グロリアス軽戦車   作:景浦泰明

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『グロリアス軽戦車 第七話』

 

 

 

 早朝、佑には何も伝えずに別荘を出ていく。まだ眠りの中にいる彼は私が近づいても死んだように身じろぎせず、鼻先に指を当ててようやく呼気が確認できた。この男をここに一人で残していくことに心配がある。いっそこいつも連れて行こうかと思ったが、それはきっと彼にとって多大なストレスになるだろうからやめておいた。

 

 私は相変わらず眠ったままの彼の頬を撫で、それから振り返らずに海辺の別荘を出る。少しだけ不安が胸によぎったが、それでも歩みを止めることは無かった。結局我々は無用のひとだ。無用の道を貫くほかない。

 

 電車のなかで携帯電話を操作しつつ、インスタントメッセージのアプリでかつてのチームメイトたちと連絡を取り合う。幸いながら全員で試合に出ることがかなうらしく、すぐにそのうちのひとりが公営の練習場の予約を取り付けてくれた。試合当日までの練習スケジュールが立ち、それからひとりが「みほちゃんと島田愛里寿、一気に倒せるなんてラッキーじゃん」と言い出す。すぐにもう一人のメンバーがそれをいさめるが、多分全員同じ気持ちだろう。多かれ少なかれ、あの夏に関わって変化を受けなかった人間はいなかっただろうから。

 

 私たちは黒森峰で三年間を過ごした。西住流の影響を強く受けたそこは、常に強さと勝利を求め続ける。部員数も多く、まずそこで勝ち上がってレギュラーになり、次は公式試合で勝ち上がって最強を証明しなければならない。そんな高校の隊長車に乗っていた連中が負けっぱなしで根に持たないわけはないのだ。

 

 私は携帯を切り、それから座席に深く座り込んで目を閉じる。電車が線路を走る規則正しいリズムが耳に響く。目を閉じればいつでも佑がそこにいるような気がしてくる。そして彼はあの山で待つだろう。だから私は何も心配せずに試合へと向かうことができる。

 

 勝つか負けるかはもちろんわからない。必ず勝てるという確信などあるはずがない。以前の私なら当たり前のように「必ず勝利する」と言い切れただろうが、今は違う。臆病になったのだろうか。そうかもしれないが、しかし敗北することも恐ろしくはなかった。きっとこんな風に勝ったり負けたりしながら勝負は続いていく。それが逃れようのない事実だ。そして、負けたとしても私は何かを失うわけではない。

 

 戦車道は競技であり戦争ではない。勝利を得ようとする姿勢を失ってはならないが、敗北してもまた立ち上がればいい。

 

 

 

 試合の前々日までチームでの訓練は熾烈を極め、私は失っていた勘を取り戻すのにずいぶん苦労させられた。我々は何度も何度も戦車を動かし、砲撃のタイミングを測り、それが終わると全員で何時間もミーティングをする。おそらく今頃はどこのチームも同じように訓練を繰り返しているだろう。聖グロに関しては紅茶でも飲んでいるかもしれないが。とはいえ、彼女らはそれで連帯感を高めるのだから間違っていない。

 

 私は練習中何度も胸に迫る不安を覚え、そのたびにしばし車上で固まることがあった。チームのメンバーからは何度も不審がられたが、こればかりは打ち明けようもない。私はただそれを歯を食いしばって耐え、そして何度も通り過ぎてゆくそれを見送るほかなかった。

 

 ようやく練習が終わり、明日は一日英気を養おうと決まった時、私から全員に食事でも行こうと提案する。

 

「すっかり疲れた」

 

 私のその言葉に全員がぽかんとした表情でこちらを見詰め、私は何かおかしいことを言っただろうかと不安になる。やがてひとりが賛同の声をあげ、全員で街の方へ向かうことになった。

 

「驚いたな。まほからそんなこと言い出すなんて」

 

 道を歩きながらひとりにそう言われ、いったい何を驚くことがあるのかと首をかしげる。

 

「だってまほ、高校生のときならこの後帰ってひとりで作戦練ってたでしょ。おいしくもなんともないカロリーメイトとか食べてさあ」

 

 そう言われてみれば、黒森峰の寮に入っていたころはそういう生活をしていたような気もする。とにかく勝とう勝とうと必死になっていた。

 

「……やるべきことはもうやったよ。今は空腹をなんとかするほうが大事だ」

 

