「揺れが……収まった?」
教会の屋根上。様子を見守っていたミツルギは、ふと教会の揺れが収まったことに気付いた。
魔獣が生きていれば揺れが収まることはない。即ち、教会内での戦闘が終わって魔獣を無事鎮圧できたという知らせ。心の内にあった焦燥感も和らいでいた。
クリスとゆんゆんで倒したのか、カズマの機転が効いたのか。ミツルギは安心して胸を撫で下ろす。
『なぁミツルギ。見晴らしのいい場所なのはわかるが、俺的にはずっとピリピリするからさっさと降りたいんだが』
「あっ」
とここで、ベルディアからの小言を受けてミツルギはハッとした。教会に居続けられるのは、ゴーストである彼にとっては苦行でしかない。
ごめんと一言謝りながら、ミツルギは屋根から降りる。悪魔の脅威も去ったので、彼は仲間のいる場所へ。
「あっ、キョウヤ! どこ行ってたのよ!」
「ごめんよクレメア。少し気になることがあってね。二人ともお疲れ様。助かったよ」
こちらを発見するなり駆け寄ってきたクレメアとフィオ。ミツルギは労いながら二人の頭に手を乗せると、彼女達は幸せそうに顔を綻ばせた。
横で見ていたベルディアがわざとらしく耳元で舌打ちをしてきたが、ミツルギには彼の行動の意味が理解できなかったのでスルーし、女神様へ声を掛けた。
「女神様、ご無事ですか」
「あら、魔剣の人。あの程度の悪魔なら、この子を守りながら戦うぐらいなんてことないわ! だって私は麗しく強い女神様なんだから!」
「えぇ、流石です女神様」
片手に傷一つないドラゴンの卵を持ったアクアが、自慢気に胸を張る。彼女の無邪気で素敵な笑顔を見れば、戦いで蓄積された疲労も全て吹き飛ぶというもの。
「それにしても、あの悪魔はどこから湧いて出たのでしょうか?」
「だから、仮面悪魔が呼び出したって言ってるでしょ! それ以外考えられないわ!」
「バニルさんがこんな真似をするとは思えないのですけど……」
アクアはバニル黒幕説を強く推すが、ウィズはそうでもない様子。事実、バニルも見通してるだけであって関与はしていない。本人の話を聞く限りでは。
事実、悪魔を率いていたのはジェスターと名乗る道化師だ。しかし彼は、自らが召喚しているわけではないと話していた。
そして、あの道化師とバージルの関係。戯言だとベルディアは聞き流していたが、今もミツルギの頭には残っていた。
「どうやら、こっちも終わったみたいだね」
と、彼等の耳に女性の声が届いた。ミツルギ達は一様にして振り返る。
こちらに近付いてきたのは、この場にいなかった二人の冒険者。タナリスとバージルであった。
「あっ……」
バージルの顔を見て、ミツルギは思わず固まる。一方で、道化師のことなど知らないアクア達は彼等へ駆け寄った。
「二人ともどこに行ってたのよ! こっちは大変だったんだから! 熊豚おじさんが魔獣になったり、悪魔が執拗に私を狙ってきたりして!」
「ごめんよアクア。こっちも用事があったんだ。お詫びとしてシュワシュワ一杯奢るからさ」
「一杯だけじゃ見合わないわ! 最低でも十杯奢りなさいな!」
「そんなに呑んだら、またギルドの裏口でゲロっちゃうよ? 酒臭い君を介抱するの嫌なんだけど」
文句をぶつけるアクアを、親友のタナリスが慣れたように対応する。女神二人の横をバージルが通り過ると、ミツルギの前へ。
まだ彼へ心を許してはいないのか、フィオはミツルギの背後に隠れて、クレメアは前に立って猫のように威嚇する。だがバージルは微塵も気にせずに声を掛けてきた。
「この場にも悪魔の気配を感じていたが、既に片付けた後のようだな」
「は、はい。そちらはどうでしたか?」
「奴の言う部外者は見つけた。愚かにも逃してしまったが、次は無い」
どうやら脚本通り、悪魔を召喚した犯人とは出会えたようだ。あのバージルから逃げおおせるとは、相手も相当の実力者だと推測できる。
「ところで、何故貴様がここにいる? アルダープはどうした?」
事前の打ち合わせでは、ミツルギも教会内で魔獣化したアルダープと戦う予定になっていた。指摘されたミツルギは、ここで起きていた出来事をバージルに伝えた。
魔獣の攻撃によってミツルギは弾かれ、入れ替わるようにカズマパーティーがアクアを除いて教会内に引き込まれたこと。
教会前に湧いた下級悪魔との戦い。そして、ミツルギが出会った道化師──ジェスターの存在も。
「何故あの道化師がここに……いや、それすらも喚び出したか?」
ジェスターの名前を聞いて、バージルは口に手を当てて考え出す。彼も道化師を知っているのは間違いないようだ。
また、道化師がバージルを友達と呼んでいた事実は伝えていない。道化師との関係を迫れば、必然的にバージルの過去を知ることとなる。その勇気は、今の彼には無かった。
「師匠はあの道化師を知っているのですか?」
「……奴については後で話す。それよりもアルダープだ。奴はまだ中にいるのか?」
長い話になるのであろう。バージルは話題を変え、クリス達について尋ねてきた。ミツルギもこれ以上聞こうとはせず、現状を報告する。
「ゆんゆんが例の結界を張り、クリスさんと共に戦ってくれていますが、先程教会の揺れが収まりました。恐らく、無事に倒せたのだと思います」
「そうか」
報告を受けたバージルは、短く言葉を返してミツルギの前から移動する。ミツルギも追いかけようとしたが、傍にいたクレメアに引き止められた。
「ちょっとキョウヤ、さっきから何の話をしてるのよ? 道化師って?」
「キョウヤのこと信じてるから何も言わず手伝ったけど、あの魔獣は何なの!? 悪魔もいっぱい出てきたし!」
「あー、えっと……」
仲間二人から質問攻めに遭い、ミツルギはどこから答えたものかと悩む。その間にも、バージルは教会の方へと歩いていった。
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エリス教の教会内。祈りを捧げる筈の神聖な場所は、今や瓦礫だらけで足の踏み場も少ない。
中心に立つのは、銀髪少女のクリス。そんな彼女を、めぐみん、ダクネス、ゆんゆんは呆然とした表情で見つめている。
無理もない。街に住む気さくな盗賊で、自分達とも親しかった人が、あの女神エリスだと知ったのだから。
