グロリアス軽戦車   作:景浦泰明

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『グロリアス軽戦車 第四話』

 

 

 

 西住さんとの別れを惜しむ逸見さんを眺めつつ、ぼくはやれやれやっとかとため息をつく。昨日ビンタされたこともそうだが、やたらとぼくのことについてあれやこれやと質問されたのでずいぶん疲れた。尊敬する先輩がよくわからない男と暮らしていると知ればそれは心配もするだろうが、それにしても彼女は時折大変妬ましいと言った表情でこちらを見てくるので気が休まらない。

 

 西住さんに「じゃあ」と言って手を振るエリカさんを見ていると、最後の最後にこちらを見てまた悔しそうな表情で睨む。西住さんがいなくなってふたりきりになるたびあの視線だった。ぼくも小さく手を振ると、不遜な態度で流される。

 

 そうして彼女は山を降り、西住さんはその姿が見えなくなるまでずっと見送っていた。

 

 ぼくはその様子を椅子に座って見つめていたが、不意に彼女の後姿が黒い制服をまとったものに変わった。周囲の様子も変わり、大雨のぬかるんだ荒野に見える。一瞬の幻視だが、これほどくっきりと見えたのは初めてだった。ぼくはうつむいて目をこすり、それからもう一度西住さんに目をやる。先ほどの光景はもう見えず、彼女は清楚な雰囲気のする青色のロングスカートに身を包み新緑の中に立っていた。風が吹き、足元の草と一緒に彼女の髪がさらさらと流れる。ぼくはその様子をずっと見つめていた。

 

 その日の夜、西住さんが寝静まった後でぼくは床からスケッチブックを拾い上げ、昼間見た彼女の後姿を描こうとする。少しだけ手が震えるがキャンパスに向った時ほどではない。細い線を何度も何度も描きこんでいく。美しい光景だと思った。

 

 だが結局、どれだけ時間をかけてもその線が絵になることはなかった。

 

 

 

 またふたりだけの何もない日々が続く。いつのまにか六月になって湿度が高くなり、雨の日が多くなった。ぼくと西住さんは毎日軒下で浮かない天気を眺めながら読書をして、時々ぼくがギターを弾いたりふたりで音楽を聞いたりする。彼女にギターの弾き方を教えたりもした。こんな生活を送っていると雨が降ると何もできはしないから、時折雨が止んだ時に麓へ降りて大量に買い物をし、そして雨の間はちびちびとそれを消費する生活を続ける。

 

 穏やかな生活。時折この生活がいつまで続くだろうと考える。彼女はいつか戦車道に戻るだろうか。ぼくはいつまでここにいられるだろうか。

 

 居間でひとり。そんなふうに考えていると玄関先から馴染みの配達員の声がして、ぼくは慌ててサンダルを履いて引き戸を開ける。いつもうちに荷物を運んでくれる彼はきさくなひとで、ろくに返事を返しもしないぼくにもいろいろと話しかけてくれる。

 

「ひどい雨ですねえ。今日はお手紙が一通です。ハンコはいりません」

 

 頷いて受け取ると彼は「雨漏りなんか気を付けて」と言ってまた雨の中へ走っていく。それを見送ってから手元に残った手紙を見ると、差出人の欄にある企業の非常によくしてもらっている営業さんの名前が書かれていた。

 

 なんとなく来るべき時が来たような気がする。居間に戻って封筒を開き、封入されていた文書を開く。紙面には新製品の缶詰のパッケージに印刷する絵を依頼したいということと、その締切日について書かれていた。

 

「八月十日」

 

 それまでに果物の絵を七枚。できなければこの家ともお別れだろうか。高校時代からよくしてくれた企業とはいえ、絵を描けなくなればぼくを遊ばせておいてはくれないだろう。

 

 そうなればぼくは、と考えたところで後ろの障子が開く。不審げな表情をした西住さんがそこに立っていて、ぼくは手に持った手紙をテーブルの上の本に隠す。なぜこんなことをしたんだろう。彼女がここでともに暮らしている以上、ここを追い出されるとなれば彼女にも迷惑がかかる。ここで彼女にもしっかりと話をして、それ次第ではアトリエを出なければいけないと話さなければいけないのに。

 

