「……冗談だ。それとも、名前があったほうが話しやすいか?」
何もない平原。二人の男が鏡合わせのように対面し、黒き男の背後には人ならざる者。
相手の問いかけにバージルは応じず、しばし目を合わせてから逆に問いかけた。
「貴様が悪夢を見せていたのか?」
「好きに捉えてもらって構わない」
男はニヒルな笑みを浮かべる。試されている物言いで癇に障ったが、バージルは何も言わず視点を上に。
後ろの怪物は変わらず退屈そうな様子。彼が怪物へ目を向けていることに気付いた男は、安心させるように伝えてきた。
「コイツのことは心配するな。見た目はアレだが襲いはしない。前は元気そうだったが、今では見る影も無くなった」
まるで友達のように怪物を紹介する黒い髪の男。一方で怪物は何も反応を見せない。生きているのかと疑うほどだ。
「俺はその真逆だった。お前が元の世界にいた頃……いや、お前が悪魔として生きることを決めたあの日から、俺という存在が消え始めた」
男は話を続ける。男も怪物も、どちらもバージルには見覚えがない。だが彼は、二人がどういう存在なのかを既に理解していた。
「お前が悪魔として生き、人間らしさを捨てていく度に、後ろの怪物は力を増し……気付けば俺は、いつ消えてもおかしくない灯火のような、微かに揺れ動くだけの存在になっていた」
「では何故貴様は身体を保ち、俺の前にいる?」
「お前が力を失ったからさ」
男の言葉に、バージルの眉がピクリと動く。
失った力。思い当たるとすれば閻魔刀だが、男はその考えも見通しているかのように言葉を続けた。
「目に見える物ではない。正確には悪魔の心。お前は、自分でも気付かない内に失っていたんだ」
「悪魔にも心があると? そんなジョークが言える奴だとは思わなかったな」
「何をもって心と捉えるかだ。奴等の持つ残虐性、快楽、憎悪。それらを心と捉えるならば、悪魔にも心はあると言えるだろう」
弱者を殺戮し快楽を得る者。人間、悪魔を喰らい満足を得る者。主を討たれ復讐を誓う者。
おおよそ良い感情とは言えないものばかりだが、男の言う通りそれらが悪魔にとって心と呼べるものであろう。
稀だが、人間のような悪魔もいる。自身の父、魔剣士スパーダがそうであったように。
悪魔に心がある理屈は納得した。だが自分がそれを失っていることは、バージルには半ば信じがたかった。力が弱まっているとも思えず、目の前の男がでまかせを言っているだけなのではと。
そんなバージルの思考を見透かしているように、男は告げた。
「失っていなければ、女神の首を斬れた筈だ」
男の言葉に、バージルは目を開かれた。
彼が、女神の審判を受けた日。歩み寄る彼女を、バージルは拒絶できなかった。
その理由をバージルは見い出せずにいたが、答えはここにあったのだ。
「姿を騙る盗賊、勝手に弟子を名乗る魔剣使い、真似事を続ける魔法使い共を切り離そうとせず、更には喧しい四人組とも仲良くやっている。証拠なら幾らでもあるさ」
「勘違いしているようだが、奴等が勝手に近寄ってくるだけだ。特にあの問題児共は鬱陶しいことこの上ない」
「だが拒もうとしていないだろう? 少なくとも昔のお前なら、有無を言わさず斬っていた」
言い返したものの、心当たりのある反論を受けてバージルは言葉を詰まらせる。
過去と比べて腑抜けたと自身も感じていたが、悪魔の心を失っているからだとは思いもしなかった。バージルは男の言葉を信じ、考え込む。
「俺はどこで……」
「さあな。奴に負けた時か、異世界へ旅立った時だろう。同時に俺の存在も戻り、今ではこの通りさ。逆にコイツは、戦い以外では起きすらしない怠け者になってしまった」
「取り戻すことはできないのか?」
「無理を言うな」
男は間髪入れず言葉を返す。嘘を言っている様子も、真実を隠している素振りもない。
元いた世界へ行く場合、手っ取り早いのはエリスの手を借りることだが、果たして彼女が協力してくれるであろうか。
第一、失くした悪魔の心など何を頼りに探せばいいのか。世界を渡ってから時間も経っている。元いた世界へ行けたとしても、手がかりすら見つからないであろう。
