グロリアス軽戦車   作:景浦泰明

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『グロリアス軽戦車 第二話』

 

 

 朝目が覚めたとき、いつもぼくはゆっくりと長い時間をかけて周囲の様子を観察する。昨日の自分との連続性。連綿と続く過去からの自分を再確認するためだ。

 

 ベッドの上から上体だけを起こし、枕元に落ちる太陽の光を眺める。その発端をたどっていくとやがて東向きに設置された窓にたどり着き、ぼくはいまにもそこを突き破りそうなほどに広がる太陽の光を見た。そこから差し込む一条の道が部屋を照らし、僅かに舞う埃をきらめかせる。ぼくはそれを見て部屋中に金の粒子が舞っているみたいだと思う。

 

 部屋の中心に大きなイーゼルが置かれ、その周囲に様々な色の絵具で汚されたタオルが何枚も散らばっている。ここ三か月、いつもと変わらないアトリエの風景。

 

 ベッドから起きだしてクローゼットに向けて歩き出すと、古くなった床板が楽器のように様々な音を立てる。高い音や低い音がそれぞれに鳴り響き、ぼくが歩を進めるたびに部屋の中で摩訶不思議な音楽が奏でられた。

 

 クローゼットの中から黒いTシャツとカーゴパンツを取り出して着用し、西住さんを起こさないように気を付けながら階段を降りる。この家に彼女が寝起きし始めた最初の頃、いつもと同じように階段を降りたところ彼女を起こしてしまったことが何度かあり、それ以来朝野良仕事に出るときには細心の注意を払うようになった。まだ清澄な朝の空気が残るアトリエの廊下を音も立てずに歩き、玄関口で靴を履いて家から出る。

 

 先ほど自分の部屋で起きたときとは比べ物にならないほどの太陽の光だ。ぼくはそれを全身に浴びてようやく思考回路がはっきりしてくるのを感じる。確か太陽の光を浴びることによって体内でセロトニン? とかいう成分の生産が高まるといつか聞いたように思う。家の裏に回って井戸水を汲み、顔を洗ったことで思考がさらにはっきりと明瞭になる。全身で伸びをして身体を鳴らす。

 

 まずは畑仕事からだと思って井戸を横切ろうとしたところ、ちょうど軒下のあたりに蜘蛛が巣を作っているのが見えた。六角形の見慣れた巣に朝露がまだ残っており、陽の光を浴びて鉱石で作られたように輝いている。それを見て美しいとは思ったが、おそらく西住さんは怖がるだろう。朝の仕事を終えたら悪いけど遠くに行ってもらおうと思う。

 

 アトリエのそばを通り抜けて前庭に出た。周囲を山に囲まれたアトリエの前はなだらかな下り坂になっており、ちょうど玄関を出たすぐ先にぼくが作った家庭菜園の畑がある。そんなに規模の大きいものではないが、今年から始めたものだから色々なものに手を出した。先月には夏野菜の種をいくつかとスイカを撒いたし、いくつかはもう芽が出てきている。初めて芽が出た日には嬉しくて舞い上がり、空洞が少し埋まったような気がした。

 

 ぼくは玄関先にある蛇口からホースをひき、畑全体にたっぷりと水を撒く。茶色い土に見る見るうちに水が染みわたり、その下で蛇がのたうつようにいたるところで水流が巻き起こり土が隆起する。もう十分だろうと思って蛇口まで引き換えし、それからひねりを引き絞る。蛇口まで戻る間水が垂れ流しであることに気付き、手元で水を制御できるシャワーヘッドを買ったほうがいいかもしれないと考えた。次に山を降りるときにはついでに買ってこようと思う。

 

 絡まないようにしっかりとホースを巻き、それから家の中に戻る。靴を脱いで上がろうとすると丁度西住さんも起きだしてきたところらしく、彼女の部屋からわずかな足音と布団をたたむ音が聞こえてくる。ぼくはその音をBGMにしながら冷蔵庫を開き、朝食の準備を始める。白米などは昨日の夜に炊いたものがまだ残っているし、味噌汁に使う出汁も昨晩準備しておいたものがある。朝食にも良いものを食べたいが、それはそれとしてできる限り楽にはしておきたい。冷蔵庫の中から頭と腸を取った煮干しを水につけておいたものを取り出すと、後ろで障子が開く音が聞こえる。

