「……また来たのね」
霊夢は疎ましげにこちらを見たあと、明らかにこっちに気づくように大きな溜息をついた。そりゃ毎日のように来られたら欝陶しいのは解るけど、もうちょっと気を遣って欲しいとは思う。せめて溜息ぐらいは、僕の居ないところでしてもらいたいものだ。
というか。
「毎回毎回、僕が来る度に『また来た』、って霊夢が言うから、配慮して一週間くらいは来なかったはずだけど?」
そう。実は、霊夢の顔を見るのは一週間ぶりだったりする。霊夢が人里にやって来ることは滅多にない(少なくとも僕は見たことが無い)ので、僕が博麗神社に来なければ必然的に顔を合わせる機会も減るのだから、当然っちゃあ当然のことなのだけれど。
すると霊夢は、少し拗ねた表情を浮かべながら、言った。
「そのせいで私は餓死しかけたんだけれど?」
「……えぇ?」
驚愕する。霊夢に集金能力が殆ど備わっていないことは知っていたけれど、まさか『僕が来ない』という、たったそれだけのせいで餓死しかけるなんて思いもしなかったからだ。
「……魔理沙とかレミリアとかは来なかったの?」
「あいつらが来たって、賽銭を落とすどころか、茶ぁ飲んで茶菓子食ってゲップして帰るだけじゃない。お陰で食糧は殆どゼロよ。何で一週間も無断で来なくなるの、馬鹿じゃないの」
……来たら来たで欝陶しがられ、来なかったら来なかったでやはり疎まれる。
「じゃどうしろって?『馬鹿な』僕は、やっぱり来ない方が良かったの?」
「……あんたは別に来なくても良いわ」
「さっきと言ってることが違ってない?」
「違ってない。私はあんたに来てもらいたいんじゃなくて、『食糧』に来てもらいたいのよ」
「食糧がひとりでに歩きだす、とでも思ってるの?」
「思ってはいないけれど、あるじゃないの。あんたの右手に、素敵なものが入ってそうな袋が」
その袋を指差され、僕は渋々それを霊夢に手渡す。霊夢は僕の手からそれを引ったくると、素早く中身を覗いた。中には人里で買った野菜やら肉やらが入っている。
霊夢はひとしきり袋の中身を眺めると、これまた素早い動作で、僕にその袋を突っ返した。
そして一言、呟く。
「……早く作って」
主語の抜けた文を提示されて、しばらく考え込む。
「……何を?」
「う……」
僕の返答に、軽く呻く霊夢。
いや、本当はその主語が何なのかはわかりきっているのだが、相変わらずものを人に頼む態度がなっていないので、少し意地悪をしたくなったのだ。
「……その……」
霊夢は少し俯きがちに目線を逸らし、口を紡いだ。きっと霊夢の心中では『さっさと察せよ解っているんだろ今私が何を求めているのかがというかさっき餓死寸前だって言ったところだろうが』みたいな言葉か、それに似た類の罵倒が渦巻いているのだろう。けれど立場上、ここで強くは出れないのだ、ということは、彼女自身は勿論僕も解っている。
やがて霊夢は、蚊が鳴くように小さな声で僕に言った。
「……ごはん……」
言い切った後、霊夢の腹から盛大な唸り声が聞こえる。
一瞬、空気が凍った。
「あ……」
ぽつり、と呟くように漏らした霊夢の顔は、俯きがちでよくは見えなかったけれど──間違いなく、真っ赤だっただろう。
「ち、ちが、今の、私じゃ」
霊夢は顔を上げると──やはりというか、顔は茹蛸のように真っ赤だった──ぶんぶんと手を振って、必死に自分の腹の虫が鳴ったことを否定した。
「……ぷっ」
僕はというと、その滑稽な照れ隠しを目の当たりにして必死に笑いを堪えていた。
ああ、もう。
これだから放っておけない。
「わ、笑うなぁぁぁ!何よ、元はといえばあんたがご飯作りに来ないから悪いんでしょ!?自分の罪を棚に上げて人のことを、わ、笑うなんて……天罰が下るわよ!」
