喧嘩をした。
些細な言い合いが、気がつけば口論になって、気がつけばお互いがそっぽを向いて、気がつけば目の前にいた筈の彼女は居なくなっていた。自分が筋の通らないことを言った覚えはない。ので、悪いのはあちらの方だ。間違いなく。
こちらから謝る気はさらさらない。向こうから謝ってくるのを待つか。もしくは、このまま離ればなれになるか。それでも良いとさえ今は思えた。
ずっと有難いと感じていた彼女のことを、初めて暑苦しく鬱陶しいものに感じていた。
自分以外は誰もいない部屋の中で、仰向けになって天井を見上げる。あんなところにシミがあったんだとか、今度掃除しないとなあとか、豆球も切れてるや、などと、どうでもいいことを考えていた。
必死に彼女を、頭から追い出そうとして、それでも。
思考の片隅で、彼女のことがちらちらと過ぎっていた。
頭を左右に振る。振る。いい加減気持ち悪くなってきたところで、はぁと溜息をつく。
なんだって、こんな時に思い出すのは満面の笑顔ばかりなのだろう。
「珍しいわね、蓮子がこんな時間に訪ねて来るなんて」
夜の十時半を回った頃であった。
「そう? けっこうあったと思うけど」
「ずっと部屋で遊んでて気付いたら夜だったー、ならしょっちゅうだけど」
駄目じゃない、女の子が夜中に一人歩きなんて、と――メリーは、キッチンでインスタントコーヒーを淹れながら言った。
「ごめんね、メリー。起こしちゃった?」
「ううん。別にいいわよ、蓮子の無鉄砲っぷりはよく知っているし……はい」
「あ、うん。ありが――」
コーヒーの良い香りが部屋中に広がり、鼻孔をくすぐる――と同時に。
「………………」
盛大にお腹の音が鳴ったのを聞いて、親友は苦笑いしながら聞くのであった。
「食パンとハムチーズくらいならあるけど……」
「……ありがとうございます、メリー様」
「今度ジュースでも奢ってね」
「喫茶店でサンドイッチも付けるわ」
あはは、と笑って、メリーは再びキッチンへと戻った。コーヒーを一口、口に含む。苦い。
「……あったかい」
誰にともなく、呟く。出て来る時に引っ掴んできた鞄の中から携帯電話を取り出し、確認。着信、ゼロ。新着メール、ゼロ。
「……んー……」
もそもそと膝を抱える。念のためセンター問い合わせをしてみる。新着メール、ゼロ。
「……可愛い彼女が悲しんでるのに、メールの一つも寄越さないわけ……」
ふーん、へぇー、ほぉー。
「会ったら説教してやろうかな……」
会ったら、ではなく、会えたら、のほうが正しいかもわからないが。
喧嘩をした。
少なくとも切欠を作ったのは私であった。そこは覚えている。しかし、それが何故彼を怒らせる要因になったかがわからない。私がしたことは、おかしなことではない。つまり、私は悪くない。悪いのは理不尽に怒ったあっちの方である。
売り言葉に買い言葉で、普段溜まっていた鬱憤というか、不満を全部ぶちまけた。大したことではないけれど、結果としてそのどれもが彼を怒らせる要因になった。カルシウムが足りてないんじゃないだろうか。そう言ったら更に怒った。だから、私も怒った。
もう、知らない。
そんなようなことを言い残して家を出たのが、十時少し前だった。
その後、大学のサークル仲間(と言っても私を含め二人しかいないが)であるマエリベリー・ハーン――私はメリー、と呼んでいる――にメールを送り、家に入れてもらったのである。
メリーは一言、「ひどい顔」と言った。
違うわメリー、私は酷くない。私は、悪くない。悪いのは……。
「さ、蓮子。話して?」
ハムチーズトーストをパクつく私に、メリーは問う。
「話して、って」
「うん。何かあったんでしょ」
「あー、うん。まぁ……」
そりゃあ、普通に考えればこの時間にいきなり『ひどい顔』をした友達が訪問してくれば、何かあったと思うのが普通だろう。
「まあ、だいたい予想はつくけど」
