「………………」
ひょっこりと、木の幹から顔だけを出して、じっと見る。
視線の先に居るのは、一人の人間。
どうしようもないほど、普通の、男の、人間。
彼はのんきに欠伸などを漏らしている。私に凝視されている、ということなんか、まるで知らない様子で。
実際知らないんだから、そうしているんだろうけど。
「ん」
と。
彼は、途端に足を止めて。
「っっっ!!」
不意に、振り向いた――彼の視線が私の視線と交錯する寸前に、私は慌てて木の幹の裏に隠れる。
やばい。
ばれた。
胸に手を押しやり、鼓動を聴く。どく、どく、と、明らかに先ほどとは打って変わって激しく脈打つ心臓を、私は必死に鎮めようと試みる。
「……はっ……はぁっ……」
彼の足音が、また、何事もなかったかのように遠のいていく。私は木の影にへたり込みながら、けれどまた顔を出して覗くのは憚られたので、ただ残念そうに。
一言だけ、呟いた。
「……好き……」
――おお、もう。
惨め過ぎて、涙が出てくる。
今日、彼に向けて発するはずだった、その二文字の言葉は。
一人で呟くには、あまりにも重い一言であった。
「衣玖の意気地なし」
肩を落として天上世界へと帰ってきた私を出迎えたのは、総領娘様――比那名居天子と、そんな辛辣な言葉であった。
「洒落のつもりですか」
「何で声も掛けないで帰ってきちゃうのよ。もう一度言うわ、『衣玖の意気地なし』」
苦笑いでごまかす私に、総領娘様はぴしゃりと言い放つ。そしてまた、それが事実であるから――さらにそれを自覚しているから、ますます私の気分は落ち込んでいくのであった。
「……そうは言いましても、総領娘様」
私の半分ほどの背丈の総領娘様に、半ばすがりつくように助けを乞う。
「彼を見ていると、なんと言うか、こう、見ているだけで満足してしまうといいますか……それを、面と向かって「好き」と言えだなんて……す……好きだなんて……え、と……」
もじもじしながら、ちらと下の世界を覗き見る。
見えるのはもちろん、彼の後姿。欠伸を漏らしつつ、時々、背後を見やりながら、人里へと続く道を進んでいる。彼は彼で、見られている時の違和感というか、そんなものを感じているらしい。びくびくおどおどしながら、歩みを進めている。
そうだ、と思い立った私は、『空気を読む程度の能力』を使って、彼が歩いている周辺に、突風を吹かせた。
がさがさ、と大きく音を立てる草木に、彼は大きな声を挙げて辺りをきょろきょろ見回し始めた。
あぁ、もう。
可愛い。
「衣玖、鼻血」
「……おっと、失礼」
総領娘様に指摘され、指で血を拭う。
「……鼻血もそうだけどさ、ついでにそのニヤケ面も何とかして欲しいんだけど」
「失敬な」
ニヤケ面、とは、私の何処を見て言っているのだろう。全く失礼してしまう、ぷんぷん。
と、彼の顔が――偶然ではあろうが――上空に向けられ、私の視線とマッチする。これだけ離れていようとも、見られているのは事実なので、多少恥ずかしくは思いながらも、私のテンションは否が応にも上昇していく。
「そ、総領娘様、見ましたか!?見ましたよね!?彼が、わ、わ、私の方を、見て、笑ってくれましたよ!きっと彼には、私のことが見えているんですよ!きゃーうれしー」
「……いや、笑ってた?今の……」
「笑ってましたよ笑ってましたええ笑っていましたとも!これ以上無い、私でさえも痺れさせる、百万ボルトの笑顔でした!ああ、もう今日は寝てしまいましょう!もしかしたら、彼が夢の中でも出てきて、にっこりと笑いかけてくれるかもしれませんから!」
「……そうまで言うなら、もう一回、直接会いに行ってくればいいじゃない」
「いや、そのりくつはおかしい」
ぶっちり、と。
総領娘様の何かが、切れる音がした。
「ええからはよ行って来いやああああああああああああ!!!!!」
なんだかおかしい一日だ、というのは、薄々感じていた。
どうも誰かに見られている感じがする――これは今日に限ってのことではなく、つい最近になってのことなのだけれど、今日のはなんだか、それがいつもより身近に感じた。
