どしゃぶりの雨の中でも、彼女は凛と佇んでいた。
――その傘。
声を掛けるのが躊躇われた。
――使わないんですか?
けれど、僕は話しかけた。
彼女が見下すような眼でこちらを見る。
『この傘は、雨を防ぐためにあるんじゃあない』
ひゅんと傘を一振りする。弾かれたように、雨粒がぱたたと地面に落ちた。
『貴方、ここの人? 家族は、恋人は、親友は、いるかしら』
無機質な、感情のこもっていない声で彼女は、傘の切っ先を僕に向けた。
『あぁ、いや。どうでもいいわ――そんなことは。だって、悪いのは貴方だものね』
私に声をかけてしまった、貴方が悪いんだから。
『それじゃ、さようなら』
と、轟音が鳴り響くとともに。
光の束が、視界全体を包んだ。
酔いどれであった。
「……えーと」
目をごしごしとこすり、もう一度目の前の惨状を見つめ直す。
やっぱりというか、酔いどれであった。
いや、正確には。
「だーっ、あんのクソ上司が! 隙あらば胸やら尻やら揉んできて、燃やすぞゴラァ!」
酔いどれが部屋の中で叫んでいた。
「……また今日は荒れてるなあ」
とりあえずビニール袋をとりに台所へ向かう。一応水も入れとこう。あぁ、でもこうやって背中向けてると。
「お帰りなさい、遅かったわね? ん?」
ガッシと肩を組まれる。顔が近い。ドキドキはしない。酒臭い。
「今日も残業だったの? 大変ねえ、下請けってのは。管巻きに付き合ってあげるから、全部吐き出しちゃいなさいよ、ん?」
これ見よがしにビールの500ml缶を振りながら笑い掛けてくる。口でそう言っても、結局は僕のほうが聞き手に回るに決まっているのだから、タチが悪い。
「いや、明日も仕事あるしもう寝るよ」
コップに水を汲みながらそう言うと、彼女はニコニコ笑顔を変えることなく、僕の頭を掴んで強引に振り向かせた。ちょ、今コキャッて。コキャッて。
「いいから付き合え」
出先で飲んで、家に帰ってきてからも飲んで。どれくらい飲んだのだろうか、想像もつかないほど彼女の頬は林檎のように紅潮していた。
首は痛い。朝は早い。けど。
「……僕の分のコップ、出しといて」
そんな顔をされて言われると、断れない。
「そうよ、溜め込んでちゃ出来る仕事も出来ないんだから」
そう言って棚からコップと、つまみの柿ピーを取り出す彼女に僕は言った。
「で、今日は何があったの」
「そうなのよ!」
ぐいん、と柿ピーの袋片手におにも殺せそうな目付きでこちらを睨む。
「あのボケナスが、飲み会の席でも平然とセクハラやってきて! もう、何回マスパで燃やしてやろうと思ったか!」
「……あぁ、うん」
やっぱりというか、なんというか。
こうなることは知っていたから、どうとも思わない。
「ちょっと、聞いてる!? ったくあの無精髭、明日会ったら絶対蹴ってやる……」
「はいはい、聞いているよ、聞いてる……」
宥めながら、思う。
あぁ、ビニール袋、一つで足りる気がしないなあ。
――あぁ、ビックリした。
雷か。結構近くで落ちたみたいだけど、大丈夫だろうか。このところ天気が不安定だなあ。
――ええと、それで。どうかしました?
向き直ると彼女は、呆然とした表情でこちらを見ていた。
そして、笑った。
『……そうよね。やっぱり、出ない、わよね』
傘の切っ先を降ろす。やはりというか、手に持ったその傘を差すことはしなかった。
――あの。何があったかは知らないけど、元気出して――。
『消えなさい』
氷のような目。優しさの欠片もない口調。
『貴方みたいな――お前みたいなのに、一体私の何がわかるの? 何もわからないでしょう?』
それでも顔は、笑っていた。決して楽しくて笑っているようではない、自分自身を保つために無理やり取り繕ったような、笑み。
『急に知らないところに飛ばされて、持っていた能力も全部失われて、それまでの常識が全部崩れても、ただ何も出来ずに立ち尽くしているだけしか出来ない私のことを、お前のようなただの人間に、何がわかるというのかしら? ねえ、ねえ。わからないでしょう』
まくし立てる。言葉の節々が、ナイフのように鋭く、悲しかった。
『わからないのがわかったのなら――もう一度言うわ。ここから。私の視界から。消えなさい』
僕は。
彼女の言うとおりだった。図星であった。彼女がどこからきた誰で、なぜ悲しんでいるのか、何もわからなかった。
僕は。
僕は。
――わかった。
彼女の前から、離れることしか出来なかった。
部屋がようやく静寂を取り戻した頃。
「……ぎもぢわるい」
酔いどれは酔い潰れに進化していた。
「だから言わんこっちゃない……」