自称するだけなら、アクアのように流していたであろう。だが彼女達は見てしまった。目の前で姿を変え、女神の力を行使したクリスを。
固まる三人に、独り困惑するクリス。その光景を、寝息がうるさいアルダープの隣でカズマは見ていた。
危うくアルダープに握り潰されるところであったが、土壇場でクリスが決断してくれて本当に助かった。
思えば、エリスがこの場にいる状態で死んだ場合はどうなるのか。エリスが戻るまであの空間で一人きりなのか、スルーしてあの世に直行か。
もし後者だとしたら……カズマは身震いし、これ以上想像するのはやめておいた。
ひとまず、めぐみん達にも説明が必要だろう。カズマは立ち上がって、クリスの隣に移動する。
「そういうわけだ。エリス様は盗賊に扮して、下界に降りていた。その盗賊がクリスだったんだ」
再度確認させるように、カズマはめぐみん達へ伝える。視線がカズマに集まる中、一番に口を開いたのはめぐみんであった。
「カズマは……知っていたのですか?」
「クーロンズヒュドラで死んだ時に会って、本人から実は下界に降りてるって聞かされたけど、気付いたのはついさっきだよ」
カズマは簡潔に答える。と、横で聞いていたクリスが驚いた表情でこちらを見てきた。
「えっ? カズマさん、私の秘密は既に皆さんへ話していたんじゃ……?」
「いや、話してないですよ? 急にクリスの正体は女神エリスだって言っても、パニックになるか信じてもらえないと思ったし」
「でもめぐみんさんは、私の力を見抜いていると──」
「クリスが魔獣を倒せる力を隠してるから、それを使うように伝えてくれって頼んだだけですけど……めぐみん、お前どういう伝え方したんだ?」
てっきりクリスが決断してくれたものだと思っていたが、話を聞く限りでは彼女が勘違いを起こしていたようだ。
カズマの話を聞いたクリスは、めぐみん達にか、はたまた自分に対してか。呆れたようにため息を吐く。
「でも、一番驚いてるのはダクネスだろうな。エリス教徒な上に、クリスとは長い付き合いだったんだから」
カズマはそう言ってダクネスを見る。彼女は口を力なく開け、クリスを見つめて固まったまま。
こうなるのも仕方ないかと思いながらも、カズマは彼女に近づき、肩を揺らす。しかしダクネスから反応はない。
手を離してみると、ダクネスの身体はゆっくりと後ろへ傾き、痛がる声も上げることなく仰向けに倒れた。
「き、気絶してる……」
どうやら衝撃が大き過ぎたようだ。原因となったクリスは申し訳無さそうに笑う。
あのダクネスにも受け止めきれない物はあるんだなと思っていると、同じく固まっていたゆんゆんが何かに気付いたように声を上げた。
「ま、待ってください! クリスさんが本当に女神エリス様だとしたら、カズマさんと一緒にいるアクアさんも、もしかして──!?」
高い知性に勘のいい紅魔族故であろう。ゆんゆんは、散々女神を自称していたアクアの正体にまで疑問が行き着いたようだ。
カズマはどうすべきか迷ったが、既にクリスの秘密は知ってしまった。ならついでにアクアの秘密も、下手に隠すより明かした方がいいだろう。
「その通りだ。周りからは自称女神だなんだと言われてたけど、アイツも正真正銘、本物の女神だよ」
「えぇええええっ!?」
カズマの返答を聞いて、ゆんゆんは驚嘆の声を響かせた。その一方でめぐみんも一瞬目を見開いたが、どこか納得した表情に移り変わった。
「やはりそうでしたか」
「……お前、まさか気付いてたのか?」
「カズマを何度も蘇らせたり、デストロイヤーの結界を一人で解除したり、アルカンレティアにいた悪魔を瞬く間に消し去ったり……薄々感づいてはいましたよ。凄腕アークプリーストでは収まらない力でしたから」
「そ、そうか」
「気絶しているので聞けませんが、きっとダクネスも気付いていると思いますよ? アクアの力を間近で見たのですから」
めぐみんは、横で倒れているダクネスに目線を移す。アルカンレティアでのことであろう。確かにあの力を目の前で見れば、女神と言われても納得せざるを得ない。
それでもアクアを女神と認識しなかったのは、彼女の気遣いかマジで気付いていないか。後で聞いてみるかとカズマは思う。
「結界を張ったのも、正体を隠す為ですか?」
「本当は魔獣化したアルダープを教会に閉じ込めて戦う為だったのですが、結果的にはそうなっちゃいましたね」
服を払って立ち上がっためぐみんがクリスに尋ねると、彼女はいつものように気さくに笑って、されど口調は女神のまま答える。
魔獣の暴走にも耐えうる強度で、外部から盗み見盗み聞きされないようプライバシー保護も完備。このような魔道具をどこで手に入れたのか。
「ところで、この結界ってどうやって解くんだ? 魔獣はどうにかなったし、もう解いてもいいんじゃないか?」
ふと気になったカズマはクリス達に尋ねる。すると、ゆんゆんがとても申し訳無さそうな表情で、おずおずと答えた。
「この結界は、丸一日経たないと解けない仕様になってて……」
「はっ?」
ゆんゆんの返答に、カズマは耳を疑う。強力な性能だが、大きなデメリットが付与されていたようだ。
とても既視感のある展開。現にカズマは、魔道具の入手先に察しがついていた。もはやため息すら出てこない。
「無理矢理壊したりとかは?」
「強い衝撃を与えれば壊せるんですけど、私の魔法でも壊せないほど頑丈で……」
つまり、結界が解けるまでこの半壊した教会で過ごさねばならない。
本当なら今頃、屋敷に戻って夜逃げの準備をしていた筈なのに。どうしてこうなったのかとカズマは天を仰ぐ。
が、ここで彼は気付いた。今教会内にいるのは自分と、めぐみん、ゆんゆん、ダクネス、そして女神エリス様。
アクアを抜いて、ゆんゆんとエリス様を入れた、屋敷とはまた違う。男一人と女四人の素敵なハーレム生活になるのでは。
「そうかそうか、なら仕方ないな。ここで一日生活するとしよう。広間はだいぶ荒れたけど、奥の部屋とかは多分大丈夫だろ」
カズマは運命を受け入れた。邪魔者のアルダープがそこで寝転がっているものの、縛って隅に置いとけば問題ないであろう。
慣れたようにアルダープへ『バインド』を放ち、ロープで縛る。『スリープ』で眠っているが途中で起きられては困るので、後でかけ直してもらわねば。
「アルダープは放置として、問題は食料だな。炊き出し用に取ってある分がどっかにあればいいけど」