「カロリーメイトじゃなくて?」

 

「カロリーメイトじゃなくてだ。できればカレーが良い」

 

 その言葉に全員が笑い、私も合わせて笑う。

 

 近くにインドカレーのお店があるよ、という言葉にイギリス式が良いな……と答え、全員で夜の街を進んでいく。高校時代ではこうやって話すことも少なく、食堂で食事をしていたときにも戦車の話をしていたような気がする。確かに空腹を満たすならカロリーメイトでも良いような気がするし、作戦ももっと詰められる部分がある気がした。だが、美味しいものを食べるのはもっと大事な事じゃないかと思う。

 

 ようやく見つけたカレー屋に入り、四人でボックス席に座る。全員がおしぼりで手を拭いて水を飲むとようやくひとごこち付き、話題は緩やかに近況報告へと移っていった。大学の勉強が忙しい、サークルが、ゼミが、そんな言葉を聞きながらふむふむと相槌を打っていると、不意に「まほは相変わらずカレーなんだね」と言われる。

 

「カレーは完全食品だからな。しかもおいしい」

 

「相変わらず子供っぽいこと言ってる。エリカぐらいだよね。まほのカレー聞いても『あんなに凛々しいのにカレーが好きな隊長ギャップ萌え!』って言えてたの」

 

「あいつはそんなことを言っていたのか」

 

「久々に会って食事に行きたいって言って、やっぱりカレーかよ! みたいな」

 

「大学の食堂でもカレーばっかり食べてるの?」

 

 まさか突然こんなにカレーで攻められることになるとは思わず、つい猛攻に歯噛みする。どれほどじゃあお前たちカレーが嫌いか? と言ってやりたくなったが、何の解決にもならないと思うのでやめておく。

 

「佑は何も言わなかったぞ……」

 

「噂の同棲相手!」

 

「は!? 誰だ噂にしてるやつは!」

 

「エリカ」

 

「エリカ……!」

 

 明日は絶対にエリカを仕留めると心に誓う。

 

「なに!? まほっていま同棲してるの!? 男!?」

 

「なんと男だよ。エリカの恋は実らず」

 

 およよ、と泣きまねをする砲手を睨みつける。女同士で恋も何もあるかという気持ちになったが、そういえば黒森峰ではよくその手の噂を聞いたような気もする。まあ女子校というものの常だ。

 

「しかも高校時代から何度も絵画芸術とかの雑誌で取り上げられてる有名人だって」

 

 その瞬間に全員の食いつきが良くなり「どこで会った」とか「どういう経緯だ」とか質問攻めにされるが、あと少しでカレーが届くと思って完全黙秘を貫く。というかあいつはそんなに有名だったのかということに今更ながら驚いた。初めの頃は毎日奇行ばかりしており、ようやく話せるようになったらぽやぽやした人畜無害な人間になったので全く実感がわいてこない。

 

 結局その日はカレーが届くまで全員の猛攻を凌ぎきり、その後はカレーを食べて解散ということになった。翌日は一日休みを取り、明後日には大洗の学園艦に集合して試合となる。ホテルのロビーでそれぞれの部屋に戻る際、チームのひとりから「まほ、変わったね」と言われる。

 

「なんか良くなったと思うよ。……おやすみ」

 

「……あぁ、おやすみ」

 

 無性に佑に会いたくなる。たった数日でも彼に話したいことがあるような気がする。

 

 

 

 翌日、試合に出場するパンターで大洗へと向かう。私からしてみると戦車で公道を走るのは慣れているが、周囲の乗用車からは時折物珍しそうな視線を感じる。それを背中に受けて進んでいくと、やがて大洗の港が見えてきた。それにつれて遠くに見えていた学園艦が近づき、黒森峰のものよりも明らかに小さいとはいえその威容に感嘆する。よくよく考えてみれば、巨大な空母に人間の居住地を設置するというのも突飛な発想だ。最初に考えたときは夢物語だと思われなかったのだろうか。

 

 学園艦の傍にたどり着き、タラップの先にいた船舶科の学生に事情を説明すると、彼女はすぐに納得したようで搬入口へ案内してくれた。我々はそこからまた学園艦の中を進んでいき、市街地を抜けて大洗女子を目指す。

 