僕がつぶやくと、彼女はキッとこちらを睨みつけた。
「うるさいわね。さっさと水持って来なさいよ、み……ぁぅ」
「あぁもうほら」
ビニール袋を手渡すと、彼女は脇目もふらずそこに顔を突っ込んだ。生々しい音が聞こえてくる。
「……なんであんだはへいぎなのよ」
すっかり弱々しくなった様子で、恨み節。
「こう見えて酒には強いから」
「……あー、そー、そりゃ羨ましいわ」
「ほら、お水。大丈夫?」
彼女は受け取った水を一気に煽り、ほう、と一息吐いた。
「出せるものは全部出したわ。これ以上出すと、内臓まで飛び出ちゃう」
「そんな軽口が叩けるんなら大丈夫だね」
言いながら戸棚を漁る。と、いいものがあった。
「お粥あるけど、食べる? レトルトだけど」
「……具は?」
「梅干しとおかか」
「食べる……」
弱ってるなあ。酔って帰ってくることは何度かあったけど、これだけ弱り切ってるのを見るのは初めてじゃないだろうか。
「? 何見てんのよ」
「あぁ、いや」
初めてじゃなかった。
彼女と――風見幽香と初めてであった、あの土砂降りの日は。
これの比じゃないくらい、彼女は弱っていた。
『あのっ!』
『確かに、えっと、僕は貴方のことは何も知りません』
『でも、そのまま雨に打たれ続けたら風邪を引いてしまうということと』
『貴方が、今すぐになにか食べなきゃヤバイぐらい腹ペコだってことはわかりました!』
『なので、その、えーっと』
『とりあえずこれ、食べて下さい』
『それと、タオル持って来たんで、これで身体拭いて下さい』
『――いえ。駄目です。放っておきませんし、消えません』
『どうしても、僕に消えて欲しいって言うんなら。』
『その死んでも構わない、って言ってる顔を、やめて下さい』
我ながら、アホっぽいことをしたもんだと思う。周りに人がいなかったから良かったものの――いや、人がいたらあんなことは出来なかったか。
「……何よ、バカみたいな顔して」
お粥を冷ましながら、彼女はジト目で言い放った。バカみたいなって、ついさっき僕の目の前でリバースしてた人が言うか。
「いや、ちょっと考え事してて」
「ふーん。またろくでもないこと考えてたんでしょ?」
「うん。本当に大したことじゃないんだけど」
「普段の気丈な幽香も可愛いけど、弱って甘えてくる幽香も可愛いなって」
「っ……!? げほっげほっ!」
むせた。すかさず水を差し出す。一気に煽る。本日二回目。
「あ・な・た・ねぇ……! いきなり何を言い出すのよ!」
「うん、やっぱり幽香はこうじゃないと」
「よーし、尻出しなさい。今すぐこいつをブチ込んでやるんだから」
「え、あ、ちょ待って」
「はーい、お注射の時間よー」
傘を握りしめて僕にそう告げる幽香の顔は。
あの時と違い、心の底からの笑顔であった。
「ンアッーーーーー!」
そうであったらいいなあ。
彼女が部屋のチャイムを鳴らしたのは、それからしばらく後であった。
『はい。タオル、返すわ』
びしょ濡れのタオルを手渡される。
『あの後、しばらく考えてみたの。これからのこと』
そういう彼女の顔から、悲愴感はまったく消え去っていた、
『それで、私、貴方と一緒に住むことにしたから』
……え、ん、は?
今、なんて?
『――何を呆けているのかしら。大丈夫よ、自分の食い扶持ぐらいは自分で稼ぐわ』
いや、そうじゃなくて。
『それで、早速で悪いんだけど。お風呂貸してくれないかしら? タオルぐらいじゃ間に合わないくらい濡れちゃって』
うん、それは見ればわかるんだけれども。いや。そうじゃなくて。
『じゃあ何? まさか、肉まん一つで恩を売る気? 百二十円くらい、すぐに返してあげるわよ』
……君は、僕のことを全然知らないだろ。
そんなに簡単に、人を信用してもいいの?
『だったら、これから知ればいいわ』
『逆に、私自身のことも。貴方の身体に、刻み込んであげるわ』
『あぁ、と言っても。私のこと、少しは知っているでしょう?』
『雷の音って、実際に光ってから鳴るまでには少しラグがあるのよ』
『つまり、あの時雷が光ったと同時に鳴った音は――』
『これ以上は、言わなくてもわかるわよね』
『ああ、ああ。人生最大の汚点だわ』
『今夜のことを口外させないために、これから貴方のことを監視しなくちゃ、ねえ?』
『その為にも、お互いを知ることから始めましょう?』
『私の名前は風見幽香。花、特に向日葵が好きな――こっちでは、普通の人間』
『さ。教えて頂戴』
『貴方は、どこの誰さん?』
『そんな顔しないでよ。私に声をかけた、貴方が悪いんだから』