「……カズマさん、一応ここに女神本人がいるのですが」
「そう固いこと言わないでくださいよエリス様。飢えを凌ぐ為なんですから」
炊き出しの食料をいただこうとするカズマにクリスは難色を示していたが、明日の他人よりも今日の我が身だ。仕方ないことだとカズマは話す。
「そういえば、この教会に浴室ってあるかな? あと寝室のベッドが複数個あればいいけど、ひとつしか無かったら……うん、しょうがないよな」
「あの……変なこと企んでません?」
「いや全然」
ゆんゆんから疑いの目を向けられたが、カズマは即答で答える。現にやましいことなど何も考えていない。
魔法で風呂を沸かしてもらったら、魔力節約のために全員で入る。女性を床で寝かせるわけにはいかないので、ベッドは皆で共有する。限られた設備で一夜を過ごす為には、我慢も必要なのだ。
生活必需品を探すべくカズマが動こうとした時、めぐみんが声を上げた。
「結界なら、アクアがデストロイヤーへ放ったように『セイクリッド・ブレイクスペル』をエリス様が使えばいいでしょう」
「あっ、確かにそうですね」
何故か不機嫌な声色のめぐみん。クリスはうっかり忘れていたと手を叩くが、聞き捨てならなかったカズマは咄嗟に反論した。
「いやいやめぐみん何言ってんの。エリス様は魔獣との戦いでお疲れなんだ。それに結界を解除したタイミングで外にいる人達にエリス様の正体がバレたらどうすんだよ」
「だったら我が爆裂魔法で、結界などぶち壊してやりますよ! 焦らしに焦らされた今なら最高火力で撃てそうです!」
「マジで何言ってんの!? ここにいる俺らごと消し炭にするつもりか!?」
声を荒らげ、入口側に向かって杖を構えるめぐみん。カズマは慌てて駆け寄り、後ろから羽交い締めにする。
なんでコイツはこんなに怒ってるんだと不思議に思う中、めぐみんはカズマを振りほどこうと暴れる。
ここは『ドレインタッチ』で魔力を奪って沈静化を──と考えていた時であった。
突如、入り口方面から強い衝撃音が響き、教会全体を揺らした。暴れていためぐみんも驚いて動きが止まる。
やがて張られていた結界にヒビが入ると、ガラスのように砕け散った。結界の外に立っていたのは、青いコートを着た男。
「邪魔するぞ」
盛大に遅刻して登場の、バージルであった。彼はズカズカと教会に足を踏み入れる。
「アルダープはどこだ?」
「あ、えっと、そこに寝転がってます」
彼の圧に押されたカズマは、すぐさま寝ているアルダープを指差す。発見したバージルは黙って近付き、彼を縛っていたロープを持ち手にしてバッグのように持ち上げる。
正面出入り口だと人の目があるからか、バージルは教会の裏口に向かわんと奥へ歩き出す。
「バージル」
その時、クリスが彼を呼び止めてきた。声を聞いたバージルは振り返ってクリスを見る。
クリスは何も言わず、バージルの目をじっと見つめていた。どうしたのかとカズマは二人を交互に見る。
やがてバージルは、クリスの伝えたい事を感じ取ったのか、静かに応えた。
「あるべき場所へと返してやるだけだ」
彼はそれだけ伝えると、床に積まれた瓦礫を飛び越えて教会の奥へ姿を消した。クリスは追いかけようとせず、彼が消えた先から視線を外す。
一方、バージルが来てから動きが止まっていためぐみんは、ぼーっとしていたカズマに声を掛けた。
「無事結界も壊れたようですし、さっさとここから出ましょう」
「お、おう……そうだな」
カズマの妄想は、結界と共に砕け散った。残念に思うカズマであったが、文句は言わずにめぐみんから離れる。
が、このままでは収まりがつかないので、例のサービスを利用する時に今の妄想を再現しようと、カズマが決意をした時だった。
──パキパキと、ひび割れる音が聞こえた。
「んっ?」
音を耳にしたカズマは周囲を見渡す。めぐみん達にも聞こえたようで、同じく辺りを確認している。
その正体は、既に彼等の視界へ入っていた。同じ音が響いたかと思うと──教会の壁に、亀裂が入ったのだから。
魔獣との戦いで荒れた教会。いくら結界を張ったとしても、建物自体にダメージは入っていたのであろう。そしてバージルによる結界を壊すほどの衝撃が、トドメとばかりに加えられた。
この後、何が起こるのか。未来を見通したカズマは、大きく息を吸って声を響かせた。
「走れぇええええっ!」
カズマの命令とほぼ同時に、めぐみん達は外に向かって走り出す。カズマもすかさず脱出しようと駆け出したが──。
「カズマさん! ダクネスがまだ起きない! 運ぶの手伝ってください!」
ダクネスを起こそうとしていたクリスに呼び止められた。最後の最後まで世話のかかる奴だと心の中で文句を言いながら、眠れるダクネスのもとへ。
カズマは再びダクネスをおんぶし、クリスは後ろから支えて教会の外へ。教会の前には、参列していた貴族や見物客の冒険者、気絶しているアルダープの守衛が。
「ここから離れろー! 崩れるぞー!」
カズマは全力で走りながら、皆へ警告を放つ。彼の後ろでは、教会がみるみる内にひび割れていく。
貴族や我先にと教会から離れていく。流石に見殺しにはできないと、冒険者達は気絶させた守衛を背負ってから逃げた。
やがて教会は限界を迎え──大きな音を立てて崩れた。おびただしい量の白煙が辺りに広がる。
崩壊の音を背後に、カズマはダクネスの重さに耐えながら走る。お姫様だっこをした後におんぶなど、クエスト以外ではめっきり動かない彼には過酷な運動だ。
しかし、火事場の馬鹿力というものか。カズマは後ろで支えていたクリスも追いつかない速さで、かつ一人でダクネスを背負って走る。明日はきっと筋肉痛で寝たきりになるであろう。
それでも白煙からは逃れられず、カズマ達を覆い隠す。しばらくして、崩壊の音が止んだ。
カズマは咳き込みながら教会の方へ振り返る。視界を覆っていた白煙は徐々に晴れていき──華々しい結婚式が行われていた教会は、もうどこにもなかった。
「あっぶねー……」
瓦礫の山を見て、カズマは安堵の息を漏らす。もしあのまま教会にいて、結界も壊せていなかったら、全員まとめてあの世送りであった。
バージルが結界を壊してくれて、本当に助かった。もっとも、教会にトドメを刺したのも彼なのだが。
「いやー、派手に壊れちゃったね」