 

「おはよう」

 

 その声にぼくもおはよう、と返す。なんだか不機嫌そうな声が出てしまい、いつものことながら嫌になる。そんなぼくの隣を西住さんが通り過ぎ、一瞬その姿が視界に映る。初めて見た時からそうだが、彼女の周囲では空気が引き締まって見える。何らかの引力を持っているというか、現実が歪むような強い魅力があるように思う。あの雨の日に彼女をここに招待して以来一緒に暮らすようになったが、こんなことになるとは大学に入る前の自分からは想像もつかなかった。

 

 ずっと絵ばかり描いて暮らしてきた弊害か、ぼくはあまりにも社会のことについて疎い。どんな重大なニュースでも大体二三日、下手すると一週間遅れで知ることが常だし、有名人の顔なんて何もわからない。おかげさまで後々になって西住さんのことをネットで調べた時はとんでもない有名人と暮らしているんだなあと恐々とした。とはいえ本人は今戦車道と距離を置いているようだし、それについて語るところもほとんど見たことは無い。あえてそれについて触れようとも思わないが。

 

 出汁を入れた鍋を沸騰させないように気を遣いながら具材を細かく刻んでいく。ご飯とみそ汁、それから漬物と鯵の開きを焼こうと考える。魚焼き用のグリルを開きながら、こういうのもみんな囲炉裏でやればもっと美味しくできるのかもしれないなと考える。そんな予定はないが、もしひとが来るようなことになったらやってみようと思う。

 

 グリルに魚を放り込んで火を入れ、その間に糠床を取り出して中からきゅうりの糠漬けを掘り当てる。キャベツの外葉と人参もつけているが、そちらは感触からまだ浸かりが浅いと感じた。ぼくはきゅうりから糠をそぎ落とし、箸で掴みやすいように斜めに刻んでいく。しばらく無心でそんな作業をしていると、いつの間にか息をきらした西住さんが玄関先に立っていた。

 

「どうした?」

 

「井戸のところに、蜘蛛がいる」

 

 そういえば、と先ほどのことを思い出して笑う。後で片づけておこうと思っていたのに、野良仕事を終えたらすっかり忘れてしまっていた。西住さんはそんなぼくの様子を見て目をきっと細め、つかつかとこちらに近寄ってくる。彼女の周囲に満ちる引力のようなものがさらに大きく広がるのを感じてぼくはひやりとした。

 

「その反応、さては知っていたな」

 

「待て、確かに知っていたけどわざとじゃないんだ。俺はちゃんと片付けようと思って」

 

「じゃあなぜ忘れた!」

 

 それは、と言おうとして、それ以上問答を許されず西住さんに襟元を掴まれる。ずっと文化系の遊びばかりしてきたぼくが西住さんに敵うはずもなく、面白いほど簡単に引きずられていく。ぼくはさながら親猫に連れられて行く子猫のように見えるだろう。

 

 結局彼女のために箒で蜘蛛の巣を取り除く羽目になり、そのせいで朝食をとるのが少し遅れた。西住さんからは「お前が意地悪をするから大学に遅れそうじゃないか」と怒られたが、ちょっと横暴だと思う。あまり親しくないうちは凛とした雰囲気で冷静そうに見える彼女だが、普段は冗談も言えば女の子らしく慌てたりもする。こうして一緒に食事をしていると彼女が戦車道の有名人でさる名家のお嬢様だということを忘れそうになるが、似たようなことを彼女からも言われたのでお互い様なのだろう。

 

 ぼくらは全く正反対のようで、お互いにどこか似ているところがある。それがぼくらを打ち解けさせたようにも思えるが、本当のところ、根の部分を掘り返してみればぼくたちは全く別の人間だ。ぼくはこのことを考え始めるといつも下絵のことが頭に浮かんでくる。絵を描くために最初に描かれるもの。その絵の全てを形作るもの。彼女にはくっきりと描かれた下絵があり、そしてぼくにはそれがない。

