グロリアス軽戦車   作:景浦泰明

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『グロリアス軽戦車 第五話』

 

 

 

 みほの姿を目にした瞬間、言い表せないような複雑な感情が次々と胸に訪れた。それはまるで対流する液体の中で浮かび消える泡のように私の感情を波立たせ、一瞬自分の顔が強く歪むのを感じる。みほには気づかれなかっただろうか。佐倉には。精神力を総動員して表情筋を抑え込み、表面上はなんということもないようにみほと他愛ない話をする。

 

 だが、心のなかはあるひとつの問いで埋め尽くされていた。

 

 みほ、なぜここにいる。

 

 思い出すのはあの大学選抜との戦いの後のことだ。エリカが退出したあとも私はひとりで飛行船から外を眺めていた。今日の試合を思い出しながら、各校の選手の活躍を、そして対決した大学選抜チームのことを思う。強敵だった。何度も窮地に陥ったし、運が悪ければあのまま負けてしまうと思えるところが何度もあった。各校の隊長による個々の奮戦と、そしてみほの指示がなければ負けていただろう。

 

 あの試合の最後、島田愛里寿との戦いを思う。変幻自在、忍者戦法とはまさにあのことだ。こちらがどのように仕掛けても即座に対応し、そして窮地を切り抜ける。攻めに転じたときには思いもよらぬ方法で仕掛け、一度でも対応を誤れば討ち取られてしまう。

 

「私ひとりで勝てただろうか」

 

 呟きが闇の中に溶けていき、心の底に冷気が溜まっていく。今日の試合で最後に立っていたのは私だったが、それは結果的にそうなったということでしかない。私一人ではおそらく島田愛里寿に勝つことができなかった。

 

 そんなことは今日の試合と関係がないと脳内で誰かの声が響く。大切なのは大洗女子が廃校にならなかったことだ。それはそう。だが私の戦車道はどうなる。島田愛里寿に勝てるか。そもそも全国大会決勝でみほにも負けている。西住流は最強。戦車道には勝つことも負けることもある。諦めず前に進み続けるのが西住流。だが強さを求め続けるのもまた西住流だ。強いものこそが西住流にふさわしいんじゃないか?

 

 たとえば私よりも、みほの方が……。

 

 

 

「西住、俺は食事の用意をしてくる」

 

 横合いの佐倉から声をかけられ、ようやく意識が現在に戻ってくる。目の前ではみほが嬉しそうに笑っていた。どうやら心ここにあらずといった状態のままで彼女と話していたらしい。

 

 佐倉が部屋を出て行ったあと、私とみほのふたりで並んでソファに座る。その際に彼女の脚に湿布が貼られているのを見つけ、ここに来るまでにあったことを聞かされる。

 

「こんな時期に怪我をするなんて。全国大会に影響があったらどうする」

 

「そうだよね……。気を付けます」

 

「というより、どうしてこんなところまで来られたんだ」

 

「あの、全国大会の抽選会があったから。そのまま大洗には戻らずに来てみたの。エリカさんが教えてくれて」

 

 なるほど、そういうことなら納得できる。体力もあまりないこの妹が山道を登ってここまで会いに来てくれたことを素直に嬉しく思い、私は思ったよりも多くのひとに心配をかけてしまっているらしいと反省する。

 

「怪我も、あの、佐倉さんが治療してくれたから」

 

「佐倉が?」

 

 自分で思ったよりも低い声が出てしまい、少し眉間に皺が寄るのを感じる。みほには気が付かれていないようだが、今日は少し気が抜けているらしい。

 

「うん。山であった時には肩を貸してここまで連れてきてくれて、そのあとくじいた足を治療してくれたの」

 

「ほう、佐倉が」

 

「お姉ちゃん、優しいひとと住んでるみたいで安心したよ」

 

 ――いいや、私にはそんな優しさを見せたことは無い。

 

 再び眉間に皺が寄るのを感じ、私は慌てて俯き眉間の皺をほぐす。突然俯いた私にみほが不安げな声をあげるが、それに対して大学で少し疲れてなと返す。

 

 やっぱり大学って大変なんだねえとぽやぽやしたことを言う妹を見ながら、心中に不快な思いがよどむのを感じる。あの男、私が大学に行っている間にずいぶん妹と仲良くしていたようじゃないか。

 