「ごめんなさいごめんなさい! 本当にごめんなさい!」
「いいんだよゆんゆんちゃん。言ったでしょ? 女神エリス様は寛大な神様だって」
エリス教の教会崩壊を前に、クリスは頬を掻きながら笑う。彼女の正体を知ってしまったゆんゆんはひたすら謝るが、クリスは気にしていない様子。
ゆんゆんを宥めたクリスはカズマへ近寄ると、彼に耳打ちして告げた。
「それよりもカズマ君、皆が教会の方に注目してる内に、ダクネスを連れて逃げたほうがいいよ。ここはアタシ達に任せてさ」
クリスは教会とは逆方向を指差す。崩壊寸前の教会からは、カズマ達が飛び出してきた。となれば、中で何が起きたのか問い詰められるのは間違いなく自分達だ。
そこで守衛に見つかれば、またダクネスを奪われる危険もある。クリスの言う通り、自分たちは一刻も早くこの場から離れるべきであろう。
「めぐみん! ここからずらかるぞ!」
「は、はい!」
カズマは近くにいためぐみんへ告げ、再び走り出す。めぐみんも慌ててカズマを追う。
彼が向かう先は、残るもう一人の仲間。彼女の周りにはウィズ、魔剣の人とその取り巻きが。崩壊した教会を見ていた彼女達がこちらに気付いたのを見て、カズマはすかさず声を上げた。
「アクア、早く逃げるぞ! 後のことは魔剣の人に任せた!」
「行きますよアクア!」
「わわっ!?」
「め、女神様ー!?」
手の空いていためぐみんがアクアを引っ張り、ミツルギ達の間を突風のように駆け抜ける。ミツルギの叫ぶ声も無視して走り続ける。
「ちょっと待って! 急に何なのよ!?」
「守衛に気付かれる前にここを離れるんだよ! いいから走れ! それと俺に『身体強化』お願いします! ダクネスがマジで重いから!」
戸惑うアクアへ簡単に状況説明をして、ついでにバフを頼む。先程の全力疾走で、カズマの身体は既に悲鳴を上げていた。
全ては飲み込めていないであろうが、アクアは「わかったわ!」とカズマに強化魔法を唱える。身体が軽くなったのを感じたカズマは、ラストスパートとばかりに速度を上げた。
やがて教会から遠く離れ、人気のない路地裏まで来たところで彼等は足を止めた。
「こ、ここまでくれば、大丈夫だな……」
追手がいない事を確認してから、カズマは背負っていたダクネスを地面に降ろす。ようやく肩の荷が下りた彼は、その場で大の字に倒れた。
普段よりも心臓の音が響いて聞こえ、喉は潤いを求めている。『身体強化』のおかげでもあるが、俺ってこんなに走れる人間だったんだなぁと自分を褒める。
「カズマ、ちょっといいですか?」
と、めぐみんがこちらに近寄ってきた。彼女は立ったままなので、頑張ればスカートの下に広がる世界を見れそうだったが、その視線に気付いたであろうめぐみんはスカートを抑え、中を見られないようにしつつカズマの横に座る。
そして、カズマにしか聞こえない声量で伝えてきた。
「ダクネスのお父さんの病、もしかしたら……アクアなら治せるのではありませんか?」
「へっ?」
「推測でしかありませんが、もし原因不明の病が悪魔による呪いだとしたら……」
めぐみんの言葉により、カズマの目が見開かれた。
ダクネスの父親は病に侵され、プリーストの回復魔法も効かず、毒も検出されず。手の施しようはないと思われていた。
それが、めぐみんの推測──悪魔による呪いであるならば。ここに解決可能なアークプリーストが一人いる。
おまけにバニルの話では、領主がダクネスへ金を貸した際にこう言っていた。もしダスティネス家の当主に何かが起こり、返済が困難になった場合には……と。
アルダープは悪魔の力を使って、彼の都合がいいように物事を運んできた。ダクネスの父親が病気になったのも、その力による物であるならば。
「ダクネス、起きろ! いつまで気絶してんだ!」
希望が見えたカズマは身体を起こし、未だ目を伏しているダクネスを揺らす。しかし反応はない。
だったら無理矢理起こすまで。カズマは彼女の首に触ると、躊躇なく唱えた。
「『ドレインタッチ』!」
「んにゅうううううっ!?」
何度も行ってきたドレインタッチプレイで、ダクネスの意識が覚醒した。奇声を上げ、彼女の身体が跳ねる。当たり前だが頬は赤い。
ようやく目覚めたダクネスは起き上がり、周囲を確認する。
「こ、ここはどこだ? 確か私は、教会にいて──」
「整理するのは後だ! お前の親父さんのところに行くぞ! もしかしたら助けられるかもしれない!」
「な、何だと!? どういうことだ!?」
景色が変わっていたかと思えば、カズマから信じがたい言葉を受け、起きたばかりのダクネスは混乱している様子。
しかし、一から説明している時間はない。手遅れになる前に、ダクネスの屋敷へ急がなければ。
「アクアも来い! 久々にお前の駄女神パワーが役立つ時だ!」
「あーっ! また駄女神って言った! いい加減にしないと私の聖なるグーで殴り倒すわよ!」
アクアの文句を受け流し、ダクネスへ屋敷への道案内を頼む。
状況についていけないダクネスであったが、カズマがそう言うならと彼を信じ、四人はダスティネス邸へ向かった。
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期待を胸にダスティネス邸へと駆け込んだカズマ達。早速アクアに診てもらうと──めぐみんの推測は大当たりであった。
悪魔に呪いを掛けられていたので、アクアが解除を施す。床に伏していたダクネスの父が光に包まれ、やがて収まった後、痩せこけた病弱な父の姿は無く。
血色も戻り、痩せこけていた顔も元通り。見違えるほど元気になった父親を見て、ダクネスはたまらず抱きついた。
お付きの執事曰く、いつ亡くなってもおかしくない状態だったとのこと。間に合ったのは幸運だった。
色々とあったが、ダクネスを取り戻すことができ、彼女の父親も助かった。
カズマ、ダクネスを中心に繰り広げられた舞台劇は、誰もが認めるハッピーエンドで幕を閉じたのであった。
たったひとりを除いて──。
「クソッ! クソッ! クソッ!」
手元のランタンで灯された螺旋階段を、やや駆け足で酷く足音を立てながら進む男。
暗い地下とは正反対の、白い正装に身を包んだ彼の名は、アレクセイ・バーネス・アルダープ。つい先程、結婚式を終えたばかりである。