思考が止まり、バージルは息を吐く。と、黒い髪の男は言葉を続けた。
「しかし、記憶で補うことは可能だ」
「記憶だと?」
「心のままに動き、積み重なった記憶によって心は形を変える。心が記憶を生み、記憶が心を構築する。であれば、失われた心を記憶で補うことも可能な筈だ」
男は言葉を続けながら、前方に手をかざす。男の手から黒い霧が発生する。
霧はゆらりと動き、バージルと男の間の地面へ沼のように広がっていく。同時に黒かった男の髪が、次第に白く染まっていく。
男の髪が真っ白に塗り替わった頃には、黒い沼はバージルを誘うように渦を巻いていた。
「失った悪魔の心を補うには、お前が積み重ねてきた負の記憶……悪夢と言った方がいいか? それを追体験する必要がある」
「夢の中で夢を見るとはな」
悪夢を見ない為にと夢見の像を置いて眠った筈が、自ら悪夢を見に行く羽目に。
この夢から醒めた後、ゆんゆんにはクレームの一つでも言っておかねば。バージルは静かに席を立つ。
グルグルと渦を巻き、今か今かと待ち構えているかのような黒い沼。しばし渦の中心を見つめていると、黒い男は小馬鹿にしたように笑う。
「怖いか?」
「まさか」
男の煽りにバージルは短く返し、沼の中心目掛けて跳躍する。
そして、黒い沼に吸い込まれるようにバージルの姿は消えていった。
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どこまでも下へ続く、黒く沼。深い眠りへ誘われるように、バージルは堕ちていく。
やがて、微かな光がバージルの堕ちる先に見える。彼はそのまま光の中へ。
黒い深海から逃れ、訪れた先に見えたのは地面であった。
バージルは重力に従って着地する。と、彼は自身の体に違和感を覚えた。
手を見ると、身に付けていたグローブが無くなっているどころか、手自体が一回り小さく見える。
自分の身体が小さくなっていると気付くのに、時間はかからなかった。バージルは顔を上げる。
前方に広がっていたのは、墓地に蔓延る無数の骸骨。彼等は武器を手にこちらへ迫ってきている。
その奥、空に立ち昇る黒い煙。この情景に、バージルは見覚えがある。
「ダンテ……母さん……」
意図せずバージルの口から言葉が溢れる。と同時に、心の内から湧き起こる強い感情。
夢だとわかっている筈なのに、心の内にある炎は燃え盛っていく。奴等を倒せと、魂が吠えている。
遂にバージルは立ち上がる。そして、知らぬ間に左手で握っていた鞘から刀を抜き、鞘を捨てた。
『閻魔刀』──かつての武器を手に、バージルは悪魔の軍勢へと駆け出した。
「ハァアアアアアアアアッ!」
雄叫びを上げ、力のままに刀を振る。敵は一太刀で真っ二つに分かれて地面に倒れる。
迫りくる魔の群衆。鎌、剣、槍を携えて命を奪わんと襲いかかる。だがバージルは臆することなく刀で応戦し、返り討ちにしていく。
この程度の有象無象を屠るなど、バージルにとっては朝飯前。そう──先程までのバージルであったならば。
「(身体が……重い!)」
今のバージルは、過去の姿。父や弟と剣を交えただけで、悪魔と対峙したことのない無知な少年。
身体能力もあの頃と同じ。自身の想像通りに動かない身体に、バージルは歯痒い思いを抱く。
今の彼に、相対する悪魔の軍勢を殲滅できる力は無かった。
「ぐぁっ……!?」
剣の振りが鈍くなってきた頃、彼の横腹に剣先が食い込む。痛みに耐えながらも刀を振り続けるが、当たらない。
逆に連鎖するように、敵の攻撃が当たり出す。剣で肉を斬られ、槍で腹部を貫かれ、鎌で胸に深い傷を負う。血反吐で地面を赤く染めながらも、バージルは戦い続ける。
現実と錯覚するほどの痛みが彼を襲う。何度も何度も何度も何度も。
──気付いた時、彼は墓石に背を預ける形で座り込み、その身体には幾つもの剣と槍が突き刺さっていた。
あれほどいた筈の悪魔は一匹もいない。彼の視界に映ったのは、屋敷の方角を見ている黒い服の男。