 彼女がソファに腰かけ、こちらを見て「どうかしたか」と尋ねる。ぼくはそれに「たいしたことじゃない」と答え、はぐらかしてしまう。彼女はきっとそれ以上深く追及してこないだろう。だがこんなのは問題の先送りでしかない。

 

 ふと彼女と初めて会った日のことを思い出す。四月の終わりごろ、雨の降る日にぼくらは出会った。

 

 ぼくはあの日大学になじめない自分にうんざりし、大学に預けていた画材道具を全てアトリエに持って帰るところだった。キャンパスへと続く広い道を歩きながら、その日の強烈な雨で散らされた桜の花が水たまりに溜まっているのを見る。街灯で白く照らされた水たまりに薄いピンク色の桜の花びら。ぼくの靴がその端っこを踏み、大きな波を作り出して全体が撹拌される。ぼくはその様子が楽しくて傍目には小学生のようにしか見えない真似をして歩いていき、そして門の前に立つ彼女を見た。

 

 見惚れる、という言葉を人間に使う日が来るとは思っていなかった。ぼくはいつも雄大な自然や精緻な工芸品に見惚れてきたし、これからもそうだと思い込んでいたところがある。だが雨に濡れて街灯に照らされる彼女を見た瞬間、ぼくは間違いなく見惚れていた。少しだけ茶色がかった髪が水にぬれて頬に張り付き、憂いを帯びた瞳と合わさってどこか妖艶な雰囲気すらかもし出されている。

 

ぼくは呆然とするあまりに傘を取り落とし、そしてその拍子に彼女とまっすぐに見つめあった。

 

「佐倉」

 

 意識が今に引き戻され、こちらを覗き込む西住さんと目が合う。あの時と同じ視線だ。どうした? と心配そうに尋ねる彼女にすこしだけ戸惑う。いい機会かもしれない。

 

「あのとき。……初めて会ったとき、あんな雨の中で何をしてたんだ」

 

 彼女が一瞬きょとんとした表情になり、それから少し険しい顔つきになる。あまり聞かない方がいいことだったのかもしれない。

 

「戦車を運転していたんだ」

 

「戦車?」

 

「あぁ。部活のⅡ号戦車を借りてな」

 

 彼女の表情が柔らかなものに変わり、どこか遠くを見るような目つきになる。

 

「思い出深い戦車だ。子供のころによく妹と一緒に乗って、遠くまで遊びに行ったよ。格納庫で見つけて嬉しくなってな。少しだけのつもりで運転したらいつのまにか陽が暮れて、気が付いたら雨まで降ってきた」

 

 お前が来なかったらあの後部室に戻って寝ようと思っていたんだ、と言って彼女が笑う。その表情にはこれまでにない美しさがあった。

 

「いつか西住の操縦する戦車に乗ってみたいな」

 

 なんとなくそう呟くと、西住さんが面食らったように目を見開いてこちらを見てくる。そんなにおかしなことを言ったつもりはないが、ずいぶん驚いているようだ。

 

「……そうだな。いつかそういう日が来ると良い」

 

 だが、その日が来る前にこの生活も解消されるかもしれない。ぼくは本の下に挟まったままの手紙のことを考え、そんなふうに思う。いったいなぜ絵が描けなくなってしまったんだろう。昔のように描ければ。それさえできればこのままここで暮らしていけるのに。

 

 気持ちが苛立つ。拳を強く握りこむ。日焼けしていない肌があっという間に真っ赤に染まり、貧弱な握力がすぐに音を上げる。

 

「お前はどうなんだ?」

 

 今度は西住さんから質問され、久々に長く続く会話に驚く。どうというのは多分あの夜のことだろう。画材道具を取ってアトリエに籠る帰りだったと説明すると、彼女は納得がいったように笑った。

 

「遠くから大荷物を抱えた男が来ると思ってな。気になってみていたら小学生みたいに水たまりを蹴飛ばしていたよ」

 

「見ていたのか」

 

「ばっちりこの目で」

 

「意地が悪いぞ」

 

「お前ほどじゃない」

 

 それからしばらくふたりで言い合いを続けたが、すぐにぼくの方が喉の痛みを覚えて黙り込んでしまう。だが、勝ち誇ったような表情の彼女を見ても悪い気持ちはしなかった。

 

「家が戦車道の家元だと、小さい頃から戦車を乗り回したりするんだな」

 

「あぁ、生まれた時からずっとすぐそばにあったよ。思い出せる限り一番古い記憶は、お母様に抱かれて戦車から外を見た光景だ」

 