おめでたい式の後だというのに、何故彼はこんなにも怒っているのか。ずっと欲しかった、金髪の花嫁を手に入れたというのに。
否、そうならなかったからだ。結婚式は妨害され、花嫁は連れ去られてしまった。あの低俗で下劣な庶民に。
その直後、彼は何かに飲み込まれたのだが、その記憶は朧げで、嫌な夢を見ていたかのよう。辛うじて覚えているのは、何度も花嫁の名を叫んだことと、何者かによって強く頬を叩かれた感触。
気付けば彼は、アレクセイ家の屋敷にある自分の部屋にいた。まさか今までの出来事は夢だったのかと一瞬思ったが、身につけられた白色の正装が現実だったと物語らせる。
酷く疲れていた身体を起こすと、彼は屋敷にいた従者に何があったのかを尋ねた。
アルダープを発見したのは、屋敷の敷地内を見回りしていた守衛であった。アルダープは、屋敷の裏手に縄で拘束されていたという。
今は結婚式に出ている筈なのにと疑問に思いながらも彼を部屋へ運び、プリーストを呼んで診てもらったが異常は無かった。
やがて、結婚式での護衛に出ていた者達が帰ってくると、彼等は信じがたい報告を挙げてきた。
結婚式は突如として現れた冒険者によって中断され、花嫁を拐われた。追いかけようとした守衛達であったが、他の冒険者によって妨害に遭う。
すると、教会の前にいたアルダープが闇に飲まれ、巨大な魔獣が姿を現した。魔獣はその後、突如として現れた冒険者によって教会の中へ。
教会には結界が張られ、中には侵入できず。その後、疑いの目を冒険者達に向けて再び取っ組み合いとなったが、数に圧倒され全員もれなく気絶させられた。
気が付いた時、一体何があったのか。結婚式が行われていた教会は無惨な瓦礫の山と化していた。
既に魔獣は倒されたとの話であったが、主であるアルダープの姿は無い。
守衛達が瓦礫の中と教会周辺を捜索していた時、魔獣と戦ったという冒険者を発見。主の行方を問いただすと、彼等は隠すことなくこう告げた。
式に出席していたアルダープは、悪魔が扮した偽物であり、本物はアレクセイ家の屋敷に囚われていると。
彼等の話は、守衛達はにわかに信じがたい内容であった。守衛達が接していた主は、いつもと変わらない様子だったのだから。
しかし冒険者の中には、かの有名な魔剣の勇者がいた。更には式で司祭を担っていたプリーストも「どうりで臭いと思ってたのよ!」と声を上げた。
ひとまず捜索の手は止めず、かつ数人を屋敷へ向かわせた。そして彼等の言っていた通り、主が屋敷にいることを確認したのであった。
だが、アルダープには悪魔に捕まった記憶など無い。逆に式場での騒動はハッキリと覚えている。あれは紛れもなく現実なのだ。
ではアルダープが魔獣となった原因は何か。彼の頭に浮かぶのは、屋敷の地下に閉じ込めている壊れた悪魔。辻褄合わせの力しか持たないと思っていたが、そのような芸当ができるとは。
これで花嫁を奪い返せたのであれば褒美のひとつでもくれてやっただろう。しかし、そうはならなかった。主をも巻き込んで失敗した役立たずに、アルダープは怒りで身を震わせる。
どうして魔剣の勇者等がそのような嘘を吐いたのかわからないが、教会での事は全て悪魔のせいにできて都合が良かったので、アルダープは否定せず。
しばらく休むと従者達に告げ、自身の部屋へ戻る。外を見れば、もう夜になっていた。
睡魔も襲ってこないほど怒りに満ちていた彼は部屋の隠し通路に入り、自分以外誰も知らない地下室へと向かっていたのであった。
「マァアアアアクスッ!」
激昂した声を上げながら、地下室の広間に足を踏み入れる。その中心にいるのは、不快な風の音を鳴らす壊れた悪魔。
「ヒュー……やぁアルダープ。今日はとってもいい悪感情を放ってるけど──」
「このポンコツがっ!」
話しかけてきたマクスの顔を、アルダープは躊躇なく蹴った。更に追い打ちをかけるように、倒れたマクスの頭を上から踏みつける。
「お前がもう少し使える悪魔だったなら、ワシのララティーナを奪われることはなかった! おまけにワシを勝手に魔獣化させておきながら失敗するとは、どこまで使えない悪魔なんだ!?」
「魔獣? 何のことだいアルダープ? 僕が持っているのは辻褄合わせの強制力だけだよ?」
「自分のやったことすら覚えていないのか! この阿呆め!」
すっとぼけるマクスの声が苛立ちを助長させ、アルダープは頭を踏み潰す勢いで力を入れる。しかしマクスは痛がる様子を一切見せない。
「力を使ってララティーナを呼び戻そうとしても、奴は帰ってこなかった! お前の強制力はそんなにちっぽけな物なのか!」
「ヒュー……教会では悪魔の力が弱くなるんだ。それとアルダープ、呪いが何者かに解かれたようだよ」
「何だと!?」
マクスの言う呪いとは、ダスティネス家の当主にかけたものだ。当主を動けない身体にして、ララティーナから選択肢を奪う為に。
ロクに呪い殺すこともできない能無しを、アルダープは罵声を発しながら蹴り続ける。これまで何度も使えない奴だと感じていたが、今回ばかりは失望した。
物事をすぐ忘れてくれるので代価を誤魔化して使役してきたが、そろそろ捨てるべきか。そう思いながらも、アルダープは彼に命じた。
「だったもう一度ダスティネスの当主に呪いをかけろ!」
「無理だよ、アルダープ。ヒュー……呪いを解いた光が強すぎるんだ」
マクスから返ってきたのは、拒否であった。予想もしていなかった言葉に、アルダープは耳を疑う。
今まで何を望もうとも、無理と言われたことはなかったのに。救いようのない無能に成り果てたマクスを、アルダープは見限るように強く蹴りつけてから言い放った。
「もういい! 貴様なぞ契約解除して他の力ある悪魔を呼び出してやる! これが最後の命令だ! お前の強制力で今すぐララティーナをここに連れてこい! そうすれば、貴様に代価を払ってやる!」
「代価?」
その言葉を聞いた途端、マクスは悪魔らしい歪んだ笑みでアルダープを見た。
「ヒュー! 代価を払ってくれるの? ヒュー! ヒュー!」
「あぁ勿論だとも。お前は馬鹿だから、ワシが何度も払っているのを忘れているのだ。今回もちゃんと払ってやる」
興奮するマクスに、アルダープは諭すような口調で告げる。マクスから発せられる風の音が、彼の喜びを表すように強く鳴る。
