まる。他のひとたちが車から降りていくところを呆然と眺めていると、突然足元からまほが上がってきてぼくを驚かせた。

 

「いつまでぼうっとしている。いくぞ」

 

 車外に降りたまほがこちらに向かって手を伸ばし、ぼくはそれをしっかりと掴む。彼女の体温を感じると先ほどまで胸を埋めていた不安感が少しだけ安らぎ、それからふたりで屋敷に続く飛び石を渡った。

 

 彼女に手を引かれて歩きながら、これから一体どうなるだろうなあと他人事のように思う。西住流の家元はどうやら随分怖いひとらしく、ぼくは妹さんが勘当されかけたなど沢山の逸話を聞き、正直結構委縮してしまっている。

 

 だけど、どんなことがあったってどうせぼくは絵を描くことしかできはしない。結局何が起ころうともぼくのやることが変わらない以上、いつも通りのぼくでいるべきだと思った。

 

 ぼくは飛び石を渡りながらきょろきょろと敷地のあちらこちらを見回す。庭はよく整備されていて、どの角度から見ても美しい。不意にぼくはずっと昔、何番目かに預けられた家に初めてお邪魔したときの会話を思い出す。

 

「……ぼくは今日から、ここのうちの子になるの」

 

 小さくつぶやいた声は誰の耳にも届かなかったらしい。ぼくは少しだけ強くまほの手を握り、すぐに握り返されることに心の底から安心する。ぼくは彼女を愛している。一生この手を離すつもりはない。

 

 彼女が屋敷の扉を開き、良く通る声で「ただいま帰りました」と宣言する。

 

 ぼくは彼女に寄りそったまま、少し遅れて西住家の敷居をまたいだ。

 

 

 




これにておしまいです。
最後までご覧いただきありがとうございました。

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