 

 ぼくは白いキャンパスの上に乱雑に色をのせただけの集合体だ。

 

 

 

 大学に向う西住さんを窓から見送ったあと、ぼくも作業服に着替えて家を出る。昨日西住さんに話した通り、山菜を採って今夜の食卓に彩を添えるためだ。通常日本の山野は大概が国有地であるか誰かの所有物のため山菜を採るなどの行為は違法となるが、この山に関しては丸ごと一帯アトリエを貸してくれた企業の持ち物なので一切問題はない。山の中によくわからない和洋折衷の別荘を持っていたり、その山も持っていたり、大企業というのはよくわからないものだ。最初は何かの税金対策なのかとも思ったのだが、どうやらそういうわけでもなくて単に創始者が持っていたものがそのまま会社の預かりになったらしい。

 

 とにかく世の中で起きることはよくわからない。ぼくはどうでも良いことはあまり深く考えないことにし、意気揚々と森の中へ飛び込んでいった。

 

 五月の暖かい日差しが木々の隙間から零れ落ち、空を見上げるぼくの顔をまだらに染める。新緑と呼ぶには少し濃くなりすぎたその緑を眺め、そしてそれが照り返す美しい光を全身に浴びてぼくは進んでいく。ふかふかとした腐葉土の感触が心地いい。朽ちた木々や腐った葉の匂いに紛れて時折むせるような緑の香りがする。谷を越えていくと渓流に出会い、そこで群生していたフキを摘み取った。切り口から水が滴り、この瞬間まで生きて水を吸い上げていたことを思う。

 

 森の中を歩いていると命に囲まれていることを実感することが多い。足元、頭上、地中、ありとあらゆるところに生命の気配があり、そしてぼくもその中のひとつになる。命の流れの中にあり、そして他の命を奪って暮らす。

 

 ぼくは渓流に沿って山を登りつつ、時折山中に分け入り山菜を収穫していく。運動不足のせいか息がはずむのを感じて情けなく思う。そういえば西住さんは先日一緒に魚釣りをしたときにも苦も無く山道を進んでいた。ぼくも山暮らしを始めてそう短いわけではないのだからもっと動けるようになっても良いようなものだが、どうにも体力というやつはそう簡単に身についてくれるものではないらしい。まだ五月とはいえ身体を動かしていると熱が溜まってくる。頬を汗が伝うのを感じて二の腕でそれをぬぐう。

 

 そういえば西住さんは山菜とか好きなのだろうか、と今更ながらに考える。一応今のところ出したものはなんでも何も言わずにせっせと食べてくれるので良いのだが、食事時にはあまり会話もしようとはしない。ただいつも美味しいと言ってくれる。

 

 絵を描くときには何も考えずただ自分の描きたいものだけを描く。世界を眺めてそれを自分の中に取り込み、そして自分の中の世界を掬い上げてキャンパスに落とし込んでいく。だが、料理を作るときには食べてくれるひとのことを考えなければならない。これまでの人生にはあまりなかったことだ。

 

 そんなわけでここ最近はいつも西住さんのことを考えている。どういう味付けが好きで何が好きなのか、直接聞けばいいのだが、ぼくは会話をするのが苦手でいつもききそびれてしまう。いつからか表に出す自分と心の裡はその姿を大きく変え、誰と話すにも全く舌が回らず、気持ちと正反対にひねくれたことを言うようになってしまった。ぼくは頭上にあったタラの芽を摘み取って腰の籠に入れ、大きく息を吐く。いつか西住さんとももっと色々なことを話せればと考える。

 

 カゴを半分近く埋めたあたりで来た道を引き返し、アトリエに戻る。ずいぶん汗をかいてしまった。ぼくは玄関を入ってすぐわきにカゴを起き、作業着を脱いで浴室に入る。ぼくは軽く汗を流して全身をふき、新しく描絵用の作業着に着替える。化繊のズボンとそこらじゅうに油絵がべったりと張り付いたティーシャツを着こむ。すっかり汚れてしまったシャツを眺め、指描でついた絵具をぬぐう癖も考え物だと思う。

