うーん ひとめぼれは いいぞ。
――そう、その時、私は恋に落ちたのだ。
ぴちょん、という水滴の落ちる音。
それと同時に、私の中で保たれていた和は、音を立てて決壊した。
聴きたい。
聴きたい。
彼の音を聴いて。
彼の事を聴きたい。
私はけれど、耳当てを外さなかった。
いいや、外せなかった。
迸る鼓動を抑えるのに、両手が塞がってしまっていたから。
「……のう、屠自古よ」
物部布都が、戸惑ったようにひそひそと、対面に浮く蘇我屠自古に話しかけた。
「その、太子様は一体どうされたというのじゃ。物憂い顔を浮かべているかと思えば、急にニヤついたり、果ては溜息なぞついたり」
「……さぁてね。あの人の考えることは、私にはわからないわ」
屠自古はそう言うと、落ち着き払った様子で茶を啜った。
「……貴様は心配ではないのか?」
眉をひそめる布都に「勿論、心配よ」と屠自古は返した。
「でも、太子様の方からなにか話をしに来たわけでもないのに、私達が顔を突き合わせて悩んでいても、解決なんてしっこないじゃない」
「……それはそうじゃが」
机に突っ伏し、うんうんと唸りだす布都。
「そんなに心配なら、太子様に聞きに行けばいいじゃあない。『何か、悩みでもおありか太子様! 我にお任せあれっ!』ってね」
「……今のは、我の真似か? 屠自古よ」
「似ていたでしょう?」
「ノーコメントじゃ」
似ていたらしい。
「兎にも角にも、じゃな」
そこまで話した所で、件の太子様――豊聡耳神子の、盛大な溜息が、また聞こえてきた。
「太子様がいつまでもああでは、調子が狂うし、気が気でない。早く悩みを解決して、いつもの太子様に戻ってくれればよいのじゃが……」
「そうねぇ」
口でそう言いつつも、屠自古はきっと、元の太子様に戻ることはおそらく無いだろう、そう思っていた。
「ま、あればっかりは私らじゃあどうしようもないでしょうし……」
「……貴様、何か知っておるような物言いじゃな?」
ジトリとした視線を屠自古に向ける。『知っておるならさっさと教えんか』とでも言いたそうな、非難を帯びた視線であった。
「そのうち、わかるわよ。布都も」
「……ぬぅ。考え事をしておったら腹が減ってしようがないのう。なにか食料の備蓄はあったかいな……」
納得はしていないまま、けれど本能に任せて台所に向かう布都を見て、屠自古は『わかるようになるには、あと何度復活すれば良いだろうか』などと考え、一人笑った。
神子は――やはり、未だ誰の声も聴こうとはせず、部屋から出ようとしなかった。
この世から消え入りたい気分とは、今のようなことを言うのであろうか。
私――豊聡耳神子は、何度目かも覚えがつかぬ溜息をつき、頭を抱えた。
「……私は、一体どうしてしまったのでしょうか」
幾ら雑念を払っても、目を閉じ精神統一を行っても、心の隅にこびりついて離れない。それはやがて大きくなり、私の心を満たし、私を直視してきて。
その度、鼓動は自然と早くなり、顔の体温は熱くなり、もうどうしようもなく口をぱくぱくと開閉させることしかできなくなり。
無理くり口を閉じても、口角が釣り上がり、自然と間抜けなニヤけ面を形成してしまう。
「病気、では無いと思うのですが」
顔を振り、今一度――その手拭いを見た。
決して綺麗ではない。使い込まれて少し変色した、麻で出来た簡素な手拭い。なんてことはない。これに、原因があるわけではない。
すると、原因は、やはり。
「……確かめねば、いけません。」
そう呟き、私は久方ぶりに部屋を出る。
途中、すれ違った屠自古に「少し、人里の方に行ってきます」と言うと、屠自古は「行ってらっしゃい」とだけ返した。なぜか、その顔は微笑を含んでいた。
「……なにか、可笑しいことでもありましたか?」
「いいや、別に何も。ただ――」
そう言って屠自古は、私の方を指差した。
「随分と、太子様が――楽しそうな。嬉しそうな。そんな顔をしていたもので」
「私が?」
「えぇ。凡そ、聖人とは思えないような緩んだ顔で」
言葉に詰まる。そんな醜態を、門徒に晒していたとは――ああ。もう一度、この世から消え入りたい気分だ。
「良いんじゃないですか。聖人だって人ですし、調子の悪いこともありましょう」
屠自古はけれど気にした素振りを見せず、飄々とそう言った。
「ただ、早いとこ調子を良くして頂けると――自然と布都の調子も良くなりますゆえ」
そう言って、くいっと屠自古は親指で自身の後ろを示した。そこには、不安そうな表情を浮かべた布都が、柱の影に身を隠していた――本人は隠れているつもりなのだろうが、バレバレである。長い烏帽子が隠れ切れて居なかったため、私は思わず噴き出してしまった。