 不穏な気持ちで埋め尽くされた心中を押し隠しつつ、みほを連れて居間から囲炉裏の間へと移る。囲炉裏を見たみほが嬉しそうな声をあげるのを聞きつつ座布団を勧め、自分もすぐそばに座った。台所から佐倉がせわしなく動き回る音が聞こえ、夕食にはもう少しかかるなと考える。

 

「お姉ちゃんは、もうずっとここで暮らしてるの?」

 

 みほからの質問に三か月ぐらいだなと答え、そう考えるともう季節をひとつ越えていたんだなと思う。時間はあっという間に過ぎていくものだ。戦車道全国大会も始まることだし、OGとしては母校の応援に行くべきなのかもしれない。

 

「お姉ちゃんが戦車から離れるって聞いてびっくりしちゃって。一度会って話がしたいってずっと思ってたの」

 

「……大したことじゃない。一度そういう時間を作っておきたいと思っていたんだ」

 

「そっか。うん、でもわかるよ。わかる」

 

 優しい子だ。人の気持ちをよく考えて察してやることができる。きっとそんな彼女だからこそあの大洗女子というチームを作り上げられたのだろう。私ももっと隊員同士でコミュニケーションを取るべきだっただろうか。そういうことは黒森峰の気風には合わないと考えていたが、そんなことはなかったのかもしれない。きっとみんなで遊びに行ったり、アンツィオのように食事会をするのも良かっただろう。

 

 私とみほはそれきり喋らず、隣室で佐倉が忙しなく動き回る音を聴きつづける。思えば本当に小さい頃を別にすれば、あまりふたりで沢山のことを話した覚えはない。もしかすれば、そういうところもあのときみほを黒森峰から離れさせたのかもしれない。あのときもっとみほの傍にいて話を聞いてやれればよかったのだろうか。

 

 そんな風に考えていると台所への襖が開き、囲炉裏の間へと佐倉が上がりこんでくる。抱えた鍋を自在鉤に吊るして大きく息を吐き、それから私たちのことを見まわす。

 

「ふたりそろって正座して黙り込んで、変な奴らだ」

 

 彼はそれだけ言ってまた台所に戻り、私は隣にいるみほと顔を合わせる。

 

「あいつにだけは言われたくない」

 

「……佐倉さんね」

 

 みほがこちらに近寄り、ひそひそ声で昼間にあったことを話す。初めはみほが足をくじいたことに心配を覚えた私だったが、話が佳境に進むにしたがって笑いをこらえきれなくなり、やがてその場で身体を半分に折って声をあげて笑い始めた。くまって、いくらなんでもくまと叫ぶことは無いだろう。

 

 みほも隣でいたずらっぽく笑う。幼い頃のやんちゃさはすっかり鳴りを潜めたが、こういうときの笑い方は今でも変わらない。ふたりで小さく「くま」「くま」と囁きあいながら私たちは笑う。

 

 ふたりでそうしているとやがて夕食の準備が終わった佐倉が現れ、今度はこちらを見てぎょっとする。先ほどからの変化に何が起こったのかと驚愕しているようだ。私とみほは身を寄せ合いながらなおも笑い、それから佐倉のことを見る。

 

「くまじゃないですよ」

 

「そうだ。くまじゃないぞ」

 

 硬直していた佐倉がその言葉によって次第に顔を赤らめ、ついにはゆでだこのようになる。悔しそうな顔でみほの方を見ると、彼女が私の後ろに隠れた。私が勝ち誇ったような笑みを彼に向けるとしばらく口元をもごもごさせていたが、やがて持参したおひつから黙って茶碗に米をよそいはじめた。もう夕食の時間だ。

 

 三人で夕食を食べながら、みほのことを熊だと間違えた時の佐倉のことを想像する。彼の大声も腰を抜かした姿も私は見たことがない。隣で美味しそうに食事をするみほを少しだけうらやましく思う。

 

 

 

 翌日、全国大会に向けて練習があるからと言ってみほは下山していった。佐倉とふたりで足のこともあるし送っていくと言ったが、彼女は大丈夫ですと笑う。

 

 別れる瞬間に全国大会について激励の言葉を贈ると、彼女はこれまでにない強い瞳で「うん。絶対優勝するよ」と答えた。その姿が少しまぶしく、そして以前の彼女にはなかった力強さに少し圧されてしまう。彼女はあの大学選抜との戦いを乗り越え、さらにひとつ強くなったようだった。

 