 どこまでも続くような平野に戦車がたたずむ光景を想像する。そういったひとつひとつの光景が彼女を作り出してきたんだろう。そういう彼女だから後輩に慕われ、こんなところまで逸見さんがやってきたのかもしれない。

 

「佐倉はどうして絵を描こうと思ったんだ」

 

 突然自分の話に移り変わり、少しだけ動揺する。何度かインタビューで同じようなことを聞かれたときとは違う。もう少しだけ個人的なことを話す。

 

「……話す代わりに描こうと思ったんだ」

 

 そう返事をしたが、西住さんの表情は納得しかねるといった様子だった。

 

「話すのは得意じゃなかったけど、空を見たり、山や川を見たりすると胸の奥から湧き出してくるものがあったんだよ。だから自分の中にあるそれを絵にしようと思ったんだ」

 

 そうやってずっと自分を取り巻く世界とコミュニケーションを取ろうとしてきた。自分を表明することで自分をわかってもらおうとした。だが結局それは一方通行の手段でしかないとわかったのは、大学に入学して大量の人間と出会ってからだった。

 

「音楽も好きじゃないか」

 

「出来上がってく感じがしないし、形に残らないから」

 

「それで絵か」

 

 ぼくは小さく頷き、そしてようやくぼくらの間に沈黙が流れる。ひどく疲れていた。会話するごとにお互いの心のひだを一枚ずつめくっていくような感覚があり、無理にはがせばそこから真紅の血が流れ出すことが感じられる。ぼくはためていた息を小さく吐きだす。外は相変わらず雨が降っていたが、その雨音もどこか遠くで鳴っているようにしか聞こえなかった。

 

 椅子に深く腰掛けて天井を眺めていると、やがて西住さんが壁のそばに立てかけられたギターを手に取る。それを抱えると六弦から一弦まで順に鳴らし、チューニングの狂っている弦を直していく。すっかり慣れた手つきだ。この一週間はずっと空いた時間にギターの練習を続けてきたが、彼女はずいぶん筋が良い。

 

 チューニングを終えてもう一度六弦から一弦まで全ての弦を鳴らすと、小さく息を吸ってギターを構えた。すぐに最初の音が弾きだされ、それから次々と音が流れ出していく。二十世紀にデビューして全世界を席巻したロックバンドの名曲。美しくシンプルな曲だけに演奏は簡単で、初心者の練習にはうってつけの曲だ。西住さんは所々つっかえたりしながらついに一曲を通して弾ききり、大きく息を吐く。

 

「上手だ」

 

 笑顔でこちらを見詰める彼女にぼくはそう言って笑いかけ、その返事を聞いて彼女が笑う。彼女はどんなものでもすぐに上達していく。畑仕事でも、このぶんでは教えていけば料理だってすぐに上手になるだろう。

 

「まだまだうまくいかないな」

 

「始めて一週間なら上出来だ」

 

 嬉しそうに笑う彼女にこちらも笑顔になる。といっても、自分で思うほど表情は変わっていないのだろうが。

 

 結局この日、彼女に依頼のことを伝えることはできなかった。

 

 

 

 それから二週間ほど経ち、ようやく空に晴れ間が多くなってくる。何重にも塗り重ねたような雲が開き、季節は夏の始まりに近づいていた。日差しが強く、山の上に暮らしていてもかなり暑さを感じるようになっている。

 

 ぼくはそのとき山の麓まで降りて食材の買い出しに行き、汗を流して帰り道を辿っているところだった。肌着が汗でぬれて身体に張り付く。弾む息を抑えながら山道を登っていると、途中で道の一部の石がひっくり返り、土が露出しているのが見えた。

 

 近付いてよくみてみると露出した土はまだ湿り気を帯びた新しい土で、なんらかの大型の生物がついさきほどここを通ったと知ることが出来る。普段なら西住さんがここを通った際に足場の悪い石を踏んでこけたと考えるのだが、彼女は今頃大学で講義を受けている時間だろう。ぼくはしゃがみこんで土を触り、まさか熊かと考える。

 

 一応熊やイノシシが出た時のために、麓に住んでいる猟師のひとにすぐ連絡は取れるようになっている。とはいえこの状況で熊と出くわしたらまず間違いなくひとたまりもないし、ぼくは晩御飯の材料を買いに行ったつもりで自分が晩御飯になってしまうだろう。いますぐ麓へ引き返すか家に戻って電話をするかだが、既に自分が立っている場所からすると家の方がはるかに近い。