えっ。
「…………そんなに顔に出てた?」
「顔に出てたというか、この時間に蓮子から『家寄ってもいい?』ってだけ書かれたメール届いたら、なんとなく察しがつくというか」
「……試しに言ってみて?」
「当たるわよ、多分」
その根拠の無い自信に、私は喜んだほうがいいんだろうか。
「彼に蓮子が何かちょっかい出した。怒らせた。でも蓮子は悪いことやったっていう自覚がないから、言い返した。口論がエスカレートして喧嘩になった。それで最後にもういいっ! て感じで蓮子が全部うっちゃって家を飛び出してきて、行く宛もないから私にメール送ってきた。で、うちに来た。どう? 当たってる?」
………………。
「黙秘権を行使させて頂きます」
「当たってるのね」
「……大体は。でも、悪いのは私じゃなくて」
「そうね。蓮子はきっと、悪くない」
「だったら」
「でも、彼でもない。多分ね」
私の僅かな反論の種をも摘み取るように、メリーは言った。
「きっとタイミングが悪かったのよ。蓮子、貴方の方も――きっと彼の方も」
「……タイミング……」
僅かなズレがヒビになって。
僅かなヒビが亀裂になって。
「一度落ち着いて、目を閉じて、胸に手を当てて、話したいことを整理してから、それからお互い謝ったら?」
メリーはそう言って、ニコッ、と私に笑い掛けたので。
私はもう、コーヒーでパンを流し込むくらいしか出来なかった。
『このメールを破棄しますか?』
携帯からの無機質な問いを見ることなく、はいを押す。まっさらな文面が目に眩しい。そのまま携帯を閉じ、ベッドにポイする。
普段はあんなに話すのに、目の前に居なくなった途端、一つも言葉が出てこない。
これが所謂依存してる、というやつなのだろうか。
と。放り投げた携帯が、急に震えだした。画面を見ると、新着メール通知が一件。
差出人は――。
「あ。来た」
待ち合わせ場所の公園で、彼女は暢気にブランコを漕いでいた。
「読んでくれたんだ。メール」
読んだからここに来たんだ、と言うと「そうだよね、そりゃそうだ」とあっけらかんと笑った。
「喧嘩して、外に飛び出てさ、思ったんだ」
もう知らない、私は悪くないんだから、謝りに来るまで帰らない、って。
「それでね、メリーの家に転がり込んだんだけど、逆に諭されちゃって」
よっ、ほっ、とか言いながら、蓮子はブランコを立って漕ぎ始めた。
「メリーには、両方謝って、終わりに、しろって、言われたん、だけどっ」
キィキィと鉄の軋む音。
「それじゃあ、さ! 結局お互い、納得して、無いわけだから、わだかまりが、残るじゃない!」
ガッチャガッチャと鎖が音を立てる。それでも蓮子は漕ぐのを止めない。
「だから――」
一瞬間、の後。
蓮子の身体は宙に浮いていた。
「もういっそのこと、一から、やりなおしちゃおう?」
蓮子の真っ赤な顔が、すぐ近くにあった。
頭の隅っこにいた蓮子ではない。
記憶の中の蓮子では、ない。
彼女は、泣いていた。
「私、は。宇佐見蓮子は」
「貴方のことが、好き」
「今日、嫌いになりかけた」
「嫌いになろうとも、した」
「でも無理だった」
「身勝手で、無鉄砲で、向こう見ずで、一学年下の後輩にノート見せてもらうような駄目な先輩だけど」
「もう一度、私と、付き合ってください」
受け止め、抱き締めた蓮子の身体は――しもやけが出来そうなほど、暖かかった。
「ということになったんだけど」
ミックスジュースを啜りながら、私のサークル仲間でもあり、唯一無二の友人――宇佐見蓮子はさらりと言った。
「……なんというかね、蓮子。なんというか……はぁ」
一方私は、呆れたように頭を抱える。
無鉄砲だとは思っていたけれど、まさかここまでとは。
「世界に貴方だけよ、喧嘩したからってもう一回告白からやり直すなんてのは」
「そう? 私はただ、ああするほうがいいと思ったんだけど」