「『母は呻き、父は泣いた。危険な世界へ、私は踊りこんだ』」
男はポツリと口にすると、横で串刺しにされていたバージルを見下ろした。
「お前にとって初めての敗北。母どころか、自分の身すら守れなかった愚か者が主役の第一幕だ」
「……今更、こんなもの見せて何になる」
「言っただろう。お前の心を補うには、記憶を遡らなければならない」
バージルを心配する素振りは一切なく、黒い服の男は淡々と続ける。
「ただの記憶では無意味だ。お前にとって忘れられない記憶。葬り去りたい過去。数々の敗北の歴史。悪夢のテーマにはもってこいだ」
「俺は……負けていない」
「いいや負けたさ。母は守れず、弟と生き別れ、お前は負けた。そして、人間であることを放棄した。その時点で、お前はダンテにも負けたんだ」
「何だと……?」
「認められないか? では第二幕に進むとしよう」
そう言って、男は指を鳴らす。と、バージルを支えていた墓石の感触も、刺さっていた武器の痛みも無くなり、バージルは後ろへ倒れ込む。
水の中へ落ちるように飛沫が上がり、バージルは再び闇の深海へ。彼は上を見上げたまま海の底へ落ちていく。
やがて、海の底へと辿り着き──底は天井となり、彼の身体は飛沫を上げて天井の水を突き破り、宙へ放り出された。
彼は咄嗟に身体を翻して着地する。下も水辺になっていたようで、再び飛沫が上がる。
息が上がっているのを感じながら、自分の手を確認する。左手には見慣れたグローブがはめられ、右手にあった筈の閻魔刀は消え、代わりに握られていたのは西洋の剣。
ここはどこなのか。辺りを確認すべく顔を上げようとした時──決して忘れたことのない声が聞こえてきた。
「どうした。それで終わりか? 立てよ。あんたの力はそんなもんじゃない」
声を聞いて、彼の思考が止まる。相手を逆撫でする憎たらしい声。バージルはおもむろに顔を上げる。
その手にはドクロが施された大剣。紅いコートに二丁拳銃。彼の弟──ダンテがそこにいた。
「ダンテ……」
「終わりにしよう、バージル。俺はあんたを止めなきゃならない。あんたを殺す事になるとしても」
あの時間を再現するように、ダンテは台詞を吐く。当然だ。これは追体験なのだから。
わかっている。知っている。だがバージルは剣を──フォースエッジを強く握って立ち上がる。
追体験ならば、結末も見えている。それでも彼は剣を振りかざし、走り出した。
「ダンテェエエエエエエエエッ!」
激流の川をバージルは駆ける。下流にいたダンテも同じく駆け出す。己が魂の咆哮に身を委ねて。
互いが交わる時、二人は剣を横に薙いだ。
「ダン……テ……」
結末は、変わらなかった。バージルの剣はダンテに届かず、ダンテの一振りによって深い傷を負う。
「『父よ、どうして私が愛し得ようか? 貴方を、兄弟の誰かを、私以上に』」
そんな時、再び男の声が耳に入ってきた。
「人間であることを捨て、誰よりも悪魔として力を求めた結果、お前はダンテに負けた」
三度剣を交え、決した勝敗。この結果を、バージルは受け入れていた。
女神エリスにもそう打ち明けた。ダンテが勝利したのは、彼が人間の力を手放さなかったからだと。
なのに──内からこみ上げてくるこの感情は一体何なのか。
「……ッ!」
自分は、負けっぱなしで終わるような男では、断じてない。
倒れる寸前でバージルは踏ん張り、後方に立つダンテを捉える。
「Haaaaaaaaaaa!」
あの時手放してしまった父の剣を握り、振り向きざまにダンテへ斬りかかった。だがダンテは即座に振り返り、バージルの剣を受け止める。
再び散る火花。二人は剣を幾度も剣を交え、一瞬の遅れも許されない剣撃が続く。
やがて二人は剣をぶつけ、鍔迫り合いに持ち込む。剣の隙間から互いの目を捉えて押し合う。
歯を食いしばり、痛みを堪えてバージルは拮抗する。
だが熱情虚しく、ダンテはバージルの剣を弾いた。バージルの手から剣が離れて宙を舞う。
そして、剣が地に落ちる瞬間──ダンテの剣は、バージルの肉体を貫いた。
