大阪やる夫物語は面白いのでぜひ読んでみてください。
野原であった。
空は先程まで降っていた雨が止み、雲の切れ間から太陽が顔を覗かせていた。濡れた地面は陽射しに差され、周囲にむしりとした蒸気を拡散していた。
「上がったな」
その男は山のようであった。大きな体躯、鍛えられた筋肉は落ちてくる空をも支えそうな、厳つい風貌であった。しかし動きにくそうということもなく、気ままに雨上がりを待っていたことで凝った身体を、軽く柔軟運動などをして解していた。
「そのようですね」
男の言葉に、女は返した。かの女はスリットの入った、所謂チャイナ服というものを着用していた。しかし脚を露出しているわけではなく、生地の厚い確りとした長ズボンを穿いていた。燃えるような赤髪は丁寧に三つ編みで編み込まれており、それを星型の刺繍が入った帽子で押さえつけている。さながら華人という印象を受けるような出で立ちであった。
「お前のしてくれた話、興味深かったよ」
「ええ。私も、思わず職務を放棄して話し込んでしまいました」
二人が言葉を交わす。顔は微笑(わら)っていた。しかし眼は相手を見据え、射抜き、離しはしなかった。
「それで、貴方は一体」
女が中腰に構え、右手をゆっくり突き出した。息がふっ、と漏れた。瞬間、野原のざわつきが収まった。音が、夕立が降った後の汰(にご)りが、かの女の発した気によって掻き消えたのだ。男はそれを見てほんの少し、眉を動かした。
「私にどういった話を、聴かせてくれるのでしょうか?」
女がにぃっ、と不敵に笑った。男もにたりと不敵に笑った。二人は今日会ったばかりの仲であったが、この時見せたものは十年来の友と酒を交わすような、そういった笑みであった。
しかしこれから交わすものは酒ではない。
「話す口を、おれは持たない」
女に呼応するように、男は左手を突き出した。少し夕立に降られたためか、若しくはその後女の話を聴きながら鍛錬をしていたためか、腕には雨とも汗とも取れぬ水滴が浮いていた。
「語るのは、拳(これ)でだけだ」
女の眼が、光った。
「あいにくと私も、これが一番手取りが早いもので」
「気が合うな」
ごつと、拳同士がぶつかり合う鈍い音がした。
「やろう」
「ああ――やりましょう」
水滴が弾け飛んだ。
拳が飛んだ。
脚も飛んだ。
時には頭も飛んできた。
足元がお留守とばかりに、股間も平気で狙ってきた。
隙を少しでも見せれば、あれよと関節も極めてきた。
野試合とは、こういうものだ。
命を削り、躰を砕き、己れを見せ、相手を打ち倒すことだ。
相手が誰であろうと。
拳があい並べば、そこはもう、己れと、お前の世界なのだ。
顔は凸凹に腫れている。
血はそこら中から流れ出ている。
それでも。
――まだ、やれるか。
相手の眼は、そう己れに問いかけながら、横合いを殴りつけてくる。
応。
応ともさ。
突きを腕で防ぎ、問いに答える。
それはお前の問うべきことではない。
やれるか?
やれないか?