 翻って自分の現状を想い、少しだけ気分が落ち込むのを感じる。佐倉とふたりで家のなかに戻ったが、その日は何をするにも身が入らずに一日中ぼうっとしながら過ごす。それは翌日になっても変わらず、昼ごろに佐倉から「西住、大学は?」と尋ねられてようやく今日が講義のある日だったことを思い出す体たらくだった。

 

「風邪でもあるのか」

 

 と佐倉に訝しまれたが、熱を測っても平熱であり、身体上は一切の問題がなかった。ただ何もかもが煩わしく感じる。私は結局その日一日大学を休み、佐倉とふたりで野良仕事や炊事をして過ごした。夜になってからソファに座っていると、佐倉が冷えたレモネードを持ってきてくれた。ふたり並んでそれを飲みながら、私はよく働いていないままの頭で彼に質問をぶつけた。

 

「絵は描かないのか」

 

 そう尋ねると彼は面白いぐらいに過敏に反応し、目を大きく見開いてこちらを見詰めてくる。

 

「見たのか」

 

「二、三日も机の上に置いておくからだ」

 

 彼が懇意にしている企業から絵を描くように依頼されていることは知っていたが、相変わらず絵を描いているようには見えなかった。どういった事情があるにせよ、絵を描かないならば企業も彼をここに住まわせてはくれないだろう。彼はしばらく黙ったままだったが、やがて大きなため息をつき、それから小さく笑った。

 

「絵は描けない」

 

 描かないのではなく、描けないのだと彼は言う。

 

「キャンパスに向って筆をとると、全身が震えて動悸が激しくなる。どうしようもないんだ。描けない。絵を描くのが怖い」

 

 そう言った直後から彼の全身から力が抜け、生気を失ったような表情になるのを私は見た。途端に今自分がどういう話をしているのかを脳が自覚し、ソファから身体を起こして彼の肩を掴む。ほとんど肉がついていない細い肩は、力を入れただけぐにゃりと動いた。

 

「すまない」

 

 そう呟くと彼は小さな声で「いいんだよ」と答える。今までの彼とは違う。皮肉っぽいところがなく、どこか幼さが漂うような声色だった。見えない糸に釣られるようにしてなんとか起き上がると、そのまま両腕で頭を抱える。

 

「もっと早く話をしなきゃいけなかったのに、ぼくの方こそごめんね」

 

 普段の彼の声に宿るもののすべてが取り払われ、ひどく頼りないからっぽの音だけがこちらに届く。まるで突然人が変わってしまったように思えて私はひどく動揺し、彼の肩を掴んだままの手が凍り付いてしまったように感じられた。

 

「本当は大学に入学した時からずっと描けなかったんだ。スランプってやつなのかとも思ったけど、結局仕事の依頼が来ても描けないまま」

 

 彼の声の所々に自嘲するような響きが混じり、次第に声が大きくなっていく。掴んだ肩が小刻みに震えはじめる。

 

「西住さんはどうする?」

 

 突然彼が顔をあげてこちらを見上げる。青白いその顔に見詰められ、私は自分の口のなかがカラカラに乾いてしまっているのを感じた。思いもよらぬ彼の姿を目にしてうまく言葉が出てこない。しばらく経ってからようやく私は彼の問いの前に「これから」という言葉が付くことがわかった。

 

「もともと住んでいた下宿に戻るかい?」

 

 彼の言葉に「いや」と返し、その拍子に渇いた喉がべりべりと音を立ててはがれるような気持ちがする。私はどうする? どうしたいんだろう。大学の近くの下宿に戻る。戦車道に戻る。また切磋琢磨する日々を送る。どれも違う。私のしたいことではない。

 

「私は」

 

 ――絵を描けなければなんの価値もない。無用のひとだ。

 

 彼と共に暮らし始めた最初の日、自己紹介の中で冗談めかして言っていたことを思い出す。あのときは度が過ぎる自虐だと思ったが、全ては彼の本心だったのだろう。そしてその言葉に私が返した言葉もあの場にふさわしい度が過ぎる自虐で、そして全て本心だった。

 

 ――戦車に乗らなければなんの価値もない。無用のひとだ。

 

 そんな風にして私たちは暮らし始めた。無用のひとらしく、無用の道を貫くべしと思った。私たちはまだそれすら出来ていないんじゃないか。

 