と思ったら、突然の暴風。煽られる体。大きく音を立てて揺れる草木。巷で噂の烏天狗でも空を飛んでいるのか、と思って、ふと空を見上げた。
天気は曇り、所々で暴風が起こり、一部地域では雷も落ちるでしょう。そんな今朝の天気予報どおり、空模様は芳しくない。
暴風は依然として吹き荒れ。
雷がいつ落ちてきても、おかしくは、ない。
おかしくは、ないけれど。
「ひゃあああああああっあああああああ!!!!!!!!」
女性が落ちてくるなんてのは。
ちょっとばかし、おかしい気は、しないでもない。
……というか、あの人。
風に、うまいこと、乗せられて。
「直撃コースなんですけどおおおおおおおお!!!!???」
「きゃあああああ落ちるぶつかる危ない怖い可愛いいいいいい」
「可愛いって何ですか可愛いってぶつかるうううううううう!!!」
ドカーン、と。
土管が爆発したような音が周囲に広がった、なんちゃって。
「ん、う……」
私はゆっくりと目を覚ます。
ええと。何がどうなったんだっけ。
そうだ、私は。
総領娘様に、天上から蹴り落とされて。
空を飛ぼうと思ったら、能力の解除を忘れていて、私が巻き起こした暴風に自分から煽られて。
そして、彼とぶつかって――。
「!?」
がばっ、と身体を起こす。
「わ!」
彼と鉢合わせる。
「「………………」」
お互いに目をぱちくりさせる。
あれ。
私は。
ええと。
その。
彼の。
顔が。
こんなに。
近くて。
非常に。
ですね。
ええ。
どきどき、しています。
「えっと、その、大丈夫でした?」
「ふえぇぇぇ!?あ、は、ハイ、ダイジョウブ、です」
「……いや、すいません。ちょっと、まだびっくりしてて」
「はぁ、そう、ですよね。私も頭がフットーしそうだよぉ」
「……あの、本当に大丈夫なんですか?」
「ダイジョーブデス。科学ノ発展ニ犠牲ハツキモノデスカラ」
壊れたロボットのように、彼の言葉に受け答えをする。自分でも何を言っているのか解らない。こんな――こんなにも、彼が近くに居る状況の中で、一体何を考えることが出来るのだろうか。
「えぇっと、その、大丈夫そうなんで、僕は行きますね」
「え、あ、はい」
無自覚に頷く。
「それじゃあ。気をつけてくださいね」
「は、い」
呼び止めようか――けれど、私はきっと、今度も、何も話せない。
何も言えないまま、彼は去ろうとしている。
足音が遠のく。
それでも、何か。
何か、伝えるべきことが、無いだろうか。
例え言えなくても。
面と向かえなくても。
伝えられることが、私には――。
「あのっ!」
呼び止める。
それだけでも随分時間がかかってしまったため、彼の姿はすっかり遠くにある。
けれど、彼はしっかりと、振り向いてくれた。
そして、飛び込んだ私を、しっかりと、受け止めてくれて。
再び近付く、距離。
彼の顔は見えずとも。
彼の鼓動と、私の鼓動が、重なっている。
大丈夫。
今ならきっと、私は、言える。
きゅ、と、彼の服の袖をつかんで。
ようやく私は、伝えた。
『ずっと前から、大好きでした。今も、大好きです』
「世話を掛けさせるわね、全く」
天上から一部始終を見ていた私――比那名居天子は、こともなげな口調でそう呟いて――すくりと立ち上がり、その場所を後にする。
きっかけは与えた。
ここから先は、衣玖のみが関知するところで。
私の与り知るところでは、決して無い。
笑顔で帰ってくることもあれば、泣きじゃくりながら帰ってくることもあるだろう。
私としては、彼の様子を観察して一喜一憂する衣玖の姿が無くなってくれれば、それでいいのだから。
なぜかって、言わなくても解るだろう。
「ま、そのまま地上の人間と、地上でよろしくやっているがいいわ。こっちとしても、お目付け役が居なくなって、存分に羽が伸ばせるし」
んーっ。
と、大きく背伸びをする。
「さって、今から何をしようかしら」
とりあえず、きゃあきゃあ喜ぶ声が聞こえてくる地上に降りて。
幸せ物の衣玖の奴をからかってやろう。
今日ばっかりは、無礼講、である。