 

 玄関先を片付けて二階に上がる。また珍妙な音楽が奏でられ、アトリエの扉を開く。いつもと変わらない様子が目に映る。朝と違うことは陽の角度だけ。ぼくは深く息を吸い込んでからキャンバスの前に置かれた椅子に腰を降ろし、イーゼルの隅に置かれた木炭を取り上げる。キャンバスは数日前に張った麻布のものがそのまま張ってあり、いまだにどこもたわむことなく緊張した様子でそこにあった。どこまでも白く無限大を思わせるキャンパス。ぼくは木炭を持った手をそこに向けて突き出し、そしてそれっきり動けなくなってしまう。

 

 ふいに心臓が大きく跳ねるのを感じ、動悸が小刻みに早くなるのを感じる。息が荒くなり、全身からじわりと汗が流れ出す。指先が耐えられないほど激しく震えだし、手に持った木炭を取り落してしまう。静かな部屋に木炭が落ちる音がやけに大きく響く。ぼくは何度も何度も深呼吸を繰り返しながら、自分自身にむけて「大丈夫だ。大丈夫だよ」と声をかける。

 

 何にもないんだよ。怖いことなんて何もないと自分自身に何度も声をかける。這い出るようにして椅子から立ち上がり、部屋の隅に座り込むとようやく気分が落ち着いてきた。少しだけ涙が滲んだ視界でアトリエを眺めると、そこには先ほどと全く変わり無いままのキャンバスが置かれている。

 

 ぼくにはそれが何千年も前からずっとそこにあるように思え、怖くて膝を抱えた。

 

 

 

 居間で本を読んでいると、日が暮れて少しした頃に西住さんが帰ってきた。彼女からかけられる「ただいま」という言葉に「おかえり」と返すと、あれからずっと波立っていた心が少しだけ落ち着くのを感じる。自室から戻ってきた彼女から先日貸した本を差し出され、それを受け取った。面白かったが、私は猫よりも犬が好きだから次は犬が活躍する小説が良い、とのことである。なんだかちょっとズレているような気がしないでもないが、彼女は毎回こうして貸した本に感想を添えて返してくれるのでこちらとしても勧め甲斐がある。

 

 ぼくは彼女から受け取った小説を膝の上に置く。一匹の猫が今まさに開かれんとする扉の前に座っている可愛らしい表紙のSF小説だ。ぼくはその小説の表紙を撫でながら、自分の書棚に犬が活躍する小説がどれだけあったろうと考える。ソファの隣に彼女が座り、ぼくの方を覗き込む。

 

「山菜はどうだったんだ」

 

「それなり。……食事にするか?」

 

「うん。もうすっかり空腹だ」

 

 ぼくはその言葉に頷き、膝の上に置いていた本を肘置きにのせて立ち上がる。襖を開けて玄関に放置したままのカゴを拾い上げると、台所まで行ってからその中の山菜をテーブルの上に並べる。タラの芽、ふきのとう、こごみ、ふき。何種類もの山菜がカゴから飛び出し、いつの間にか隣に立っていた西住さんがそれを見て小さくため息を吐く。

 

「こんなに。お前は猿だな。プロ猟師猿だ」

 

「もしかしてそれは褒めているつもりなのか」

 

「私はいつもお前のことを褒めている」

 

「俺が言えたことじゃないけれど、お前はもうちょっと対人関係を磨いたほうがいいな」

 

 それだけ言って彼女に背を向け、山菜についたゴミを落とす作業に入る。困ったな。また憎まれ口のようなことを言ってしまう。自分のことを俺なんて呼ぶのも本当は気恥ずかしいのに、口を開くとうまく言葉が出てこなくなる。だが西住さんはそんなことは意に介さないというようにぼくの隣に立ち、そしてぼくの仕事を手伝ってくれた。

 

 ぼくたちはふたり並んで山菜を綺麗に掃除し、そして終わったものは彼女が銀色のバットに几帳面に並べていく。西住さんの仕事は何をするにも几帳面で、ぼくひとりでは野放図になってしまいがちな部分をうまく修正してくれる。盛り付けや飾りつけはすっかり彼女の仕事だった。