 私は途切れさせた言葉をもう一度つなぐ。今度は片手ではなく、両手で彼の肩を掴む。青白く染まった彼の顔をこちらに向けさせ、まっすぐに目を見詰める。

 

「私はお前と一緒にいたい。私たちのほかに誰もいない。誰も知らない場所でだ」

 

 呆然とする彼の顔に矢継ぎ早に言葉を浴びせかける。熱に浮かされたように、私はこれまでふたりで黙っていた分の全てを埋め合わせるように沢山の言葉を吐きだした。

 

「私も戦車道が怖い。エリカも、みほも怖かったんだ。大学に行くのもつらい。だからふたりで逃げよう」

 

 言い切り、全身から力が抜ける。彼の胸に額を預けるような姿勢になり、そのまま大きく息を吐きだした。額から彼の熱が伝わってくる。鼓動の音が聞こえ、それが少しずつ早くなっていった。

 

「ぼくも西住さんと一緒にいたい」

 

 彼の言葉が頭上に響き、顔をあげて彼の顔を見る。すぐ近くに彼の顔がある。

 

「西住さんじゃない。まほだ。私の名前はまほだ」

 

「……まほ」

 

「そうだ、それが私の名前だよ。佑」

 

 彼の笑顔がまっすぐに私の胸を貫き、寒々とした胸の中が少しだけ満たされるような気持ちになる。手を握られ、お互いの体温が移りあう。不安は消えていない。私たちの前には大量の問題が山積している。それでも私は彼の手を掴み、それを胸に当てて抱きしめた。

 

 

 

 朝の早い時間に私たちは荷物をまとめ、山を降りて電車に乗り込んだ。思えば彼とふたりで電車に乗るのは初めて出会った時以来だ。まだひとの少ない電車のなかをふたりで座っていると、彼がにっこりと笑ってピクニックみたいだねと笑う。そのあどけない笑顔にこちらまで笑みがこぼれた。

 

 これが彼なんだ。と私は思う。屈託のない顔で笑い、周りで起こる出来事すべてに敏感に反応している。感情を表に出さない男だと思っていた。常に冷静になって自分を律していると。しかし本当は子イノシシの動脈に刃を突き立てながら絶え間なく謝罪の言葉を呟き続けていた。

 

 何時間も電車に揺られながら、そのなかで私たちは多くのことを話した。佑の生まれのこと。私の高校時代の戦車道のこと。佑の絵のこと。そしてその中で私たちは偶然出会ったが、必然的に惹かれあったのだと知っていく。

 

 他に誰もいない車両で、ふたり掛けのボックス席に座り彼が私がうらやましいと話す。

 

「父さんも母さんも、顔を覚えてないぐらい昔に死んじゃったんだ」

 

 それから日本中の親戚の家を転々とし、中学生に上がるときに学園艦に乗り込み、それから大学にあがるまでは一度も丘に降りようとしなかった。その中で彼は自分の絵を描き、そして常に自分は何者なのか問い続ける。日本人離れした白い肌と茶色い瞳。両親の思い出は一切なく、故郷と呼べるものもなく日本中を転々とした。だからこそ私がうらやましいという。

 

「それは下絵なんだ」

 

 ――戦車道の家元に生まれてずっと戦車をやってきたこと。それが私の下絵なんだと彼は言う。悪い気はしなかった。それは私の積み重ねてきた努力の数でもある。

 

 何度も何度も乗り継ぎを繰り返し、そのたびに窓からのぞく風景から高層建築が消えていく。私は出てきた場所に再び戻っていくような気持ちになったが、やがてトンネルを抜けた瞬間に青く輝く海が拓け、感嘆の声が漏れる。どこまでも広がる青い海に夏の光が反射し、黄金色に波打つように見える。隣に座った佑も目を輝かせ、聞こえるか聞こえないかぐらいの声で綺麗だと呟いた。

 

 潮風の香りが漂う駅で私たちは下車し、無人の改札に設置された白い箱に切符だけを落としていく。向かっているのは彼のいわゆる篤志家が所有する海辺の別荘であり、ある立食会でそれを自由に使っていいと鍵をおしつけられたそうだ。大学からも熊本からも遠く離れて、私たちはふたりだけでここに立っている。

 

 途中で道を外れ、彼の赴くままに進んでいく先で砂浜に出た。電車で見た時よりも少しだけ太陽が傾き、赤みをたたえて景色を変えている。先ほどは黄金色、いまは茜色だ。砂浜は少しだけ歩きにくかったが、それもまた楽しく思える。