 大洗の学園艦は端的に言って何も珍しいところのない日本の住宅地で、ドイツをモデルとして造られた黒森峰とは大きく様子が違っていた。悪く言えば無個性だが、よく言えば我々日本人になじみのある落ち着いた雰囲気だ。黒森峰から出たみほは最初どういう気持ちでこの街を歩いたのだろう。

 

 ようやく戦車が大洗女子にたどり着き、校門を抜けてグラウンドに入る。その先にはもう既に何台かの戦車が停まっており、その隙間を抜けてみほが飛出し、こちらに向けて大きく手を振った。私もそれに手を振り返し、戦車が停止するとすぐに降りて彼女の傍に立つ。

 

「先日ぶりだな。今日はよろしく頼む」

 

「うん! 来てくれてありがとう」

 

 そう言ってみほと握手をすると背後からチームのメンバーがぞろぞろと戦車から這い出し、みほに向けて声をかける。みほはそのひとつひとつに律儀に挨拶を返し、それから連中に可愛がられていた。私はそのわきを抜けて既に集まっているメンバーに声をかけていく。聖グロ、アンツィオ、それから島田愛里寿。全員と一通り挨拶が済むと安斎がこちらに向かって歩みより、ふたりで並ぶこととなった。

 

「まさか来るとは思ってなかったよ。一年は戦車をやらないんじゃなかったのか?」

 

「私としてもそのつもりだったんだが」

 

「島田愛里寿か?」

 

「そんなところだ」

 

 そう答えると安斎はやれやれと言いながら眉間のツボを押し、疲れ切ったような表情を浮かべる。どうも大学の戦車道がかなりきついらしく、さっさと復帰して楽をさせてくれと言われた。

 

「それまでは私がやっていくから! さっさと戻れ!」

 

 安斎に怒られて苦笑し、それからふたりで大学の話をする。とはいえ夏休みだから話す内容はほとんど戦車道についてのことで、彼女から「高校時代とは大違いだ。重戦車がたくさんあるっていい。戦略に幅が広がる」とアンツィオ名物貧乏ジョークを飛ばされた。

 

 そうやって戦車に寄りかかってふたりで話し込んでいると、次第に戦車の数が増えて見知ったメンバーが集まっていく。高校時代にそこまで交友を広めなかったため後輩まではわからないが、タンクジャケットから類推して大体全ての学校のチームがそろったのだろう。

 

 グラウンドにみほの声が響き、それから彼女と向かい合うように全員が並ぶ。まるであの時の試合のように。その様子にしばし緊張していたみほだったが、すぐに気を取り直して試合の要綱を開設し始める。試合開始は十三時から。それまでは各チームに分かれて作戦会議の時間を設けるとのことである。

 

 改めてチームを確認すると、OGチームの車長はそれぞれ私、ダージリン、ケイ、安斎、カチューシャの五人。高校生チームはみほ、エリカ、アリサ、ぺパロニ&カルパッチョの隊長コンビ、西、そして愛里寿の六人となる。高校生チームの方が戦車の数が多いが、どうやら継続が不参加のため数がそろわなかったらしい。

 

 私は自分のチームのメンバーをぐるりと見渡してひとつ頷き、それからだれともなく用意された幕舎へと集っていく。布の扉をくぐった先に木製の大きなテーブルがあり、既に各車の車長たちがそこに集っている。私は失礼すると声をかけて椅子に座り、そしてようやく全ての椅子が埋まることとなった。

 

「では始めましょうか」

 

 紅茶から口を離したダージリンがそう切り出し、全員が頷く。まずケイが真っ先に口を開いた。

 

「まずは保有戦力の確認ね。と言ってもみんな高校時代から親しんだ戦車に乗ってきたみたいだからほとんど確認の必要はないみだいだけど。カチューシャだけ今回はKV-2ね」

 

「ふふん。今日という日のためにさいきょー重戦車のかーべーたんを連れてきてあげたわ。感謝なさい!」

 

「まあ強大な火力であることは確かだな」

 

「死ぬほど脚が遅いことも確かだが」

 

「何よアンタ! まーた性懲りもなくあの豆戦車で来て! 大学選抜の時には役に立ったけど今回の試合会場わかってる!? せまいのよ! 高低差もないの! 隠れるまでもないしすぐ激突なの! せめてセモヴェンテで来なさいよ!」

 

「なんだとこのおチビ! タンケッテこそさいきょーだということをここでわからせてやろうか!」

 