 

 ふと、掃除の終わったタラの芽をバットに並べた瞬間、彼女と指の先が触れ合うのを感じる。ふたりの指はすぐに離れたが、体温を感じさせるには確かな時間があり、ぼくはその後も作業をしながら時折その部分を触ってみる。不思議なことに彼女と触れ合った部分はいつまでも熱を持っているようであり、その熱が身体に回り、心の中にある空洞を埋めるようにすら感じられた。

 

 空洞。そう、空洞だ。ひとはみんな心に空洞を持って生まれてくる。"好き"はその空洞を埋めようとする代償行為だ。ぼくは本を読み、音楽を聴き、畑を耕し、料理を作り、そして絵を描く。すべては自分の中にある足りない何かを外から補填するための代償行為でしかない。その中で絵を描くことだけが突出したのは単に孤独を埋められる時間が他よりも長かったからだ。

 

 ぼくは自分の中にある巨大な空洞を思う。そして最近このことについて考えると、ぼくはいつも隣に立つ西住さんのことを見る。熊本の名家に生まれたお嬢様。幼い頃から練習して培ってきた戦車道の名手。彼女はぼくにないものをすべて持っているように思える。ぼくがあの日、電灯に引き寄せられる虫のように彼女に近づいたのも、そういうことをどこかで感じ取っていたからなのかもしれない。

 

「……佐倉?」

 

 彼女の声によって意識が引き戻されるのを感じる。どうやらいつのまにか意識がどこかに飛んでしまっていたらしい。頭を振って意識をはっきりさせ、衣ダネを張ったボウルに山菜をくぐらせていく。西住さんはその様子を見て油がはねると思ったのか少しこちらと距離をとっていたが、やがて何かに気が付いたように再びこちらに戻ってきてぼくから菜箸とボウルを取り上げた。

 

 油がはねるからと警告したが、どうしても自分でやりたいということらしい。ぼくは彼女のそばに立ちながら言うとおりにしてもらう。

 

「上から落とさずに、そっと浸からせるような感じで。揚げる時間もそんなに長くなくていいから」

 

 ぼくの言葉を聞いて彼女が意を決したようにうなずき、それからひとつふたつと衣をまとった山菜が鍋に落とされていく。そのたびに台所に熱された油が立てる音が響き、油が跳ねないかと心配になる。

 

 先ほどまでどこか不安げな表情を漂わせていた西住さんだが、今ではその表情は冷静そのものだ。彼女はぼくが言うとおりに山菜を鍋に落とし、それから手際よく引き上げていく。実は経験があるのかと思って覗き込んだところ、彼女から少しきつめの声で「油が跳ねたらどうする」と怒られてしまう。

 

 結局ぼくはそのまま天ぷらを揚げ終わるまで彼女のそばに立ち、彼女が一度も油を跳ねさせることなく全ての調理を終えるのを間抜けに眺めていた。調理が終わった彼女はどこか誇らしげで、上機嫌なままふたりで食卓につく。

 

 ぼくは彼女の揚げた天ぷらをひとつ箸でつかみ、まだ熱いそれを塩に付けて口に放り込む。口の中を火傷しそうなほどの熱さと共に塩味を感じ、それから芳醇な春の香りが鼻腔を抜けていく。ふきのとうだ。熱されたことで甘みが強まり、しかし本来の苦みと香りが損なわれることなく口の中に広がっていく。

 

「美味しい」

 

「そうか」

 

  一瞬、ぼくの言葉によって彼女の表情がほころぶのを見た。それは見逃してしまうほど短い間のことだったが、彼女の笑顔はまるで焼き付けたかのようにぼくの胸に鮮烈な印象を与える。

 

 ぼくは彼女と向かい合い、黙って食事をしながら考える。このあと彼女とどれだけ話ができるだろう。これからぼくは彼女とどんな話をしていけるだろう。

 

 ぼくは毎日、この時間が永遠に続けばいいと考えている

 

 

 


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