無論、代価などびた一文と払ってやるつもりはないのだが。アルダープは強く願うように、再度マクスへ命じた。
「さあやれマクス! ララティーナをワシのもとへ! アレはワシの物なのだ!」
アルダープの強欲な願いが地下室に響いた、その時。
「領主殿はいるか? 今日の件で謝罪に来た」
入れ替わるように聞こえてきたのは、澄んだ女性の声。間違えようのない、彼が最も欲していた者の声。
たまらずアルダープは振り返る。階段を降りてきたのは、薄いネグリジェに身を包み、豊満な身体をこれでもかと見せつける金髪の美女。
彼の望んでいた、ララティーナの姿がそこにあった。
「よ、よくやったぞマクス! 褒めてやる! 約束通り代価を払ってやろう! 契約も解除だ! 貴様を自由にしてやろう!」
「ヒュー……どうして? 僕はまだ何も──」
疑問を抱くマクスの声など、今のアルダープには届かず。彼はすぐさまララティーナのもとへ駆け寄る。
歩を進める度に揺れる二つの果実。麗しい顔立ち。夢で何度も見た彼女の姿に、アルダープの目は釘付けとなる。
「申し訳ありません、領主殿。式での事は謝ります。なのでどうか我が身と引き換えに、仲間の助命を……」
更にあろうことか、ララティーナは自ら身体を売ってきた。細い腕でその両胸を押し上げ、柔らかな乳房を強調させる。
どうして彼女が地下室のことを知っていたのか。そんな疑問を浮かべることもなく、アルダープは欲望のままに手を伸ばした。
「いいだろう! 仲間は見逃してやる! だからララティーナ、お前はワシが──!」
ようやくララティーナが手に入る。彼の執着とも言える夢が叶おうとした、その瞬間。
現実へと引き戻すように、ララティーナの身体がぐにゃりと歪んだ。
「えっ……?」
突然のことにアルダープは理解が追いつかず。気が付けば、そこにいた筈のララティーナは幻のように消え去り。
代わりに立っていたのは、タキシードを来た白黒仮面の男。
「ララティーナだと思ったか? 残念我輩でした! フハハハハッ! これは実に美味な悪感情! ご馳走様である!」
男は愉快そうに笑い、アルダープを見下す。先程のララティーナが偽物だとようやく理解したアルダープは咄嗟に仮面の男から距離を離す。
「貴様、一体何者だ! いや待て、このゾクゾクする感じ……マクスと同じ悪魔か!」
「ほう、貴様のような人間にしては察しがいい。いかにも、我輩は何でも見通す仮面の悪魔、バニルである」
男が口にした名前に、アルダープはたじろいで足を一歩引いた。魔王軍幹部にも、同様の名前を持つ悪魔がいる。既に討伐されたと聞いていたが、何故生きていて、この場に現れたのか。
身の危険を感じたアルダープは、後ろにいたマクスへ助けを求めた。
「マクス! この汚らわしい悪魔を殺せ!」
「ヒュー……バニル。なんだろう、とても懐かしい響きだよ。君とはどこかで会ってたのかもしれないね?」
そのマクスはというと、バニルを攻撃するどころか、久方ぶりに会った友人のように接していた。対するバニルは、胸に手を当ててマクスへと頭を下げた。
「貴公に自己紹介をするのは何百回目か何千回目か。では今回も初めましてだ、マクスウェル。辻褄合わせのマクスウェル。真実を捻じ曲げる者マクスウェル」
マクスウェル。アルダープがマクスと出会ってから、一度も聞いたことのない名前。彼の本当の名であると、間に立っていたアルダープは理解する。
一方のマクスウェルは、僅かに記憶が残っていたのか、バニルと出会えたことを素直に喜んでいる様子。
「貴公は、記憶を失ったまま地上にやってきた我が同胞である。我輩は、貴公が在るべき場所へ連れていくため迎えに来たのだ。真理を捻じ曲げる悪魔マクスウェルよ。地獄へ帰ろう!」
「ま、待て! そいつはワシの下僕だ! 勝手に連れていくな!」
「下僕? 我輩と同じく、地獄の公爵の一人であるマクスウェルが?」
マクスが連れ去られようとしてアルダープに、バニルは嘲笑しながら告げた。僅かだが怒りも帯びているように感じた彼の声に、駆け寄ったアルダープの足がすくんで止まる。
「悪運のみが強い傲慢で矮小な男よ。召喚したのが他の悪魔ならば、代価を持たない貴様は瞬時に引き裂かれていたであろう。しかし、力はあるが頭は赤子のマクスウェルを貴様は引き当てた。結果、貴様は代価も払わずにその地位にまで上る事ができたのだ。全てはマクスウェルのおかげである。深く深く感謝するがいい!」
地下室を出ようとした足を止め、バニルは高らかに告げる。いつものアルダープならば、自分がマクスの力を上手く使ってやったからだと言葉を返していたであろう。
しかし、相手がかなり上位の悪魔らしいと知った今では、迂闊に反論できなかった。歯向かえば殺されると、本能で感じていた。
「そして貴様はマクスウェルにこう言ったな。約束通り代価を払ってやろう。契約も解除だ。貴様を自由にしてやろう、と」
「ぬぐっ!?」
次にバニルが告げたのは、マクスが願いを叶えてくれたと思い、咄嗟に出てしまったアルダープ自身の言葉。
バニルがしっかりと聞いていた以上、目の前で反故にはできない。自分を嵌めた仮面の悪魔が憎く、拳を震わせるアルダープ。そんな彼へ、バニルは追い打ちをかけるように告げた。
「貴様とマクスウェルの間に交わされていた契約が実に面倒だったのでな。いやはやまったく、大層回りくどい事をしてしまった」
「回りくどい……? き、貴様まさか──!」
「おっとやはり察しがいいな。その通り。我輩があの小僧に借金返済の都合を付け、貴様の事を教えてやったのだ」
ララティーナが手に入る筈であった結婚式を台無しにした、生意気なあの男。彼の背後にいた存在が、今目の前にいる仮面の悪魔だという。
どうにかなってしまいそうな程の怒りを覚えたが、生物としての本能が手を出すことを許さない。アルダープの拳は未だ握られたまま。
「こ、こんな事をしなくとも、最初から正体を明かして言えば返してやったのに……そうすれば、ワシもあんな恥を晒すことなど……!」
「この方が面白いからに決まっているであろう! 愛しの花嫁を、あと少しで手に入ると思った瞬間に拐われた時の貴様の悪感情! このまま滅ぼされてしまっても良いと思える程の美味であった!」