「誰がおチビですって! あんたなんかおチョビじゃない!」

 

 机を挟んで喧嘩を始めるふたりにケイが笑い、ダージリンがそのあたりにしておきなさいといさめる。なおも牙をむき出しにするふたりだったが、ダージリンから作戦の概要が提案されてようやく引き下がる。

 

 彼女から伝えられた作戦は非常にシンプルなもので、それに関しては誰しも反対意見を出しはしなかった。そもそもが狭い試合会場であるし、試合が始まった瞬間から会敵しているようなものなのだ。そこまで凝った作戦を立案することもできはしない。チーム戦とはなっているが、もしかするとかなりの混戦となってしまうかもしれない。

 

 私がその場で黙り込んでいるとケイから「まほは? なにか意見とかないの?」と尋ねられ、しばし考え込む。特に言うべきこともなかった。

 

「牛肉、ジャガイモ、ニンジン、玉ねぎ、リンゴだな」

 

 私の言葉に全員が頭上にクエスチョンマークをうかべるのがわかる。察しの悪い奴らだな。

 

「五つの具材のカレー作戦でどうだ」

 

 一瞬場が静まり、それからすぐに喧々囂々の議論が噴出する。やれ五つの具材でもボルシチが良いだとか魚鱗のサンドイッチ作戦が良いだとか挟むならハンバーガーが良いだとか。とにかく作戦とは関係のないところで爆発的に盛り上がる。なんとか安斎がそれをなだめようとするが一切効果はなく、私はそれを見てけらけらと笑う。

 

「西住! おまえなんとかしろ!」

 

「まあ、まあ、楽しんでやろう」

 

 騒然となった会議室を眺めながらそう言うと、今度こそ安斎ががっくりと首をおとした。試合はもうすぐだ。楽しんでやろう。

 

 

 

               ■ □ ■ □

 

 

 

 体調は最悪だ。今のぼくは誰の眼から見ても憔悴しきっているようで、通り過ぎる人たちからかわるがわる視線を向けられ、時折心優しい方々から労りの言葉をかけられる。二日間大した食事もとらずにアトリエに籠っていたんだから見た目に出るのは仕方ないだろう。いまのぼくは完全に反社会的な見た目をしていた。

 

 ぼくはふらふらとオフィス街に接した駅を降り、目指すビルに向けて歩きはじめる。当たり前だが周りはスーツを着たサラリーマンだらけで、絵具のこびりついたシャツを着ているぼくはひどくみすぼらしく映るだろう。まあ知ったことではない。いくつかの道を抜けて目的のビルを見つけたぼくはそこに駆け込み、一目散に受付へと向かう。

 

 受付で名前を告げるとすぐにこれまでの担当のひとに取り次いでもらえ、ロビーで座っているように促される。腰を下ろすとすぐに意識を失いそうになったが、すんでのところで声をかけられて意識を取り戻す。見上げると三十歳ぐらいの男のひとが笑顔でこちらを見下ろしている。もうずっとぼくとこの会社との連絡役を請け負ってくれている人物だ。同時にほとんどぼくのマネージャーのようなこともしてくれている。

 

「お久しぶりですね。……まあ、話は上で」

 

 彼に促されて後ろをついていき、ともにエレベーターへ乗り込む。狭い空間に入ってふたりで近況を報告しあう。ぼくの方からは特に報告することもないが、彼の方は広報部で出世を続けているらしい。素晴らしいことだ。

 

「山小屋はどうですか?」

 

「とてもいいです。この間はイノシシが罠にかかりました」

 

「それは良いと言えるのかな。とはいえ一人だと大変なことも多いでしょう」

 

「いや、いまは二人で暮らしているので」

 

 ちょうどエレベーターが目的の階にたどり着き、ふたりでフロアに出る。彼はぼくの言葉に「ほー! ほうほうほう」とフクロウのように感嘆の声をあげ、嬉しそうに微笑む。あなたが社会との結びつきを失っていないようで、嬉しく思いますと言われる。ぼくからしてみるとこのひとこそ社会との結びつきなんだが、彼の言うことは良くわからない。

 

 ドラマで良く見る会議室のような場所に連れて行かれ、彼に促されて小脇に抱えた絵を引き渡す。ぼくは約束通り七種の絵を描き上げた。絵を渡したことで全身から力が抜け、ぼくは彼の向かいで椅子に座り込む。それから長い時間をかけて絵の精査が終わり、彼から「申し分ありません」との声が聞こえる。ぼくは満足して首を縦に振る。