「ええ、そうですね。布都のためにも、早く良くならねばなりませんね」
「太子様のためにも、ですね」
その屠自古の言葉に「えぇ」と応え、私は神霊廟を後にした。
「そりゃおめえ、もう見つからねえだろう。諦めな」
同僚に経緯を話すと、彼は一太刀で僕の希望を切り伏せた。
「いや、まあそれは覚悟はしてるんだけど」
「覚悟してる割には未練タラタラじゃないの、えぇ」
そう言うともう話は終わった、とばかりに彼は小物の展示に戻った。
「そんなに大切なもんだったんかい、あの手拭いが」
「あー、……いいや、そういうわけじゃあ、無いんだけどさ」
「んならなんでそんなに固執する。新しいの買えば済む話じゃろうが」
こちらを一瞥もせずに、ここの硝子細工はここのほうが、だの、箸置きはどこに置こう、とか言っている。
「いや、うん。……そうだな」
「そうだ。ほら、気が済んだなら、手伝えや」
「わかったよ。んで、どういうふうに置くんだ」
「おぉ、そこのべこと蓮の葉をこの辺にな……」
そのことを心にしまい込み、僕も業務に戻った――が。
――い、いえ、手拭いは、見ておりません。
あの手拭い――それと、少女のことは、片隅から完全には消えることはなかった。
「あぁ、疲れた」
今日の仕事を終え、肩凝りを解しながら帰路を歩く。いくらしがない小物屋であるとはいえ、またそれ故人手が少ないからとこき使うのは良いが、もう少し身体を労ってほしいものだ。
「寒いな、今日も……」
白い息で手を暖める。帰って早いところ熱い風呂に入りたい。そうしたら夕餉にして、それから泥のように眠る。ずっと繰り返してきた平常の日常である。
――あぁ、そうか。
一人、夜道で合点がいく。
彼女に会った日は、平常な日常ではなく。
故に僕は、あの手拭いのことが妙に気になってしようがないのだ。
僕の手拭いを彼女が拾ってくれている。
そんな、ありもせぬ、都合の良い展開を、まるで菓子をねだる幼児のように待っているのだ。
「あ、あのっ」
そういえば、あの日も今日のように寒い日だった。
思い返していくと。
きっと、僕は、あの時。
「え、と。その、色々と、伝えなければいけないことが、あるのですが」
そこに彼女は、佇んで居た。
顔を紅く染め、息を荒げ、ただあの時とは違って真直ぐ僕を見据えて。
そして手には、僕が落とした手拭いを持って。
「これを、落とされましたよね。返すのが遅れて、申し訳ありませんでした」
「あ、あぁ、うん。どうも」
手渡された手拭いは、冬の気温に当てられてすっかり冷たくなっていた。
「もしかして、わざわざこれを届けに?」
少女は――こくりと、頷いた。今にも泣き出しそうな、そんな顔をして、それでも僕から視線を逸らすことはなかった。
「どうも、ありがとう。じゃあやっぱり、あの時落としていたんだ」
「あ、す、すみません。あの時、すぐに返しておけば良かったのですが」
「いや、その、気にしなくても、いいから」
申し訳無さそうにする彼女を慰めるように、慌てて否定する。見ると少女は腕を出した、随分と寒そうな格好をしていた。顔が赤かったのは、そのせいか。
「あ、あのっ」
「えっと――」
僕と少女の声が重なる。気恥ずかしくて、思わず笑ってしまった。
「あ、お、お先どうぞ」
おずおずと、少女がこちらを見やった。
「あぁ、うん。寒かったでしょう? これを、着るといい」
そう言って僕は彼女の方に、僕が着込んでいた上着を掛けた。
「あ――い、いえ。私は、寒くなんか」
「いや、顔を赤くしていたから。今なんて、耳まで真っ赤だ」
僕がそう言うと、少女は「ひゃ」と声を漏らした。そして、「ありがとうございます」と、小さく蚊の鳴くような声で返した。
「それじゃあ、僕は帰るよ。その上着は、また今度返してもらえばいいから」
「あ」
僕は、彼女にそう告げて笑いかけた。そうして「それじゃ」と言い残し、背を向けた――
「待って、ください」
すんでの所で、呼び止められる。
「……あなたも、寒そうに、しています」
そう言う少女の眼は、どこか――決心がついたような――そんな、声色をしていた。
「ありがとう、でも僕は――」
「貴方も、耳まで真っ赤、です」
「え」
本当に? と、言う前に、少女が歩み寄ってきて。
「本当に、です」
そう言って、彼女は自分の着けていた耳あてを、僕の耳に被せてきた。
暖かい、のはいいが、周囲の音がほとんど聞こえなくなってしまう。これで夜道を歩くのは、少し危険ではないだろうか――?