「全速前進で漕いだブランコから飛び込んで告白することが?」
「やー、あれはなんというか。きっと受け止めてくれる、って考えてからはちょっと高揚しちゃって」
「高揚しちゃって、でそれだけやる貴方に呆れるわ……」
言い、ハムサンドを一口かじる。蓮子の奢りなので遠慮はいらない。
「ま、それで告白を受けなおしちゃう彼も彼だけれど」
「うん。でも、お陰で喧嘩になりそうになった時は、まず冷静にお互いの状況を話すようになったよ?」
「それが普通なんじゃないかしら……」
とそこまで話し、ハムサンドを食べきったところで、割と重要なことに気が付く。
「そういえば蓮子。結局、喧嘩の原因っていうのはなんだったの?」
「原因? あー……うん……っ!?」
と、突如蓮子の顔が茹で蛸のように真っ赤に染まる。
「……どしたの? 蓮子」
「ななな、なんでもないないなんでもない! そんな、はな、はな、話すようなことじゃないって!」
「え、ちょ、落ち着いて?」
「とっっっっとりあえずっ! 私これから用事があるからこれで! それじゃねメリー! また週明け!」
「あ、ちょ、待って、蓮子! 蓮子!?」
疾風怒濤。
そんな漢字が似合うほど、テンパったまま蓮子は喫茶店を後にした。周囲は勿論、私も唖然である。
そうして、気付く。
「……結局、ここ……私の支払い?」
飲み干され、空になったグラスの氷が、カランと鳴った。
喧嘩をした。
驚かせようと思って、ギリギリまで内緒にして黙っていた。
だが、こういうところで勘の鋭い蓮子は、僕が何かを隠しているということに気付いているようであった。しきりに僕の方を見てくるし、「最近何かあった?」と聞いてくることも多々あった。
彼女からすれば、そういったことは面白くなかったらしい――ある日、と言うか、今日である。
『御用改(ごようあらため)よ!』
などと言いながら僕の部屋のドアを開け放ち、中を物色し始めたのだ。
なんでもないから、蓮子が思っているようなことはなんにもないから、と何度説明しようとも、彼女は聞く耳を持たず捜索を続ける。
そうしているうち、彼女は――その戸棚に手を掛けたので。
僕は思わず、声を荒らげていた。
そして彼女は。
大切な僕の恋人は――顔を真赤にして、出て行ってしまったのであった。
仲直りをした。
思ったとおり、というか、本当はちょっと怖かったけど。
彼は私を受け止めてくれた。
――これからもよろしく。
そう、言ってくれた。
「これまでありがとう。これからも、よろしく」
私がそう言うと、彼はジャケットのポケットから何かを取り出した。
そうして、言う。
――誕生日おめでとう。
あぁ、そうか――彼はずっと、これを黙っていたんだ。
私は勘違いして、彼を疑って、しまいには喧嘩して。
「開けてもいい?」
彼は頷いた。丁寧に、結ばれたリボンを解く。
「あ」
それを見たとき、間の抜けた声がふっと出た。
――本当は、一周年のプレゼントにもなる予定だったんだ。
「……そっかぁ。でも一度別れちゃったもんね」
言うと、彼は申し訳無さそうに頬を掻いた。
「いーんだよ。また、一つ一つやってこ? だから」
――だから。
ごめんなさい。
これからも、ずっと、よろしくお願いします。
「……結局メリーの言うとおり、両方とも謝っちゃったなあ」
公園のベンチに座って、ぽつりと言う。
鞄の中で、携帯が震えた。見ると新着メールが一件。差出人は、メリーだった。本文はなく、件名で一言だけ、書き添えられていた。
『おめでとう、蓮子。色々と』
「メリーには全部お見通し、かぁ」
――今度、お礼言わないとね。
彼がそう言って、私の頭を撫でるので。
「そだねぇ。色々と、ね」
私はそれだけ言って――ふと、空を見上げ、手を伸ばす。
――何してるの?
「こんな星空、見たこと無いなあ、って」
指輪に填められた宝石が、星空と混じって私の誕生日を知らせるように瞬いた。