 

「今回は締切ギリギリでしたねえ。今まではサッとあがってきたのに」

 

「久しぶりの依頼だったので」

 

「でも、抜群に良くなりましたね。これまでよりも暖かい質感を感じられるというか」

 

「今回は指で描いたんです」

 

「指描というやつですか。またどうして」

 

 手が震えて筆を持てなかったから、とは言えない。結局それももう解決したことだ。ぼくは「なんとなくそれが効果的だと感じたので」と誤魔化し、確かに効果的ですねと頷く彼のことを眺める。今月の終わりごろには今回の絵がパッケージとして使われ、全国の食料品売り場で並ぶようである。

 

「さて、じゃあいつも通りのことなので答えはわかっているんですが、一応ぼくもあなたのマネージャーのようなことをしてますから」

 

 彼がそう前置きしてぼくの前で居住まいをただし、手元から五、六枚の書類を取り出す。

 

「まずテレビの取材の依頼が来てますね。それから雑誌のインタビュー。あとは他企業からの絵の依頼です。絵の依頼は良いとして、あとはどうしますか? テレビはひとつが密着型のもの。ひとつが夕方の短いニュースの特集です」

 

「絵の依頼はお受けします。テレビは密着型の方は断ってください。耐えられない」

 

「はいじゃあ絵の依頼以外は……は?」

 

「え?」

 

「受けるんですか」

 

「受けます」

 

「ほー! ほうほうほう!」

 

 彼が嬉しそうな声をあげ、ようやくぼくも忙しくなってきそうですと笑う。仕事が多くて嬉しいなんておかしなひとだと思ったが、大企業に勤めるぐらいなんだから仕事が好きなのも当たり前なのかもしれない。嬉しそうに笑う彼から「それにしてもなぜいきなり」と問われ、正直に「もっと自分を売り込んでお金を稼がなきゃなあと思いまして」と答える。

 

「……同居している方は女性ですか」

 

「どうでも良いでしょうそんなことは」

 

「いやはや全く。とはいえ私からしてみればあなたはそんな広告なんかしなくても大丈夫ですよ。汲めども尽きぬ才能の泉というのはあるんですから」

 

 そういえば彼も大学時代は美大に通っていたと前に言っていたなと思いだし、そんなひとにそう言ってもらえるのだから本当なのかもしれないと考える。とはいえいつまた今回のように描けなくなるかはわからないのだから、お金を稼いでおくのに越したことは無いだろう。それに、そうしてテレビに出たりすることも、もしかすれば意味があるかもしれないと思ったのだ。

 

「まあ、あなたがそうやってやる気を出してくれるとぼくも助かります。個展とかどうですか?」

 

「個展を開けるほど発表した絵がないでしょう」

 

「家にいくらでも習作があるでしょう。そういうものの方が喜ばれるんですよ」

 

「……あれはだめです」

 

 家にある絵の一枚を思い出し、あれで個展に並べるなんてと考えただけで身震いしてくる。彼はなんとなく察するものがあったのかそれ以上追及はせず、考えておいてくださいと言うにとどめた。

 

「では取材の件に関してはまた後日連絡を入れますから。どうやら今日はお疲れの様子ですので、また今度ですね」

 

 彼からの言葉で打ち合わせが終わり、ふたりでまた来た道を戻る。彼は結局会社の正面まで送ってくれて、そこで手を振って別れることとなった。

 

 外に出た瞬間に強烈な熱気が肌を覆い、全身にミストを振りかけられたような湿気に辟易する。ぼくはやはり来た時と同じように道の端の影に紛れるようにして歩き、時折頬を伝う汗をぬぐう。絵が無くなったぶんだけ楽だが、それでも暑い。

 

 彼女は今頃この暑い中で戦車を運転しているんだろうかと考え、その高校球児さながらのスポーツ根性精神に賛辞を贈る。うまく働かない頭を首にぶらさげ、ぼくはふらふらと冷房の効いた電車に乗り込む。またひとつ乗り越えたという実感があった。これまでも、そしてこれからもこれの繰り返しだ。

 

 心のなかで遠くにいるまほに問いかける。こっちはなんとかやったよ。そっちはどうだ。

 

 

 


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