そう思い、耳当てを外そうとすると。
「――――――――」
僕の手を少女の手が上から抑えこんで。
「――――――――」
彼女は、僕に何やらを伝え。
「――――では――さよう、ならっ!」
耳当てを外す頃には、彼女は既にその場から走り去っていた。
「……なんだよ」
その場に残された僕は、ぽつりと独りごちた。
「悩んでたのが、馬鹿らしくなったや」
少女の言葉は聞こえなかったが。
――――――――。
少女の口の動きは、確かにそう僕に伝えていた。
「のう、屠自古よ」
布都が頭を掻きながら、炬燵に入るやいなや、屠自古に問うた。
「太子様は一体どうしてしまったのじゃ」
「どうって」
屠自古はそう言って煎餅を齧った。パキッという心地の良い音が響く。
「見ての通りなんじゃあない」
「見ても解らぬから、貴様に聞いておるのじゃが」
布都は要領を得ないように、深く溜息をついた。
「溜息をつくと、幸せが逃げるわよ」
「我の幸福は太子様の幸福じゃ」
「それなら、貴方も喜んだらどうなのかしら」
茶を啜る。この寒い時は、やはりこれに限る。
「そうは言ってものう。あんなに四六時中ニコニコされては、こちらはどうすればいいのか」
「溜息よりは良いでしょうに」
「……あー! わからん! さっぱり我にはわからん!」
布都は諦めたのか、炬燵の上に乗った煎餅の袋を開けてバリバリと食べ始めた。
「ま、見守ることにしましょう。太子様が嬉しそうなのだから」
「うー……」
二人は神子の部屋を見遣る。相変わらず、神子は部屋から出て来ない。
それでも、たまに漏れ聞こえてくる鼻歌が、更に布都を混乱させるのであった。
「………………」
相変わらず。
口角は自然に釣り上がる。
それでも、以前あったもやもやとした感情はどこにもなかった。
「……あのひとの、におい」
あの時、貸してもらった上着に包まる。体温が上昇して、鼓動が早くなって、まるでダムが決壊したように彼の感情が私の中に入り込んできて、もう私は何も言うことができなくなり、机に突っ伏した。
「はふぅ」
聴こえすぎるから――と言う理由で着けていた耳当てだけれど。
今ばかりは、着けていなくてよかった、と思える。
もし私が耳当てを付けていれば、私が彼の温もりに触れることは叶わなかったし、彼に私の想いを伝えられることも出来なかった。
「…………っ」
あの時のことを思い出すと、また顔が紅くなっていくのがわかる。こんな状態では、面と向かって伝えるのはとても。
「……きちんと伝えるのは」
これを返すときに、また、きっと。
そう呟いて、私はまた、温もりで顔を洗った。
――あの。
――これ、どうも、ありがとうございました。
――それと、あの。
――ちゃんと、伝えておかないと、後悔をしてしまうので。
――好きです。
――あの時、貴方の顔を見た時から。
一字一句違わず重なった言葉に、僕達は思わず目を丸くして、それから笑った。その日もまた凍えるように冷たい日であったが、上着も耳当ても、必要はなかった。
「……さ、寒い、ですね」
「……あぁ、うん」
そんなに引っ付かれると、逆に暑いんだけど――という言葉を飲み込む。
「……あの」
「はい」
「……もう一度、上着、貸そうか」
「……貴方が居れば、それだけで」
「あぁー……うん」
訂正。この上着には、まだまだお世話になりそうである。