 

 そう考えた瞬間ぼくは決然と立ちあがり、自分が出せる限りの大声で歌を歌い、それから歩き始めた。熊は基本的に臆病で大きな音を聞くと逃げていくと聞いたことがあるし、以前北欧の少年が学校からの帰り道で狼と遭遇した際、持っていた音楽プレーヤーから大音量でへヴィメタルを流したら怖がって逃げて行ったという話を聞いた覚えがあるからだ。こうなったら恥も外聞もないし、そもそも誰も見ていない。ぼくはやけくそ気味になりながら全力で知っている限りのメタルの曲を歌う。お前は俺を狂わせるデーモンうんぬんそして俺は教会に火をつけうんぬん紅の城に白銀の聖女がうんぬんかんぬん。

 

 山を登りながらメタルを絶叫していると次第に喉が枯れ、声が擦れてくる。ぼくは一度立ち止まって水を口に含み、山道を見つめる。アトリエまではあともう少しだった。ぼくは最後の力を振り絞るように再び絶叫し、直後にすぐそばの林が音を立てるのを聞いて硬直した。熊か。イノシシか。

 

「うわぁあぁあああああああああ!!!!! くまぁぁあぁあぁあああああ!!!!!」

 

 とりあえず大声を出すしかない。もう自分でも訳が分からなくなりながら絶叫したが、それでも林のなかの物音がやむ気配はない。ぼくはもはやこれまでと観念し、せめて一矢報いてやろうと足元の石を掴む。全身に緊張が走り身体が震えたが、林の中から姿を現したのは熊ではなかった。

 

「あ、あの、熊じゃないです」

 

「は? 西住?」

 

「え、はい。西住です……」

 

「いや、違うのか……?」

 

「いや、西住なんですが……?」

 

 これがぼくと西住さんの妹との出会いだった。

 

 とにかく熊ではないとわかり、全身から力が抜けてその場に崩れ落ちる。それを見た西住さん妹(仮称)が慌ててこちらに近寄り、肩をゆさぶられた。よろよろと力なく顔をあげると、心配そうに覗き込む幼い表情があった。よくよく見てみると確かに西住さんに似ているような気もするが、ずいぶん雰囲気が違うなと思う。西住さんなら熊と間違うかもしれないが、この子では大山鳴動といったところだろう。

 

 ぼくは改めて地面に座り直しゆっくりと呼吸を落ち着け、いまだに慌てたままの彼女を制する。落ち着いてみると彼女の脚に赤い痣があるのがわかる。おそらくあの石にけつまずいたのも彼女だろう。

 

「俺の名前は佐倉佑だ。この先にある家で暮らしてる」

 

「えっと、大洗女子学園三年、西住みほです。姉がこの近くに住んでいると聞いて訪ねてきました」

 

 本当に色々なひとから慕われているなあと思い、ぼくは少し感心する。そばにおいた荷物を掴んで立ち上がり、そばにしゃがみ込んだままの妹さんに手を貸す。彼女は遠慮したが、おそらく足をくじいているだろう。痛めた側の脚を支えるようにして肩を組み、ぼくはそのままゆっくりと家へと向かった。

 

 

 

 アトリエの裏の井戸で彼女の脚を冷やしつつ、これまで通り西住と呼んでいてはふたりがごちゃごちゃするなと考える。まあ、妹さんのことは妹さんで構わないだろうと思う。西住さんが大学から戻ってきてどう思うかはそれ次第だ。

 

「湿布を貼るから動かないように」

 

 ぼくはそんなことを考えながら妹さんの濡れた足を拭き、赤くなった部分を覆うように湿布を貼りその上を包帯で覆っていく。これでしばらくは少し痛むかもしれないが、すぐに良くなるだろう。妹さんからの礼に頷いて返し、それから家の中に招待する。

 

 ソファに座ってもらい、冷えた麦茶とお茶うけの最中を用意する。逸見さんのときには西住さんがいたから任せておけたが、今日は残念ながらぼくしかいない。もてなさざるを得ないのだが、残念ながらぼくにはこういった経験があまりにも少なく、すぐに妹さんと向かい合って黙り込むことになってしまった。