実に愉快と、バニルの笑い声が地下室に響く。此度の結婚式にとって主役であった筈の彼は、花嫁を拐うあの男を引き立たせる為の、舞台を作った脚本家を楽しませる為の、可笑しく踊らされる道化でしかなかったのだ。
できることなら仮面の悪魔を気が済むまでぶん殴ってやりたいが、叶わぬ夢。マクスウェルもこのまま彼に連れて行かれるであろう。
まさかマクスがそこまで強力な悪魔だったとは。奴がいなくなった後は、悪事の証拠をどうやってもみ消すか。マクスの奪還を諦め、震えていた拳を解いた時。
「バニル! 帰る前に僕はアルダープから代価を貰わないと! さっき言ってくれたんだ! 代価を払ってくれるって!」
マクスウェルが、見た目相応の無邪気な笑みでこちらに近付いてきた。代価代価とうるさかったが、一度も払ったことはないので、何を持っていくのかアルダープは知らない。
幸い、金なら腐るほどある。好きなだけもっていけと、アルダープは目を伏せる。
暗い地下室に、何かが折れる鈍い音が響いた。
同時に、自分の腕に違和感を抱く。彼は閉じていた目を開く。
マクスウェルに握られていた彼の腕は、あらぬ方向へと曲がっていた。
「ぐっ……!? ぐぁあああああっ!?」
今まで感じたことのない激しい痛みに、アルダープはたまらず悲鳴を上げる。
苦痛に顔を歪ませるアルダープとは対称的に、マクスウェルは恍惚に浸った表情を見せ、風の抜ける音も激しさを増している。
「マクスウェル、続きは地獄に帰ってからやればよい。この男がツケにツケた代価は凄まじい量になっている」
興奮するマクスウェルに、バニルが宥めるように話す。しかしその口元は楽しそうに笑っており、彼の視線は痛がるアルダープへ向けられた。
「その代価は、マクスウェルの好む味の悪感情を決まった年月分放ち続けること。我輩が見るに、残りの寿命では到底払いきれるものではなかろう。そして代価の支払い義務は契約者にのみ請求される。家の者を代わりに差し出そうと考えているのなら無理な相談である」
「なっ……!?」
頭に浮かんでいた逃げ道を塞がれて、アルダープは絶望する。このままでは地獄に引きずり込まれ、その先に待ち受けているのは死のみ。
痛みに耐えながら思考を働かせ、この場から逃れる術を探していた時。
「悪趣味な奴等だ」
地下室に、バニルでもマクスウェルでもない、男の声が響いた。アルダープは咄嗟に顔を上げる。
入り口の階段から降りてきたのは、アルダープにとって見覚えのある人物であった。青いコートを着た銀髪の冒険者──蒼白のソードマスター、バージル。
「口ではそう言っておきながら、気になって見に来るとは。調子に乗って全財産はたくんじゃなかった本当に身体で払わせてやろうかあの女と、現在自宅で悶々と悩む男に負けず劣らずのムッツリであるな」
「金にもならん下劣なショーを見に来たつもりはない。貴様の言う友人とやらの顔を拝みに来ただけだ」
地下室に入ってきたバージルへ、バニルが気さくに話しかけた。バージルは目を合わせず言葉を交わす。
助けに来てくれたと希望を見たアルダープであったが、顔見知りのように話す二人を見て思考が止まる。
刹那──アルダープの横に風が過った。
一拍置いて、地下室に乾いた音が響き渡る。何が起こったのかアルダープには見えなかったが、気付いた時には後ろにいた筈のマクスウェルが前に移動し、バージルに拳を止められていた。
「僕のアルダープを汚したのは、君?」
マクスウェルの表情は伺えないが、声に怒りが帯びている。一方のバージルはというと、悪魔でも上位の存在であるマクスウェルの一撃を、顔色も変えず片手で受け止めている。
しばし睨み合っていた二人だったが、マクスウェルが自ら離れた。バージルは挑発的な笑みを浮かべてマクスウェルに言葉を返す。
「だとしたらどうする?」
「ヒュー! ヒュー! ぐちゃぐちゃにしてあげるよ! 僕の気が済むまで!」
煽られたマクスウェルは怒りのままに再度バージルへ突撃する。携えていた刀に手を掛けようとしたバージルだが──。
「落ち着けマクスウェルよ。此奴はそこの強欲貴族を魔獣化させた犯人ではない」
間に入ったバニルがマクスウェルの突撃を、彼の額に指を一本当てて簡単に止めた。マクスウェルは興奮冷めやらぬ様子でバニルに尋ねる。
「本当に? 嘘じゃない?」
「我輩は友人に嘘を吐かぬ。貴公の大切な物を汚した男は近い未来捕まえて差し出す故、貴公の怒りはその時まで取っておくといい」
バニルは指で押さえたままマクスウェルを諭す。マクスウェルも彼に信頼を置いているのか、振り上げていた拳を下ろした。
その様子をアルダープは呆然と見ていたが、彼等の意識がこちらに向いていないと気付いてハッとする。逃げるなら今しかないと、アルダープは痛みを堪えて声を押し殺し、立ち上がって移動する。
が──彼の前にマクスウェルが一瞬で移動し、もう一方の腕をへし折ってきた。
「があぁああああっ!?」
「ごめんよアルダープ! 寂しい思いをさせちゃったね!」
倍増した痛みに耐えられず、アルダープは膝をつく。年甲斐もなく涙が溢れ、股下が濡れるのを感じる。
悪魔の目を逃れて地下室から脱出する事は不可能。ならば、助かる道はひとつしかない。アルダープは掠れた声でバージルに助けを求めた。
「た、助けてくれ! 貴様は冒険者だろう! ここにいる悪魔を退治するのだ!」
「報酬も提示せずに、冒険者が依頼を受けてくれると?」
「金ならいくらでもある! だから──!」
「資産ならばマクスウェルが地獄へ帰る事により、悪事が全てバレて全財産を没収される。貴様はもはや無一文である」
「……だそうだ」
割って入ったバニルの言葉に、本日何度目かの絶望を味わう。だが諦めきれないアルダープは助けを懇願し続ける。
「家の者を好きなだけ差し出してやろう! 従者はワシ選りすぐりの美女ばかりだ!」
「カズマなら食いついただろうが、俺の家は従者が必要なほど広くはない。それに、俺が望む物はもう手に入れた」
バージルはそう言って、コートの下からある物を取り出す。短い線の模様が一本入った石のような物。彼の手にあるそれを見て、アルダープは目を見開いた。
アレはただの石ころではない。決められた合言葉を唱え、モンスターをランダムに召喚して使役できる魔道具──マクスウェルを喚び出した神器であった。
「俺の知り合いが、この魔道具を欲しがっていてな」