「あー、ごめんごめん」
霊夢のぽかぽか殴りを軽くいなしながら、苦笑いを浮かべる。
ああ、これだ。
これがない一週間は、まさに灰色だった。
「心から悪いと思っているなら、これから無断で来なくなんてならないで!心配だったんだからね、ほ、本当に……!」
そう言う霊夢の目からは、いつの間にか数適の雫が流れ落ちていた──そしてまた、俯く。頭の大きなリボンの赤が、今の僕の目にはとても優しい色に見えた。
「………………」
僕は何も言わずに、霊夢の頭を軽く撫でる。手の上で溶けそうな髪束が、とても弱々しく感じた。
「……っ!」
霊夢は身体を少し揺らしながら、けれど嫌がる様子も無く、僕の肩に頭を預ける。霊夢の少しくぐもった声が、僕の右の耳に入ってきた。
「……馬鹿よ、あんたは」
「……ごめんね、馬鹿で」
「けど同じくらい、私も馬鹿」
「それは……どうだろう」
「馬鹿なのよ。だって」
あんたが来なかった間。
あんたのことしか考えられないんだもの。
「お腹減った、とか。
眠たい、とか。
掃除しなきゃ、とか。
そんなことも考えずに。
ただ、あんたが今日も来ない。
昨日も来なかった。
明日は来るはず。
そんなことばかり考えてた」
──僕もだよ。
その一言が言えたら、僕はどれだけ楽になれただろう。霊夢はどれだけ喜んでくれただろう。
けれど僕は何も言えなかった。
あの灰色の一週間。
あれを『馬鹿なことをした』と、一概に思うことは、僕には簡単に出来なさそうだったからだ。
何故なら──あの一週間を経たからこそ、こんなにも霊夢が愛しく思えるのだから──。
僕は霊夢に、囁いた。
「夕飯にしようか」
「……まあ、今回は大目に見てあげないことも無いけど」
そう言いながら霊夢は、ゆっくりと僕の傍を離れた。涙は乾いて、目尻に跡が残っていた。けれど何事もなかったかのように、その表情は晴れやかだった。
「でも、次!また同じことをしたら、今度は絶対に許さないわよ!」
「……どう許さないの?」
純粋な疑問をぶつける。霊夢は、ふん、と一度鼻で笑ってから、僕に人差し指を突き付け、言った。
「その時は、人里のあんたの家まで行って三日三晩恨み言を枕元で囁いてやるわ!」
自信満々に告げる霊夢に、僕は不意打ちを受けたように一度噴き出してから、言った。
「それは恐ろしい」
「でしょ?……それが嫌なら……その……毎日、博麗神社に来なさいよね!解った!?」
「解ってるよ、霊夢」
「……今日の献立は?」
「ニラと挽き肉のピリ辛味噌鍋」
「……ふん」
霊夢は不機嫌そうにそっぽを向いてから──これも照れ隠しだということを、僕は知っている──、神社の中に入っていった。
僕は、そんな霊夢の後ろ姿に若干の懐かしさを覚えつつ、その後を追った。
きっと霊夢は、明日も明後日も明々後日も、一ヶ月後も三ヶ月後も半月後も一年後も、僕が来た時はこう言うのだろう。
『また来たのね』と。
だから僕は、明日も明後日も明々後日も、一ヶ月後も三ヶ月後も半月後も一年後も、神社から帰る時はこう言うのだ。
『また来るね』と。
そのために僕は、踏み出す。
霊夢の示した道の、第一歩を。
「じゃあ、そろそろ帰るよ」
「……そう」
「……ねえ、霊夢」
「ん、何?」
「また来るから、そんな悲しい顔しなくても」
「なっ!し、してないわよ!」
「……くっ」
「笑うなぁぁぁ!」
「ご、ごめんごめん」
「……ったく……」
「……それじゃあ」
「……うん」
「……また明日」
「!………………うん」
──また、明日。
何処かで逢おう。
世界を君色に染めるために。