「ガハッ……!」
痛烈な痛みを伴い、バージルは血反吐を吐く。
目の前にいた筈のダンテは消え、代わりに剣を握っていたのは黒い服の男であった。
「今のお前ではどう足掻いてもダンテに勝てないと、お前が一番理解している筈だろう」
冷たい声が頭に響く。男が発した言葉をバージルは否定も肯定もせず、男を睨む。
その表情を男はどう捉えたのか。彼はうっすら笑うと言葉を続けた。
「人間を捨て、魂を否定され、お前は三度堕ちていく。そら、第三幕の始まりだ」
男はバージルを貫いていた剣を抜く。バージルは後方へと倒れ、水に背中を打ち付ける。
そこに地はなく、彼の身体は再び暗闇の海へ沈む。胴体に空いていた穴はいつの間にか塞がっていたが、横腹に与えられた傷は癒えていない。
やがて、前と同じように水を突き破り、彼は空中へと放り出される。重力に従って着地するも、傷が痛み彼は顔を歪ませる。
荒れていた呼吸を整え、彼は身体を起こして辺りを見渡す。
彼が立っていたのは、血の海。そこらに墓石と思わしき残骸が点在している。この光景にも、バージルは覚えがあった。
黒い男は言っていた。これは敗北の歴史だと。悪魔の軍勢、ダンテとくれば──バージルは振り返る。
自身より遥か巨大な神像。天使のような羽に人を模した顔。その姿は天界の神にも見えるが、実態はその逆。
魔界の神──魔帝ムンドゥス。
「スパーダ……あの裏切り者、悪魔の血を人間の胎なぞで汚さなければ、多少は骨のある息子が生まれたろうに」
神像から聞こえる重い声。異世界に降り立ち、ダンテが倒したと聞いて、失いかけていた憎悪を思い出す。
バージルは、再び手にしていた閻魔刀を抜き、鞘を捨てて魔帝に刃を向けた。
「御託は終わりか……俺はまだやれる」
刹那、バージルは魔帝へと駆け出す。宿敵へ刃を振りかざす為に。
有象無象は現れない。横腹に受けた傷の痛みなどとうに忘れ、血の海上を走り続ける。
魔帝との距離が縮まったところで、彼は高く跳躍する。そして、閻魔刀を魔帝へと振り下ろす。
が──その直前、彼の回りに光の矢が幾つも現れ、瞬く間に彼の身体を貫いた。
「ガッ……!?」
もはや彼に戦う力は残されておらず。バージルの手から刀が落ち、血の海へ突き刺さる。
バージルの身体は重力に従って落ち、構えていた魔帝の手の中へ。
「救ってやろう。その弱さから」
彼の回りに、黒い何かが現れる。それは瞬く間に増えていき、バージルの身体を覆い始める。
目に映るのは、黒い何かに埋め尽くされる彼を見てほくそ笑む、魔帝の姿。
「自我も記憶も要るまいよ。新しい名をやろう。この魔帝の新たな下僕に」
記憶はあれど、思い出したくもない悪夢。彼はいくら足掻こうと、彼を取り巻く悪夢は逃さない。
彼の肉体は、黒い鎧によって覆われていく。魂を閉じ込める牢獄のように。
身体に流れ込む憎き者の魔力。あれほど力を欲していた筈の彼は、与えられた力を拒み続ける。
だが、拒む力すらも魔帝の前では無意味。自我も、記憶も、魂も封じられ、彼は舞い降りた。
「お前の名は──」
──
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「ハァッ……ハァッ……!」
バージルは酷く荒れた呼吸を整える。額には汗が流れ、長く苦しい戦いを終えた後のよう。
彼がいるのは、元いた平原。そして前方には、対照的に涼しい顔を見せている黒い服の男。白髪だった髪は黒髪に戻り、後方に鎮座する怪物は変わらず頬杖をついていた。
「第三幕は楽しめたか?」
「おかげで吐きそうな気分だ」
「それはなによりだ」
夢の中で掘り起こされた、忌まわしき記憶。
魔帝に囚われ、ネロ・アンジェロとして駒にされ、マレット島でダンテに倒されるまで。その時間を、彼は濃厚なまでに追体験させられた。
抗おうとも服従させられる屈辱。生きながら死んでいる虚無。彼にとって敗北の象徴であった記憶は、忘れることがないよう脳裏に焼き付けられていた。
ようやく息が整ったところで、バージルは顔を上げる。視線の先には、男の背後にいる怪物。