「わかった! その魔道具を報酬としよう! 今すぐワシの依頼を引き受けて──!」
「何故その必要がある?」
一筋の光明を見たアルダープであったが、対するバージルは助ける様子も一切なく、不思議そうな目でこちらを見ていた。
「俺は、この魔道具を盗みに来た。宝の持ち主に許可を得てから持っていく盗賊がいると思うか?」
バージルは神器を再びコートの下にしまう。アルダープの切なる願いを斬り捨てるように、彼は背を向けて階段へと歩き出す。
「用は済んだ。貴様の顔もこれで見納めだ」
「ま、待って──」
去ろうとする彼を、アルダープは急いで呼び止めようと声を上げたが──束の間、彼を襲ったのは思わず息が止まるほどの恐怖。
数歩進んだところで、顔だけアルダープへと振り返った彼の目は、身も凍りつくような冷たいものであった。
同時に感じたのは、抗いようのない絶望。心臓を握られ、少しでも力を加えられたら潰されてしまいそうな感覚。マクスウェルと、バニルにも抱いたものと同じ感覚。
そして裁判の時に見せた、底知れない恐怖を思わせるバージルの目。アルダープの中で、点と点が繋がった。
「ま、まさかお前も……」
声を震わせるアルダープの問いに、バージルは答えを示すように不敵な笑みを浮かべた。
「せいぜい地獄を楽しむといい」
そう言い残し、彼は地下室から出ていった。遠ざかっていく彼の後ろ姿を、アルダープは放心した顔で見ていた。
「これは中々の悪感情であるが、我輩の好みではないな。絶望の悪感情はマクスウェルが好む味だ」
絶望するアルダープを見てバニルが愉快そうに笑う。もはや怒る気力さえも沸かない。
ほんの僅かな希望を胸に、アルダープは恐る恐るマクスウェルへと振り返った。
「ワシは、今まで酷い事をしてしまった……頼む、助けてはくれんか? こう見えて、ワシはお前の事が嫌いではなかったのだよ! 本当だ!」
あれだけ痛めつけた主人を大悪魔が許すと思えないが、アルダープは一か八かの賭けに最後の望みを懸ける。
彼の贖罪を聞いたマクスウェルは一瞬驚愕したが──彼は今まで一番の、喜びに満ち溢れた表情を見せてくれた。
「僕もだよアルダープ! 地獄に連れて帰ったら、僕がずっと傍にいてあげるよアルダープ! ずっとずっと、君の絶望を味わわせてよアルダープ! ヒュー! ヒュー!」
マクスウェルの歓喜に満ちた声が、強く風の抜ける音と共に響く。恋い焦がれ、ようやくその偏愛が実ったかのように。
アルダープはおもむろにバニルへ顔を向けたが、既に彼の姿は無かった。マクスウェルと二人きりになった彼は、救いのない未来を思い、生まれて初めて神に祈った。
どうか、この壊れた悪魔が私を嬲るのをすぐに飽きて、楽に死なせてくれますように──。
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「此度はご苦労であったな。初めての裏方役にしては上々だ。いっそ劇団員になって経験を積んでみてはどうだ?」
アルダープの屋敷から離れた街の路地裏。帰路を歩いていたバージルへ、追いついたバニルが労いの言葉を掛けてきた。
「貴様の舞台を手伝うのは、今回が最初で最後だ」
「なら安心するといい。我輩が貴様に依頼を出すのも最初で最後であろう」
お互いに馴れ合うつもりはない。共通認識を再確認する二人だが、バニルはそのまま彼の隣に移動して言葉を続けた。
「裏方諸君とパッとしない主役小僧の活躍のおかげで、我輩の友人も助けることができた」
「貴様の本命は、奴から特大の悪感情を得ることだったように見えたがな」
「フハハハハッ! 我輩が何の悪感情も得られないイベントの脚本を書くわけがなかろう!」
バニルにとっては悪感情が唯一の嗜好。目的を聞いた時は奴らしくないと内心思っていたが、しっかりと行動理念に沿って動いていたようだ。
「どのみち、ここまで事を運ぶには貴様の協力が不可欠であった。素直に礼を言っておこう。地獄の伯爵からの礼など、滅多に受けられるものではないぞ? じっくり味わうといい」
「まだ野菜炒めの方が味わい深い。礼はいらん代わりに、ひとつ答えてもらおう」
「何故あの男がテレポート水晶を持っているか、であるな?」
尋ねようとしていたバージルの質問を、バニルが先に告げた。見通されたバージルは気に食わない奴だと舌打ちをする。
「我輩が魔道具店に就職する前のことだ。あのポンコツ店主は一度売れたテレポート水晶を、愚かにも再び仕入れたのだ。すると、一億年に一回とも言える奇跡が起きた」
「二個目のテレポート水晶が売れたか」
「然り。恐らくその時の客であろう。物々交換といって、テレポート水晶の半分にも満たない価値である退魔の聖水をいくらか貰ったそうだ。因みにその聖水は、悶々小僧が行きつけの店に放り込まれる未来を危惧して買い占めておる」
全くあのポンコツ店主はと、バニルは気苦労が感じられる息を吐く。シルビアとの戦いで、ゆんゆんが使っていた聖水もカズマが買い占めたものであろう。
まさか出処がアーカムだとは。時期を察するにまだこの世界に来て間もない頃であろうが、どうやってその聖水を手に入れたのか。
足を進めながら考えていたが、答えは出ず。やがてバニルが再び話しかけてきたことにより、思考は止められた。
「さて、依頼の報酬であるが後日渡すとしよう。口約束をして当日ドタキャンする女神と違い、悪魔は約束を守る。そしてポンコツ店主とは違って我輩には見る目がある。期待して待っておくといい」
「言った筈だ。悪魔の礼などいらんと」
「高貴な悪魔の面子を保つ上では、約束を反故にできん。気に入らなければ捨てたらよい」
足を止めてバニルに断りを入れたが、拒んでも送りつけてくるつもりのようで。バニルはぶつぶつと呟きながらバージルの前を歩く。
「ここは無難に金にもなる宝石か、珍しい魔道具か……我輩としては朝の目覚ましにもなるバニル人形がイチオシなのだが……」
どうやら報酬には期待できないらしい。どのみち何を送られようとも、燃やして捨てるかカズマに渡すつもりでいたのだが。
遠ざかっていくバニルから目を外し、バージルは振り返って空を見上げる。
悪魔が嗤った夜の空。紅く染まった丸い月が、街を妖しく照らしていた。
アニメでここのシーンが見れると思うと、今から楽しみです。