「ふああぁ、あ、あ……」
朝も早くから盛大に欠伸を漏らす。まだ覚醒しきっていない頭と眼をしぱしぱさせながら、思わず「眠……」とまで漏らす始末。
しかしこれには深い訳があるのだ。
「起きたのね」
黒と白のコントラストが、起き抜けの両目に映る。サンタの被るような帽子(ただしこちらも色は黒と白である)を揺すりながら、僕と同じように眠そうな目を擦っている。
「随分眠そうじゃない。大丈夫……?」
「そっちこそ。昨夜は満足に眠れなかったでしょ……?」
まあね、と恥ずかしそうに後頭部を掻きながら、僕と彼女――ルナサ・プリズムリバーは、二人同時に大きな欠伸を漏らす。
「今日ライヴなんでしょ。大丈夫なの、そんな寝不足で」
「大丈夫よ。ステージに上がったら、眠気なんて全部吹っ飛ぶんだから、結局杞憂に終わることが多いのよ」
「……それならいいけど」
言いながら、歯磨き粉をチューブから出す。うにー、っとハミガキの上に一巻き。
「あぁ、私も使うわ」
「んー、ふぁい」
歯を磨きながら、チューブをルナサに手渡す。もう中身は残り少ないようだったけれど、大丈夫だろうか。
「……ふっ!……っぎ、ぐ、ぐ……」
「………………」
案の定である。
「……ふぉく、ひゃろーふぁ?」
顔を真っ赤にしながら、残り少ない歯磨き粉を捻り出そうとするルナサに、助け舟を出す。
「……えっ……何、ファルークがどうかしたっ……?……くっ」
誰がこの場面でプロレスラーの名前を挙げるか。
このままでは意思疎通が図れそうに無いので、さっさと磨いて水で口をゆすぐ。湖の水は綺麗なので、口をゆすぐのにはうってつけである。
「僕がやろうか、って言ったんだよ」
「……お願いするわ」
肩で息をしながら、僕にシワシワのチューブを手渡すルナサ。僕はそれを受け取ると、ちょいちょいと奥に溜まっている歯磨き粉を手前に少しずつ押し出す。
やがて僅かな量の歯磨き粉が顔を出した。
「はい、ハミガキ出して」
「ん」
その僅かな歯磨き粉を、ルナサのハミガキにこすり付ける。本当はチューブ自体を切り取って満遍なく使いたかったけれど、今この場にはハサミもカッターも無いし、取りに戻るのも億劫なので、やめておくことにする。
「新しいの買わなくちゃなあ」
「あ、じゃあさ。あれ買ってきてよ、あれ。ほら、何段にも層になってるやつ」
言われ、そういえば人里でそんな商品が流行っていたな、と思い至る。
「白と赤と青のやつ?」
「うん、そうそう」
「あれ、最初は良いけど最後の方が悲惨になるらしいね」
「へえ?どういうこと?」
「最初は綺麗に層をなしているけど、中身が少なくなってくると層が崩れて、薄い紫色になって、まるでねるねる○るねで歯を磨いているような感覚に陥るんだって」
「わー。想像するだけで歯がざりざりする」
「でしょ。だから、いつもので」
「だね。いつもので……っと、水水」
「ん」
歯を磨き終えたルナサに、コップで掬った水を差し出す。ルナサはそれを受け取ると、一息に口に含んだ。
「……ルナサ、ルナサ」
「んー?」
ふと思いついた僕は、口をくちゅくちゅしているルナサの耳元に囁く。
「間接キス」
「ぶーーーっ!」
朝の湖に虹が架かった。
「恥ずかしいなあもう!恥ずかしいなあもう!」
ぷりぷり怒りながら、楽器を詰めたケースを肩に担ぐルナサ。
「うん。正直、スマンカッタ」
「のーざんらいとー」
楽器は殴打するもの。
↓
脳天直撃。
↓
卒倒。
「…………っ!…………っ!」
頭を押さえながら、のた打ち回る僕。あと数時間経ったら、その楽器で演奏するというのだから、いやはや驚きだ。もはや『ゴールポストはトモダチ、だから痛くない(キリッ』と雄弁を振るっていたヤングフォレスト君もビックリだ。
「罰として、今日の夕飯登板は貴方だから。美味しいの作って待っていること、わかった?」
↓
正座。
「はい、よくわかっております」
この辺の順応性は、自分でもすごいと思う。ルナサよりも厄介なメルランとリリカにしょっちゅういじられるからだろうか。変なところで免疫が付いてしまった。
「……あ、あと……」
「え、まだなんかある?」
なんてこったい。これ以上何を要求されるというのか。あれか、ファルークとか言ってたし、そうなのか。あれか、ドミネるのか。嫌なんだよなあ、あれ、受身取りづらいし。
そんなアブナイことを考えていると、ルナサは何故か真っ赤になった顔をそっぽに向けながら、
「……んっ!」
と、一枚の紙切れを手渡して――いや、押し付けてきた。
「ん……?」
その紙を良く見る。見覚えのあるそれには、こう書かれてあった。
『プリズムリバー三姉妹 スペシャルコンサート 特別席
開演時刻 ○月×日 妖精が騒ぐ頃~』
「……あはは」
思わず笑みがこぼれる。
「な、何がおかしいってのよ」
それを見たルナサが不機嫌そうに漏らす。
「ああ、いや。ちょっともったいなくて」
「?」
首を傾げるルナサに、僕はこう告げた。
「毎晩毎晩、僕だけに弾いてくれる演奏を、他の人にも聞かせるのは、勿体ないなあって」
「……今日も聞かせてあげるわよ。貴方が、私の晴れ舞台を、ちゃんと間近で見守ってくれたら、ね」
――貴方、死にたいの?
――うん。
――なら、私が貴方のために演奏してあげるわ。
――葬送曲?ありがたいなあ。
――違うわよ。
――え?
――私が送るのは、騒操曲。
――貴方の心を、どん底まで落とす曲。
――もっとも貴方には効果があるかは解らないけれど、ね。
「死にたいなんて」
もう、考えなくなった。
ルナサの曲が。
騒操曲が。
僕を引き戻してくれた。
以前に比べ、随分明るくなった。
もっとも、ルナサはそんな僕に、「また鬱になってしまって、私の演奏が聴けなくなったらどうしよう」と(勿論強情なルナサのこと、口に出したりはしなかったが)心配そうだったけれど。
大丈夫だよ。
だって、ルナサの曲だもの。
明るく聞かなきゃ――損じゃない。
「それじゃ、行ってらっしゃい」
「ちゃんと来るのよ。来なかったら承知しないから」
「肝に銘じておくよ」
「よろしい」
「あ、でも、一つだけ」
「?……何?」
「今日の晩は、ルナサの好きなもの、何でも作っとくから」
「……条件追加。演奏会が終わったら、全力で帰って夕飯の支度をすること」
「あはは、いいよいいよ。メルランとリリカも連れておいで」
「あ、いや……あの二人は……」
「都合悪いの?」
「……解ったわよ。連れてくるわ」
「ん、待ってる」
「それじゃ。行ってきます」
「はい、行ってらっしゃーい」
「……鈍感」
ルナサのその呟きは、届くことなく風に溶けていった。
ヴァイオリンの鬱蒼な音色と共に。