それを決めるのは、己れだ。
あぁ、あぁ――。
攻め、守り、流し、極める。
それだけだ。
己れたちがやって居るのは、至極原始的なことだ。
だがそれが、とても、心地よかった。
――腕が、捕られた。
筋肉がみしりと言った。抜け出せぬ、一瞬でそうと分かるほど、がっちりと極まっていた。
腕にまだやれるか、と問うた。
応と答えた――腱が、悲鳴を上げた。
腕にまだやれるか、と問うた。
応と答えた――骨が、軋み始めた。
己れはもう、問えなかった。
腕の先に見えたかの女は、決死の形相を浮かべていた。
額に流れる血を、拭おうともせず、ただ売女のように己れの腕を圧(へ)し折ることだけを求めていた。
――たまらぬ。
やられることが美徳ではない。死力を尽くして、己れを潰しに来てくれることが――たまらなく嬉しく、愛おしかったのだ。
先ほど拳をぶつけ合った方とは違う、右の腕。
それが折れる音がして。
意識を手放していくのが、わかった。
――まだ、やれるか。
己れは、無理だといった。
たまらぬ野試合であった。
「あぁ」
気が付けば、空が見えた。その事実に、男は頭を手で抑えた。
空が見えた、からではない。気がついた、からだ。
「おれは、負けたのか」
「いいえ」
女の声がした。見ると、女が横腹を抑え、男と同じように空を見上げていた。
「私の完敗です」
「馬鹿な」
男は言った。
「身動(みじろ)ぎする度に、身体に激痛が走る。もう、おれは動けんも同然だ」
「しかし貴方と違って、私は身動ぎ一つ出来ない」
「気は失わなかったんだろう。だったら、気を失ったおれの負けだ」
「それでも、やられ具合では私のほうが上です」
「……くっ」
「……ふふっ」
しばし言い合ってから、二人は笑った。普段はあれほど負けたくない、勝ちたい、と思っているはずなのに。
心地よく殴りあったあとでは、もうそんな感情は失くなっていた――いいや、失くなってはいない。
ここで自分が勝ったと言えば、二度とこんな野試合は、できないのじゃあないか。
そんな奇妙な感情が、二人の間で、不思議と共有できていたのであった。
「申し遅れました。私、紅魔館の門番をやっている、紅美鈴という者です」
「うん」
女が名乗った後、どうぞ、と言わんばかりに笑ったので、男は女から目を逸らし言った。
「敗者は名乗る術を持たん」
「強情ですねぇ」
女は笑うと、すっくと立ち上がって言った。
「だから強いんでしょうね」
今回は私の勝ちにしておいてあげます、そう残してかの女は、その場を去っていった。男はその方をちらりとも見ず、ただぼそりと呟いた。
「矢張りおれは負けていたんじゃあないか」
空はもう雲ひとつない快晴であった。すっかり赤に染まった陽に、男は眩しそうに手を翳(かざ)した。
「ねぇ」
不思議そうに、娘は問うた。
「お父さんとお母さんは、なんで結婚したの?」
男は笑った。助けを求めるように、妻に視線をやった。しかし気付かぬ振りをして、もう寝る時間でしょう、と窘めた。
「これだけは訊かせてよ。お父さんとお母さん、どっちが先に好きって言ったの?」
むくれてそう言う娘に、男は頬を掻いた。物心が着いてきたのかな――そう男が言うと、妻はにこやかな笑みを浮かべて、娘の頭をそっと撫でた。
「両方ですよ」
「……両方?」
娘が頭を傾げた。
「えぇ。私達は同時に、好きになったのですよ」
「じゃあ、告白は?」
「それも、同時です」
「ふぅん? へんなのー」
少々渋ったが納得したらしい、娘は男におやすみと元気よく言って、寝室へと駆けだした。走ると危ないぞ、と背に言うが、あれは聴いてはいないだろう。
「まさか、言えませんものね。初めて会って直ぐ喧嘩をしただなんて」
妻は娘を寝かしつけてから、男にそう言った。
「それどころか、何度も何度も、喧嘩をしただなんて」
それはそうだ、男は苦笑いを浮かべた。
「あぁ、思い出したらなんだか」
――血が滾ってきた。
「貴方。久方ぶりに、あの野原に行っては見ませんか」
男は、おれもそう思っていたところだと返した。
「楽しい時間になりそうですね」
「――あぁ、そうだなあ」
己れはそう応えて、左手を握ったり開いたりした。
熱はすっかり籠り、もう制約など出来るはずもないほど膨張してしまっていた。
「なあ、美鈴」
「はい、貴方」
「やろう」
「――はい」
ごつと、拳同士がぶつかり合う鈍い音が響いた。
「やりましょう」
そう言って笑った時の美鈴は、間違いようのなく友であり、たまらぬほどの友であった。