 

 「戦車道が私の全てなんだ」

 

 歩きながら私のことを話す。

 

 高校戦車道で名を馳せ国際強化選手として選ばれたとしても、妹を助けることは出来なかった。その後私は二度全国大会優勝を逃し、そして島田愛里寿という自分より年下の強敵と出会う。そんななか、もし自分から戦車道を除いたらどうなるだろうと考えた。私は西住流の後継者として、伝統ある黒森峰の隊長として常に最強でなければいけないと思っていた。その信念が揺らいだとき、そういったしがらみにとらわれず自由に生きる佑に心ひかれた。

 

「お前と共にいるのが心地いいんだ。初めて会ったとき、お前は私の名前すら知らなかった。それが嬉しかった。お前は私の名前や地位ではなくて、ただ雨に濡れていることを心配してくれた」

 

「まほが綺麗だったからだよ。下心だ」

 

「じゃあ、私はお前に綺麗だと思ってもらえてよかった」

 

 彼から手をつながれ、恥ずかしくなりながら波の際を歩いていく。手を引かれて先導されながら寄せては返す波を数える。まだ海開きの前の砂浜は海水浴の客もおらず、世界はすっかり私たちふたりだけしかいないように思えた。私たちはそのまましばらく何もしゃべらずに歩き、砂浜の突端を抜けて砂浜の反対側にまわる。振り返ったさきで太陽が燃え尽きるように煌々と赤く染まり、海と溶け合いながら世界を赤く染め上げていた。

 

「佑」

 

「……うん」

 

 しばらくふたりでそれを見つめ、それからまた歩き出す。林の中の舗装された道をゆく。

 

「世界がもっとくそったれなら良かったよ」

 

 ふと彼がそう呟く。

 

「もっとわかりやすく悪いひとがいて、行く先々でひどい目にあって、世界中を憎めたらよかった。だけどぼくの行く先ではみんな優しくて、ぼくはそのたびに馴染めない自分が悪いんだって考えなきゃいけなかった」

 

 結局心を開いてこなかったのは自分だ。誰もみんなぼくに良くしてくれたのにぼくはそれを信じることが出来なかった。自分のなかだけに閉じこもって、風景を眺めて、そしてその中にありもしない自分のルーツを探し求めた。悪いのはぼくだ。

 

 彼とつないだ手をどちらともなく強く握る。それは私たちふたりともに言えることだった。

 

 すっかり陽が暮れた道を歩いていると、やがて視線の先に真っ白なコテージのような建物が現れる。彼が「着いたね」と呟き、それに頷き返す。

 

 しばらく使われていなかったらしく、随分扉の立てつけが悪かった。鍵を差し込んで回し、佑が力を入れて開こうとすると、それはまるで生木を裂くような高い音を立ててゆっくりと開く。玄関先に設置されたスイッチを入れると二度、三度と明滅したのちにようやく明かりがつき、どうやら電気は通っているようだと安堵する。

 

 彼とふたりでそれぞれの部屋を見回り、それからふたりでリビングのソファに座る。折角遠くへ来たのに結局同じように並んでしまい、なんだか笑いが込み上げてきた。

 

「西住流に逃げるという道はない」

 

 笑い交じりにそう呟くと、佐倉が大きな声で笑う。これほど大きな声で彼が笑うところをこれまでで初めて見た。これで彼が大声を出すところをみたのはみほだけじゃない。

 

「私はもう西住流じゃないな」

 

「西住なのに? 定義によるんじゃないか?」

 

「西住流は西住流に生まれた故に西住流なのか?」

 

「中華皇帝みたいだ」

 

「だがそうなるとみほも西住流だな」

 

「妹さんはそういう感じじゃなかったね」

 

「……みほもこんな風に悩んだんだろうな」

 

 みほはどうだろう。世界に悪者がいると思っただろうか。もしかしたら思ったかもしれないが、それは直接聞いてみないとわからないだろう。

 

「だが、みほは大洗に転校して仲間と一緒に答えを見つけられた」

 

 彼は黙ったまま私のほうを見ている。

 

「佑、私にはお前がいるな」

 

 彼に寄りかかると、白く美しい手が私の頭を撫でる。それがたまらなく心地よく、その日は空腹も忘れてふたりでソファに座り、いつの間にか気を失うように眠っていた。

 

 

 


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