 

「申し訳なかった。熊だと思って、大声を出したりして」

 

 とりあえず、ぼくの口から出た言葉はそんなものだった。

 

「いえ、私こそ林の中になんて入らなければ。……あの、出るんですか」

 

「生息しているとは聞いたことがある。が、遭ったことは無いし遭いたくもないな」

 

「あ、あはは……ですよね……」

 

 とはいえ麓には猟師のひとが住んでいるし、滅多に出るものではないよと話すと妹さんも安心したようにほっと息をつく。ぼくもようやくひと心地着いた気持ちでお茶を飲み、それから最中を食べる。少しだけ小豆の形が残っており、中に餅が入っているタイプだ。

 

「あいつは大学だよ。そろそろ帰ってくる」

 

 最中を置いてそう言ってあげると、妹さんは面白いぐらいに動揺しはじめる。もう半ば気が付いているものと思っていたが、すっかりそのことは頭から離れていたらしい。こんな山奥にそう何軒も家が建っているわけはないのだ。ぼくは妹さんに西住さんと暮らしていることとそうなった経緯を話し、のんびりと暮らしていることを伝える。

 

「お姉ちゃん、そんなこと一言も言ってなかったのに」

 

 その言葉に少し首をかしげる。それはちょっとよくないかもしれないが、まあ彼女も大学生だし自分で決めたことなのだろう。

 

「じゃあ、ここには佐倉さんのご家族と一緒に住んでいるんですか?」

 

 そういうわけではないんだけど、と言って口ごもる。あまりこういったときに話題に堕して気分のいい話ではない。ぼくが悩んでいると、何かを察したのか彼女が慌てたように口を開く。

 

「――あ、ご、ごめんなさい」

 

 謝ることじゃない、と言って頭を下げようとする彼女をとりなす。ただまあ、そういうところが気になるのはわかるし、それを考えて一度西住さんにもそこのところをよく考えるようにとは言ってある。ぼくはそもそも気にする人間なんてほとんどいないも同然だが、彼女はこうやって気にかけて訪ねてきてくれる人間がたくさんいるのだ。

 

「しばらくすればあいつも帰ってくるし、積もる話もあるだろうから今日はゆっくりしていくといい。その足じゃ今日帰るのはつらいだろう」

 

 ぼくの言葉に彼女が恐縮したように頭を下げる。どうも姉妹とはいえずいぶん性格が違うらしい。西住さんはこういうときでも堂々としているが、彼女はおどおどとしていてひどく頼りなく見える。しかしかつてネットで調べたところでは彼女も戦車道の有名選手らしいし、ひとは見かけによらないものだ。

 

「あいつの話ではお転婆だったらしいが、随分話が違うな」

 

 ぼくの言葉に彼女がえぇ! と困惑し、それから両手をぶんぶん振り回して誤解ですよと反論する。

 

「それ小学生の頃の話です!」

 

「勝手に戦車を乗り回して家の木に空砲を撃ちこんで、怒られてもけろっとしていたとか」

 

「お、お姉ちゃんそんなことまで」

 

「自分は母親に泣かされたのに妹はケロッとしてたと言って、ずいぶん根に持ってる風だったな」

 

 あわあわと慌てだす妹さんを眺めているとなんだか笑えて来てしまう。西住さんの言っていた印象とはやはりずいぶん違うが、自分とは正反対だと言っていたのだけは間違っていないらしい。妹さんの様子を見ながらしばらく笑っていると、玄関の方で引き戸が開かれる音がした。

 

「あぁ、帰ってきたな」

 

「えぇ!?」

 

 玄関先でただいま、と声がして足音が近づいてくる。聞きなれたリズム。間違いなく西住さんのものだろう。俺の言葉を聞いた妹さんが立ちあがり、玄関に続く襖の方に向き直る。やがて襖が開き、西住さんが姿を現した。

 

「あ、お姉ちゃん。……お邪魔してます」

 

「……みほ? なぜここに」

 

 彼女の表情に困惑と驚愕の色が浮かぶ。

 

 それからすぐにふたりで仲睦まじく話し始めたが、ぼくは彼女の表情がほんのわずかな瞬間辛そうに歪むのが見えた。ほんの一瞬の出来事。だが、彼女の表情が恐怖のようなものに覆われるのをぼくは見逃さなかった。

 

 

 


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