怪物の胸にあった筈の空洞は、黒い霧によって埋められていた。それを確認したバージルは黒い服の男へ目を向け、尋ねる。
「これで、心は補われたのか?」
「さあな。自分の胸に聞いてみるといい」
「貴様が言い出したことだろう。まさかここまで来て無意味だったとでも?」
「無意味ではない。が、補えるかどうかはまた別の話だ」
男は木製の椅子に座ったまま、話を続ける。
「ピースは上手くはまっていても、形が不完全であればパズルは完成しない。心は依然欠けたままだ」
「まだ、悪夢が足りないと?」
「もしくは、悪夢ではない別の何かか」
バージルの問いに、男はそう返す。答えは彼にもわからないようだ。
「さて、お前が追体験してきた敗北の歴史も、次で幕を閉じる」
そこで、男は話を切り替える。追体験はもう終わったものだとばかり思っていたバージルは、彼の発言に疑問を抱く。
悪魔の軍勢、ダンテ、魔帝、ネロ・アンジェロとしての記憶。彼にとって敗北と呼べるものは全て追体験してきた。他に思い当たるものはない。
だが男は手を前にかざすと、髪の色は再び白く染まり、同時に手のひらから黒い霧が勢いよく吹き出した。
霧は瞬く間にバージルを覆う。霧の勢いにバージルは思わず両腕で顔を防ぐ。やがて肌に感じていた風が無くなったところで、バージルは目を開ける。
辺りは星空のような空間で、下の床は白黒の市松模様。この場所も、バージルは覚えがあった。
元いた世界で死を迎え、導かれた先。女神タナリスと出会った場所だ。しかしこの場に、タナリスの姿は無い。
代わるように立っていたのは、髪が長く、女性と思わしき顔立ちの人物。しかし白い光に包まれているため、ハッキリと確認できない。
だがバージルは、その女性を見るやいなや、意図せず口から言葉が漏れた。
「……母さん?」
わからない。断定できない。しかしバージルには、前に立つ人物がそう思えたのだ。
まるで幼い子どものように母を呼び、歩み寄ろうとする。だがそこで、バージルは見た。
母と思わしき女性の背後に立つ、巨大な怪物。先程まで、退屈そうに座っていた筈の怪物。
女性を見下ろしていた怪物は、おもむろに右手を上げ、拳を握る。高く振り上げられた拳は宙で止まり、間を置いて女性目掛けて振り下ろされた。
──気が付けば、バージルは手に持っていた刀を抜き、振り下ろされた怪物の手を斬っていた。
無意識だった。選択する余地もなく、咄嗟に身体が動いていた。この女性を守るために、バージルは刀を抜いていた。
「『考えることが生命であり、力であり、呼吸であるなら。考えないことが死であるならば、私は幸せな蝿だ。生きていようと、死んでいようと』」
男の声が聞こえた途端、バージルの見ている景色は一変した。
振り抜いた筈の刀は、女性を斬らんと刃を立てていた。しかしその刃は、傍に立っていた黒い服の男が指で摘み止めていた。
「今のお前にとって最後の敗北。そして愚か者が辿り着いた終着点であり、始まりの場所」
男は刀から指を離す。刀が自由を聞くようになっても、バージルは女性を斬ろうとせずに鞘へしまう。
この光景を忘れたことはない。悪魔として生きた自分が、刃を振れず、罰を受け入れた日。
となれば、光に包まれているこの女性は──。
「さて、良い子はそろそろ起きる時間だ」
そう男が口にした時、バージルの視界が徐々に白く染まっていく。同時に思考もぼんやりとしていき、まるで眠りに落ちる時のよう。
「俺が悪夢を見せていると言ったな。だが、そこで見てきた記憶、得た感情は全てお前のものだ。いや、悪夢すらもお前の中にある」
男の姿も白い靄にかかっていく。されど声は届き、男は言葉を続ける。
「人間と悪魔、過去と未来、光と影、罪と罰、恐怖と平穏、憎悪と親愛、記憶と悪夢。全てお前だ。忘れるな」
やがて男の顔が見えなくなり、視界が白い世界に包まれた時──うっすらと残る意識の中で、最後の声を聞いた。
「『子羊に、神の祝福があらんことを』」
夢の中に出てきた二人の出番はこれっきりとなります。